夕焼け色の記憶

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 バタバタと走りまわった決算月をようやく終え、今月は少し余裕ができるだろう。そんな穏やかな雰囲気が、オフィスの中にも広がっている。  この数日間はまともに昼の休憩時間を取ることもできず、夜は残業続きの慌ただしい毎日を送っていた。 年度末で部下が1人退職し、俺の仕事量が単純に2倍となったことには疑問が残るが、何はともあれ問題なく決算の処理を終えられたことに安堵する。  温かいコーヒーを入れ、定期的に一服も出来る、ようやくいつも通りの仕事風景に皆が戻ってきたそんな頃。 久方ぶりに、決められた時間一杯の昼休憩を取り、何となく…そう、何となく屋上へ足を運んでみた。  入社して5年目の春を迎えたが、俺は1度も屋上へ行ったことがなかった。 何故この日このタイミングでそこへ行こうとしたのかは、今でもよくわからない。 最近昼の風は暖かくなってきたからだとか、少し向こうの小さな公園で子供たちが遊ぶ姿を眺められるんではないだろうかとか、確かそんなことを考えていたような気がする。  立て付けの悪い扉をこじ開ける様に力を込めれば、見渡す限りいっぱいに広がる青い空。 高層ビルの立ち並ぶ都会と言うわけでもない、程よい田舎であるこの場所は立地もなかなか良い方だと思う。  ここらの住宅の中では、俺の職場は背の高い方だ。お陰で何の障害物に遮られる事もなく、穏やかな風に吹かれる雲を悠々と眺める事ができた。    ふと、上を見上げると非常梯子を上ったすぐ上のあたりに、寝転がっているのだろうか。一足の革靴が見えた。  なんだ、先客がいたのか。それならば挨拶をしなくては。 俺は今日初めてこの場所に来た、言うなれば新参者なのだから。たとえこの社員が後輩だろうと、この屋上に関しては俺の方が後輩である事に間違いは無い。 「こんにちは、そこは心地が良いですか。」  考えてみれば、昼休憩。昼寝でもしている最中だったかもしれないのに迷惑な話だ。 伸びていた脚はピクリと俺の声に反応した。 「おれに言ってるんすか?」  頭上からは、間抜けな声が降ってくる。 君以外に誰がいるんだと突っ込みそうになるところを堪えた。そんなに上に居れば、この場に俺以外の人物がいたとてわからないか。 「ああ、君に言っている。」 「…そっすね、なかなかいい感じですよ!」  こんなに声を掛けているんだから、降りてきても良いものを。彼はほんの少し足を動かしただけでこちらには見向きもしない。 もしやそんなに気持ちが良いのだろうか。  屋上のそのまた上に繋がる避難梯子の上。すなわちそれは、ここらの地域で今彼が1番太陽に近い場所にいるという事だ。 「俺もそこへ行ってもいいですか。」 「構わないっすけど気をつけて来て下さいねー。」  先客からしっかりと許可も得たので、俺は言われた通り慎重に梯子を上り、彼と同じくこの地域で1番太陽に近い場所へ辿り着いた。  先程の革靴の主は緩くパーマのかかる茶髪に、ネイビーの春らしいジャケットを羽織った、雰囲気の良い青年だった。 仰向けに寝転がり、目を閉じて日を浴びている、気持ち良さそうな表情が印象的だ。 「屋上に人が来ることなんてなかったから、おれびっくりしましたよー。」  青年は横になったままにこやかにそう言った。確かに、こんなにいい場所があるのに同じ部署の人間たちは、誰も彼も車内や食堂、最近出来たカフェスペースで食事をとっている。 「ここはあなたの穴場でしたか。」 「っはは。まーそんなもんっすねー。」  手足を十分に伸ばした彼の姿はすごくのびのびとしていて、なんだか羨ましくなって俺もそうしてみたいと思った。 「俺も一緒に横になっても?」 「いっすよー。結構気持ちいいっす。」  彼と同じように仰向けに寝そべる。 それまで日の光を満足に浴びていたコンクリートは優しい温もりで俺を包み込み、空から降り注ぐ暖かな日差しは、俺にまぶたを閉じるよう促した。  