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動物たちの異変
イザナは布団の中でマッケンロウが言っていた季節を思い浮かべていました。色とりどりの花に、黄金色に輝く田畑、温かい陽気に包まれた都の情景――氷や雪とは違い、きっと華やかに色づく世界なのでしょう。考えるだけで心の中にポッと火がともったようでした。
「しばらくあの地下室には行かなくていいってさ」
ベッドで本を読みながらレキが言いました。
「君がまた倒れたら大変だ。きっと、力を使い過ぎたんだよ」レキは本を閉じました。「もう寝るよ。明かり消しておいて。おやすみ」
レキは毛布にくるまりベッドをもぞもぞさせました。イザナはぼんやりと天井をながめていました。しばらくそうしていると、窓の外から聞きなれない音色がしました。
ロンッ
弦を弾く優しい音です。レキはもう先に眠っていたので、イザナは布団から起きて窓を開けてみました。外には屋根のかかった露台があり、大人が6人くらい立ち入れるだけの広さがあります。顔を出してみると、雲の隙間から真っ白な月がのぞいていました。音がしてくる右側に目をやると、向かい側の手すりすれすれに腰掛けて座る1人の女の子がいました。透き通った絹のような外套を羽織り、木製の弦楽器を片手に持ち、もう片方の手で弦を弾いています。
女の子はイザナと同じくらいの年で、癖のない長い髪を後ろで一つに束ねていました。月光の下で演奏する彼女の姿は、いまにも天へ昇っていきそうなはかなさがありました。
目が合ったので、イザナは手すりの陰に隠れました。弦を弾く音がピタリとやみました。辺りはしんしんと雪が降るだけです。
「誰?」
この音は、いえ、声は女の子のものでした。なにかいけないことをしたわけでもないのに、イザナは隠れることで妙な安心感を覚えていました。
「私、スエンよ」女の子は言いました。「あなたの名前は?」
イザナはおそるおそる顔を上げ、ノートを持ってくると自分の名前を大きく書いて、そのページを掲げました。女の子は月の光に照らされながらほほ笑みました。
「そう、イザナというのね。さっきの音で、あなたを起こしてしまったのなら、ごめんなさい。この子を寝かしつけていたのよ」
スエンは羽織りに隠れて胸に抱いていた白い生き物を見せてくれました。全身フサフサとした白い毛で覆われ、ヨチヨチした四肢の先は丸みがあります。耳は垂れ下がり、しっぽはひょろりと長く、首には青色の布が巻かれていました。
「この音を聞いていると、寝つきがいいみたい。名前はユリオス。ノボリ草原に生息している雪ネコよ。厳密に言えば、分類は肉食目、ネコ科ネコ属。要するにネコ」
イザナは初めて見る真っ白なネコに夢中で、分類の話なんて聞いていませんでした。雪ネコというだけあって、全身雪をまとっているように真っ白なネコでした。
「外は冷えるけど、雪ネコの場合は寒い方が気持ちいいの。さぁ、ユリオス。もう部屋に戻りましょう」
スエンは部屋に戻り、すぐにまた顔を出しました。
「名前を聞いて分かったけど、あなたがあの火の器と名高い剣士? 初めて会うけど、聞いた通り本当に、燃えるような赤色の髪をしているのね。太陽みたい」
イザナは彼女の前でノートに文字を書きました。ページを切り取って紙飛行機にするとスエンのいる場所までゆっくりと飛ばしました。宙を飛んだ紙飛行機は雪をかぶりながら向かい側の露台に落ちました。
スエンは拾い上げると紙を広げました。
(君は天女?)
