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スタートライン(終)
蒼は病室を出て扉を閉めると、壁にもたれ掛かり打ち拉がれた。
「あの笑顔を守れなかった」
……それほど沙良があの別れ際で見せてくれた笑顔に、惹かれている自分がいたのだ。
(俺はなんで〝そこ〟にいたんだ)
それは後悔というか懺悔に近かった。
蒼は、祖父からこの話を聞いた時には興味すらなかった。ただ、食事会の時にあまりにも冴えない容姿、普通の女だったので、ある種の戯れだったのである。変装談議になって蒼の格好が組の奴らにウケて、遊びのつもりでそばに寄ってみることにしたのだ。
祖父から「一応様子を見てやってくれ」とも言われていたこともあるし、勉強なんてまともにやったことがなかった。それに急に湧いて出てきた沙良に、いろいろと興味もあった。
最初見つけた時には、地下通路で右往左往していて「見ていられないやつ」と手を差し伸べた。そして、そのノリで仲良くなってみた。沙良との浪人生ゴッコはちょっと楽しかったのも正直なところだった。それが楽しいなんて蒼には意外過ぎた。
あの別れ際に蒼はドキッとさせられた。「あんな笑顔するんだ。こんなに素直に思いを出せるヤツいるんだな」と今まで沙良とは違って見えたことに衝撃だった。
(それがこんな……)
まさかこんな形で母親が殺されるとは……蒼は言葉を失った。
既に、母親は既に荼毘に付していた。沙良のあの状態だと、たぶん退院して母親の遺骨の前に連れて行っても錯乱することなく全て受け入れるだろう。しかし、受け入れるだけである。そこに『思い』はないだろう。
――蒼の心は決まっていた。
(たぶん、心が『どうにかなっている』じゃないのか……)
詳しく話を聞こうと、蒼はナースステーションへ向かった。
❖ ❖ ❖ ❖
病院から退院の許可が下りて、沙良の迎えに行くことについて、蒼が指名された。沙良が退院したら桐生の元で面倒を見ることは決まっていたのだった。
手続きを終えて病室へ行くと、沙良は着替えて病室内の椅子に座っていた。
「今日は黒崎くんじゃないんだ」
笑いながら話しかける沙良の表情は儚げだった。
「私結構『黒崎くん』好きだったのに」
「揶揄ってるのかよ」
「うふふ、本心よ」
「ったく……そんなに気に入ってるんならいくらでも『黒崎』になるぞ」
「そうね」
言葉だけが空回りしている。それが蒼にとってなんだかとても寂しかった。
「沙良、今日からウチに来いとの桐生からの伝言だ」
「そう……」
「あと、予備校は病欠にしてあるが、どうする?」
「あ……予備校通っていたの忘れてた。そうね……」
そう言うと、少し考え込む。そして蒼を真っすぐに見た。
「その前に母に会わせてくれる?」
蒼は沈黙していた。そのことについて沙良には墓前に立つ権利がある。しかし、それが本当に良いことなのか分からなかった。
あれから四十九日の法要も終わり、母親の遺骨はお墓に納めたことを告げる。沙良は一言「ありがとう」と伝えた。
❖ ❖ ❖ ❖
大きな海原が広がり、波がガラスのかけらのように反射していた。塩気を含んだ心地よい風が海から丘へ走り抜けていく。眼下には凪の海が広がっている、ここは小高い海辺の丘だった。
「私は予備校へ戻ることにする」
沙良は母親の墓前で手を合わし、蒼にそう伝えたのを……蒼は思い出した。
「お母さんの余命は決まっていたわ。少し短くなってしまったけど……でもお母さんは私に進学することを望んでいた……。今はその言葉を実行していきたいの」
お墓から小高い海辺の丘を通り、駐車場へ戻りながら、沙良は思いの丈を打ち明けた。少し考えて蒼も自分の考えを伝える。
「それなら俺も予備校へ戻るよ」
「……蒼くんには必要ないのでは?」
今の沙良なら蒼と出会った『理由』は分かる。
「いや、今の俺には必要なんだよ」
「そうなの……わかった」
歩きながら、ふっと思い出したように沙良が話し出す。
「でも不思議ね。お母さんの元へ来たら悲しくて泣いちゃうと思ったんだけど……何も出ないのよ」
蒼の方を向き、沙良は寂しそうに笑った。
(ああ……やはりそうなのか)
蒼は静かに思った。医師の話が思い出される。
《工藤さんは、精神的ショックなことがあったため、一部感情の欠如が出ているようです。一過性のことかどうかはわかりませんが……何か機会があれば或いは状況を打破できるかもしれません》
「機会があればと言われても」と蒼は苦笑する。
沙良にはボディーガードを付けていた。ウチに関わる手前、ヘンないざこざに巻き込まれないための配慮からである。
その日、沙良に付けていた組員から、沙良の母親の殺害を聞き駆けつけた時は……いろいろな修羅場を潜り抜けてきた蒼でも目を背けるほどの、どす黒い血の臭いと惨劇。そしてその傍らで倒れている沙良。
蒼はその場を目にし、冷静さを失っていた。一瞬、沙良も襲われたのかと自我が吹っ飛びそうになった。それを咄嗟に対応した組員に止められ冷静さを取り戻す。
思い出しても……何もしてやれなかった自分の無能さに怒りがまた込み上げてきた。
沙良は気持ちよさそうに海を眺めていた。そんな後姿が儚げで、咄嗟に蒼は沙良を後ろから抱きしめた。
「一緒に行こう、俺も手伝ってやる」
潮風が二人を撫で去っていく。「なにそれ、変なの」と一言、沙良は呟いた。もっと感情豊かで予備校で蒼に色々見せてくれた表情が、今はそのほとんどを失ったと蒼は実感していた。
❖ ❖ ❖ ❖
沙良には屋敷の離れを割り当てた。蒼も沙良をこの世界に干渉させることを最初は迷っていた。むしろ普通に人生を歩んでほしいと思っていた。しかし、今はそれが叶わない。むしろウチにいるほうが安全だった。
「沙良、起きているか」
ノック三回、その後に「はい」と返事があった。
「あら、久しぶりね。黒崎くん」
入ってきた風貌を鏡越しで見つけ沙良は笑っていた。
「今日から予備校だろ? そろそろ行くぞ」
「わかった。用意もできたし、今行く」
出てきた沙良は、またまじまじと蒼を見つめる。急にじっと見られて蒼は面食らった。
「なんだよ、何かおかしいか?」
「ううん、まぁおかしいのは始めからだけど。久しぶりでちょっと嬉しかっただけ」
嬉しそうに笑う沙良がそこにいた。一瞬のことだったと思う。あの〝沙良〟の表情を垣間見た気がした。
「おまえ……」
「え、なに?」
しかし、よくよく見るとやはり変わりない。それは、退院してから同じな社交的な笑顔だった。
「いや、なんでもない」
そういうと、「勘違いか」と呟いた。そして、蒼は沙良の重そうな荷物を簡単に持ち上げると玄関に向かい廊下を歩きだした。
それはもう夏は終わり紅葉が少しずつ色づき始める時期だった。受験生にとっては今からラストスパートであろう。二人にとっては各々がスタート地点だった。
アキアカネが空を切って飛んでいく。それはスタートの合図のように迷いなく飛び立ち、その空を見ながらゴールまで走り抜けることを再度誓う蒼がそこにいた。
【続】
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