見たところ、周りから既にアラサー扱いを受ける俺より少し若そうなその青年。 しかし俺がよく年齢を上に見られるように、彼もまた下に見られるだけなのかもしれない。 「失礼ですがおいくつですか。」 「今24っすー。」  なるほど俺の目はなかなかいい線を行っていた。俺の2つ下、と言う事はーー 「今年で3年目ですか。」 「そーっすよー。」  俺の2年後輩か。 同じ部署に彼と同じ3年目の同期がいないか記憶を辿るが、運悪く3年目の社員と言うのは年度末に退職した部下たった1人だけだった。 盛り上がる話に繋がりそうもなくて少し残念に思う。 「おにーさんのが歳上すか?」 「まぁ、一応は。」 「あはっ、じゃ先輩っすねー!」  相変わらず青年は、太陽に向かって笑顔で話している。 のんきな奴だ。こういう奴が、ストレス社会なんかに負けず強く生きていくんだろうなぁなんて。さほど歳の離れていない後輩にそんなことを思いながらも、包み込まれる温もりに次第に意識を手放していった。  と、午後の始業のチャイムの音で目を覚ました。 遠くで聞こえたその音に慌てて飛び起きる。 腕時計を確認し、途端に背中に嫌な汗をかいたのは言うまでもない。しまった、完全に寝こけていた。  隣を見るが、もちろん先程まで一緒に横になっていた青年の姿は無い。 なんだよ、どうせ同じ会社の人間なんだから起こしてくれたっていいじゃないか。  やり場のない焦りと怒りを青年にぶつけ、俺は駆け足で屋上を後にした。 「あの〜…。」 「!!ど、どうかしたか?」  書類をFAXしている最中、普段関わりも特になく、あまり話した事のない女子社員に声を掛けられてつい驚く。 「背中、汚れてますけど…。」  不思議そうな顔で問われ、ハッとした。  そういえば、慌てて戻ってきたものだから埃を払ってもいなかった。あんな場所で横になっていれば、服くらい汚れるだろうと予想できても良いものを。 「あぁ、これは昼間に屋ーー…」  と、そこまで言ったところで言いとどまった。確か彼は、この場所には滅多に人が来ないと言っていた。 という事は、言うなれば彼が見つけた昼休憩の穴場。そんな最高の休憩場所を、俺が別の誰かに共有する必要は無いのではないだろうか。 「…あぁいや、天気が良かったから外で横になっていたんだ。」  曖昧に笑って見せれば、女子社員は可笑しそうに笑って、面白い人ですねなんて言って去って行った。  翌日。昨日とは違い、1日中厚い雲に覆われているパッとしない天気だった。 特に雨が降る心配も無いので安心だが、今日はあの日差しに包まれた心地良い昼寝を堪能する事が出来ないのだと思うと、少し残念だ。  いつも通りの職務をこなし、温かいコーヒーと、何度かの一服。普段と何も変わらない生活なのに、どこか昼休憩を楽しみにしている自分がいた。 今日も屋上へ行ってみようか。彼はいるのだろうか。今日は天気が良くないから彼は居ないかもしれない。けれど、居るかもしれない。  迎えた昼休み、俺の足は当然の如く屋上につながるあの扉へと向いていた。 比較的新しいビルのはずなのに、この扉だけは立て付けの悪さが目立つ。重い扉を力いっぱい引っ張れば、昨日と同じようでどこか違うその空間。 頭の上は一面灰色の世界が広がっている。 「あれっセンパーイ!今日も来たんすか?」  聞き覚えのある声がして、ぐるりと辺りを見渡す。梯子を降りて走ってきたのは、昨日と同じあの青年だ。 「君が起こしてくれなかったから、昨日は午後の開始に遅れてしまったよ。」 「えー!おれのせいっすか?だってセンパイすげー気持ち良さそうに寝てたから起こせなくてー。」  少し幼さが残ったワンコのような笑みを目の前にすれば、つい怒る気力を無くしてしまう。 憎めない奴、とはこういう男の事を言うのだろう。 「今日はもし俺が寝ていたら、君が戻る前に起こしてくれないか。」 「了解っす!」  本当に了解してくれたのだろうか。へらへらと平たい笑顔は信用しきれない。  