困ったような、うれしいような、不思議な顔をしました。イザナはもう1回字を書いて紙飛行機を飛ばしました。でも、次はうまく飛ばず下に落ちていきました。イザナは今度こそ届くようにまた紙飛行機を飛ばしました。
(月の天女という本に出てきたんだ。絹の衣を着た女の人が楽器を奏でている。月の光の下に照らされて)
「あなた、天女と会ったことがあるの?」
イザナはペンを走らせました。
(今)
スエンはちっとも笑わないイザナを見てクスリと笑いました。
「私もあなたみたいな人と会うのは初めて。でも残念、私は天女ではない。あなたと同じ剣士協会で働いている人間よ。お手紙ありがとう、また今度お会いしましょう」
スエンは部屋に戻りかけてもう一度イザナを見ました。
「おやすみ」
イザナは小さく手を振りました。部屋に戻ると、まだどこか夢を見ているような気がしました。スエンは本の世界から飛び出してきたような子でした。布団に戻っても、あの優しい声と音色がよみがえり、つらいことも悲しいことも考えている暇はありません。イザナはすっかり温かい気持ちになって、自然と深い眠りへ誘われていきました。
イザナはまたあの子と会えることを楽しみにしていましたが、その日以降、彼女にもユリオスにも会う機会はありませんでした。ある日の昼下がり、イザナは道場で休憩中のレキにこう尋ねました。
(隣の部屋に誰か住んでる?)
「さぁ。一度も見たことない」
スエンと会わないまま数週間が過ぎました。だんだんあの夜のことが夢のように思われたころ、イザナにとって思いもよらないことが起こりました。ちょうど、あの晩と同じ時間帯、イザナはレキと部屋の中ですごろくをして遊んでいました。
「さぁ、次はイザナの番だ。さいころを振って」
やや劣勢のイザナはさいころを盤上に転がしました。6の目が出たので、駒を六つ分だけ進めました。
「どれどれ? 森の中でオオカミに襲われる。避難のため7マス戻る! これじゃあ振り損だ。さぁ、俺の番だ。よぅし、これで決めるぞ」
レキが気合を入れてさいころを投げた時でした。ダン! と床に何かが落ちる音がしました。
「今の音は?」レキは耳を澄ましました。「壁の向こうから聞こえる」
2人はピタリと壁に耳を密着させました。またドン! と音がしました。イザナはすぐさま露台に出て、向かい側の様子をうかがおうとしました。けれども、ここからでは中の様子までは見えません。今度は甲高い叫び声が聞こえました。
「きゃーっ!」
イザナはノートに殴り書きしました。
(トウヤン呼んで!)
イザナは迷いなく向かい側の露台へ飛び移りました。
「すぐ呼んでくる!」
薄暗い部屋の中に足を踏み入れました。最初は人の気配を感じませんでしたが、ぼやける視界の中に、小さくうずくまるスエンを見つけました。しかし、彼女の頰は流血しており、服もボロボロでした。いったい、こんなひどいことを誰がしたのでしょう。イザナは近くにあった掃除用のほうきを手に取り、部屋の中を見渡しました。ドカン! とバケツがひっくり返る音がしました。ゆっくり、ゆっくり近づいて行くと……シャーッ! と鋭い牙を見せながら威嚇する1匹のネコがベッドの下からのぞいていました。なんと、真っ白に光る二つの目が不気味に浮かび上がっていたのです。
「ユリオスが……急に暴れたの」
スエンは言いました。今、ベッドの下で毛を逆立てているネコが、本当にスエンの言うユリオス? そう疑うより他にありませんでした。それほど、あの時彼女の腕の中で眠っていたネコとは思えないほど、獰猛に変わり果てていたのです。
シャーッと威嚇する様子から、怒りとは別に底抜けの不安を感じ取りました。奇妙な話、イザナは氷を解かした時のような感情を感じ取っていました。怒ってはいますが、悲しみと不安、恐怖が感じられたのです。
イザナは腰を下げて低い位置に手を伸ばしました。しっぽがふくらみ、ひげや耳はそれています。こんな時に優しく言葉をかけられたら、どんなにいいでしょう。でも、今のイザナには言葉を出すことはできません。その代わり、ゆっくりと瞬きをして、落ち着かせようとしました。しかし、それでもユリオスはベッドの下から出てこようとしませんでした。
