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第1話
『おめでとう』
言われるはずだった言葉を、亜生は向かい合う彼に贈った。
テーブルの上に置かれている、苺のホールケーキ。
二十七本の細いキャンドルは灯った火で蝋が溶けて、生クリームの上に滴りながら静かに落ちている。
窓の外は、夜風が強く吹く。
彼の顔も自分の感情もはっきりとしない。
速度制限が掛かるオンラインの映画のように、同じ場面をコマ送りに映し出す。
「……しばらく見なかったのにな」
目覚めの悪い朝。寝返りさえもしたくないベッドの上、亜生は胃の下が急に重くなる。
心の奥底へ閉じ込めた熱が、忘れることを拒むようにぶり返した。
女性と結婚すると言った彼に『さよなら』と言われるのが怖くて、自分から別れを告げた日から一年が経とうとしている。
額の寝汗を手の甲で拭いながら、亜生は天井を見つめた。
* * *
遅めの昼食をとりに、佐久田亜生は席を立つ。
二ヶ月後に二十八歳を迎える亜生は、平日は「仕事と自宅の往復」、休日は「自宅で巣籠もり」と、この一年は単調な日々を送っている。
部署を出た左側、大きな窓の外には青空と陽が注ぐ。足を止めて覗き込んだ窓の眼下に、靡く並木道。桜が咲き始めていて、亜生の口角は自然と上がっていた。
今の亜生にとっては、季節の移り変わりが日常のスパイスになっている。
窓ガラスに薄く映し出される緩んだ自分の表情。色白で幼さが残る女顔の頬は火照っていた。
急に恥ずかしさが押し寄せてきて、亜生は思わず両手で顔を扇いだ。
天然の薄茶色の髪を陽光でさらに茶色く照り返しながら、数フロア下の社食へと向かう。
「亜生! 置いてくなよ!」
後ろから聞こえた声の主、幡川恵が重めの前髪を揺らしながら走ってくる。
幼稚園からの幼馴染の恵は、小・中・高・大と亜生と同じ学校に進み、同期入社。一年前から営業部に配属されている。
そして彼は先月、大学時代から付き合っていた彼女と結婚したばかり。
公私ともに順調な恵に、亜生は少し妬けた。冗談混じりに、彼に言葉を掛ける。
「何だよ、恵。わざわざ社食まで来なくても、愛妻弁当あるでしょ」
「俺は社食に用はない。お前と一緒に食べるために行くの!」
恵は黒目を見開きながら、亜生の頬を軽く摘んだ。
彼は中性的で美しく整った顔立ちに加えて性格もよいとあって、既婚者ながら未だ女性社員に人気がある。
亜生が少し見上げる恵の長身の体は最近鍛え始めたらしく、小柄で貧弱な自分が横に並ぶと、互いの線の太さの差がスーツの上からでも分かる。
恵は亜生をゲイだと知る一人。
中学生の頃、幼馴染を失う覚悟で彼に自分の性的指向を告白した。
予想に反して、彼はあっさりと肯定してくれた。
恵の兄もまた、ゲイだったから。
亜生が初めて両親に「自分は同性愛者」だと伝えて、受け入れられた時だって、恵が暗躍していたということをあとから知った。
彼の必要以上に情に厚いところは、昔から変わらない。「他愛もなく気兼ねもない関係はかけがえのないもの」と、恵の存在は大人になって気づかされた財産。
亜生が恵をからかいながら躱していると、社食のあるフロアに着いていた。
不意に、恵の足音が止まる。
「なあ、亜生。今も、まだ、好きか? 大紀くんのこと……」
今朝のは予知夢だったのだろうか。恵の口からしばらく聞いていなかった名前を耳にして、亜生は胃の辺りが冷たくなる。
香山大紀。亜生が一年前に別れた元彼。
亜生の初恋で、初めての恋人。
大紀との出会いは、中学二年の時。恵の家に遊びに行った際、一目で恋に落ちた。
大人びて見えた大紀は、亜生より二つ年上だった。この時亜生は、自分の恋愛対象が『男性』だと知る。
「……何言ってるの。それはもう、終わったことだよ……」
恵に背を向けたまま、亜生は下唇を噛む。
大紀は恵の従兄弟でもある。大紀の結婚相手は亜生だと思い込んでいた恵は、顔合わせでの食事会の席でその相手が別人だと知ったらしい。
後日、恵は亜生の前で泣きながら頭を下げた。その姿を見たのは二度目だった。
一度目は高校生の時。恵の協力で愛しの香山大紀と親しくなると、自然と距離も縮まっていった。彼に想いを告げようと心に決めたある日、恵から大紀には女性の恋人がいると知らされる。
当時も恵は全く知らなかったのに、一人で責任を感じることもなかったのに、泣いて何度も頭を下げてくれた。
その後、恋人と別れた大紀から告白されて付き合えることになって、昨年まで十年の間恋人でいることができたけれど、二度の恵のその姿に、亜生はこれ以上ないくらいに胸が痛んだ。
大紀への想いは自分以外の人をも傷つけると、亜生は悟っている。
それから今日まで、互いに自然と話にするのを避けていたはずだったのに……。
「ごめん……。でも、ずっと気になってて」
亜生の背に、恵が駆け寄った。
肩に手を置かれた亜生が振り向くと、彼は俯いていた。
広く連なる大窓から差し込む昼の太陽が、恵の黒髪を赤く照らしている。
彼の手にある真新しい銀色の指輪が、光を反射した。
時の流れを、感じずにはいられない。
亜生だけを残しながら、今この瞬間も流れていく。
春は、亜生にはまだ先の模様。
「俺はもう、平気だよ」
亜生は明るく答えたけれど、それしか言えなかった。
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