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ずっと。
「こんにちはぁー、とわさ…ん…?」
いつものように事務所へ行くと、扉の向こうから歌声がした。
一つ目の扉は「closed」のままだったので合鍵で開き、応接間のさらに奥、あの人の私室でもある部屋へ続く扉。そこを開けようと近づくと、軽やかな音を鼓膜が拾った。
あの人が音楽をかけるなんて珍しい、と思ったがそれはパソコンなどからかけられたものではなく、どうやら人の歌声らしいと気づいたのは数秒後のこと。
そしてそれがどうやらあの変人…透羽さんの鼻唄であるらしいと気づいたのはその更に数秒後のことだった。
英語っぽい…いや、違う?日本語ではない。
でも何だか…聞き慣れない音が混じっている。
何語だろう。というかめちゃくちゃ上手いな?
これ、扉を開けたら実はネットから流してました的なパターンでは?透羽さんの歌声なんて今まで聴いたことないしな。
どうしてこれが透羽さんの声だなんて断定できたんだろう。違うかもしんないじゃん。
この歌を遮ることはちょっと憚られたが、このまま盗み聞きしているのも忍びなかったので俺はそうっと扉を開けた。
するとそこには、薄い唇を動かしながら書類整理をする透明な人がいた。
やはり。
俺に気づくと途絶えてしまった歌声は、代わりに嬉しそうに俺の名を呼ぶ声へと変わる。
「りょうくん!いつの間に」
「分かってたでしょ、さっきからです」
「やー全然気づかなかった、ホント全然」
「胡散臭いな…」
「座って座って、今日はちゃんと自分で片付けたんだよ」
「………確かに」
ソファーベッドの周りだけ…。
まぁいつもは足の置き場もないくらいの時もあるから、これはキレイな方か。
褒めて褒めてと言わんばかりの尻尾が見えるがそれは華麗に無視して、きちんと場所が空けられたそこに座った。珍しく、埃もそんなにたってない。
「とわさん、さっきの歌って…」
「やっぱ聞こえてた?やだなぁ照れるー」
「気づいてたクセに…」
「まぁね、途中からね。それで?」
「いや、さっきの歌って、英語ですか?」
「んーん、フランス語」
「フランス語」
「うん。好きなんだ、あの歌」
ふわりと微笑む表情から、それは本当なんだなと実感させられる。まぁこの人が嘘を吐くことはほとんどない…いや、隠し事は多いけどそう思いたい…から、わざわざ表情から読み取る必要もないんだけど。
それにそんなことで、わざわざ嘘を吐く必要もないと思うし。
だけど。
「とわさんに趣味?があったなんて、知らなかったなぁ…」
そして超失礼なのは承知だが、超意外だ。
この人は、食べ物の好き嫌いはまぁ多いけど、特に趣味とかないんだと勝手に思ってた。好きな音楽の話なんて今まで一度だってしたことなかったし。
しかもあんなに歌が上手いとか…聞いてないんだけど。ちょっと腹が立つのは何故なんだろう。
珍しく整頓されたソファーベッドが、俺の隣にもう一つの温度を受け取って軽く沈んだ。
「歌ってるの初めて聴きました」
「初めて聴かれたねぇ」
「音楽好きなんでしたっけ」
「別に特別音楽が好きってわけでもないけど」
「フランス語、喋れるんですか?」
「ふふ、ひみつ」
人差し指を唇に当て、僅かに首を傾げるその仕草がやけに様になってイラッときたので、透き通る頬を軽くつねってやった。
すぐに赤くなるけど、すぐ元に戻るのも知ってる。いてて、とわざとらしく頬を擦ってるけど、それほど強くつねってもいないのでこれが演技なのも知ってる。もっかいつねろうかな。
「どうして、あの歌を?」
「何かオススメで流れてきた」
「オススメ」
曰く、あらゆる人に成り済ますには様々な知識が必要なのだそうで。
若者になるのならそれなりに流行りのものを、中年、老年の人になるのならその人たちの趣味になり得そうなものを。ありとあらゆるジャンルの物事を知っておく必要があるのだそうだ。
