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大博物館へ
それからしばらくの間、シバは動物凶暴化の事件に悩まされ続けました。解決の糸口を捜そうと警察も検疫官もやっきになっていましたが、結局理由はなに一つ分からずじまいでした。しかし、少しだけいい話題もありました。病床待ちだったユリオスがようやく病床に入れたのです。あの後3回くらい様子を見に行ったのですが、凶暴なのに変わりはありませんでした。
ある朝、イザナたちは前々から約束していたスエンの道場を見に行きました。約束の弓道場は楼閣の裏側にある平屋建ての大きな建物でした。中に入るとさっそく矢が空を切る音が聞こえてきました。何人かが弓を射ており、一番奥のレーンにスエンが立っていました。彼女は90メートル先にある的めがけて3本連続で的の中央に命中させました。久々に会う彼女は包帯も外れ、すっかり元気になっていましたが、さすがに10針も縫った痕は元通りというわけにはいきませんでした。
(まだ痛むよね)
イザナはスエンの横で尋ねました。
「すっかり平気」
大けがをしたとは思えない発言に、イザナはたくましい子だと思いました。
4人は弓道場にある休憩広場の長椅子に座って肩を並べました。
「それで、警察官も検疫官もお手上げってわけさ」
レキはここ数日の新聞紙を広げながら言いました。
「スエン、あなたに一つ聞きたいことがあります」
「なに?」
「思い出したくないと思いますが、聞かせてください。ユリオスが凶暴化したあの日の夜、なにか変わった出来事はありませんでしたか? どんなささいなことでも構いません」
なんてさえた質問なのだろう、とそばにいたイザナは感心しました。スエンは記憶を旅するようにうんと考え込み、やがて途切れ途切れにこう言いました。
「そうね……あの日はいつものように本を読んで寝る前だった。スエンはベッドの上で丸くなっていたのだけれど、その時はまだいつも通りだったわ。それからだわ、突然変わったのは」
「そこに至るまで――なにも?」
サンは尋問する刑事さながらの勢いで迫ります。
「ほら、例えば……不審な動きだとか、変な鳴き声だとか……きっとなにか小さな異変があったはずです」
それは誘導尋問ではないだろうか。イザナは話を引き出そうと荒ぶるサンをながめました。しかし、彼の質問は効果的だったようです。スエンはあっと声を上げて「そういえば――」とお決まりの言葉を浮かべました。
「以前、ユリオスが窓の外をじっとながめることがあったわ。しかも、怯えているような目をしていたの。だからお気に入りの楽器を弾いて、その日は眠りにつかせたのだけれど。それと関係あるのかしら?」
「幽霊だ! きゃあ!」
レキは大げさに言いました。
「いっこしません! じゃあ、あの病院にいた白い目をした動物たちは、みーんな同じ幽霊のしわざだって言うんですか?」
サンはキャンキャンうるさいイヌみたいにほえました。
「でも、もし関係があるなら、これは病気でもウイルスでもないってことだ」
そう言ってレキは耳をふさぎました。
(みんな必要以上になにかを恐れているみたいだった。怒っているのは怖い思いをしたからだよ)
「まるでこの間の君みたい。ほら、夢に出てきた白いお面の話――あったろ? 2回目は湖に引きずり込まれた。スエンにも見せてあげなよ、君の似顔絵を」
正直彼女にあんな不気味な絵を見せる気にはなれませんでした。なぜなら、こんな気持ちの悪い絵を描いていたなんて知ったら、きっと変な人だと思われるからです。しかし、待ちわびるスエンを前にすると手が勝手にページをめくっていました。絵を見たスエンは「これが夢の中に?」と第一声を上げました。
「まさか、動物たちもこれと同じものを見たとでも言いたいわけ?」
レキは厄介な目でサンを見返しました。
「じゃあ他にどんな理由があるんだ。警察官も検疫官も、獣医もお手上げ! こっちの方がまだ納得できる。なぁイザナ、君もそう思うだろ?」
(分からない)
イザナはペンをピタリと止めてからまたペンを走らせました。
(共通点はある。怖いものを見たってこと。ユリオスがたまたまだったのかは分からないけど)
