筆談

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筆談

 ひどい悪夢にうなされたり、突然空からひょうが降ってきたり、シバに来てからとんだ不運続きでした。とはいえ、人に恵まれたのが不幸中の幸いです。なにせ、同年代の、しかも自分と同じように、特別な力を持った子どもたちと仲良くなれましたし、彼らの師もまた分別のある大人だったからです。なにより、イザナの師がトウヤンになったことはこの上なく幸運なことでした。  剣士協会での生活は、イザナにとって毎日が新鮮なものでした。3食食べられる食堂のご飯もおいしかったし、稽古はつらくても、サンやレキが励ましてくれました。そう、剣士協会は、厄介なショウセイとサヒロに出くわさなければ過ごしやすい場所だったのです。  あの2人とも遭遇しなくなったと思っていた矢先、イザナがトウヤンに会いにいこうと廊下を歩いていると、あのサヒロとかいう男の子と出くわしたのです。イザナは「君はサヒロだね」と言おうとしましたが、また、いつものようにうまく声が出ませんでした。これはどうしようもないことで、うまく説明はできませんが、どんなに頑張って声を出そうと思っても、すっかり出てこないのです。頭では話したい言葉の整理もついているというのに、イザナはまだ「トウヤン」以外の言葉が出てきませんでした。 「君はサンたちといつも一緒にいる子じゃないか」  表向きは友好的な雰囲気で近づいてきましたが、イザナは反射的に一歩下がりました。彼にどんなにかひどいことを言われたかを、全て覚えていたのです。自分たちを化け物と言ったり、親がいないことをばかにされたりしました。もちろん許せないことでしたし、なによりサンの悲しげな顔を思い出すたびに、イザナはサヒロという男の子を憎しげに思うのでした。一層のこと、ここで口ぎたなくののしり返してやったらすっきりするのに、とイザナは思いました。でも、それでは彼としていることが変わりません。すぐにそう思い至ったイザナは、彼を無視して歩くことに決めました。 「名前は、イザナだったか。確か、七つ子山の先にある、三つある川の真ん中にある川の名前」  いきなりなにを言うのだろう、とイザナは思わず足を止めました。それに、トウヤンが川の名前からとって自分の名前をつけたのかと思い、少し驚いていました。 「一つ聞きたいことがある」  サヒロは笑みを消して言いました。 「君は、氷の壁を壊せば、幸せになれると思ってるのかい?」  イザナには正直分かりませんでした。しゃべらないイザナを見たサヒロは不機嫌になって迫りました。 「なんとか言えよ」  イザナは必死に伝えようとして口を開けました。でも、やっぱり言葉がでてきません。サヒロは舌打ちすると、イザナを片手で突き飛ばしました。 「言葉も話せないのか。はっ、これだから知識も教養もないやつは困る!」  イザナは悔しさを心の中に閉じこめましたが、ふと妙案が浮かびました。そして、彼の腕をパッとつかんだのです。完全に虚をつかれたサヒロは廊下をぐんぐん進むイザナに戸惑っている様子でした。イザナはいつもレキといる部屋に入ると、紙に文字を書き始めました。ひとしきり書いてから、サヒロの前に突き出してやりました。 (僕は君の言ったことを全て聞いている。でも、うまくしゃべることができないから、こうして紙に書いた。この前ひどいことを言って、サンたちを傷つけたことも忘れていないし、許してはいない。さっきの質問に対しては、はっきりと答えられない)  イザナの文字は大人顔負けの美しい字体で、まさかこんなきれいに書けるとは思っていなかったのでしょう。サヒロはまた不機嫌な顔になりました。 「字が書けるからなんだ」  サヒロは紙を奪ってからクチャクチャに丸めました。 「僕は本当のことを言っただけだ」  あまりに腹が立ったので、イザナは言い返そうとペンを握りました。でも、このまま怒りに任せて文字を書いても、きっと彼の思うつぼです。イザナは目も合わせず部屋を出て行きました。道場に向かいながら、イザナはモヤモヤとした気持ちに包まれていました。どうして直接悪口を言いにくるのか分からなかったからです。嫌いなら関わってこなければいいのに、と思いました。  イザナは刀の稽古で抜刀をお手の物にしていましたが、同時に教わった納刀も同じくらいうまくできるようになりました。お手本を見せてくれたトウヤンは、抜刀も納刀もゆっくりと教えてくれましたが、普段1人でするときは早すぎて目で追えないほどでした。今日はどんな稽古をするのだろう、そう思いながらトウヤンの部屋に入ると、彼は珍しく本を読んでいるところでした。 「迎えに来てくれたのか、今行く」  サン、レキと一緒に道場まで行くのが日課でしたが、たまにトウヤンと一緒に行く日もありました。彼が準備している間、イザナはさっきポケットにつっこんだ紙を取り出しました。 「お待たせ! ん? なにしてるんだ?」  イザナは書いた紙を見せました。 (おはよう。今日も稽古よろしく) 「本当に、あんたが書いたのか? すごいな。イザナ。字がうまい。