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「…はい…はい、ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。ありがとうございます、失礼します」
以前会社を休んだのがいつだったのか思い出せない程、私は滅多に休まない。けれど昨日の今日で、どうしても出勤する気になれなかった。
ぱんぱんに腫れた目元を冷やす気力もなく、視界もいつもの半分程しか見えない。年甲斐もなく声を上げて泣き喚いた所為で、喉も熱を持っているように感じる。
夫と仲違いしたので会社を休みますなど、言える筈もない。体調不良と嘘を吐き、携帯を放り投げた後再びソファーに体を沈めた。
とても、ベッドでは寝られないから。
(…まだ蒼がいるみたい)
それはベッドに限ったことではない。どこからかひょこりと顔を出し、私を抱き締めながら優しく笑う。穏やかな声で名前を呼ばれると、その日一日の嫌な出来事など、たちまち溶けて消える。
「蒼…」
私は馬鹿だ。未練がましく名前を呟けば、やっと止まった涙がまた溢れると分かっているのに。そこら中に散らばったティッシュやタオルを、片付けようとも思えない。
失いたくないから、取った行動だったのに。今私の隣に、彼はいない。
これまで過ごした日々だって、心のどこかにはいつもあの出来事が棘のように刺さっていた。
蒼に裏切られたと思いながら過ごした三年間よりも、自身が蒼を裏切ってから今までの三年の方が、ずっとずっと辛かった。
「結局、全部自分が悪いんじゃん…」
あんなことをしなければ良かったと、今なら言える。けれどあの時はああするしかなかったのだとも、やはり思ってしまう。
決して正当化する訳ではない。正常な判断が、出来なかったのだ。
私にそんな傷をつけたのは蒼だけれど、彼の心もまた穴だらけだった。それに気付いてあげられるのは…いや、気付かなければならなかったのは、私だったのに。
何度も何度も数えきれない程言われた“愛している”という彼の言葉の中に、きっと嘘は一回もない。
ーー俺を、信じて
三年前の私の過ちを知りながら、彼はどんな思いで口にしていたんだろう。どれだけ傷付けてしまったのだろう。
「うぅ…ふ…ぅ…っ」
起きていても眠っていても、頭の中から蒼がいなくなることはない。私の細胞の一つひとつに、彼の面影が刻み込まれている。
「好き、離れたくない、帰ってきて…っ」
私が彼を、追い出したようなものなのに。
この家は、蒼との思い出があり過ぎて。
どれだけ泣こうと喚こうと、涙が枯れることはなかった。
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