「そもそも、この白いお面の正体はなんなの?」
スエンに聞かれてイザナとレキはだんまりを決め込みました。イザナがもう一度(分からない)と書こうとした時、サンが「調べてみましょう」と提案しました。
「夢でも?」
「しらみつぶしです」
「どうやってさ」
するとサンは急にニンマリ笑いました。
数時間後、4人は意気揚々と研究所を訪れました。
「すみません。えぇと……ここにマッケンロウはいますか?」
背伸びしてサンは言いました。
事務職員の女は奥から彼を呼びやりました。
「君たちはあの時の。どうしたんだい?」
「あなたに話したいことがあって来ました。今、大丈夫ですか?」
そう言いつつ、もう足は事務所に入っていました。
「構わないよ、さぁ入って」
4人は事務所の中にある部屋に通され、それぞれ椅子に座りました。ここ最近シバで起こっている動物凶暴化の話、それからスエンのネコがいまだ凶暴化したままであること、その他いろいろ考えたことを打ち明けました。
「……ほぅ」
研究者としての血が騒いだのか、マッケンロウは顎をさすりました。
「君たちは、なかなか面白い視点で物事を捉えた。頭がカチコチの役人には想像もできない話だろうね」
「信じてもらえない」
レキはイザナに耳打ちしましたが、あいにくだだもれでした。
「信じるさ」
「えっ? 本当?」
4人は同時に驚きました。
「私を誰だと思ってる。研究者だぞ? 新しい見方からいろいろなことを研究するのが仕事だ。今話してくれたことは実に興味深い。特にイザナの夢に出てきた白いお面の話は、興味をそそられた。知り合いにお面や死面を研究している人がいてね。その人に当たってみたらどうかな?」
知り合いに死面を研究している人がいる、という方が信じられませんでした。なので、その時点で相当な変わり者だと4人は目配せして意見を共有しました。
「クロスキというのだけど、シバの大博物館で教授の助手をしている人だ。そうだよ、君たち大博物館に行ってみればいい。私の紹介ならただで入館できるから。中には古代の代物もたくさん保管されていて、貴重な文献がわんさかあるんだ。シバは3領地から集められた遺物の集積地でもあるからね。そうだ、私が連れて行ってあげよう」
「死面って?」
スエンが念のため尋ねました。
「死んだ人の顔から型を取ったものだよ」
なんだか動物が凶暴化したことから話題が離れている気がしましたが、ここは一つサンが言っていたようにしらみつぶしをしてみるべきでしょう。
「どうしてそんなことをするの?」とスエン。
「理由はいろいろあるけど、故人をしのんだり、歴史上の偉人を肖像として残したりするのが主な理由だ」
そんなわけで、イザナたちは3日後に研究室の前で落ち合う約束をしました。その日はちょうど稽古のない自由な一日だったので、調べものをするにはもってこいの日です。トウヤンたちにこのことを言うべきか迷いましたが、正直に話すことは避けました。剣士協会と関係ないことに首を突っ込むなと、くぎを刺されたばかりだからです。なので、あくまで名目はマッケンロウと社会見学に行くという理由で外出許可を取り、マッケンロウとイザナ、サン、レキ、スエンの5人で出掛けることにしました。
迎えた当日。大博物館までは馬車で片道30分ほどの開けた場所にありました。横に長い大きな建物で、全土から訪れる観光客でにぎわっています。マッケンロウの紹介ということで、イザナたちは無料で入館することができました。一般の人は入れない部屋に通されると、虫眼鏡を片手に持ち、台の上に置かれた石像に張り付く個性的な教授が目に飛び込みました。研究以外に興味のなさそうなボサボサの頭に、ひびの入った丸眼鏡。着物は年季が入り過ぎて、時空を超えて現れた古代人に見えました。
「リオ教授」
マッケンロウは気を使ったひそひそ声で話し掛けました。
「リオ教授……」
「なんじゃ!」
突然、火山が噴火したように教授が飛び上がり、グングン歩いてきました。眼鏡を頭の上に上げてマッケンロウの顔数センチまで近づくと「ほう、君かね」と言いました。
「私は今、忙しいのだよ。見学ならまだ1週間も先ではないか」
「何日も前に、ちゃんと申し上げたはずですよ、教授。剣士協会の子どもたちを連れて見学に来ると。それが今日なんです!」
