尊きもの

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尊きもの

 千年壊れなかった氷の壁は、一片も残さず、最初からそこになかったように消え去りました。高さ300メートルの壁に遮られていたその全景が今、明らかになったのです。もちろん、3領地に住む人々にとって天と地がひっくり返るほどの出来事でした。氷の壁は常にそこにあるべきものだし、なくなるはずがないものだったからです。  シバの町へは、多方面から騒ぎを聞きつけた人々が押し寄せました。みんな、あの壁がなくなったという真偽を確かめに来たのです。そのころには、氷漬けになっていたシバの町も雪がまばらにあるだけで、住人たちも氷から解放されていました。そして、誰一人失うことはありませんでした。 「このノートも必要ないか」  トウヤンはボロボロになったノートを持ち、名残惜しそうに見つめました。彼は包帯で全身グルグル巻きで松葉づえをついています。壁が解けてから1週間、手当てをしてからなんとか歩けるまでに戻ったのは不幸中の幸いでした。 「ずっと持ってる」 「こんなボロボロなのにか?」 「捨てたくないんだ」 「物を大事にするのはいい心掛けだ」  トウヤンがページをパラパラめくると、隙間から小旗がハラリと床に落ちました。 「俺が作った旗!」  ミミズがはったような線で描かれた大きな丸と、その隣にある小さな丸。お世辞にも上手とは言えない仕上がりの似顔絵でしたが、見ただけであの日の情景が目に浮かぶようでした。強盗に襲われ九死に一生を得たことや、犬ぞりで雪原を走ったこと……  イザナはノートを優しく畳み、両手で彼の右手を包みました。 「どうした?」  トウヤンの顔が朝焼けに照らされて見えました。 「あなたでよかった」  自分ではどうしようもなく声が震えました。 「――見つけ出してくれたのが、一緒にいてくれたのが、トウヤンで」  トウヤンは少し驚いてから穏やかな目になり、左手をイザナの頭にのせました。 「俺が今、一番うれしいことを教えてやろうか?」  イザナはキョトンとしました。 「あんたが言いたいことを自由に話せるようになったこと。目をキラキラさせていること。それを見ていられることだ。本だけじゃ分からないことって、たくさんある。それは、言葉では言い表せないほどに尊いものだ」 「尊い?」 「そうだ」  トウヤンは廊下を歩きながら窓を開けました。外には大勢の人たちが領地の旗を手に持って集まっていました。ガヤガヤ大にぎわいです。 「行こう。みんな待ってる」  イザナはトウヤンと一緒にらせん階段をゆっくり下りていきました。下ではルットとサメヤラニが2人の到着を待っているところでした。サメヤラニも、ルットも、それぞれ体に包帯を巻いていて、まだ体調が万全とは言い難そうです。それでも、トウヤンとイザナがそろって来たのを見ると笑顔になりました。 「主役のご登場」 「もう協会員たちは全員外にいるぞ」 「待たせたな」  トウヤンは2人を見て言いました。  イザナはレキたちの姿を捜しました。 「あなたの友達なら外にいる」  さぁ、外へ行こうという時、トウヤンたちの前にニイサンが現れました。 「……ニイサン」  トウヤンは余裕をなくしました。 「俺――」  松葉づえを放り投げ、トウヤンはニイサンに飛び込みました。 「来るのが遅いよっ!」  ニイサンは震えるトウヤンの背中をさすりました。 「立派によくやった」  そう言うと、ニイサンはトウヤン、サメヤラニ、ルットをそろって抱き寄せました。3人は、イザナが普段見ている大人で頼れる表情ではなくなっていました。  イザナたちは外に出ました。まぶしい太陽の光に目を細めると、大観衆がイザナたちを出迎えました。指笛や拍手、すさまじい歓声が降り注ぎました。協会の楼閣前には特設台が設けられ、脚の細い椅子が三つ並び、それぞれ高貴そうな服を着た大人の男が座っていました。領主の証である立派な冠をかぶっています。  厳かな空気に圧倒されていると、椅子の前でしゃがみこんで待つレキ、サン、スエンの姿が見えました。3人はイザナを見て手招きしました。 「お待たせ。でも、これから何をするの?」  イザナはレキとサンの間に入って尋ねました。 