おっどろき! そうか、そうか! こういう手があったか。筆談ってやつ? 俺ももっと早く気が付けばよかった」  トウヤンは箱の中にある適当なノートを引っ張るとイザナに渡しました。 「これに思ったこと、書いてみればいい。自由に。言葉で伝えられるっていうのは、楽しいものだぞ。あぁ、でもこれじゃあ運びづらいだろう。こうしてっと……」  トウヤンはノートに穴を開けるとひもを通し、イザナの肩にかけました。 「これでばっちり! いいだろ? さぁ、記念すべき最初の言葉はなににする? 開いて開いて、さっそく書いてみよう」  トウヤンはノートを開いてイザナの肩に寄りました。まっさらな最初の一ページに、イザナは迷うことなく文字を書き始めました。すぐに書き終わり、イザナはわくわくしながら目を閉じて待つトウヤンの肩をたたきました。 「おっ……どれどれ」 (ありがとう) 「記念すべき最初の言葉が、ありがとう?」トウヤンはうれしそうに言いました。「少し意外だった。でも、こちらこそありがとな、イザナ。んぅ……なんだか不思議な感覚だ。なんていうか、会話ができるって、やっぱりうれしい」  その言葉にはイザナも同感でした。 「それじゃあイザナ! 次は笑顔の練習!」  イザナはペンを落としそうになりました。 「ほら、あんまり仏頂面だと女の子にもてないぞ。それに笑うと楽しい」  トウヤンはニコニコ笑って言いました。そういえば、トウヤンと初めて会った時も、彼は笑顔でした。むしろ、不機嫌だったり仏頂面だったりする場面を思い出す方が大変です。 (笑顔) 「字じゃない」トウヤンはクスリと笑いました。「まぁ、いいか。心の底から笑いたいと思ったら、自然と笑みはこぼれるさ」  2人はそんな調子でおしゃべりしながら部屋を出ました。道場に着くと、サンたちが素振りをやめて近寄ってきました。 「今日は少し遅いんですね」 (トウヤンと少し話してた) 「……イザナ? それって――」サンは目を見張りました。「いい思い付きですね! これならあなたと言葉でお話しができます」 「だろ? イザナが自分で始めたんだ」  トウヤンは言いました。 「すごいなぁ。このノートは?」  レキは尋ねました。みんな、ペンを動かすイザナに夢中です。 (トウヤンからもらった) 「そっか。やっぱりイザナは俺たちの言うことを、ちゃんと全て理解していたんだよ。どうして話せないのかは分からないけど、うん、これなら確かに君の思ってることが俺らにもちゃんと理解できる」  レキの言葉はイザナの心をポカポカさせました。 「イザナ。あなたは本当に字がうまいんですね!」  サンは興味津々に言いました。みんな口々に「ほんとだ」とか「私よりうまいかも」なんて言ったりしました。こんなにみんなから褒められたことはなかったので、イザナはうれしいもなにも照れて恥ずかしくなりました。  この日の稽古はイザナにとって初めての打ち合いでした。 「最初はゆっくりでいい。俺が振り下ろす刀を受け止めてみるんだ」  トウヤンが指示を出しました。  イザナは柄を握る両手に力を込め、ゆっくり下ろされた彼の刀を受け止めました。ここで文字に表すなら「取れた!」でしたがまだ安心できません。 「いいぞ」  言葉で導きトウヤンはもう一度刀を引いて下ろしました。単純な動作。これならできそうです。1、2、3……2人はテンポよく攻めと受けを繰り返しました。 「ようし、その調子だ。イザナ、もう少し背筋を伸ばしてみろ。いい剣士への第一歩は、いい姿勢! 猫背にはなるなよ。自分を軸だと思え」  イザナは迷うことがありませんでした。トウヤンの指示が的確だったからです。稽古が終わるともう汗が滝のように流れていました。イザナだけでなく、サンもレキも体力を全て使い切ったという感じでした。  イザナは氷の研究も欠かしませんでした。手で握ったり、太陽の光を当ててみたり、いろんな方法を思いつく限り試しました。しかし、そう簡単に氷は解けず、実験の結果を書き留めたメモ用紙が山積していくばかりでした。120枚目の紙に文字を書いているとき、イザナはこれまでの失敗から、逆のことをしてみることにしました。押して駄目なら引いてみろです。これまでは短時間だった接触時間を、大幅に増やしてみることにしたのです。その結果は……見事的中でした。切っ先を氷に押し当てて10分が経過したころ、キーンと耳障りな音が響きました。イザナの刀から赤色の光が染み込んでいき、氷は煙を上げてなくなったのです。  ある晩、灯籠の明かりを囲ってレキの部屋に集まりました。 「怖い話でもする?」 「やめてください!」  即座にサンは否定しました。一方、イザナは寝そべりながら明かりの下でペンを動かしていました。 「本当にそのノートが気に入ったんだな。なにを書いてる?」  イザナは長々と書いた文字を2人に見せました。でも、全部ではありません。 (こんなことを言うと、変かもしれないんだけど) 「「なに?」」  サンとレキは同時に尋ねて恥ずかしそうに身を引きました。いよいよ決意したイザナは全文を見せました。 (この間、とても変な夢を見たんだ。