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蒼と別れ、私は制服を纏い社会に溶け込む。瞼は腫れ、化粧ではきっと誤魔化しきれていない。けれど不思議なことに、昨日よりもずっと視界が開けているように感じられた。
「お客様。何かお力になれることはございますか?」
就業開始からしばらく経った頃。“虎ノ屋”のショーケースの前に立ち、何やら悩んでいる様子の若い女性に私は声をかけた。
「あ…えっと。両親からこのお店の羊羹を買ってきてほしいと頼まれたんですけど、どれがいいのかなって」
あまり自己主張の得意でなさそうな、控えめな印象のお客様。彼女のような若い方が”虎ノ屋”の商品を買っていく時は、そのほとんどが自分以外の誰かの為だ。
「ご両親はご自宅用として頼まれたのですか?」
「はい、多分」
「でしたら思いきって、こちらの竹包の羊羹などいかがでしょう。個包装のものも便利で食べやすいですが、やはり竹の皮に包まれたひと棹の羊羹を切って食べると、より風味が感じられますから」
こういった棹物は、昔はよく「縁を切る」などの意味合いから慶事の際は避けられていた。今もそういった説明はするが、見映え重視という風潮も増えている。この店の羊羹は、やはりこの竹包のひと棹がいかにもといった重厚感を醸し出しているのだ。
もちろん、用途や場面によって様々だが。
「うん、やっぱりそうですよね。大きいかなって悩んでたけど、滅多に買いに来られないしこれにします!」
ショーケースを見つめていた女性は顔を上げ、そう言って微笑む。控えめだけれど、笑顔の可愛らしい人だと思った。
その後諸々を済ませ、商品の入った紙袋を手渡す。
「丁寧にありがとうございました」
「いえ。お力になれて何よりです」
「実は私の兄もこの百貨店に勤めていて、それもあってここに寄ったんです」
歳を重ねてもこうして兄を気にする程兄妹仲がいいのだなと、素直に感心する。蒼以外に家族のいない私には想像することしかできないけれど、いくら肉親といえど彼女のように良好な関係の兄妹ばかりではないだろう。
「じゃあ、ありがとうございました」
「またのお越しをお待ち申し上げております」
丁寧に頭を下げ去っていく後ろ姿を、私はしばらくの間見つめていた。芯の強そうな雰囲気の、きっと内面が素敵な女性なのだろう。外見も、派手ではないものの整った顔立ちをしていたように思う。
(お兄さん、誰だろう)
彼女が言わなかったのでこちらから聞くことはできなかったけれど、何となく気になる。まぁ幾ら男性社員は少ないといえども、これだけの人数だ。きっと名前を言われても分からなかったただろう。
すっかり人混みに紛れて見えなくなってしまった彼女から視線を外し、私は次の作業へと取り掛かった。
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