事件-③

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事件-③

『遺体の状況に被害者の体格と周辺環境を加味して総合的に判断しました。凶器は被害者の対面距離二メートル前後の位置から、被害者が直立不動の状態にて使用されたものと思われます。四か所の殺傷痕が刺殺痕である確率は九十五パーセント。殺傷のタイミングは四か所ともほぼ同時です。またその距離から被害者の身体を貫通するには、最低でも三百ニュートンの力量が必要となります』 三百ニュートンだと! 俺は耳を疑い、思わず左手の時計盤を睨みつけた。 飛行操縦の講習で学んだ航空力学の教材が脳裏に蘇る。 ニュートンとは物体の質量と速度の相関関係を表した力の単位である。 確か、一キログラムの物体が秒速一メートルの速さで動いた場合が一ニュートンだった筈だ。 その理屈で言えば、三百ニュートンなら…… 『約三百キロの物体を一秒間に一メートル動かせるだけの力が加わったと推測されます』 俺の暗算を待たずしてAIが解説を付け足した。 具体的数字を聴かされ俺は更に驚いた。 一秒間に三百キロと言えば、成人男性四人を瞬時に動かすほどの力だ。 ウエイトリフティングのメダリストでも無理な重量である。 しかも四か所同時にだ。 一体どうやればそんな刺し方が出来るというのか。 素手で行なったというなら到底人間技とは思えない。 それとも機動式の機材による凶器…… 例えば電動ドリルのようなものを使用したのだろうか。 俺の脳裏に不気味に回転するドリルの刃先のイメージが浮かんだ。 「何か電動器具のようなものを使ったのか」 俺は念のため質問してみた。 『機器類の使用を想定した場合、最も可能性があるのはドリルなどの切削系ですが、直径十五センチクラスの可動式となると最低でも二十キロ以上の重量があると思われます。但しこれを使用したにしては、。現時点で断定するにはデータ不足です』 俺の想像した通りの回答が返ってきた。 遺体の写真を見たときに感じた血痕への違和感も今のAIの説明で納得がいく。 言い方を変えるなら……そう…… 傷口が大きさに比してのだ。 刑事時代も含め、職務上幾つもの死体を目にしてきた俺もこのような事例は初めてだった。 先の二件の犯罪については、絞殺による圧迫死や暴行による頭部損傷といった殺害方法の特定も安易なものだった。 双方とも素手による犯行だったことも判明している。 ところが今回のケースは前述とは明らかに異質のものだった。 AIの膨大なデータをもってしても具体的な凶器は特定出来ず、殺害方法も見えてこない。 どんな怪力の巨漢でも二十キロもの電動ドリルを軽量ナイフのように扱って、人間の胸板に四か所も同時に穴を開けるなど不可能だ。 かと言って複数の人間が一人一人ドリルを手に持ち、一斉に被害者に襲い掛かった……などという突拍子もない発想も馬鹿げている。 何より、切削器具の使用は可能性が低いとAIが判断しているのだ。 この線はまず除外すべきである。 俺の思考は袋小路に陥った。 いずれにしても画像による分析はここまでが限界だ。 あとは実際に現場に赴いて犯行の痕跡を拾うしかない。 すでに現場検証も終わっているだろうが、逆にその方が好都合だった。 特隊本部が警察との連携を指示しない限り、俺の捜査はあくまで極秘のものとなる。 指揮権や管轄といったしがらみに囚われると、行動範囲に色々制約がかかり迅速な捜査が出来ないからだ。 それに一通り現場検証が終わった後でも、物証を見つけるのには支障は無い。 警察の鑑識が検出出来なかったものを見つけ出すことこそ俺のAIの得意技だからだ。 「仕方がない。行ってみるか」 俺は大きく一つ溜息をつくと、ベッド脇に投げ掛けてあった洋服に手を伸ばした。 犯罪捜査のスタートは現場確認から── 今も昔も変わらない捜査の鉄則である。 刑事だった俺の身にもしっかり染みついている。 だからと言って、決して慣れるようなものではない。 死体に型取って引かれたテープライン、周辺に付着した数多くの血痕、そして辺りに仄かに漂う死臭…… どれをとっても気の滅入るものばかりだからだ。 濃いグレーのジャケットに手を通しながら壁の時計に目をやる。 九時半を少し回っていた。 先ほどの報告書に記されている殺害現場までは車で二時間ほどだ。 「行くぞ。」 レフティ……俺がつけたである。 正式な登録名はアルファベットと数字の混ざった長ったらしい名称だったが、あまりに呼びにくいので仇名をつけてやった。 勿論、【レフティ】=【左利き】という安直な発想からきているのは言うまでもない。 『分かりました』 相変わらずの抑揚の無い声が頭の中に響く。 本人も仇名については特に異論は無さそう(?)なので、まあいいのだろう。 ついでに俺の名前は九牙凌介(くが りょうすけ)という。 一応覚えておいてくれ。
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