目が覚めるとこの部屋からレキがいなくなっていて、捜しに部屋を出た。階段を上って外へ出て、しばらく氷の壁を眺めていたんだ。そこで、声がしたから振り返った。そしたら、白いお面を着けた男がいたんだ。殺してやるって言ってた。その後すぐ、ひょうが降ったんだ)  最後まで読み終えたサンは顔を真っ青にしてレキにしがみつきました。 「イザナまで怖い話をするなんて!」 「落ち着きな」レキは冷静に言いました。「夢なのは間違いない。俺は夢遊病でない限り部屋をでたりしないからね。イザナもここにくるまでいろいろあったんだ。きっと怖いことだってたくさん。怖い夢くらい見るさ」 「妙に大人なんですね」 「あの日、イザナを外に連れ出したのは俺なんだ。そこで氷の壁について話した。きっと悪夢にうなされたのはその後だから、先入観を与えたのかも。誰だって、あの壁を見れば怖いと感じるはずだから。まぁ、それにしても怖すぎるけど。夢だと分かっていても、殺してやるだなんて……」 「そうですね」サンはきっぱり言いました。「あのひょうは、氷の壁と同じものではない。だって、数日後にはきれいさっぱり解けてなくなっていました。きっと氷には種類があるんです。あの壁みたいに解けないどころか再生までする生き物みたいな氷があれば、普通に解ける氷だってある」 「でも、あんなひょうは一度だって降ったことはなかった。直前に見たイザナの夢になにか意味があるとしたら? カンザ様が言ってたろう? センドウキョウは……」 (僕を狙ってる) 「大丈夫だって。イザナにはトウヤンがいる。君の師は強い人だ。聞いた話じゃ、居合いの達人って呼ばれていたらしい。誰も彼にかなう相手はいなかったって。そんな人が君にはついているじゃないか。俺たちだってそばにいる。怖い夢を見たなら、またいつでも話せばいい。好きなだけ。気が楽になるだろ? 1人で抱え込むなよ」  灯籠に照らされていたサンの顔が優しくなりました。イザナは今自分が笑えていないのだと薄々気が付きました。心はうれしいのに、うまく表情を動かせないのです。 (ありがとう)  代わりに言葉で伝えると、2人はまたうれしそうに笑いました。 「そうだ。今度、例の氷を近くに見に行ってみない?」 「レキ、行くならサメヤラニたちにちゃんと言ってからじゃないと、駄目です。私たちだけでは危険ですから」 「分かってる。イザナもなるべくあの壁のことは知っておいた方がいいだろう? 敵を倒すためには、よく敵を知ることだ」  イザナはポケットから布切れに包まれた氷の破片を出しました。 「もしかして、それ……地下にあった氷?」  イザナはうなずきました。 「こっそり持ってきていたのか」 「危険ですよ! ウイが言っていたことを忘れたんですか? この氷は、近くにいる者の生気を吸い取ってしまうんですよ」 「まぁまぁ」レキはなだめました。「イザナ、大丈夫?」 (平気) 「本当に、なんともないですか?」  サンは疑いの目を向けました。 (うん) 「このくらい小さければ、威力も小さいってことかな?」  イザナはペンを動かしました。 (氷を三つ持ってきた。そのうちの二つはもう解けてなくなったよ) 「本当ですか?」  サンは口を手でおおいました。 「どうやって! あの時は氷を解かせなかったじゃないか」 (あの後、いろいろ試してみたんだ。刀で押し続けたらうまく解けてなくなったよ) 「押し続けたら? それはつまり……1回だけじゃ効果がなかったってことか」 (今は、僕の力が足りないだけかもしれない。でも、そうやったらうまくいった) 「継続は力なり、ですね」  そこでイザナは2人の目の前で氷を解かしてみることにしました。刀を抜いて切っ先を真っすぐ床に置いた氷へと押し付けました。一見すると、特にこれといった変化はありませんでした。しかし、氷はしばらくして3人の前でキーンと耳をつんざくような音を出しました。3人は耳をふさぎながら顔をしかめます。しかも、その耳障りな音は収まりそうにありませんでした。 「ひどい音! イザナ、いつまで続けるつもりだ」  レキはすぐに根を上げました。イザナはそれでも切っ先を氷に押し当て続けました。「もう駄目!」とサンが部屋の外に出ようとした時でした。切っ先から赤色の光が氷の中にじわじわ染み込んでいくのが見えました。音は次第に鳴りやみ、氷は煙を出して蒸発しました。もう、床の上にはかけらの一つも残ってはいませんでした。 「やった……」  サンが戻ってきました。 「君の言う通りだ。なんだか奇跡でも見たような気分」レキはのぼせて言いました。 「やっぱりあなたの力は特別なんですね」 「すごいぞイザナ!」  レキはイザナの両手をパッとつかみました。 「きっとあの地下に残っている氷だって解かせるはずさ。だって、原理は同じなんだから」  イザナは人の役に立てたようでうれしくなりました。 「でも、それにはまだみっちり鍛錬が必要ですね」 「どういう意味さ。かけらでも氷を解かせたのはすごいことだよ」 「そうじゃなくて、私たちみたいに力を目に見えて出せればもっと早くたくさんの氷を解かせるかもしれないってことです」サンは言いました。