その辺りはなるほどと思った。確かに、見た目だけ完璧でも会話でボロが出ちゃったら元も子もないもんな。
「それでフランス語の歌を」
「たまたまフランス語だっただけだよ。偶然流れてきて、聴いてメロディーがいいなと思ってさ。あと、歌詞も」
「やっぱりフランス語分かるんですか?」
「ここはやっぱり、分かるよって言った方がカッコいいよなぁ」
「ネット検索したんだなぁ」
「ひーみつっ!」
あででで、と響くわざとらしい声はさっきの歌声とは似ても似つかない。二回つねられた頬はさすがにちょっと赤くなっていたが、別に罪悪感などなかった。懲りずに何度もあざといポーズをする方が悪い。ということにしておこう。
それにしても透羽さんが好きになる歌。
一体どんな歌なんだろう。
メロディーはさっきほんのちょっと聴いた程度だけど、もっとちゃんと聴いてみたい。
フランス語なんて全然分からないけど、歌詞もどんな内容なのかとても気になる。
この人が口ずさんだっていうだけで…。
何故かそれが俺にとっても特別なものになることに、そうなってゆくことにやっぱり腹立たしさを覚えた。さすがに無意味に三回も頬をつねるのは気が引けたので、睨みつけるだけにしておいたが…それだけでこの迷探偵には全てお見通しのようだ。
「というかやっぱりさっきのは俺の聞き間違いなのでは」
「気になる?もっかい歌おうか」
「や、いい………………おねがいします」
「わーぉ。珍しく素直なりょうくん可愛いから写真撮ってい?」
「事務所通してください」
「ふふっ、事務所オッケーもらったので」
許可してないのに、パシャリと撮られた。
ムッとしてしまったが仕方ない。歌の代金ということにしてもらおう。
暫く画面を眺めてから、ニヤけた面を何とか元に戻して透羽さんが歌い始めた。
やっぱりさっきのはこの人の歌声だったんだ。
あらゆる声真似を得意とするこの人の、器用な喉から発せられた声。
地声より少し高い、なのにやっぱり「この人のものだ」と思わせてくれるこの人だけの声。
…これもまた、本当のうちの、ひとつ。
やはりムカつくが、この人は見た目と歌声だけは透き通っていた。何故部屋はキレイにならないのか。
二人きりの空間にしばらく響く音の遊び。
隣で軽やかに歌う主役は、恥ずかしがるでもなくただ目を閉じて音に身を任せていた。
窓から入った風がきゃっきゃとこの人の髪を撫でていく。俺の髪も撫でられた気がしたけれど、それどころじゃなかった。
きれいだなんて、もう何度も感じてる。
この人に出逢ってから、ずっと。何度も何度も。
決して口には出さないけどね。
そうして静かで観客が一人しかいないコンサートは、すぐに終わってしまった。なんだ、体感ではほんの数秒だったじゃないか。
歌い終わった透羽さんは透き通る睫毛をゆっくり揺らして、覗き色が俺を映した。
どうやら感想待ちらしい。口角が自慢気に上がっているあたり、自分でも歌が上手い自覚があるのだろう。腹立つな。
「どうでしたか」
「何言ってるのか、全然分かんなかったです」
「フランス語だから」
「実は適当に歌ってるんじゃないんすか」
「さぁ?どうだろう」
意地悪にそう訊いてみるが、きっとそんなことはしないだろうなという確信はあった。
何となく、この人はそういう人だろうなという謎の確信が。
「歌詞がいいって、言ってましたけど」
「うん」
「どういう歌詞なんですか」
「うーんとね、そうだなぁ」
考え込んだ透羽さんは、やっぱりちゃんと歌詞の意味を理解してないんじゃなかろうか。
そう思ったのも束の間、先程まで美しい旋律を奏でていた桜色がゆっくり開いて、言った。
「ずっと。ずうっと。きみがすべてだ」
どきりとする。