ドアノブがガチャガチャ回りました。
「ここを開けてくれ、イザナ。いるのか?」
トウヤンの声が聞こえたので、イザナはドアを開けました。その音に驚いたのか、ユリオスはさらに奥へ逃げていきました。トウヤンだけではありません。どういうわけか、レキのほかにサヒロがいたのです。彼は傷だらけのスエンを見つけた途端、怒りに顔をゆがませイザナの胸倉をつかみました。
「なにをした!」
「やめろ!」
レキは叫びました。
どうして彼がいるのでしょうか? それに、なぜこんなにも怒っているのか、イザナには理解できませんでした。イザナがベッドの下を指差したので、トウヤンはすぐに怒ったユリオスを見つけて「そういうことか」と言いました。「この白いネコが暴れ回ったんだ」
サヒロはイザナをにらみつけてパッと手を離しました。
「サヒロ、イザナになにか言うことはないか?」レキは言いました。「謝れよ」
サヒロは無視し、座り込んだまま立てないスエンに寄り添いました。
「大丈夫?」
イザナとレキはギョッとしました。むしろ、鳥肌が立つくらいです。だって、今の優しい言葉はスエンに対して向けられたものでしたから。この扱いの差に驚かないはずがありません。
「医務室に連れて行く」
トウヤンはスエンを持ち上げて言いました。
「……ユリオスを」
スエンは力なく言いました。
「あんな凶暴ネコとはもう会わせないさ」
サヒロは言いました。
「待って! お願い」スエンはあがきました。「その子は悪くないの。きっと、なにか怖い思いでもしたのよ。それでおびえていたんだわ!」
「イザナ、レキ、サヒロ。この部屋のドアを全て閉めて外に出るんだ」
トウヤンの言葉に従い、イザナたちは部屋を出ました。医務室で彼女が手当てを受けている間、イザナたちは外の待合室で待っていました。やがて誰かが夜の廊下を歩いてやってきました。トウヤンよりも頭1個分高く、胸板の厚い男です。傷だらけの顔にはひげをはやし、颯爽と歩く姿からは威厳を感じさせました。腰には刀があり、剣士証が見える位置にある当たり、彼はこの協会の会員のようです。トウヤンは男を見て目を細めました。
「あんたは?」
「サヒロとスエンの父だ」
レキとイザナは同時にびっくりしました。この男は、サヒロとスエンの父親だったのです。いえ、それよりも、スエンがサヒロと兄妹だという方がよっぽど驚くべきことでした。
「見つけてくれたのはイザナたちだ」
「感謝する」男は落ち着いて言いました。「それで……娘の容体は?」
「顔に10針縫う大けがだ」
トウヤンの言葉にみんなショックで黙り込みました。
「お父さま」サヒロが言いました。「あのネコがスエンをけがさせたんです」
「しかし、普段はとても利口でおとなしい。そんな、いきなり襲い掛かるなんて信じられない。ユリオスはスエンによく懐いていた。こんなことは、一度だってなかった」
「理由も大事だが、今考えるべきは、あのネコをどうするかってことだ。あんたたちのネコだから俺たちがどうこう言うべきじゃないとは思うが、こんなことがあったばかりなんだ。しばらく人と一緒にさせないほうがいい」トウヤンは言いました。
「うむ」父親は言いました。「スエンには近づけさせないようにする。小部屋に移して様子を見てみる。助かったよ、君が駆け付けてくれたって? えぇと……」
「トウヤンだ」
「トウヤン? もしかして、剣士1位のあのトウヤンか。こんなところで会うことになるとは。私はモウトン。君より五つばかり下の剣士だ。ここ数年マフ領で近衛兵に派遣されていた。数カ月前、娘とともに協会に戻ってきたばかりだ。そんな矢先にこんなことが起こるとは。ネコはマフ領にいた頃娘に買ってあげたんだが、シバに来てからというもの、他の動物たちの様子が変だと聞いていた。だがしかし……まさかうちのネコが娘を傷つけるとは」
「待て。様子が変って?」
「ここ最近、動物が凶暴化する事件が相次いでいる。それと、今回のことが関係あるのかは分からないが、私としても聞き捨てならない話だ。なにか大きなことが起こる前触れじゃなきゃいいのだがね。トウヤン、君も気を付けた方がいい」
トウヤンは小さくため息を漏らしました。