「ちょっと見ててください」  サンはイザナの前でパチンと指を鳴らしました。目の前でパチパチ線香花火のような光が花咲いたのです。サンが手を下ろすと花火も消えました。 「レキも見せてあげたらどうですか?」  うおほん! とレキはせき払いしました。彼が人差し指を振ると、イザナの前髪がフワッと楽しそうに踊りだしました。そう、2人は雷の器と風の器です。それぞれ目に見える形で力を使うことができました。 「サメヤラニは、この力は成長とともに大きくなると言っていました。今は小さな電気しか出せないけど、いずれ大きな雷だって落とせるようになります。まぁ、それがなにに役立つのかって言われたら返答に困るんですけど」 「サヒロの頭に落としてやれるじゃないか」 「そうですね」サンはおかしくて笑いました。「……そういうわけですから、イザナもいずれ火や炎を出せるようになると思いますよ。心配しなくても、きっとそれはあなたが思うより、うんと早く訪れるはずです」 「このことをルットたちにはいつ言えばいい? 地下にある氷を解かす練習だってした方がいいじゃないか」 「いつでもいいですけど……ゆっくり話す時間がある時の方がいいですね」  それから数週間が過ぎましたが、シバの町を恐怖にのみこんだひょうが降ることはありませんでした。  この日、イザナはトウヤンたちとハクビシ湖に行ってワカサギ釣りをする約束をしていました。イザナ、サン、レキがうまやの前でトウヤンたちを待っていると、先にサメヤラニとルットが馬に乗ってきました。サメヤラニの馬は栗毛でメヒコと言い、ルットが乗る黒毛の馬はチャと言いました。イザナたちが馬に荷を結びつけていると、さっきまで降っていた雪がやみました。 「あいつは?」サメヤラニが言いました。  あいつ、とはトウヤンのことでした。みんなもう何分もここで待ちぼうけしていましたから、彼がいつまでも来ないことに退屈さを覚えていたところです。 「置いて行くか」 「待たせたな!」  この声は、とみんなが振り返りました。大通りの向こうから、白い馬に乗ってぐんぐん走ってくるトウヤンが見えたのです。 「ドゥ! ドゥ!」  トウヤンは雪をまきちらして馬から下りました。 「ようし、いい子だ。シン!」  イザナは懐かしい白い馬を見て思わず抱き着きました。シンは匂いですぐに分かったのか、うれしそうにしっぽを振りました。 「もう調子はいいのか」  サメヤラニは馬の心配をしました。 「あぁ、ばっちり。けがも治ったみたいだし。あんたたちが強盗をここで足止めしてくれなかったら、シンも売られていたところだよ。助かった」  トウヤンが長年旅をともにしてきた相棒のシンは、強盗に連れていかれてけがをしていたのでしばらく休ませていたのです。でも、今は見ての通りけがもすっかり治って元気が有り余っています。 「礼ならニイサンに言えばいい」  サメヤラニは言いました。  トウヤンはイザナを馬に上げてから自分も後ろにまたがりました。  いざ出発しました。馬3頭は雪を踏んで町から徐々に遠ざかっていきます。郊外に出たところで森に踏み入り、奥深くへ進んでいきました。ハクビシ湖はスケート場のように分厚い氷で覆われていました。その透明度は水晶さながらです。トウヤンたちは馬を止めて荷物を下ろしました。簡単なテントを張り、イザナたちも準備を手伝いました。サンは火を起こし、サメヤラニは持ってきた器具を使って分厚い氷に穴を開けました。 「おーい、イザナ! 釣り道具取ってきてくれ!」  トウヤンの声が聞こえました。テントでテーブルを出していたイザナとレキは、持ってきた荷物をあさりました。 「これはなんだ?」レキはびんのふたを開けました。「うっ! くさ!」  イザナも臭いをかいで鼻を曲げました。 「もしかして餌?」  イザナは釣り糸を見つけてレキの肩をたたきました。  2人はトウヤンとサメヤラニのそばに駆け寄って釣り具を渡しました。 「このまき、しけっていて火が付きません!」  サンのわめき声が聞こえてきました。 「ちゃんと新しいものを持ってきたはずなんだけど」  ルットは袋の中をあさりました。イザナはしけって火が付きにくいまきをいくつか取って、両手に包みました。不思議そうな目でサン、レキ、ルットが見ています。イザナはまきを差し出しました。サンがもう一度火を付けてみると、今度は勢いよく着火しました。 「今のどうやったの?」  レキが聞くのでイザナはノートを開きました。 (温めて、湿気をとばしたんだ)  イザナにとっては簡単なことでした。縄を焼き切った時と同じ原理です。今のように高熱を当て続けると、やがて水気がなくなり、そのまま続ければ燃えます。  さぁ、いよいよワカサギ釣りが始まりました。氷に開けた穴に糸を垂らすと、すぐにピンと張って浮きが沈みました。 「きたきた! もう引いてるぞ!」  トウヤンがさおを引っ張ると、生きのいいワカサギが鈴なりになって上がりました。別の穴で糸を垂らしていたサメヤラニも好調です。ここまでたんまり釣れるなんて思ってもいなかったので、みんな盛り上がりました。イザナはトウヤンの隣に小さな椅子を置いて元気にピチピチはねるワカサギに目が離せませんでした。