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病院
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目を開けると白い天井と、仕切っているカーテンが沙良の目に入ってきた。思考回路が上手く機能していないのか、開いた目は虚ろに宙を見つめる。
「……さ……ら、沙良!」
自分の名前に反応して瞳に意識が宿ってく。
「よかった……わかるか!」
「だ……れ? ここは……?」
「病院だ」
「びょ……う……いん……」
そこまで言うや否や沙良の悲鳴が響き渡る。ベッドの上で錯乱状態で暴れ手のつけようがない。その異変に気付いた看護師が駆け込み、沙良に声をかけながら手際よくナースコールを押す。直ぐに医師とその他数名の看護師がカートを持って駆け込み、沙良に声を掛けつつ手際よく鎮静剤を打ち、沙良の泣き叫んでいた呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
それは怒涛のような一瞬のような出来事だった。しかし、傍らに立っていた蒼には長い長い時間だった。
「あまり刺激を与えることはお控えください」
処置が終わり、状態を観察後に蒼に向かいそう言うと、医師や看護師はその場を離れた。
「沙良、わかるか?」
「あの……どなたでしたっけ……」
「桐生との会食で会っているだろ」
「かいしょく……あ、お孫さん」
その言葉で沙良は少しわかったかのように頷いた。食事会の時に桐生の後ろにいたスーツ姿の人たちの一人だという記憶がある。そして、桐生の孫の蒼なのだと理解する。理解して……。
「あれは……母だったのですか……」
「……そうだ」
ゆっくりと沙良の瞳から涙が落ちた。鎮静剤の作用で朧気なこの気怠い状態でも、沙良の感情は作用していた。
「また後で説明する。今は眠れ」
蒼が優しく声を掛ける。その言葉が合図かのように沙良の意識は沈んでいった。
それから数日が経過し、医師の許可が出たので黒崎は私服で病院を訪れた。蒼の外見は目立つ。その整った顔立ちに更に黒のスーツで病院をうろうろすると迷惑になると考え、今日は私服で来た。
沙良の部屋は上階の個室だった。桐生の計らいでこの病室は手配され、蒼は様子を見るように命じられ動いていた。しかし、その表情は重々しいものだった。
ノックをするが返事は無い。
そっと扉を開けると沙良は状態を起こし外を眺めていた。蒼の方を向いて軽く会釈をする。
(大丈夫……そうか?)
その行動を見て蒼は安堵した。先日の錯乱を目の当たりにしている、もしかしたらもう精神がココへ戻ってこないかもしれないと危惧していたからだ。
「俺が分かるか?」
「あの……どちら様でしょうか……」
沙良は何となく記憶の片隅にあるこの容姿を思い出そうとする。思い出す前に蒼が自分から説明した。
「桐生の孫の蒼だ」
「あ……」
そう言うと沙良は硬直していた。開け放された窓から入るそよ風が時間の経過を伝えている。少ししてから沙良は一呼吸ついた。
「説明してください。何があったのか……」
その言葉に少し蒼は戸惑う。
「いいのか?」
蒼は改めて確認を促した。
「大丈夫です。知らない方が辛い」
動くことのない目線、変わらない表情……蒼は覚悟を決め傍にあった椅子に座った。
「お前の母親は殺された」
「やはり、あれは夢ではなかったのですね……なんでこうなったのですか――」
その言葉に蒼は言葉を詰まらせた。
「現時点での『事実』を全て話す、そう桐生に言付かってきた。桐生は世に言う〝ヤクザ〟という世界の人間だ。何年も前のことだが、組にいたお前の父・工藤の命と引き換えに組が救われたことがあった。百合絵さんはそんなこの世界を嫌厭し、小さいお前を連れて去ったんだ。しかし、余命がないことを知り、お前のことを頼みに来た。桐生は快諾しあの食事会が催されたんだ」
「そう……だからあの時はあんなに違和感だったのね」
そう笑いながら沙良は泣いていた。「感情が混乱しているのか」と蒼は理解し、泣いている沙良を静かに抱きしめる。
「こんなはずじゃなかったんだ……どう詫びたらいいのか」
沙良はされるがままに反応はなかった。
しかし、蒼は安堵している部分もあった。会話が成り立っている。少なくとも蒼はそう思っていた。
「必ず殺したヤツを見つけ出す」
そう耳元で囁いた。沙良は反応しなかったが、蒼は安心感を与えてくれて心地よい。
「私どれくらい寝ていたのかしら……」
蒼にもたれ掛かりながら、沙良が思い出したようにそう尋ねた。
「1週間ぐらいだ」
「そうなんだ……そういえば黒崎くんに連絡してないし、予備校も……」
「そいつなら今日来るって言っていたぞ」
「……言っていた?」
その言葉に、不思議な顔をして蒼を見る。
「予備校の奴だろ?」
「そうだけど……知っているの?」
「知っているというか……ここにいる」
沙良の不思議そうな顔が蒼を見つめる。沙良には意味が伝わっていない。沈黙だけが流れた。
蒼は一瞬躊躇っていたが、ポケットから黒崎と同じ眼鏡をかけ上げていた前髪を軽く下ろしてみせた。
「あ……黒崎くんだ……」
まじまじと顔を覗き込みながら沙良が素直に納得していた。
「いや……こんなに素直に受け入れてくれるなんて思ってもみなかったんだけど」
動揺する蒼。
「確かにもっと個性強い地味な人だと思っていたから。前髪下ろして眼鏡でこんなにも変わるんだ。服も違うし……でもなんか気にならなのよね。なんでだろう……」
その言葉で蒼は一つの不安がよぎる。大丈夫だと思っていたのは大きな間違いで、実はかなり『感情の部分を損傷』しているのではないか、という不安だった。
確かに蒼は衝動的に抱きしめてしまったが、沙良は微動だにしなかった。そのことも思い出す。
――その不安は当たっていた。
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