リオ教授はせこせこ歩いてカレンダーをめくりました。
「なんと! もう週をまたいでいたのか」
「いいかげん日付感覚を取り戻してください。ろくなご飯も食べずにこもりきりだからそうなるんです」
マッケンロウは机の上にたまった食べかけの皿や、もう何日も洗っていない食器を見て小言を言いました。世の中にはこんな不潔な部屋があるのか、とイザナは入館して早々に社会見学の試練を与えられた気分でした。
「うむ?」
リオ教授はイザナの前で足を止めました。
「君、名前は?」
掃除を頼まれると思っていたので驚きました。
(イザナです)
「話せないのか」
イザナはひどいことを言われるのではないかと身構えました。
「うまい字だ」
と、なぜか褒められました。どうして自分だけ名前を聞かれたのだろう、と思っていると、奥のドアがパッと開いて小太りの青年が大きな箱を三つも重ねて入ってきました。
「やぁ! マッケンロウ。もう来てたのかい」
「クロスキ。どうにかしてくれ、君の教授は会う約束も忘れてるぞ」
「いつものことさ。教授は自分の世界で生きてる人だからさ!」
ドサッと荷物を下ろし、クロスキは舞い上がったほこりでせき込みました。
「クロスキ、案内なら早めに頼むぞ。助手のお前にはたんと仕事が残ってる」
「分かりましたよ」クロスキはやれやれと言いました。「ここは少しほこりが立つ。外で話そうか」
あの何癖もありそうな教授と同じ部屋にいるのは気が滅入りそうでした。なので、隣の清潔で整理整頓された部屋に通された時は安心しました。
「悪いね。教授は決して悪気があって言ってるわけじゃないんだ。ただ……その、本当にあの人は研究熱心なだけだよ」
「あぁ、分かるよ」
マッケンロウは愛のある笑みを浮かべました。
「君たちのことはマッケンロウから少し聞いてるよ。なんでも動物凶暴化事件の面白い考察をしてるってね。それで、さっそくなんだけど、例の絵を見せてもらえないかな?」
「あの白いお面のことですよ」
サンが言ったので、イザナはよれよれになったページをめくりながら、白いお面のページを見せました。
「ほう、これが」
夢の中に出てきたお面だというのに、なぜかクロスキは興味深い文献でも見るみたいに目を細めました。果たしてどんな言葉が飛び出すのかとイザナはハラハラしていました。「へたな絵だね」とか「こんなものは、どこにもありはしないよ」とか、悪い思いはどんどん膨らんでいって、次第にこんな絵を専門の人が見ていると思うと恥ずかしくなって顔から湯気が出そうでした。
「なるほど」
クロスキは長いこと視線を注いでいた絵から顔を上げました。
「どことなく似ているね」
だるんと腰を伸ばして待っていたマッケンロウは身を起こしました。
「おっ、なにか分かったか」
「あぁ。これは旧北部、かつて北領と呼ばれた地に栄えていた民族のお面に似ているよ。おまけに色は白だったんだろ?」
話が思わぬ方向に進んだので、イザナは驚いてレキたちと見つめ合いました。
「それじゃあ、このお面は実在したと言うんですか?」
サンは言いました。
「そう焦っちゃいけないよ」
クロスキの穏やかな言葉にサンは赤面しました。
「研究というのはね、ゆっくり、じっくり、時間と手間暇をかけて情報収集していくものなんだ。その経過にこそ深い意味がある。この絵1枚にだって、たくさんの情報が秘められている。実在するのかを断定するのは、それらをひも解いてからでも遅くはないはずだ。それに私は今、似ていると言っただけであって、そうだと断言したわけではないよ」
「さすがだな。お面一つですぐにその情報が出るとは」
「それが仕事だからね」クロスキはさも当たり前のように言いました。「君たちは、このお面がなんなのかを知りたいんだろう?」
「はい。あの……」レキは歯切れ悪く言いました。「あくまで、かもしれないって話なんですけど、イザナが見たお面を動物たちも見たんじゃないかって、考えているんです。ほら、動物たちは、みんな恐ろしいものを見たようにおびえていましたから」
「おぉ、ワクワクするねぇ! いいよ、その考察はなかなか興味深い! こういう定説に逆行するような推測は聞いていてつい……研究者の癖だ」