それから、昨日と同じく他愛も無い会話を繰り返した後、青年に確認を取り、1本だけタバコに火をつけた。 青年は、気にしないと言った癖にそそくさと風上に移動する。 「もしかして、煙苦手だったか?」 「あぁいや、そーいうわけじゃないんすけどねー。」  青年は、どこか掴めない不思議な奴だった。 年齢と、ここの社員であろう事はわかるのだが、それ以外の事は何もわからない。名前も、部署も、何もかも。 社員全員が首からかけているネームタグは勿論彼のそこにもかけられているのだが、肝心のタグの部分は胸ポケットに仕舞われていて確認する事が出来ない。隠されているわけでも、教えてくれないわけでもないが、わざわざ聞く事もできない。  屈託のない笑みでこちらを見られると、何故か胸の奥が締め付けられるような苦しい感覚すら覚えた。 「少し休むか。」 「そっすねー。」  わざわざ梯子を登る気にはなれず、今日は昨日よりも少し低い位置で彼と2人横になった。 チラリと横目に彼を見ると、思っていたよりまつげが長く、すーっと鼻筋が通っていて 綺麗だ、と、率直にそう思った。 形の良い唇が、すらりと長い首が、短く切り揃えられた爪が。 どこを見てもどれをとってもマイナスのつけようが無い容姿をしている。おまけに愛想のいい笑顔と人懐っこい性格。立派なもんだ。  2年も同じ職場に勤めていて1度も会ったことがないと言う事は、外回り中心の営業職だろうか。 この男ならば営業にも向いているだろう。 そんなちょっとした好奇心だった。彼のネームタグに手を伸ばした理由は。  彼の胸めがけて伸びた手は、彼に触れる事なく空を切った。 「…っ!?なんすか、もー!びっくりしたじゃ無いっすかあ。」 「あ…悪い。別に深い意味は無くて…。」  どうしてこんな言い訳めいたことを言っているんだろうか、俺は。 先程までスゥスゥと寝息を立てていた彼は、俺が触れる直前にパチっと目を開き、まるで触れるなとでも言うように瞬時に俺から距離を取ったのだ。 「いやー実はおれ、若干潔癖の気があるっていうか。」 「あぁ…そ、だったのか…。」 「で、何かありました?」  緊迫したさっきまでの表情とは打って変わって、いつも通りのワンコの笑みを向けられれば、何かとんでもないことをしてしまったかのような罪悪感は嘘のように消えてその場の雰囲気は和む。  言うべきか、言わないべきか。だが、言わなければ俺の不可解な行動の説明はどうにもこうにも出来そうにない。仕方ない。 俺は勇気を出して、その言葉を口にする。 「君の…名前を知りたくて。」 「…え、おれの?」 「……あぁ。」  ぽかんと口を開けてしばらく固まっていた彼だが、俺がもう一度聞かせてくれないだろうかと問うてみれば、頰を微かに赤らめて照れた様に笑った。  相手は男なのに。ましてや、俺とさして歳も変わらない同じ職場の、後輩。なのにどうして、彼のことを可愛いと。彼のことをもっと知りたいと思ったのだろうか。  この気持ちの答えを、この時の俺はまだよくわかっていなかった。 「…ゆう、です。」 「…ユウ?」 「そ。センパイみたいな人は、苗字教えるとそっちで呼んじゃうから名前しか教えてあげないっす!」 「…はは、確かに。ユウってどんな字?」 「え〜?センパイの欲しがり〜。って、あ!そろそろ時間っすよ!」 「え?もうそんな時間か…。」  楽しい時間が過ぎるのは早いもので、今日は昼寝なんてしていないのに、昼休憩の時間はほとんどユウと話していただけなのに、もうその時間は終わりを迎えようとしていた。 今度は女子社員に馬鹿にされないように、しっかりと尻を払って扉を開けた。 「ユウも早く戻るんだぞ!」  そう言って扉を閉めかけた時、あることを思い出して慌てて扉を開け直す。大きな欠伸をしているユウが目に入って思わず顔が綻んだ。 「明日も会いに来ていいか?」 「…!!もっちろん!」  左右に揺れるしっぽでも見えそうな程、嬉しそうに手を振ってくれるユウ。 その頬はやはりまた少し赤みがかって見える。  あぁ、もう本当に。