「厄介そうだな」
「それで、なんとも奇妙な話なのだが、凶暴化した動物のほとんどが……白い目になっていたそうだ」
「病気か?」
「分からない」
イザナは真剣な顔で話を聞いていたレキの袖を引っ張りました。今はノートとペンを持っていなかったので、自分の手のひらにゆっくり文字を書きました。
「……白い、目を? して――いた」レキはすぐ読み取って口にしました。「本当なのか? イザナ。あのネコが、白い目をしていたって」
イザナはうなずきました。
「まさか。それじゃあユリオスも同じように……」
モウトンは舌を巻きました。
「ありがとう、イザナ、レキ」トウヤンは言いました。「今日のところはもう部屋に戻って寝るんだ。いいな?」
「でも」
レキが言うとトウヤンはほほ笑みました。
「大丈夫だ。あの子のそばには父親がついていてくれる」
「私が驚いたことを順に話してあげましょうか? 一つ、サヒロの父親が意外にも人格者ということ。二つ、レキの部屋の隣にスエンという女の子が住んでいたこと。三つ、しかもその女の子はサヒロの妹だってことです!」
向かいに座るサンは魚介汁を飲みながら言いました。
「それは確かに」
レキは苦笑いしました。
「俺が言いたいのは……」
イザナはノートに文字を書きました。
(動物が凶暴化するって話)
「そう! それだ!」
「知ってたらとっくに話してます」
サンはむっとしました。
「なんでそんなに怒ってるの?」
「怒ってないです」サンは言い張りました。「私が知りたいのは凶暴化した理由です」
「あの子があえて怒らせるようなことをしたとは思えないけど」
(ユリオスの目が真っ白に見えたんだ)
「そうだよ。サヒロの父親も言ってたじゃないか。凶暴化した動物の目が白くなったって」
「目が白く見えるのは、結膜炎か白内障の症状です。動物病院に連れて行くべきでしょう。うわさや一個人から聞いた話を鵜呑みにするのではなくて、それがどうして起こったのかを検証するべきです。動物起源の未知なるウイルスかもしれませんよ?」
レキとイザナは肩身を狭くしました。
「じゃあ、凶暴化するのは結膜炎と白内障のせいだって?」
レキは言い返しましたが、サンににらまれたので引っ込みました。
「なんで機嫌悪い?」
(分からない)
3人のすぐ横を誰かが通りました。見ると、頭に包帯を巻いたスエンでした。イザナはすぐ彼女の元に駆け寄りました。
「おはよう、イザナ。昨日はありがとう」
「もう歩いて大丈夫?」レキは尋ねました。
「少しくらい大丈夫」
スエンは食事を取りに列に並びました。
「本当にネコに引っ掛かれただけですか?」サンは驚きました。
「10針縫ったんだってさ」
レキの言葉にサンは言葉をなくしました。しばらく3人でいつものように話していると、スエンが来て3人の前で止まりました。
「一緒に食べていい?」
「もちろん」
サンは自分の隣を勧めました。
「ひどいけがですね」
「普段はあんなことをするようなネコじゃないの、ユリオスは」
「理由があるはずです。普段おとなしいネコなら、なおさら」
「ありがとう。あなたは……イザナのお友達?」
「知り合いだったの?」
レキはイザナを見て目を丸めました。
「ユリオスのために楽器を弾いていたら、彼とたまたま会ったのよ」
「私はサンです」
「レキ」
「あなたたち2人、風と雷の器の?」
「まぁ、そうです」
サンはぎこちなく言いました。
「すごいわ」
スエンが言うのでみんな驚きました。
「えぇと、なにが?」
レキは聞きました。
「私、ずっと会いたかったの。お父さまとマフ領にいた時から、器の話は耳に挟んでいたわ。千年破られなかった氷の壁を壊すことができる、選ばれた存在の人たちだって」
これにはサンも恥ずかしそうに笑みました。スエンが言うことは一切の屈託がありませんでしたから、決してお世辞で言っているようには見えなかったのです。
「私はスエン。3人に会えたことを感謝するわ」
うれしそうに笑ってからスエンはこめかみを押さえました。
「無茶しちゃ駄目ですよ」サンはかいがいしく言いました。
「私よりユリオスのことが心配」
「そういえば、小部屋に移して様子を見るとか言ってたけど、あの後どうなった?」
