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ーー結局、旅行も結婚式も何もかも俺が思い描いていた理想とはかけ離れたものだった。
こうしてあげたい、ああしてあげたい、きっと喜んでくれるだろうと、茜の嬉しそうな顔を想像している時間は、あんなにも幸せだったのに。
派手な結婚式も豪華な指輪も贅沢な海外旅行も、何もいらないと彼女は言った。きっとそれは本心で、元来茜は目立つことを嫌う性分なのだと、理解しているけれど。
そうじゃない。例えエゴでも、俺が彼女にしてあげたかった。些細な幸せも、大きな幸せも、全部全部俺だけが彼女に与えたかった。
茜はあの日のことについて、一切俺を責めない。それをいいことに、俺ももう釈明も弁解もしなかった。頑丈に蓋をして、まるでなかったかのように扱った。
「茜、愛してる。誰よりも大切だ」
「…ありがとう」
彼女が控えめにはにかむたびに、心が抉れそうだった。あんなことをした俺を、本当の意味で許せる筈などないのに。俺と居れば茜は一生、あの日の出来事を忘れられない。
(…でも、離れたくない)
彼女もそう思ってくれているから、我慢してくれている。心を殺し、涙を堪え、必死に耐えている。平気なはずなどないのだから。
茜を不幸にしているのは他の誰でもなく、俺なのだ。
「もーいつもそっけないんだから、一ノ瀬さんは」
「三笹です、二條さん」
「そっか、もう人妻だったね」
あの出来事があった日から、一年程経った頃だろうか。茜が会社の飲み会に参加したことがあった。確か、同期の集まりだと言っていた。
迎えに行った時に見た、何気ない光景。飲み会後の酔った状態で、解散間際のただの冗談。
俺以外の男が、彼女の肩に触れた。それがどんなに一瞬だろうと、気が狂いそうになった。
(茜は、俺のだ)
今すぐ叫んで、彼女の手を引きたい衝動に駆られる。小さな細胞の一つ一つが、闇に蝕まれていく。そんな資格はないと分かっているのに、衝動が治らない。
「迎えに来てくれたんだ、ありがとう」
「……」
「蒼?」
「あ…お疲れ様」
目の前でことりと首を傾げる茜に、慌てて笑顔を作る。それを見た彼女も、安堵したように微笑む。
こうして互いに本音を隠し、穏やかな日常を演じる。全ては、関係を壊さない為に。
けれど奥底ではいつも怖くて堪らなかった。いつ茜が、最低な浮気男など要らないと俺を切り捨てるかと。だからと言って真実を告げても、結局は爆弾を抱えた厄介な男に変わりない。他の女を抱いた事実も。
常に不安が足に纏わりつき、いっそ茜を閉じ込めてしまいたい衝動に駆られる。極たまにしか参加しない会社の付き合いや友人の飲み会にさえ、内心快く送り出せなくなった。
嫉妬しているなどと、口に出せる筈もない。それを言われた茜がどう思うのか、考えるまでもなかった。
それでも恐怖は拭えず、衝動に抗えず、俺は遂に手を出してはいけない領域に足を踏み入れてしまうこととなる。
茜に知られれば必ず嫌われると頭では分かっていても、どうしても自身を止めることができなかったのだ。
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