彼は俺の心を落ち着けてくれない。明日も明後日もその次も、君の顔が見たい。君に会いたい。こんな感情を男に抱いたのは正直生まれて初めてで、何と言い訳をすればいいかと自身に戸惑いを隠せない。  俺は人生で初めて、同性相手に恋をした。  それからと言うもの、俺は毎日のように昼休憩を屋上で過ごした。 晴れた日も、曇りの日も、雨の日も、必ず彼はそこにいた。 ユウは、夕という字を書くらしい。 晴れた日には、必ず横になっていて全くと言っていいほど動かない。 逆に曇りの日は、妙に嬉しそうに走り回る。 そして雨の日は、ほんの1滴でも濡れるものかと物陰で小さくうずくまっていた。潔癖の気があると言っていたのはどうやら本当のことのようだ。  日に日に打ち解けていく俺とユウ。 その関係に名前こそないが、互いにどこか特別な感情を抱いているように感じられた。 女性経験が豊富だとは嘘でも言えない俺だが、これまで愛してきた数少ない女性達とは比べ物にならないほどに、ユウに夢中だったのだ。  だが、思いがけないところで突然終わりはやってくるものである。  6月も下旬に差し掛かり、社内はすっかりクールビズ仕様に移行していた。 だが、ユウだけは相変わらずネイビーのジャケットをしっかりと羽織り、汗ひとつかかずに日向で寝そべっている。 まるで、出会ったあの日と何一つ変わっていないかのように。  思えば、はじめから違和感はあった。 その違和感が膨らめば膨らむほど、本人に聞いてはいけないような気がして封じ込めた。 それさえ封じ込めてしまえば、後から溢れてくるのは止め処ない恋心だけだから。  きっと、俺の恋は盲目なのだろう。 少しの違和感、1つや2つの欠陥など見ない振りができてしまう。 自分の疑問を自分で隠し、自分に自分で嘘をつく。そうでもしなくては、いつかユウを傷付けてしまう気がしたからだ。  ある、晴れた日のことだった。いつも通りユウに会いに屋上へ向かう途中、部長とすれ違った。 部下である以上、もちろん挨拶はするのだが、今の俺はそれどころではなく、早くユウに会いたい。早く屋上に行かなければとそればかりを考えていた。限られた1時間の昼休憩を1分1秒でも長く好きな人と過ごしたい。そんな気持ちになるのは、人として何もおかしなことではないと思う。 「どこへ行くんだい、そっちはーー…。」 「屋上で待ち合わせをしていまして。失礼します!」  今は休憩時間だ。部長、呼び止めるなら午後の業務が始まってからにしてくれ、頼む。 今はユウと過ごす時間の方が大切なんだ。 部長を振り切って、俺は再び屋上へつながる扉目掛けて走った。必死だったんだ。 ーーだからこの時の、部長の酷く驚いた顔を見る余裕がなかったのかもしれない。 「はぁ、はぁ…っユウ、お待たせ。」  12時のチャイムと同時に駆け出した俺が、彼を待たせているはずがないのに。 屋上から程近いオフィスで仕事をしている俺よりも早く、彼がこの場所にたどり着くわけがないのに。 ユウは今日も、出会った日から少しも伸びていない茶色の髪に、いつまで経っても落ちないパーマを当て、夏も間近に控えているのにピシッと春らしい色のスーツを見に纏って、そこに寝そべっている。 「ぜーんぜん。待ってないっすよ、センパイ。」  気持ち1つでは覆い切れない違和感の多さ。今日の俺は、梯子を登り、ユウの顔を見に行く勇気がなかった。 けれど、ユウは何も言わない。 まるで俺がこうなることをわかっていたかのように、ただ静かに、いつものように仰向けに寝ているだけだ。 「…なぁ、ユウ話があるんだ。」 「っはは。奇遇っすね、おれもなんすよー!」  先端だけ見えていた革靴が揺れる。  晴れていた空は雲に覆われ、俺の影を消した。 「君は一体何者なんーーッ」 「もう、会うの辞めにしましょっか。」 「…え。」  ユウは、むくりと身体を起こすと笑顔で俺を見下ろした。 その顔は、いつも隣で眺めていた薄桃色に染まった嬉しそうなそれでは無く、酷く歪んで苦しそうに見えた。 その言葉がユウの本心でない事くらい、わかるのに。