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妻が自分自身に他の女を抱かせようとしていると知って、一体蒼がどんな気持ちだったのか。それを想像するだけで、涙が止まらない。
私が創り出した勝手な妄想で、どれだけの傷を彼に負わせただろう。
たった、一回。その一回の過ちを、彼は自分自身を誰よりも責めたのだと思う。私という存在を手放してしまった方が、どれ程か楽だったろうに。
何年も責め続け、苦しみ、その結果があれだ。
(それでもずっと、愛してくれたんだ)
私の愚かな行動を知りながら、それでも蒼は私の傍に居てくれた。
愛してるも大切も、嘘偽りのない言葉だったのに。
私はそれを、信じきれなかった。
「ごめんなさい」
「…茜」
「私は自分を、許せない」
ずっとずっと、辛かった。苦しかった。
それは、彼と他の女の情事を目撃したからだけではない。
あんなことをしてしまった自分を、許すことができなかった。
どれだけ正当化させようとも、愛する人を他の女に渡すなどあり得ない。
私は、手を出してはいけない領域に足を踏み入れてしまったのだ。
「待って、茜」
「…ごめんね、蒼」
「お願い待って!」
彼の澄んだ瞳から次々と零れ落ちる涙を、私には止めることができない。脳裏に浮かぶのは、眉尻を下げた哀しげな顔ばかりだった。
私では彼を、笑顔にしてあげられない。
「行かないで、傍にいて、茜が居なくなったら俺は…っ」
バッグ一つを手に持ち、黒いスニーカーを履いて出て行こうとする私を、蒼が後ろから抱き締める。
抑えようとしても漏れでる嗚咽は、もはやどちらのものか分からなかった。
「…違うよ。きっとそう、思い込んでるだけなんだよ」
「あか、ね」
「今までずっと辛い思いさせて、ごめんなさい。少し、一人にさせて」
私達はそのまま、動くことができなかった。しばらくの後、蒼がゆっくりと私を解放する。
「…分かった。でも、俺が出て行く」
「ダメだよ!私が」
「ごめん、これだけは譲れない」
私の都合で、彼を締め出すことなんて出来ない。私は、首を小さく左右に振った。
「…出て行かないから、蒼も居て」
「それもできない」
「なんで…っ」
「そしたら茜、俺が知らないうちに出てっちゃうでしょ」
泣きながら薄く口角を上げる彼の顔から、目を逸らす。そんな辛そうな顔を、させたい訳ではないのに。
荷物を纏めた蒼の背中が、扉の向こうに消える。その瞬間私は、床にへたり込み声を上げて泣いた。
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