2018.8.16~2018.8.31

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2018.8.16~2018.8.31

 山陰の(ひな)びた集落に「うろ様」と呼ばれる(かい)がある。それは宙に浮く直径1メートル程の黒い孔で、時間や場所に関係無く現れる。目線の高さに留まり、何をするでもなく「ただ其処に在る」だけで、人に危害は加えない。遭遇した時は一礼し、視線を下げて通り過ぎるのが(なら)わしとなっている。  (2018.8.16) 「ねェ先生、どウしたらそンな絵が描けるようになるンだい?」 「ナニ、難しい事じゃアねェ。在りのまンまを描く事ヨ。目ン玉通して見たモンを飾らずに描きャアいいのサ」 「……すると先生にャ、その灰色の水母(くらげ)みてェなのも見えてるンですかい?」  先生は、にやりと笑って答えなかった。  (2018.8.17) 「批評家は私を厚顔無恥な作曲家だと言う。独自性を捨て、耳触りの良い屑みたいな曲を量産していると。私は気付いただけだ。独自性に囚われ聴かれもしない曲を創るより、屑だろうが大衆の耳に届く曲を創る方が余程マシだという事に」  そして彼は独り、血の涙を拭いながら五線譜を埋める。  (2018.8.18)  (もや)が這う川面を眺めながら珈琲を淹れる。挽きたての粉に静かに湯を注ぐと、花開いた芳香が冬の朝に泳いだ。一口含むとまろやかな甘さ、次いで絹のような苦味が舌を撫でる。至福のひと時。  しかし唐突に電話は鳴り響く。私は珈琲を飲み干し受話器を掴む。  こうして、探偵の一日は始まる。  (2018.8.19)  娘の彼氏が挨拶に来た。誠実な若者だ。しかし醜い父親の意地が、彼への態度を強張らせた。鉛と化した空気に()(たま)れず、私は自室へ逃げた。  部屋には飼い猫が居た。目が合うと鋭く啼いた。一喝されたようで、私は項垂れた。先導するように猫は部屋を飛び出す。腹を括り、私は後を追った。  (2018.8.20)  祖父は祖母と祝言を挙げて特攻で死んだ。遺影は精悍な二十歳の笑顔だ。 「天国で逢えても、私だと判るかしら」  俯く祖母の手を私は握りしめる。 「大丈夫。おじいちゃんはあの時のままだから、おばあちゃんの事も好きなままだよ」  祖母は頷いて空を見上げた。十六歳の横顔が幻に揺れた。  (2018.8.21)  君への愛を噛み締めながら生きる。  握っても離すかもしれない。括っても解けるかもしれない。失う事を恐れて汚れるのも構わず、砕けるほど顎に力を込める。  だから君の名も呼べない。言葉無い僕に君は見向きもしないけど、いつか振り向いてくれるその日まで、僕は獣のように唸り続ける。  (2018.8.22)  有象無象が付加価値を(まと)う事で、芸術へと昇華する。付加価値とは技巧、着想、名声、庇護者。此等(これら)失くして、現象は現象、物体は物体の域を超える事は無い。  創作者諸氏に告ぐ。付加価値を求めよ。意地を捨て恥を捨て、声の限りに世界に叫び、己の有様を知らしめよ。沈黙は一金にも為らぬ。  (2018.8.23)  高校二年の秋。夕陽に染まる畦道をあなたと一緒に歩いた。歩幅の差を必死で埋めて、真っ白な頭であなたの冗談に笑顔を作った。顔が赤いと言われて、狡い私は夕陽のせいにした。  だから罰が当たったのかな。冬が来て、夕陽は分厚い雲に覆われた。  そして、あなたと歩くこともなくなった。  (2018.8.24)  情熱よ、煮え(たぎ)溶銑(ようせん)の如く在れ。  ()られて(はがね)となるも型取られ熱を喪うより、型無くとも触れる物総てを灼き焦がす焰で在り続けよ。()の流れ行く道を何人も()き止める事は叶わず、意志を呑み赫々(かくかく)と輝く姿は(まご)う事無き神性である。  努々(ゆめゆめ)忘れる事(なか)れ。情熱よ、煮え滾る溶銑の如く在れ。  (2018.8.25)  召集令状を配る町田(まちだ)を死神と罵る者は多い。一層死神ならばと町田は思う。勲章で肥太った耄碌(もうろく)共に真先に()れてやるものを。だが届け先は前途在る若人ばかり。町田も所詮は役人だ、己の命も惜しい。  仕事を終え帰路に就く後姿が宵闇に溶けていく。その足元に影が無い事に気付く者は居ない。  (2018.8.26)  嗚呼(ああ)、苦しいのです。貴女と交わした言葉が私を(さいな)むのです。  貴女は屹度(きっと)、心の(まま)を口にしたのでしょう。だけどその言葉が私の心に食い込んで、根を張り居座るのです。  苦しくて苦しくて忘れたくて、だけど答えは貴女の言葉の中にしかなくて、私は今日も貴女の言葉を思い悶え続けるのです。  (2018.8.27)  (あかね)は寝具から身を起こした。情交の名残が四肢を弛ませる。不貞な男は背を向けたまま言った。 「君とは今日でお別れだ」 「お好きに。でも甘い汁を吸ってきた代償は払って頂戴ね」 「ああ、すぐ清算する」  男は振り向く。月光を背負い真っ黒に塗り潰された顔を見て、茜の全身が粟立った。  (2018.8.28)  シンバル奏者は刻を待つ。  滔々(とうとう)と流れる音楽の中に(じっ)と身を潜め、楽譜から嫣然(えんぜん)と笑いかける「TACET(タケット)」を睨み返し、僅か一小節一発の八分音符の出番を待ち続ける。  やがて徐に立ち上がると楽器を手に取り、祈るように小さく重ね合わせた。  そのpp(ピアニシモ)(くさび)のように、静寂の只中に打ち込まれる。  (2018.8.29)  (くら)い海の底で、それは眠りに就いていた。悠久の時の流れに横たわり、独り静かに生きていた。  ある日、海中に太陽が咲いた。圧倒的な脈動に全身を打ち据えられ、沸騰した海流に呑み込まれた。理不尽な悲劇に咆哮を上げたそれは、体内に蒼い火が宿るのを感じた。  ――1946年7月、ビキニ環礁。  (2018.8.30)  いっそ無能ならと思ったりもした。それなら潔く諦められるのにって。  だけどあの日、僕の不恰好な姿を見て、君は笑った。  僕は君を笑顔にできることを知った。  だから僕は、自分を信じてみる気になった。あの顔がもう一度、いや何度でも見たいよ。無様にペダルを漕いで、君に逢いに行く。  (2018.8.31)
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