今にも泣きそうなその瞳は、俺に何か訴えようとしているんだって、確かに伝わっているのに。雷にでも打たれたかのように、俺はその場から動く事も、声を掛けてやる事も出来なかった。  それからどのくらいの時間が経っただろう。 再び太陽が顔を覗かせれば、ユウはまた俺の前から姿を消し、来た時と同じように1番高い所で横になった。 「ほら、もう始まりますよ。センパイは行かなきゃ。」  センパイ“は”行かなきゃ。 その言葉の本当の意味。わざと、そんなわかりやすい接続詞を使ったんだろう。 もう、俺がここへ来る事のないように。 「ユウ…っ、」 「っはやく、行けっつってんだろ…!」  名を呼べば、今までに聞いた事もないような乱れた口調に荒げた声。それは心なしか震えているようにも感じられて。 普段とあまりにも違いすぎて、泣きそうになった。  その日の終業時刻。 昼の出来事が忘れられなくて、ぼーっとしていたら普段ならば余裕で定時に片付く仕事なのにも関わらず全く終わりが見えなくなってしまっていた。 続々と退社する社員に挨拶をしつつ、カタカタとキーボードを叩く。定時退社が原則のウチ。1時間もしないうちに、オフィス内に残ったのは部長と俺の2人だけになった。 「終わりそうか?」 「あ、はい…これだけチェックしたら後は明日に回せるんで…。」  背中に部長の視線を感じ、早急に書類に赤ボールペンを走らせる。 最後の1文字までチェックを終え、PCの電源を落としたのが18時4分。鞄に荷物を詰め込んでいると、部長がどこか深刻そうな面持ちで俺の隣の席に腰掛けた。 「…あの、何か?」 「今日の昼…屋上に行くと、言っていたな。」 「えぇ、まあ。」  部長は気さくで男前な性格ゆえに、年齢性別問わず人気のある人なのだが、今日の部長はどこか悲しそうに見える。 「そこに誰か居るのかい?」  部長の醸し出すただならぬ空気に、迷ったが俺は正直に全てを話そうと決めた。  しばしの沈黙。部長はたまに驚いた顔を見せたり、かと思えば辛そうな瞳をしたり。 俺のこの2カ月間の出来事を1つも馬鹿にすることなく真剣に聞いてくれた。 「男を好きって時点でアレですよね、はは。すみません、つまらない話を…。」 「つまらなくなんてないし、恋愛に性別なんて関係無いんだ。……よく、聞いて欲しい。」  部長は俺の肩に両手を置き、しっかりと俺の目を見据えて言った。 「ユウと言ったな。彼は…私の同期だ。いや…同期、だった。」  こんなに苦しそうな表情をした部長、今まで見た事がない。苦虫を噛み潰したと言う表現が適している、そんな渋い顔。 部長は、ぽつり、ぽつりと彼…ユウの話をしてくれた。  彼の本当の名は笹本夕輝。同期の中でも部長とは特別親しくしていたという。 夕輝という男は生まれながらにして同性愛者であったが、それを隠して生活していたらしい。そんな中、部長に恋愛感情を抱いたそうで、持ち前の人懐っこさと可愛らしい笑顔に部長も心惹かれ、幸せな時間を過ごしていたと。  でも、部長には恋人がいた。 ちゃんと、女性の。 「私は、夕輝を選んでやれなかった。夕輝は笑っていたから、強い奴だと勘違いして、甘えてしまったんだ。……その後、夕輝は自殺した。“当時”出入りの自由だったこのビルの屋上から飛び降りて…。」 「……自、殺…?」 「…遺書が無かった事から、事故の可能性が高いって結論に至った。だから屋上はその日以降“封鎖”されたんだ。でも私にはわかる、夕輝を殺したのは私だ…その痛みを抱えて…毎日生きていたが、そうか…彼はまだ、そこに居たのか…。」  部長の話を聞いて、いくつかのピースがはまる音がした。 男である俺の隣で幸せそうに笑う姿。 どんなに時が経っても、季節が変わっても、少しも変わらない姿。 でも、1つだけ大きな疑問は残ったままだ。 「屋上は…封鎖されてなんかいませんでした。」  部長は本当かと首を傾げる。そればかりは俺も譲れない。  そこまで言うならば真相を確かめようと、部長と2人、荷物を抱えてオフィスを出た。 