私のあなた

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 あなたはガラスの向こうから私を見つめていた。私は立ち尽くしてあなたを見つめた。  白い肌。金色の髪。水色の瞳。白いゆったりした半袖のブラウスに、黒い半ズボンを履いていた。ほっそりとした頼りない手肢。男の子とも女の子ともつかない、どちらの美しさと悲しさも併せ持ったあなた。  道を歩く人が、私の背中にぶつかった。私はよろめき、またあなたのほうを見つめた。あなたの周りにはあなたと同じような姿かたちの人形がたくさんいた。レースのドレスを着た女の子、セーラー襟のセットアップに揃いの帽子をかぶって澄ましている男の子、揃いの黒いワンピースを着た髪の長さの違う双子の女の子……。どの子も美しく、完璧な造形をしていた。でも私が見つめたのはあなただった。あなたは一番……一番……わからない。でも、あなたなのだった。  あなたがほしい。  私は店の中にふらふらと入って行った。近所にあるのに、その店に入るのは初めてだった。そこで、自分がひどく場違いなことに気づいた。私は夕食の買い物に出かけたのだった。鮭を買おうと思って……家にほうれん草とジャガイモがあったから、グラタンでも作ろうと……。だから家から出たままのみすぼらしい姿をしていたし、財布とスマートフォンとエコバックだけを入れた小さな鞄だけを持っていた。  店主は物静かな老人だった。ゆっくりゆっくりと私のほうを向き、白い膜がかかったような瞳でぼんやり見つめた。私はあなたの値段を尋ね、老人はおっくうそうに答えた。自分で尋ねておきながら、あなたに値段がついていることが不思議だった。それはおそろしく安かった。ちょうど私の財布にある現金全てで済んだ。私はそんなはずがないと思いながら、質問をすることでそれが間違いであること……金額ではなく、あなたを私が買える事実が間違いであることが発覚するのを恐れ、叩きつけるように財布の中身を差し出した。  お金を払うと、老人は店の奥から木箱を出してきて、あなたをそっと詰めた。私はそれを抱え、家に帰った。家に着くころにはすっかり日が暮れていたが、空腹は気にならなかった。  そうして、私はあなたを迎え入れた。  私はあなたを家にたった一つの椅子に座らせた。私はその前の床に座り、あなたを見上げる。私の椅子にあなたは小さすぎ、居心地が悪そうだ。小さなあなた。あなたの小ささが愛おしい。それでいて、あなたは誰よりも大きい。その椅子よりも、この部屋よりも、この世界よりも、大きい。あなたの座る粗末な椅子はあなたの玉座で、あなたはこの世界を統べている。小さく大きな王様。私はあなたに仕える。あなたに必要とされたい。あなたを見つめる。あなたは微笑んでいるようでもあるし、嘆いているようでもある。あなたは何を望んでいる。私はあなたを見つめる。あなたは私を見つめる。水色の瞳が揺らぎ、何かを語りかけているように見える。私はその言葉を聞きたい。あなたを見つめ続ける。見つめ続けている。それが一瞬なのか、ずいぶん長い時間なのか、私にはもう判断ができない。私は私の体を感じる。私の肉体は疲れており、空腹だ。喉も渇いている。だがどうでもいいと思う。思うと言うより、私と肉体が、離れていく。私はただそこにいる。あなたを見つめている。あなた。私。私とはなんだろう。私の名前。私の生い立ち。私の職業。私の……なにもかもどうでもいい。ああ、今あなたが、微笑んだ気がする。わからない。あなたの唇のかたち。ほんの少し右のほうが左よりも上がっているような気がする。わからない。知りたい。すべてを知りたい。教えてください。お願いします。なんでも……なんでもします。なんでも……。あなたは答えない。あなたは。  スマホが鳴っている。それを聞いているのか、そう思うだけなのかわからない。私の体はどこに行ったのだろう。今が朝か夜かもわからない。私はあなたを見つめている。あなたは。あなたは……あなたは……こげ茶色の瞳をしている。乱れた黒い髪に黄色味を帯びたくすんだ肌。あなたは……あなたは? 違う。違う。あなたは……あなたではない。  水色の瞳が揺らぐ。白い指が見える。半ズボンから覗く細い腿と膝。あなた……私……違う。なんだこれは。  黒い髪の女は……見慣れた顔のいけ好かない女は、私を見て微笑んだ。罅割れのようなそれは、ひどく醜い。だがそれは私の見たかったものだ。  あなたは立ち上がる。重たく大きい体は不自由そうにふらつき、舌打ちをする。私を見て、腕を振り上げる。億劫そうにその腕を振り、私は椅子から叩き落とされ、硬い音を立てて床に落ちる。あなたは椅子に座り、そして、そして、私の小さな丸い頭に、思い切り足を振り上げて……。  あなたは望みを叶えた。
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