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プロローグ
過酷な訓練だった。
奄美大島の南東二十キロ。
外周五キロにも満たない小島がその舞台である。
もちろん島名はなく地図にも載っていない。
厳密にいうと載せていないのだ。
戦時中よりこの島は軍の保有地であり、現在でも軍事訓練の専用施設となっていた。
施設といっても建物は一切無い。
海岸から目と鼻の先には標高四百メートル超の山がそびえ立ち、鬱蒼とした樹木が地肌を覆い隠している。
ほとんどジャングルと言ってもいい景観だ。
健脚者でも登頂に三時間はかかるであろうこの山を一時間で踏破し、向こう岸に辿り着かねばならない。
携帯品は大振りのサバイバルナイフのみ。
コンパスも無いため、進行方向は常時太陽の向きを確認しながら進む必要がある。
当然山道などは無く、ひたすら自分で道を確保していく。
夏場なので危険な昆虫や動物が周囲に潜んでいる危険性も高い。
毒蛇にでも襲われようものならあっという間に時間切れだ。
俺は生い茂る樹木をサバイバルナイフで掻き分けながら、道無き道を進んだ。
足元に草木が覆い重なっているため安定性が悪く思うように歩けない。
小枝で顔中傷だらけ、丈夫な軍服も無数の綻びで氷柱を纏ったようになっている。
額から流れる汗で目が痛んだ。
「無茶苦茶だな……」
俺はひび割れて痛む唇を舐めながらぽつりと呟いた。
あとどれくらいかと腕時計に目をやる。
時刻の確認だけは許可されていた。
進みだして約三十分が経過している。
事前の時間配分ではそろそろ山頂に着かねばならない時刻だ。
大抵の訓練では音を上げたことの無い俺だったが、さすがにこれはきつかった。
[内閣調査室直属特殊部隊]
俺の所属している国家保安部隊の正式名称だ。
通称[特隊]と呼ばれている。
世間には公にされていない非公式機関である。
世界中で頻発する大規模テロ行為に対し、日本国内でも防衛手段の切り札として数年前に新設された。
内閣総理大臣直轄の危機管理及び鎮圧専門部隊である。
一般の自衛隊や警察との違いは多々あるが、大きな特徴は組織形態が極端な【少数精鋭型】であることだ。
拳銃・機関銃・ライフルなど幅広い重火器の操作法、爆発物や劇物薬品類の取り扱い、航空機や陸上走行車の操縦技能、語学やIT知識のマスターに至るまでありとあらゆる分野を一個人が修得しなければならない。
必要技能の集約を図ることで、役割の細分化された自衛隊や警察を遥かに凌ぐ俊敏性と即時対応力を実現したエキスパート集団……
それがこの特殊部隊である。
元々警視庁の刑事だった俺が、何故特隊の隊員としてこの場にいるかについてはまた後日話すとしよう。
とりあえず俺も幾多の過酷な訓練を潜り抜け、ようやく今日という日を迎えているのだ。
新期生の隊員には三年間の基礎訓練・専門訓練を締め括る、言わば卒業訓練が最後に課せられることになっている。
内容はその時々によって異なるが、参加者は己の持てる技能を駆使して課された課題を完遂しなければならない。
俺の場合はこの密林踏破がその課題という訳だ。
卒業後は定期的な訓練を挟みながら、要人警護などの現場で実践を積んでいく事になる。
訓練漬けの単調な日々ともやっとおさらば出来る。
そう、こいつさえ乗り切れば……
「あと少し……」
顔ほどもある大きな枝葉を掻き分けると比較的平坦な場所に出た。
どうやら山頂に着いたらしい。
俺は両膝に手を置きうつむいて肩で大きく息をした。
ここまで無休で、ほとんど駆け上がるようにして登ってきた。
まだ道半ばだが達成感の喜びが湧き起こる。
腕時計を見ると開始から四十分が経過。
あとは下りなので何とかなりそうだ。
帽子を外し額の汗を袖で拭うと、そのまま前進して下りの態勢に入った。
器用に枝葉を避けながら、重力に身を任せ一気に駆け降りる。
足元の不安定さも最早気にならなかった。
滑りやすい場所などは、思い切って草木の上に腰を下ろすと勝手に身体が滑り降りていく。
滑り台の要領だ。
バランス感覚には自信があったので、ともすれば面白みさえ感じてしまうほどだった。
「ほっほーい!」
訳の分からない歓声を上げながら俺はひたすら下り続けた。
どのくらいそうしていたか……
傾斜がかなり緩くなってきた。
周囲に目を配ると樹木の陰に何かが垣間見えた。
赤い旗のようなものだ。
俺は急に真顔になると慌てて腕時計に目をやった。
進軍開始から五十五分。
なんとか間に合ったらしい。
そのまま倒れこむように樹木を掻き分け旗の見えた方向に駆け出した。
急に視界が開け眼前に砂浜が広がった。
遠方に赤旗を挟んで並び立つ二名の軍服が見える。
一人は無表情だが一人は薄ら笑いを浮かべていた。
距離は二十メートルほどか。
俺は躊躇うことなく猛ダッシュした。
身体に蓄積した苦痛と疲労など何処かへ吹き飛んでしまった。
無事卒業課題を達成した歓びだけが全身を貫く。
あと十メートル……
薄ら笑いを浮かべていた男が敬礼の仕草をした。
もう一人の男は……
何故か訝しげな表情で天を仰いでいる。
何だ……何を見ているんだ!?
あと五メートルという地点まで来たとき、俺はその答えを知った。
遠くで何かの音が響いていた。
次第に拡大していることから、こちらに近づきつつあるのが分かった。
車のエンジン音のような……
いやもっと金属的な、大気を裂くような摩擦音。
俺はこれまで学んだ専門知識の中から、ようやくその音と同じ音色の持ち主を探し当てた。
途端に俺の全身は総毛立ち、気付くと声の限り叫んでいた。
「伏せろっ!」
俺は薄ら笑いから真っ青な顔に豹変した男に覆い被さるように倒れこんだ。
もう一人の男も事態を察知したのか慌ててうつ伏せになり頭に手をやる。
ほどなく辺りに目の眩むような閃光が迸った。
鼓膜が破れるほどの轟音と共に、身体の下の砂浜がふわりと浮かび上がった。
灼熱の熱風の中、身体が宙に舞い左腕に激痛が走った。
俺はそのまま意識を失った。
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