「壁の取り壊し式だって」  レキが言いました。 「壁? 壁ならもう解けたじゃないか」 「そっちの壁じゃありません。ほら、谷のこちら側にある、あの木の壁のことですよ」  サンは真っすぐ木の壁を指さしました。氷の壁を囲うようにして張り巡らせてある木製の壁のことでした。なるほど。確かに氷の壁がなくなった今、必要ないわけです。 「あの人たちは誰?」 「知らないの?」とスエンがびっくりしました。「三大領主よ」 「どうして?」 「壁を解かしたんだ! もう領土中お祭り騒ぎさ! 祝いの席だよ。だから来たんだ」 「じゃあ、台の脇に立ってる人たちは?」  イザナは領主の脇に控える若い女や男を見て言いました。 「領主の親族や側近だよ」  ぼんやりと見ていると、その中で一際美しい娘がほほ笑み掛けてきたのでイザナはドッキリしました。だけど、彼女は後ろにいるトウヤンを見ていました。チラリと見ると、なにやらトウヤンも目で会話している様子です。  角笛の音が響きました。イザナたちは横一列に並ばされました。角笛を吹いていた男は巻物を広げると壁の取り壊し式に招いた来賓の名前を列挙し始めました。長々と言い終えてから、今度は喉の調子を整えて声高らかに言いました。 「サキ西領、エナミズカ領主」  左端に座っていた一番大きな白ひげの男が立ち、手を上げて答えました。 「マフ東領、ジンザイフ領主」  右端のひょろりと背の高い男がお辞儀をしました。 「コウ南領、アダ領主」  男は読み終えるとお辞儀をして巻物をしまいました。南のアダ領主はゆっくりと立ち上がり、イザナたちの前に来ました。 「われわれ人類が前に進めなかった道が今、開かれた。それは、この火の器であるイザナの力に他ならないが、彼1人の力では達成することができなかっただろう。ここにいる仲間たちがともにあったからこそ、打ち勝つことができた。彼らに敬意を表したい」  拍手は鳴りやみませんでした。こんなにたくさんの人に囲まれて祝福されるなんて、イザナはもちろんレキたちも初めてのようで、少し戸惑ったような顔をしていました。  アダ領主は壁側で待機する剣士2人に手を上げて合図を送りました。すると、壁が奥にゆっくりと倒れ始め、これまで隠れていた向こう側の景色、谷を越えた先に広がる北領地が広がりました。どこまでも続く雪原に、真っ白な山脈、実に千年も人目に触れていなかった景色が、肉眼でもはっきりと確認できました。視界に遮るものがなに一つない光景というのは、あまりに新鮮でした。歓声の中で顔をほころばせるイザナたちに、アダ領主はこう言いました。 「氷の壁は全てなくなった! 千年破られなかった氷の壁を破り、歴史の一ページを刻んだのだ。彼らに感謝しよう。そして――イザナ」  アダ領主は腰を低くしてこうささやきました。 「ありがとう」  この日、人々は一日中お祭り騒ぎでした。夜になっても宴は終わらず、普段は働いている人も店を休んで酒を飲み交わしたり、おしゃべりしたりしました。イザナは回りの人から褒め尽くされ、担ぎあげられました。顔も名前も知らない人から「イザナ!」と言われるのは妙な気分でした。レキたちもクロスキやマッケンロウたちと談笑し、トウヤン、ルット、サメヤラニの3人は久々に同期会を開いていました。  なにやらガヤガヤするなぁ、と思っていると、突然取っ組み合いが始まりました。 「やれやれ! いいぞ!」  酔っ払いたちが派手にドンチャンし始めたようです。 「イザナ」  また呼ばれました。今度は誰だろうと思っていると、いつの日か会った犬ぞりの主人メドリでした。イザナはうれしくてつい満面の笑みになりました。 「お元気でしたか!」  イザナはメドリに飛び込みました。 「あぁ、元気だよ。随分と雰囲気が変わったな」 「えぇ。いろいろありましたから」 「話せるようになったのか」 「はい」  イザナは少し照れました。 「自分でも、どうして声が出るようになったのか分からないんです」 「奇跡だ」  メドリはしげしげとイザナの顔を見てニッコリしました。 「そう何回も起こるようなことじゃない。宝石なんかより、よっぽど価値のあるものだ」 「やっぱりあなたはいい人だ」  イザナは目じりを拭いました。  2人の会話を遮るようにして会場が沸き立ちました。