レキの質問にスエンは顔を曇らせました。
「お父さまが、シバの外れにある動物病院に連れていってくれた」
「よかった」
レキはそう言ってイザナに目をやりました。
「今朝戻ってきたお父さまがこう言ってたわ。動物病床が今いっぱいで、数日待たないと入れないって。だから今は、病院の簡易ゲージに入れてもらってるみたい。あの子がお気に入りだったお魚の抱き枕を持って行ってあげればよかったわ。しばらくお父さまは仕事でシバを離れるみたいだし、今はできないけれど」
(届けてくるよ)
「行ってくれるの?」
「その必要はない」
嫌な声がしました。イザナたちは顔を険しくしました。サヒロがポケットに手を突っ込んで、偉そうに立ってこちらを見下ろしていました。
「あんな凶暴ネコ、もう人間と一緒に暮らすのは無理だろ。今度は10針縫うだけじゃ済まないね。腕を切断するはめになるかも」
スエンは肩を小さくしました。
「シバに戻ってきたかと思えば、よりにもよって、こいつらと友達になるなんて、やめてほしいな。スエン、見損なったぞ」
イザナは席を立ちました。
「なんだ? 口なし」
サヒロはののしりました。
「失礼なことを言わないで」スエンは強く言いました。「見損なったのは私の方」
「器は人間じゃない。分かるよな? この世界を氷河期にした、水の器みたいに、こいつらも、力にのみ込まれればなにをしでかすか分からない。今度は灼熱の大地か? 年中嵐が吹きすさぶ世界? それとも、雷が鳴りやまないこの世の終わりか!」
「やめて」
妹の鋭い言葉にサヒロは黙りました。
「自分の生まれを否定されたくはないでしょう? 変えられないものだもの。それは、この人たちだって、おんなじこと。お兄ちゃん、あなたはもっと思いやりのある人だと思っていたわ」
「思いやり? 僕はいつだってスエンのことを思ってる」
サヒロはひどく真剣な目をして言うと、スエンの頰に手を添えました。それをそばで見ていたサンの顔ときたら、眉間に深いしわがより、何十歳も老けた老人のようでした。けれど、スエンは目も合わせず嫌そうに身をよじりました。
「他人への扱いが、いつか私にも返ってくる」
彼女はそう言いました。2人のやりとりを見ないようにしていたレキは、ついにこらえ切れず水を噴き出しました。
「汚っ! なに笑ってる!」
サヒロはガミガミ言いました。
「あぁ、ごめんごめん」
妹の意見は曲げられないと思ったのか、サヒロはばつが悪そうに去って行きました。
「いつだってスエンのことを思ってる」レキはサヒロの声をまねして言いました。「……だってさ! これで分かったぞ。彼はスエンにかなわないんだ」
サンはレキを小突きました。
「いたっ! なにすんだよ」
サンは無言で隣のスエンを見ました。スエンはどこかずんと重い顔になって黙々とご飯を食べていました。
「兄はいつもあんなひどいことを?」
これにはイザナもレキもペラペラと話す気にはなりませんでした。
「いつだって優しかったから、平気であんなひどいことを言っていたなんて……思わなかったわ。ごめんなさい」
(君が謝ることじゃないよ)
イザナはすかさず文字に起こして言いました。
「でも、認めたくはないけどさ、少しだけ当たってるかな」
「なにを言うんですか? レキ」サンがむっとして言いました。
「俺らって、昔から人と違うせいで苦労してきたから――それで、後ろ指さされることはある意味慣れっこ。だけど、俺らと一緒にいれば、君まで同じように後ろ指さされるんだ。だから――」
イザナはペンをピタリと止めました。
「あなたたちだって、私といたらお兄ちゃんに余計やっかまれるわよ。そういうことだから、おあいこね」
レキはキョトンとしました。
「ねぇ、よかったら今度、私の道場に来ない?」
急に話題を変えてスエンが3人に言いました。
「私、弓士なの」
「弓士? 剣士じゃなくて?」レキは尋ねました。
「剣士協会の副部門として比較的最近つくられたものよ」
「初めて聞きました」サンは食いつきました。「えぇ、ぜひ」
「それじゃあ約束ね」
スエンはにっこり笑いました。