真っ直ぐ俺を見据えて言うものだから、相手が透羽さんなのにも関わらず頬が熱くなる感覚がして顔を逸らしたかった。なのに、逸らせなかった。
「………ふふっ、くくくっ」
「あ、笑っ、こんにゃろう…!」
「だって顔、赤い、いででででっ」
三回目。ぎゅううっと今までで一番力を込めて頬をつねってやると、さすがに演技でない悲鳴が漏れる。笑う方が悪い。意地悪なのはどっちなんだ。
「こんにゃろう…!」
「だってりょうくんがどんな歌かって訊くから…いてて」
「そりゃ確かに、訊いたけど!訊きましたけど!」
「照れ屋さんだなぁ」
「黙れ変態」
「ふっはは、かぁわいいなぁ」
「訊くんじゃなかった…」
タイトルだけ訊いておいて、後は自分で調べるなりすればよかったのでは。
だけどいつの間にやら俺に覆い被さっていた変人はやけにご機嫌で、つねられた頬を擦ることもやめて肩を震わせて笑ってやがる。
もっかいつねってやろうかな。
「はぁー、たまらん…」
「退いてください変態」
「本当だよ、そういう歌なんだよ」
「胡散臭いな…」
「ラブソングだよ」
「ラブソングなの」
「うん。おれにはそう聴こえる」
「じゃあ、俺には?」
「どうだった?」
顔を上げたせいで、透明の束が頬にかかった。
あまりにも近い瞳の色はぼやけてよく分からない。分からない代わりに、唇の感覚はよく分かった。何か柔らかいものを拾ってすぐに、吐息が掠めて離れていく。
今度は顔がよく見える。意地悪なあの色も。
頬をつねり過ぎたせいかはたまた別の理由なのか、薄ら桃色に染まった頬も、蕩ける瞳も。
嬉しそう、の一言だけじゃ言い表せないかな。
俺は、どんな顔してるだろう。
顔、赤くなければいいな。恥ずい。
「で、凛陽くん」
「…なんすか」
おれの歌、どうだった?なんて。
そんなのどう答えればいいというのか。
ラブソングに聴こえたかって?
分かんないよ。フランス語分かんないもん。
「一緒にフランス語勉強しようか」
「…やだよ」
するなら勝手にするよ。
それで俺も歌詞を覚えて、ちゃんと自分の力で理解しよう。
いつになるか分かんないけど。
「いい加減退いてくれませんか」
「…せかいの、すべてなんだって」
「…?」
「このおかしな世界で…きみが、すべてなんだ」
「………」
狭い世界だなぁなんて、笑えなかった。
散々つねった頬に手を滑らせると、懐いた猫みたいに擦り寄せられる。ゆるゆると撫でると、色素の薄い睫毛がゆっくり閉じられた。
気持ち良さそうにほんの少し開かれて、それはやっぱり俺を見る。
ただ、俺だけを。
「とんだ趣味だなぁ」
「趣味ってほどじゃないよ。ただ…」
また目を閉じる。その奥には、きっと俺の知らない色々なものが流れていったのだろう。
ずっと。
ずっと続けばいいのにと願う。
それはきっと、恐れや不安を知っているから。
だから願って、それを叶えて。
痛くても手離せないものを抱えてしまったのなら。もう守るしかないじゃないか。
ずっと続けばいいと願えるものに出逢えたのならば。出逢ってしまったのならば。
「きみと出逢うまでは、全部ただの音の羅列だったんだけどなぁ」
色づいた世界は、ただゆっくりと侵食してゆく。俺の世界もこの人の世界も、境目を溶かして、ゆっくりと。
例え今さら離れても、それでもやっぱり混ざり合ってゆくのだろうな。離してはくれないだろうし、俺も離れるつもりなんて今のところないけどさ。
…ムカつくのでもう一回頬をつねる代わりに、首筋の後ろに手を回してくいと自身の顔に近づけた。俺の一等好きな色は一度離れてきょとんと呆けた顔をした後、やがてもう一度、もう一度と何度も近づく。
…ずっと、ずっと。
先のことはともかくとして今は。
このおかしな世界の…すべての中心が目の前にあった。
それだけは、確かなんだ。
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