わずか1時間で籠はワカサギでいっぱいになりました。  たくさん釣ったあとは、皆さんお楽しみのおいしい料理の時間です。とはいえ、釣ったばかりのワカサギを食べるには臭くてたまりません。トウヤンは水を張った籠のなかにワカサギを泳がせ、餌やふんなどを出させました。その後は、うろこと内臓を取りました。量が多いものですから、みんなで分担して行いました。イザナは生魚を触るのが初めてだったので、トウヤンに下処理の仕方を丁寧に教えてもらいました。下処理が終わったところで最後に塩をなじませ、臭みを取りました。 「手が臭い! 冷たい!」  レキは湖の冷たい水で手を洗いながら涙を流しました。 「まだ時間がかかるみたいです。湖の上を歩いてみませんか?」  サンは提案しました。3人はトウヤンたちが焚火の前で話し込んでいる間に、氷の上を歩き始めました。 「おーい! あんまり遠くに行くなよ!」  トウヤンの声がしたので3人は手を振って応えました。 「本当に透明なんですね」  サンはうっとりしながら凍った湖面を見下ろしました。 「50センチはあるね」  レキは歩きながら言いました。  氷の表面はばかみたいにツルツルしていましたから、3人はサンを真ん中にして、転ばないようにお互いの手をつかんでゆっくり進みました。 「外に連れ出してくれるなんて珍しいね」 「よく買い物には連れていってくれるじゃないですか。前、サメヤラニとアラヤまで鍋を食べに行ったことがあります。あそこの鍋、ピリ辛くて癖になるんですよ。今度、あなたたちも連れて行ってあげたい。こうしてみんなで出掛けるのも悪くないですよ。毎日あの楼閣の中で稽古、稽古、稽古! 気が狂いそうです! こうして広々とした氷の上を歩いていると心が和みますから」  サンは大きく息を吸って言いました。 「そろそろ戻ろう。おなかすいた」  湖の中間に来たところでレキは根を上げました。対岸にある森がまだ米粒ほどに見えました。 「もう少し行けば、あそこに山みたいなのがあります」  サンは白い息を吐きながら2人を引っ張り、一歩踏み出しました。同時に、奇妙な音がイザナの耳に飛び込んできました。 「どうしたの?」  レキが心配そうに顔をのぞき込みました。またこの感覚です。あの悪夢を見た時と同じ、頭の中に響いてくるような声。イザナはノートを開く余裕もなく、湖のど真ん中でしゃがみ込みました。  ピキピキ音がして、サンとレキは顔を真っ青にしました。 「この音は?」  サンのこわごわとした声にレキはうなずきました。 「ゆっくりと、ゆっくりと下がりましょう。イザナも、立てますか?」  けれども、イザナはそれどころではありません。貧血でしょうか。視界が急激に真っ暗になり、頭がずんと重くなったのです。しばらく目も開けられず、氷に突っ伏しました。ようやく頭痛が収まり視界が徐々に戻っていくなか、氷越しに誰かがこちらを見ていました。  なにが起こったのかを理解するのに時間がかかりました。気が付けば、氷が割れ、湖の中にひきずり込まれていたのです。イザナは水の中でパニックになり、上も下も分からなくなりました。サンとレキはどこでしょう? 必死にもがきましたが見つけられません。上に上がろうともがいた時、突然足がつりました。また、あの声が響いてきたのです。 ”……殺してやる!”  目の前にバッと白いお面を着けた男が現れました。恐怖で体が動かせず、息が底を尽き――たくさんの泡が視界を包みました。大きな力強い手が、イザナを引っ張り上げました。  目を開けると、トウヤンがいました。しかも、もう氷の上ではありませんでした。焚火の前で外套に包まっていたサンとレキが駆け寄って来ました。 「私のせいです。氷の上を歩こうなんて言ったから……」 「あんたのせいじゃない」  トウヤンは真面目な顔で言いました。 「奇妙だ」サメヤラニは眉をひそめました。「50センチもある湖の氷があの一カ所だけ割れるなんて……なぜ割れた?」  イザナは水に濡れたノートを広げ、インクをにじませながら絵を描きました。協会で見た、あの時とまったく同じ白いお面の男です。みんな、まじまじとその絵を見ていぶかしい目をしていました。 「……不気味だな」  トウヤンは言いました。 「これ、もしかしてイザナが前に言ってた夢のお面?」  レキは不安げに尋ねました。 (うん。さっき、水の中にいた) 「あんな所に人がいるはずありません」  サンは言いました。 「夢?」トウヤンは首をかしげます。 「イザナが前に見た悪夢の中で、白いお面を着けた人を見たんだって。殺してやるって言ったんだ」  レキはそう答えました。 (同じことを言ってた) 「分かった。とにかく今日のところは協会に戻ろう。ルットはここでイザナたちと片付けを進めてくれ。俺とサメヤラニが周辺の様子を見てくる」  トウヤンはサメヤラニとうなずき合って氷の湖面へと出ました。 「たかが夢さ」  氷の上を歩きながらサメヤラニが言いました。 「じゃあ、イザナは夢を見たっていうのか? あの分厚い氷が突然割れたんだぞ」 「幽霊だとでもいうのか。トウヤン。