3人には普段の稽古に加えて1週間後にスエンの道場見学という明確な目的ができました。なにより楽しみにしていたのはイザナでしたが、その前に、ユリオスの抱き枕を動物病院に持っていくと口約束をしていたので、先に済ませておく必要がありました。イザナが例の抱き枕を取りに行ったのは午後4時すぎで、稽古でみっちりしごかれた後でした。スエンがいる医務室へ入ると、もう魚の抱き枕が用意されていました。ネコのよだれやらひっかき傷のある年季の入った抱き枕は、もはや魚というよりワカサギ用の餌です。
「本当にお願いしていいの?」
ベッドの上でスエンは3人を見ました。
(任せて)
イザナは得意になって文字を書きました。
「なんていう動物病院? あと場所も」
レキが言うと、スエンはイザナのペンを借りて、名前と住所を書いてくれました。
ラバマ動物病院
シバ大通り南角町8の3の4
ノートを受け取ったイザナは2人に回して読ませました。
「ありがと。南角町だったらここから徒歩で片道40分くらいだ」
そんなに遠いの? イザナは横目で訴えました。
「私たちだけじゃ外出はできません。誰にお願いしますか?」
サンはイザナとレキを見て言いました。もちろん、誰というのが誰なのかは名前を出さなくても分かることでした。すなわち3人の指導者であるトウヤン、サメヤラニ、ルット、といった具合。
「サメヤラニは?」
「駄目です。ルットにお願いしてください」
「どうしてさ」
レキは言い返しました。
「ほら、あなただって頼みたくないじゃありませんか」
「うるさいなぁ。ルットはネコアレルギーなんだ! ネコの話をしただけでくしゃみが出るくらい。そっちはいったいどんなまともな理由があるんだ」
「駄目なものは駄目です!」
サンは意地を張って言いました。
「じゃあ、おたくのトウヤンは?」
レキの言葉が流れ弾のように飛んできました。
(聞いてみる)
まさか、サメヤラニもルットも駄目とは、信じられない気分でした。でも、きっとトウヤンなら断るはずがないだろうと、イザナは過信して答えたのです。さっそく3人はトウヤンの部屋に向かいました。どうやら不在のようです。銭湯にでも行っているのかと思いましたが、トウヤンはいつもこんな早くにお風呂には入らないことをイザナは知っていました。3人は協会内をグルグル回ってトウヤン捜しにやっきになりました。もうヘトヘトになって元の場所まで戻ってくると、なんと、ドアの前でトウヤンとサメヤラニが会話していました。稽古の合間に聞いておけばこんな取り越し苦労はしなくて済んだはずですが、この3人は意外なところで無計画なところがありますから、こうして直前になって行動に移すということもままあることなのです。
「そんなに疲れてどうした? もう稽古は終わったはずだろ?」
「あなたを、捜して、いたんですよ!」
サンはひどい顔で言いました。
「サメヤラニ! どうした? その格好!」
レキは声を大にして言いました。彼はいつもよりおしゃれな服を着ていました。髪だってきれいに整えていますし、着物はどこか高級感があり、ブーツだって品があります。いつも稽古でする格好とまったく違ったので、レキとイザナは目を丸々としました。
「これから大切な人と会う予定があってね」
「誰?」
レキは率直に尋ねました。
なぜかサンは頰をバラ色に染めてレキに耳打ちしました。「今、付き合っている人がいるんですよ。それで、今夜一緒に食事を」
「お詳しいこと」レキは目を細めました。「サメヤラニは君に大事なことを言わないんじゃなかったの?」
「聞いたらちゃんと答えてくれました」
トウヤンはニタニタ笑ってサメヤラニの肩にからみました。
「こいつ、12年もずっと同じ人にお熱なのに絶対に好きだって認めないんだ! どんだけあまのじゃくなんだっての。そういうのは俺からしてみれば、面倒くさい男だよ。なんで正直に言わないのかねぇ。だからあんたは――」
「黙れ」
サメヤラニの手がトウヤンの口を押さえ、彼は「むー」とか「もご」とかしか言えなくなりました。
「お前はどうなんだ。人のことを言える立場か? 2年以上もファラク様を……」
「あぁ! はい! ごめんなさい! 許してよ、サメヤラニィ!」