俺が毎日のように通っていた屋上までの道のり。 部長と並んで向かってみると、そこはーー 「…嘘、だ。」  扉はとても人力では開けられないような頑丈な鎖を何重にも巻き付けられており、埃にまみれたドアノブは、今にも転がり落ちてしまいそうにボロボロだった。 「この先が、屋上だよ…。君はもしかして、夕輝と波長があったのかも知れないね。」  部長はそれだけ言うと、背を向けて歩き出す。 振り返る事なく手を上げて去るその姿は、今にも泣き出しそうな程弱々しく見えた。  あんなに知りたかったユウの正体。 知ってしまえばストンと胸に落ちてしまう。 突きつけられた真実は、とても信じられるものではないというのに。    部長の背中を送り、もう一度屋上への入り口に向き直す。  と、そこに見えたのは、まっすぐに伸びる階段と、少し古臭い鉄製の扉。 ーーあぁ、やっぱり。俺は君に引き寄せられているのかな。  一歩一歩、階段を踏み締めて登る。 建て付けの悪い扉を力一杯に引っ張った。  雲は何処へ行ってしまったのか、空は橙色に燃え上がり、夕日は悲しいくらいに光り輝いていた。 「ユウ……っ、夕輝。」  名前を呼ばれた人物は、驚いた様に振り返る。 確かに彼は立っているのに、そこに影は存在しない。 「…あー、その名前。知っちゃったんすね、おれの事。」  君が晴れた日に、寝そべったまま動かない理由はそれだったのか。 影の映らない曇りの日にはしゃいでいたのも、当たらない雨粒、自分をよけない煙を避けたのも、全部、全部ーー…。 「…夕輝っ、夕輝、夕輝…。やっと…君の名前を呼べた。」 「っ、せんぱ」 「我儘を言えば、君に、触れたい。」  夕輝は瞳いっぱいに涙を溜めて、拭いもせずにポロポロと地面に滴を落とす。 けれど、その滴が跡となって地面に残る事はない。  ゆっくりと、夕輝に近付いた。 夕輝もまた、俺に腕を伸ばす。 触れ合うまであと数センチの距離、俺は待ちきれず夕輝の背を搔き抱いた。  …なのに、その手は空を切る。 まるでいつか、初めて君に触れようとした日の様に。 「センパイはおれに触れられない。…おれは、センパイを抱きしめる事、出来るんすけどね…っ。」  何とも虚しい話だ。こんなに君を好きなのに、触れる事すら叶わないなんて。  夕輝は俺に口付けた。 額に、鼻に、頰に、そして唇に。丁寧に、宝物を扱うように、大切そうに。  途端に夕輝に対する気持ちが止め処なく溢れ出した。 一緒に眠ったあの日、一緒に雨宿りしたあの日、薄桃色に頬を染めて照れた様に笑う君に、恋をしたのはいつだったろう。  いや、きっと君を見つけたあの日から、もう既に。 「夕輝…俺は君に恋をしてしまった。」 「セン…ぁ、きょ、恭一さん…お、れも。おれも貴方に恋をしました。」  夕輝は、首にかかるタグを見て俺の名を呼んだ。その声がどうにも愛おしく思えてしまって、触れられない手で夕輝の頭の辺りを撫でた。 夕輝はうっとりと目を閉じて、俺の手に擦り寄る。よかった、上手くできたようだ。 「…恭一さん、おれ…っずっと隠しててすいません。」 「謝らなくていいんだよ、夕輝……好きだ。」 「ん、おれっ、も……好き…。」  君が居なければ、こんな気持ちを知る事はなかった。君に出会えなければ、こんなに綺麗な夕日を見る事はなかった。  付き合う事など出来ない、神に愛など誓えない。そんな俺達に許される言葉はたった2つ。 “貴方に恋をした” そして “好き”  俺は、夕輝の姿が見えなくなるまで、ずっとずっと彼を抱きしめ続けた。 何となく、もう彼と会える事はないのだろうと予想はついていた。  目が覚めれば、俺はオフォスの自分の席にいた。 月は天高く昇り、時計は夜の10時を指している。  慌てて荷物を詰め込んで、涙で濡れた目を擦りながら会社を出た。  今でも輝く夕日を見るたびに、彼との日々を思い出す。
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