もし彼の言うことが本当だったのなら、あの場所に誰かがいたことになる。しかも、普通の人間なら死んでもおかしくないマイナスの水の中に。ありえない! わざわざあの子を襲うために待っていたというのなら、なおさらばかげている」  トウヤンは足を止めてサメヤラニを見返しました。 「助けに行った時、本当に何も見なかったのか」 「見てない」  2人は穴が開いていた場所まで歩きました。トウヤンはしゃがみ込むと、じっと目を凝らして穴をのぞき込みました。 「あんたのいう通りだ、サメヤラニ。50センチもある湖の氷は、普通こんな割れ方はしない。まるで人工的に開けられたみたいだ。俺たちが釣りをするために開けた穴みたいに」 「仕組まれていたのか?」 「あの3人が偶然ここを通るなんて誰が分かる? しかもイザナだけが湖に落ちた。仕組まれていたとは考えたくないが、いずれにしても不気味だな。あの絵に見覚えはないのか?」  サメヤラニは首を横に振りました。 「悪夢にしては相当殺意を持っているな、その白いお面は」  かくして楽しいはずのワカサギ釣りは幕を下ろしました。その夜、イザナたちはレキの部屋に集まってまた灯籠を囲っていました。 「ごめんなさい」 「君のせいじゃないって言ったろ?」  レキはしょげ返るサンに言いました。  イザナは濡れたノートを乾かすのに集中していました。湖へ一緒に落ちたものですから、どのページもふにゃふにゃになっています。しけったまきを乾かすのと同じでしたが、これにはちょっぴり時間がかかりました。 「あの時イザナは眠っていなかった。夢というものは、眠りについている時に見るものじゃないか。だから、やっぱりうまく説明がつかない」レキはうなだれて言いました。「それはルットたちも同じ考えだと思うけど」 「お面の男が、イザナを湖に引きずり込んだっていうんですか?」  突然ノックする音がしたのでサンは肝を冷やしました。 「誰?」  レキは扉に向かって尋ねました。ドアを開けるとおなかを刺激するいい匂いとともに、にんまり笑ったトウヤンが現れました。 「晩飯まだなんだろ? 一緒に食おう!」  トウヤンは灯籠の前で沈んだ顔をする3人を見て言いました。 「うまいもん食べれば元気でる! ほらほら、座って座って」  トウヤンはせっせとお弁当を回しました。ふたを開けてみると、今日釣ってきたワカサギの唐揚げに酢漬け、野菜サラダ、イモがたんまりと入っていました。 「このワカサギ、今日俺たちが釣ってきたやつだぞ。作り立てだ!」 「誰が作ったの?」とレキが聞きます。  トウヤンは自慢げにニパッと笑いました。 「俺! 俺俺!」  さっそく唐揚げを食べたサンは途端に笑顔になりました。 「おいしいです。トウヤン! 料理が上手なんですね!」 「サメヤラニとルットの分も作ってさっき持って行った。ほら、イザナも食べてみぃ?」  イザナはもぐもぐ咀嚼してから目を輝かせました。湖で取り立てのワカサギは生臭い臭いがしたのに、カラッと揚がった唐揚げはちっとも臭くありませんでした。それどころか、薄っすらとついた衣がサクッとしていて、下味もしっかりついています。油で小骨までサクサクに揚がっていましたから、丸ごと食べてもストレスはありません。イザナは紙に書くのも忘れて口で言葉の形を伝えました。 「ん? ほうほう……お、い、し、い? おいしい! よかったぁ! イザナに喜んでもらえて俺はうれしいぞ! 自分で釣った魚を食べるのはおいしいだろ?」  トウヤンも3人の輪に加わってお弁当を食べ始めました。彼は湖であったことをあまり話さず、まったく違う楽しい話をたくさんしてくれました。そんな中、サンはこの前イザナが氷を解かしたことを思い出し、ここでトウヤンに話してみることにしました。 「トウヤン。その、地下にある氷のことなんですけど……」 「なんだ?」  トウヤンは空になった弁当箱を片付けて言いました。 「イザナが小さな氷のかけらを解かしたんです!」 「本当?」 「うん」レキが言いました。「俺とサンは目の前でイザナがそうするのを見た。小さいかけらではあるけど、解かせたことは大きなことでしょ?」 「そうだな。すごい!」  トウヤンは感心しました。 「だから、地下に行って今度はもう少し大きな氷で試してみるのはどうですか? 少しずつ大きくしていけば、いずれ大きな氷も解かせるようになるかもしれません」  数日後、イザナ、サン、レキはトウヤンに連れられて氷が保管されている地下へやってきました。入り口には研究員の男が立っていて、トウヤンを見掛けるなり笑顔を見せました。 「ん? その顔どこかで見たことがあるような……」 「俺だよ、俺! 覚えてないのか? マッケンロウだよ」  トウヤンはやっと思い出したのか手をたたきました。マッケンロウ? トウヤン以外、誰も彼の顔を見てもピンときませんでした。 「あぁ! 俺と同じ学年にいた! 元気だったか?」  トウヤンはマッケンロウの手を堅く握りました。 「元気さ。お前こそ、シバに戻って器の指導者になったんだって? ニイサンから聞いたぞ。随分と昇格したもんだ」 「あんたはこんなところでなにしてる?」 