2人はわーわーがーがー騒がしく言い合っていました。置いてけぼりを食らった3人は仲良くけんかする2人を見ていましたが、やがておかしく思えてサンとレキはプッと噴き出しました。
「もう行く」
「あぁ、頑張れよ」
トウヤンはむっとするサメヤラニの背中を押しました。
「サメヤラニ!」
「なんだ」
サメヤラニはうるさそうに振り返りました。
「そんな仏頂面じゃあ嫌われちまうぞぉ! せっかくの男前が台無しだ」
「余計なお世話だ!」
プンプンしながらサメヤラニは階段を下りていきました。
「それで、俺を捜してたってどうして?」
なんの悪気もなしにトウヤンは3人に向き直りました。
「えぇと……スエンのネコに抱き枕を届けに行きたいんです。ね? イザナ」
イザナはうなずいて動物病院の名前と住所を見せました。
「ほうほう、それで?」
「トウヤン、暇だよね?」
図星だったのか急に変顔をしました。
「ルットはネコアレルギー、サメヤラニは大事な用事、トウヤンなら引き受けてくれると思って」レキは期待を込めて見つめました。
「分かった。馬車で行けばすぐ着く」
トウヤンは馬車を持ってきてくれました。彼の相棒シンは白い大きな馬ですが、こうしてイザナたちを乗せられると分かるといつもうれしそうな鳴き声を上げるのです。トウヤンは前で手綱を握り、イザナたちは荷台の上に乗って大通りを揺られていきました。
ラバマ動物病院は、大通りを真っすぐ行って右の角を曲がった所にありました。大通りと比べて人は指で数えられるほどで、住宅が並ぶ通りの角に立っていました。看板はひしゃげて右肩に下がっているし、両開きの入り口は片方に「故障中」との張り紙があります。
「場所、間違えたか?」
レキはイザナのノートを取って店の名前を確認しました。雪で半分隠れてはいますが確かにラバマ動物病院と書かれています。トウヤンは馬車を止めると病院の窓をのぞき込みました。いざ、4人はトウヤンを先頭にして病院の中に入りました。待合室は真っ暗で、診察待ちの動物も飼い主も見る影なしです。営業時間なんて気の利いた張り紙はなかったし、こんなに閑散としているとなると、既に病院は閉まっているのかもしれません。
「どうされましたか?」
受付の奥から眼鏡をかけた老人がよぼよぼ歩いてきました。腰がくの字形に曲がりくねり、歯が所々抜けているのか空気の抜けたような声でした。
「あぁ、えぇと……私たち、ここに預けられている白いネコのユリオスに会いにきたんです。その子の飼い主から、お気に入りの抱き枕を届けてほしいと頼まれたから……」
サンはまごつきながら説明し、手に持っていた袋を差し出しました。
「そうでしたか。あぁ、つい先日ある男性が預けに来ていたあの白いネコのことですね」
「そう! きっとそのネコです!」サンは言いました。
「と、なりますと、あなた方は男性の娘さんの――お友達で?」
イザナは首を縦にブンブン振りました。
「どうぞ、奥へ」
「いいんですか?」
レキは老人の目を気にしながら言いました。
「構いませんよ。時々様子を見に来る飼い主の方がいましてね、私はむげに断れないものですから、ご案内しているんです。ただ一つ……」老人は急にくぐもりました。「今は触れない方がいいでしょう、ネコにね」
「それじゃあやっぱり、まだ凶暴なままなんですか?」レキは尋ねました。
老人が押し黙ったのでイザナたちは不安をかき立てられました。
「そうなった理由は?」
トウヤンは探りを入れるような目で尋ねました。
「もしや、あなたは剣士協会の方で?」
ここでは話したくないのか、老人は話題を変えました。
「そうだ」
トウヤンは腰に下げていた正真正銘の剣士証を見せて断言しました。
「……数日前に検疫官がここを訪ねてきました。なんでも、ここ最近、シバの町だけで発生している動物凶暴化の件について調べに来たようです」
「モウトンの言う通りだ。ネコだけじゃなかったってことか」
仕事の顔になってトウヤンは言いました。
「それならどうして剣士協会はなにも行動に移さないのさ」
レキは自分が正しい質問をしたと言いたげでした。
「検疫は国の仕事だ。ましてや事件事故ともなれば警察の仕事。俺たちの出る幕じゃない。誰かに依頼を頼まれて剣士を派遣するのが協会の仕事だ」
