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「あの、私まだ名前聞いてませんでしたよね」
彼女は僕の目を見ながら首を傾げた。そうだ。僕らはまだ名前すらお互いに知らない。
「あ、僕は創太です。佐藤創太」
「私は国領似奈です。よろしくお願いします」
国領さんは二人ぶんの水を注いでくれた。気づかなかった。ありがたい。
ありがとうございます、と軽く礼を言って僕は一口飲む。
彼女も水を一口飲む。
「そうだ、何年生なんですか?」
「僕は一年ですね」
「え! 年下だったんだ。私は二年生」
僕はなんとなくそうだろうと思っていたのでずっと敬語で話していたが、彼女のほうは少し驚いたようだ。
「そうだ、現代文の小堂先生いいよね」
そういえばこの前、学校で芥川龍之介の羅生門をやったばかりであることを思い出す。芥川ファンの国領さんにとっては楽しい授業だろう。僕ですら楽しかった。
「僕もあの先生好きです。わかりやすいし」
「だよね!」
彼女は嬉しそうだ。そして、よく喋る。僕から会話を提供するのは苦手なので助かる。
「あの、敬語じゃなくてもいいよ。私、そういうの苦手なんだ。よかったら気楽に話してくれると嬉しいな。学校で出会った先輩後輩の関係じゃないんだし」
「そうですか。慣れませんけどちょっとがんばってみます」
僕はそう言いながらも敬語になってしまった。年上の人に敬語を使わないでほしいと言われてもなかなか難しい。でも、彼女の言うことにも一理ある。僕らは学校の部活や委員会で出会った関係ではない。ただの文学ファン仲間だ。
「創太くんはどうして太宰治を好きになったの?」
また質問される。沈黙が続くよりずっといいし、僕が答えやすい話題だ。
なるべく自然な話し方になるように気をつけながら、僕は話し始めた。
「中学のときに走れメロスやったじゃん。あのときに、『こんなに情景が見える文章を書く作家がいるんだ』って思って。たまたま先生が太宰のファンで熱の入った授業だったこともあって、すごく好きになったかな」
「うわぁ……めっちゃロマンあるねぇ……運命の出会いじゃん!」
目をきらきらさせて彼女が言う。まるで恋の話に花を咲かせている女の子のようだ。
「国領さんはどうして芥川龍之介が好きなの?」
「え、国領さんってあんまり呼ばれないから似奈でいいよ」
彼女は意外そうな顔で言った。しかし、女の子のことをいきなり下の名前で呼ぶのはハードルが高い。でも国領さんと呼ぶのはあまりいい気はさせなさそうだ。
国領さんは、堅苦しいことが苦手な性格らしい。
それなら、とそんな緊張を悟られないように、僕は下の名前を呼んでいくことに決めた。
「似奈はどうして芥川龍之介を好きになったの?」
「元から本は好きだったから文学名作を読むのにハマっててさ。だから太宰も読んでて、中学生の私としては太宰が合うなぁと思ってたしちょっと好きだったの。でも、芥川の『河童』を読んで私、めちゃくちゃ笑っちゃったの」
「笑った?」
「河童」は僕も読んだことがある。精神病院に入院する患者が語っているていで書かれていて、主人公が「河童」たちの住む不思議な世界に迷い込んでしまう物語だ。河童の世界では人間の常識と真逆と言っていいほど違う風習、文化がある。服を着ていることをおかしいと笑われたり、恋愛感も変わっていたりするのだ。そこには芥川龍之介の、世間への皮肉がこめられている。
あの本は確かに風刺が効いていて面白いが、笑ってしまうとはどういうことなのだろう。
「芥川龍之介って当たり前だけどめちゃくちゃ賢い人じゃん。そんな人が、真面目にあんな人間の世界とは真逆の世界を書いてるんだと思ったら本当に面白くて。特に河童の赤ちゃんが生まれるシーンなんて面白すぎるよ」
彼女はそのシーンを思い出したのか、くく、と少し笑った。
「あのシーンはたしかにヤバいね」
僕も思い出して少し笑う。河童の赤ちゃんが今にも生まれようとしているとき、父親は母親のお腹の中に向かって「お前はこの世界へ生れてくるかどうか、よく考えた上で返事をしろ」と言うのだ。そしてその挙句、子供は「僕は生れたくはありません。」と言う。たしかに彼女が言うように常識からかけ離れた作品なのだ。
「それから芥川龍之介の作品を色々読んだり、先生ことを勉強したら、河童にも色々裏設定が隠されてたりするってわかったんだよね」
「なるほど、それが芥川龍之介との出会いかぁ」
なかなか面白い出会いだ。しかし河童を読んでそこまで笑ってしまう人は初めて見た気がする。
「そうなの」
ふふふ、と似奈はまだ思い出し笑いをしている。
「もちろん河童は好きな作品のひとつではあるけど、一番好きなのは『歯車』だなぁ。読んだことある?」
似奈はそう言ったが、僕は首を振る。僕が知っている芥川龍之介の作品は「羅生門」「鼻」「河童」、それから「蜘蛛の糸」くらいだろうか。有名な作品くらいしか知らない。
「私は『歯車』、結構好きなの。是非読んでみてほしいな、合うかどうかわからないけど」
似奈がそう言い終わると、ちょうどラーメンが運ばれてきた。
二人で割り箸をとってすすり始める。
しばらくお互いが麺をすする音とテレビの音だけになるが、すぐに似奈が口を開いた。
「ところで太宰ファン的にはどの作品がおすすめなの?」
「僕の好きな作品かぁ。もちろんメロスや人間失格も最高に良いんだけど、『葉桜と魔笛』かな。あんまり知られてないかもしれないけど」
「おぉ! それ、高校の教科書に載ってたよね⁉ 私読んだ!」
ラーメンを食べる手を止めて、似奈は目を輝かせた。僕もどきっとして手を止めた。
「え、読んだの? ほんとに?」
「葉桜と魔笛」を知っている人にあまり会ったことがない。もちろん太宰ファンなら知っているだろうが、隠れた名作なのだ。
「うん! すっごく良い作品だった! 感動したよ」
似奈は心底良い作品だったというように明るい顔をしている。
「さすがだね。僕も教科書に載ってて嬉しかった」
「小学校の頃からそうだけど、国語の教科書配られたら作品全部読んでしまうんだよね」
「わかる、それ僕もだ。本好きあるあるだね」
僕たちの本談義はなかなか止まらなかった。一時間ほどそこでラーメンを食べ終わったあとも話をした。僕は、やっと文学のことを話せる友達ができた、と嬉しくなった。
似奈は、
「また話したい! よかったら連絡して」
と連絡先を教えてくれた。さっそく帰り道、僕は似奈に連絡してみることにした。
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