「剣士は辞めた。今は研究員をしてる」 「そいつはすごいな。研究職か。さぞ金の羽振りもいいんだろうねぇ」  マッケンロウはトウヤンを小突きました。 「お前は相変わらず剣士か」 「まぁな」  マッケンロウはイザナたちを見てほほ笑みました。 「どうも、こんにちは。君たちが例の器の子たちだね」 「こんにちは。サンです」 「レキです。こっちはイザナ」 「そうかい。私はマッケンロウ。よろしくね」 「氷を見せてほしい」  トウヤンは端的に言いました。 「分かった。こっちだ」  部屋の中にはマッケンロウとトウヤンたち以外誰もいませんでした。 「どれでも好きな氷を見物してくれるといい」 「壊してもいいんだろ?」  トウヤンは氷をつついて言いました。 「おいおい、好き勝手壊していいわけじゃないぞ」 「分かってる。俺たちはそんなやぼなことをしに来たんじゃない」  急にマッケンロウの顔が険しくなりました。 「なんの目的で来た?」 「解かすためさ」 「……でも、器の力はまだ完成されていないはずだ」 「ははん、説明してやれ!」  トウヤンはイザナたちに会話を投げました。ここで、筋道立てて話したのはおしゃべり好きなサンでした。 「私たちは――そう、トウヤンの言う通り、氷を解かしに来たんです。イザナが、ここにある小さな氷のかけらを解かすことができたから」 「本当かい? ……本当かい?」  マッケンロウは子どもみたいに飛び跳ねてサンの両肩をつかみました。 「あの、私じゃなくて、この子です」  サンはイザナを突き出しました。 「あぁ、でも、本当に小さな氷のかけらですから、ここにあるような大きな氷を解かせるわけではないと思います」サンは言いました。「今はまだ」 「それを試しに、練習しに、来たってわけだ」  トウヤンは誇らしく言いました。 「この日が来ることを、私はずっと待っていた! そうさ。それは――私が生まれるずっと昔、千年も前の人たちの、共通の夢だった。あの氷の壁を少しでも解かすことができたなら、きっと人々は前に進めると。この氷河期を止めるための第一歩になると、そう思っていた。だから、私は今の話を聞いて、本当にうれしいんだ。千年も果たせなかったことが、ついに果たせたのだと……その事実を知ることができたのだと、うれしいんだよ」  マッケンロウは涙すら流してイザナを見つめました。イザナはこんな目を誰かに向けられたことがなかったので、素晴らしい気持ちになりました。誰かに必要とされている、そう強く思うことができたからでした。 「でも、まだ氷の壁を壊せると決まったわけじゃ……」  むしろ彼より冷ややかなサンが言いました。 「君たちはうれしくないのかい?」  マッケンロウは、トウヤン、サン、レキ、イザナを見て感動的に言いました。 「一緒に見よう! 春を、夏を……秋を! いずれ、全ての氷や雪が解けたら……この大地は本来あるべき姿を取り戻す。夢みたいな世界を想像してごらん。この土地に咲いていた美しい花々、黄金色の田畑、温かい陽気に包まれた都の数々。君たちは見てみたくないのかい? 私は見てみたい。もう、本を見るだけでは嫌なんだ。この目で見たい!」  あまりに熱く語るので、サンとレキは戸惑いました。けれども、彼の言葉からいくつもの情景をかき立てられました。春というものは、いったいどんな季節なのだろう? 夏というのはどんなに素晴らしいものなのだろう? とか、秋は冬と違ってどんな色をしているのだろう? とか。  サンは思わず笑いました。 「そうですね、私も見てみたいです」  レキもうなずきました。 「相変わらずあんたは詩人みたいなことを言う」 「それは誉め言葉かな?」 「誉め言葉だ」 「ありがとう、トウヤン。でも、私はこの詩が現実になると信じているよ。いずれ詩をも凌駕する世界が私たちの前に広がるさ」  イザナは部屋の中にある、自分の体より二回りも大きな氷塊の前に立ちました。この氷を解かすことが夢をかなえる第一歩だと考えただけで、心は躍るように軽くなりました。恐ろしい言葉を投げかけてきた白いお面に対する恐怖も、全て今の明るい気持ちで吹き飛ばせる気さえしたのです。 「大丈夫。好きに試してみればいいさ。イザナ」  トウヤンは緊張させないように気遣ったのか、少し離れた適当な場所に座りました。  イザナは刀を抜き取り、赤色に輝く切っ先をそっと氷の表面に押し付けました。氷は少しも解ける気配がありませんでしたが、本当に少しずつ、あの時みたいに光が染み込んでいくのが分かりました。同時にキーンと耳障りな音が響きました。それを見たサンが叫びました。 「見て! 光が中に入ってます!」  どうしてでしょうか、あの小さな氷に押し付けている時とは、心の状態が違いました。なぜだか、とても、とても悲しい感じがしたのです。たかが氷のはずなのに、むなしくわびしいものが心の中に染み込んでくるようでした。イザナはこの感情がなんなのか、深く考えなくても全身で覚えていました。今では遠い昔の出来事のようですが、地下室で鎖につながれていた時の自分に似ていたのです。 (分かるよ。