「奥へ」
老人は真面目な顔で4人を手招きました。奥の部屋に入ると、動物特有の臭いがプンプンしました。イヌやネコだけじゃありません。どこか獣臭さのある臭いです。部屋にはいくつものゲージが並んでいて、中にイヌやネコ、キツネや小グマなど様々な動物が入れられていました。しかも、一瞬でなにがどうおかしいのか誰の目にも明らかでした。あるイヌはブルブル震えてキャンキャン吠えまくり、あるネコはゲージの隅っこに丸くなって低いうなり声を上げています。小グマに至っては、今にも人を食い殺しかねないほど怒り狂い、牙をむき出しにして、よだれをだらだら流していました。そして皆、共通して言えることが――目を白く光らせていたことです。
「なんてこった!」レキは度肝を抜かされました。
同じくサンがこの世の終わりでも見た顔をしていました。
「私は獣医ですが、原因は分からないのです。ただ、皆ばかみたいに怒り狂い、われを忘れたようにひどいありさま。まるでなにかに怯えているよう。最初は未知のウイルスかとも思いましたが、動物同士でうつる気配はなく、突然発症するといった具合なのです。それに、人間へうつるものでもありません。突然治る動物もいれば、治らないままの動物もいます。今はこういった動物の受け入れで手いっぱいの状態ですから、てんやわんやでして……分からないというのが一番面倒です。一層のこと、何かこの現象に名前でもつけたいくらい」
(結膜炎でも白内障でもない?)
イザナはレキとサンにだけ見せましたが、サンは自分の過ちを認める余裕すらありませんでした。何十もの白い目ににらまれて、それどころではないのです。動物専門の医者が原因不明というのだから、素人がなにをほざいたって説得力があるわけもない、とイザナは思いました。
「どうみてもペットだけじゃないな」
トウヤンは野生のクマやシカを見て言いました。
「山で人を襲った動物もいます。原因を調べてほしいと頼まれたんですよ。ですが、野生のクマなんて私には手に負えない」
「白いネコはどこに?」
トウヤンは目的を思い出しました。
「ここです」
老人は部屋の角にあるゲージを指さしました。ユリオスは、まったく食べた形跡のない餌のそばでぐったり横になっていました。イザナはゲージの前にしゃがみこんでユリオスに目で語り掛けました。イザナを見たユリオスは牙をむきだしにしましたが、昨晩のような勢いはどこにもありませんでした。隙間からお気に入りだという魚の抱き枕を入れてみると、ユリオスはくわえてまた奥に戻っていきました。
帰りの馬車で、イザナはずっとユリオスの白く濁った目を思い浮かべていました。病気でもウイルスでもなければ、いったいどうしてあんなひどいことが起こるというのでしょうか。
「誰か! そいつを捕まえてくれぇ!」
向かいから男の叫び声が聞こえました。強盗でしょうか? イザナたちが荷台から身を乗り出すと、暴れ馬が1頭直進してくるのが見えました。のんびり走っていたシンは驚いた鳴き声を上げて急停車し、トウヤンは手綱を振りました。一瞬の判断が功を奏しました。暴れ馬は、馬車ぎりぎりにそのまま直進していきました。その後を数人の男たちが大慌てで追い掛けていきます。
「見た……今の」
レキはばくつく胸に手を当てながら言いました。
「えぇ、あの馬も目が白かったです」
トウヤンはシンの横に立つと目の様子を確認しました。
「大丈夫か?」
シンはケロッとしてヒィンと言いました。トウヤンは安どすると再び馬車に乗り込み手綱を握りました。さっきの馬を追い掛けているのでしょう。さらに馬に乗った警察が2組通り過ぎていきました。馬車は協会へ無事に到着し、イザナたちはスエンに抱き枕を届けてきたことを報告しました。
「ありがとう」
ベッドの上でスエンは言いました。
「……あなたのネコ以外にも、目が白い動物がたくさん預けられていました」
「ここに戻る途中も、暴れ馬とすれ違った」
レキは声を小さくしました。
「今日のところはみんな部屋に戻れ」
トウヤンは言いました。
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