また酒飲みたちの乱闘でも始まったのかと思っていると、さっき見た美しい娘がトウヤンと抱擁していました。 「あの人は誰?」 「ファラク様だよ」  ギョッとして振り返るとレキがいました。 「ねぇ、いつの間にいたの?」 「さっきからいた。気付けよ」 「アダ領主の長女ですよ」  サンが言いました。 「2人はきっと、相思相愛なのよ」  今度はスエンが頰を赤らめながら言いました。  へぇ、と思いながら会場の隅を見ると、今度はサメヤラニが女の人と横に並んでお酒を飲んでいました。そういえば、大切な人に会いに行くと言って彼が出掛けた日のことを思い出しました。  途端にレキはニタニタして、その辺を歩いていたルットをつかまえました。 「ルットはさ、今お熱な人いないの?」 「私?」  酒で顔を赤くしながら数秒考えると、彼女はイザナたちの肩を抱いて盛大に笑いました。 「あなたたちよ!」 「えぇ! それはなしだろ」 「完全に酔っぱらってますね」  サンはげっそりしました。 「あなたたちにはまだ分からないと思うけど、運命の人に出会うと風が吹くのよ」ルットは両手を大きく振って風のまねをしました。「頭上には太陽がキラキラと輝き、美しい若葉の大地を駆けているような心地になる。心は軽やかで、背中に翼が生えたよう」 「そんなの本だけの世界だね」とレキが冷徹に言いました。「それに翼なんて生えないし」  ルットはろれつが回らず、何かもにょもにょ言ってから、お酒のお代わりに飛んでいきました。  会場は騒がしいのに、不思議と悪い心地はしませんでした。一緒に命を懸けて戦ってくれたトウヤンが幸せそうにしているのを見ていると、こっちまで心の中がポカポカ温かくなるのです。  この時、イザナは初めて気付きました。イザナが目をキラキラさせているのを見るのが、うれしいのだと言っていた意味や――イザナがなにか新しいことができた時や、食べ物を食べている時、彼は決まって幸せそうな笑みを浮かべてこちらを見ていた意味。イザナはずっと、どうして彼がニコニコしているのか分かりませんでした。  でも、今なら分かります。  イザナの幸せが、トウヤンの幸せだったのです。  イザナの目じりからスーッと涙が頰を伝いました。これまで自分に向けてくれた笑顔の一つ一つが、つぼみが花開くようにゆっくりと頭の中を埋めていきました。  トウヤンと目が合いました。彼はいつもの朗らかな顔で、手を振ってくれました。イザナは泣いているのがばれないよう、ニッコリ笑って手を振り返しました。  数日後、イザナたちは谷間にやってきました。氷の壁がなくなった今となっては、なんだか爽快な景色に見えました。それもそのはず。300メートルもある壁が一瞬にして消えたのですから、視界を遮るものがないというのはいい気持ちでした。  4人はポッカリと口を開ける谷底を見つめていました。 「うそみたいな光景だな」  レキはどこかせいせいした様子です。 「現実ですよ」  サンはうれしそうに言ってイザナを見ました。 「あなたがやったんですよ」 「1人じゃなにもできなかった」 「あなたのおかげよ」  スエンは言いました。 「ありがとう」  スエンはイザナの顔をじっと見つめました。 「どうしたの?」 「あなたの笑った顔って――素敵ね」 「それから声も」  サンが付け足しました。  イザナは照れました。 「センドウキョウは死んだのかな」  レキは遠い目をして言いました。 「死んだよ」  イザナははっきりと言って、持っていた小包を開けました。中には粉々になったお面が詰まっていました。 「そんなもの、どうする」  レキは眉をひそめました。 「これを捨てる場所を探していたんだ。クロスキはほしがると思うけど……僕はここで捨ててしまった方がいいと思うんだ」  イザナは穏やかな目を3人に向けました。 「いいですよ」  サンの言葉に残りの2人もうなずきました。イザナは手からお面を放しました。谷の風に乗って、ハラハラと落ちていく白い影は、だんだんと闇に溶けて見えなくなりました。最後まで見届けたイザナはこう言いました。 「帰ろう」  雲一つない空に太陽が輝いていました。
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