君が誰なのかは分からないけど、この気持ちはよく分かる……)  イザナは心の中でそうささやきました。でも、悲しみの中にこびりついて離れない強い怒りも感じました。 (どうして怒っているの?)  イザナは心の中で、そう問い掛けました。周りの音はまったく聞こえませんでした。トウヤンたちの姿もイザナの目には入っていませんでした。ただ、目の前で赤色に染まっていく氷塊を見つめていました。刀から放たれる赤色の光は、次第に大きな氷塊を内側から染め上げていきました。 「……イザナ? 大丈夫ですか?」  ようやく視界が元に戻りました。目の前にあった氷は完全に解けてなくなっていました。サンが心配して顔をのぞき込んでいました。頰がひやりとしたので驚いて拭うと、涙で濡れていました。 「どうして泣いてる?」  レキにそう聞かれても、イザナは言葉にすることができませんでした。言い表せるほど簡単ではなく、感じるものだったからです。イザナは恥ずかしいとは思いませんでした。むしろ、氷に対して抱いているこの気持ちがなんなのかを知りたいと思いました。 「氷が……解けた」  マッケンロウは氷があった場所をいつまでも見つめていました。 「早すぎるなんて言ったのは誰だっけ?」  レキは言いました。 「想定外だ」  トウヤンは動揺しました。 「ウイを呼んできます! 今すぐに!」  マッケンロウは氷に足をぶつけながら部屋を出て行きました。すぐにマッケンロウが戻ってきて、カンザにウイ、それから話を聞きつけた他の研究員、ルットにサメヤラニも勢ぞろい。 「いやはや、まさかここまで早いとは」  ウイは目をしばたかせました。 「氷が解けたというのは、本当なんですね?」  カンザは裾を払って前に進みました。 「本当です。カンザ様。この子は本当にやったんです! そんなに時間もかけずして、刀を氷に押し付けたら、氷が赤く光って解けてなくなったんです! あぁ、ありがとう! 本当にありがとう! イザナ!」  無邪気にはしゃぐマッケンロウを見てカンザはせき払いしました。 「分かりました。しかし、前回は解けなかったと聞きました。なにをしたんですか?」 「方法を変えたんです」サンが言いました。「強く切りつけるだけでは駄目みたいなんです。じっくりと押し当てるんです。そのことに気が付いたのはイザナです」  みんながイザナを見ました。 「イザナ。よく見つけました。あなたに感謝します」  トウヤンがうれしそうに笑いました。イザナも本当にうれしかったのですが、カンザの話を聞いている途中で、突然強烈な睡魔に襲われました。バタン! と倒れる頃には完全に意識がなくなっていたのです。  1週間も眠り続けたままでした。なぜ? と聞かれても、それはお医者さんでも答えられない難問でした。協会内にある病院に運び込まれたイザナは、すっかり日が暮れてから目を覚ましました。 「このまま目を覚まさなかったら……」  サンの声です。 「そんなこと言うなよ」  こちらはレキの声。  イザナはむっくり起き上がりました。サンがいきなり飛びついてきたのでちんぷんかんぷんでした。 「なんともない? なにが起きたか分からないって顔してる。ほら、君のノートだ」  レキは起きて早々イザナに筆談用のノートを手渡しました。 「君、1週間も目を覚まさないんだ、心配したよ。お医者さんはただ寝てるだけだって言ってたけど、まさか本当にそうだったとはびっくりだ。なにも覚えてないの?」 「イザナ、氷のことは?」  次々に質問が飛んでくるので毛布の中に逃げました。少し反省したのか2人は急に静かになりました。しばらくして感覚が戻ってきたので、イザナは毛布から出てノートに文字を書き始めました。 (おはよう)  2人はクスリと笑いました。 「もう夜ですよ」 「これ、みんなからのお見舞い!」  レキは籠いっぱいに入ったお菓子の山を指さしました。 「覚えてますか? あなたは、地下にあった大きな氷の塊を丸々1個解かしたんですよ! カンザ様とウイがすごく喜んでいました。マッケンロウなんて、3日くらい、うれし泣きで目が腫れていましたよ」 「千年も解けなかった氷の一部を解かした。歴史に載ってもいいくらいだ」  レキとサンが興奮しながら話していると、ベッドの反対側からトウヤンが飛び起きました。 「いたの?」  レキは言いました。 「夕方からな」  トウヤンはむにゃむちゃ目をこすってから、当然のように目を開けているイザナを見て叫びました。 「イザナ!」 「しっ! 静かに!」  レキは人差し指を立てました。 「よかった! 心配かけやがって!」  トウヤンは構わずイザナをギュッと抱き締めました。 「……死んじまうかと思ったんだぞ!」  イザナはトウヤンの腕に抱かれたままノートとペンを取りました。 (ありがとう。もう、大丈夫だよ)  文字を見たトウヤンはより一層強くイザナを抱き締めました。トウヤンとイザナがどんな旅路を経てここにいるのかを知らない2人にとって、彼がここまでイザナを思っていたなんて思ってもいないことでした。
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