「私たちは原因が何か知りたいだけです」
スエンははっきり言いました。
「つまり――夢であれ、現実であれ、動物たちは皆同じ怖いものを見て、様子がおかしくなったというわけだね。ただ、お面の男を見たのはイザナだけなのだろう?」
イザナは正直にうなずきました。
「でも、きっとただの夢じゃないんです」レキは言いました。「湖で襲われたんです。突然氷が砕けて、イザナだけ冷たい水の中に、ひきずり込まれた。お面を着けた男が、殺すとかなんとか言ったって……俺とサンはその時一緒に彼と歩いていました」
この場で初めて聞いたマッケンロウとクロスキはそろって奇妙な顔をしました。
「どう思う」
マッケンロウは隣でうなるクロスキを見ました。
「夢であれば他者に影響しない、普通はな。だが実害があったとなれば、話は別だ。脅威的ななにかがイザナに影響を与えているということか。ふぅむ、ますます謎は深まったが……」クロスキはなにか思い当たるように言葉を止めました。「だとしたら呪いか」
サンは苦虫をかみつぶしたような顔をしました。
「冗談抜きにして、この博物館にもそういった類のものがいくつか所蔵されているんだよ。だいたいの人はそんなもの信じないだろうが、実際に奇妙なことが起こってる。脅すつもりはないけど、それに関わった人間が何人も死んだような物がね」
「みんな、私のそばから離れないでください!」
サンはいつもの数倍小さな声で言いました。
「大丈夫さ、こちらからなにかしなければ、なにも起こらない。触らぬ神にたたりなしってよく言うだろ? さて! それじゃあ、さっそく博物館を案内しよう。ついておいで」
お待ちかねの博物館見学、と言いたいところですが、あんな話を聞いた後です。一番びびりのサンはおっかなびっくりマッケンロウを大きな盾にして進み、イザナたちはやたらと周囲を気にしながら歩きました。
最初は現在開催中の古代の化石展を回りました。次に、動物のはく製や昆虫標本、それから四大領地の各遺物、縮尺模型、文化や芸術……目に飛び込んでくるもの全てが新鮮でした。イザナは針に刺されて展示される黄金色の昆虫や、今にも動きそうなはく製の動物を見るたびに、やっぱりトウヤンも誘えばよかったと思いました。きっと彼なら隣にいて、どんな怖いことも吹き飛ばすくらい笑わせてくれるに違いありません。
広い館内を一巡したところでクロスキが職員用の休憩所に案内してくれました。もうみんな歩きすぎてバテバテです。数時間のうちに何千という展示物を見て回ったので、イザナは頭が噴火してリオ教授になるんじゃないかと思いました。
「ねぇ、みんな忘れてない?」
スエンはのんびりご飯を食べる一同に言い放ちました。
「もう全部見たと思いますけど?」
サンがすました顔で言いました。
「君は忘れたいだけだ」
レキが追い打ちをかけたのでサンは喉をつかえさせました。
「まだまだこれからだよ。さぁ、ご飯を食べ終えたらすぐに行こう」
ここでクロスキが遠足を楽しみにする子どものように言いました。
「どこへ?」
(どこへ?)
「一般には公開されていない部屋。今回君が見せてくれた絵に関係するお面の部屋さ」
イザナたちはご飯を食べ終えて移動を開始しました。裏口から暗い階段を下っていき、鍵のかかった部屋へ入りました。薄明りに照らされた壁一面に、なにやら不気味なお面が所せましとかけられています。しかも、それぞれ色も形も表情も違いました。
「実はちょうど、1年前にお面と文化の企画展というのをやってね、これはその時に展示した各地のお面なんだ。どれも貴重な研究史料だよ。どうぞ? おっと、触らないようにね。劣化して壊れやすくなってる。ゆっくり見て構わないよ」
ちりぢりになってお面を見て回りました。イザナが赤色のお面を見ていると、スエンが隣にやってきました。
「昔の人たちは、どうしてお面を着けていたのかしら」
イザナは分からない、という意味で首をかしげました。
「お面を着ける理由はさまざまある」
話したくて仕方がないクロスキが登場しました。
「自分を偽るため、誰かの代わりとなるため、演者が芸をする時の演出として着けたりね。地域によってもその特徴は異なる。南は赤色が主流で、西は紫色、東は緑色や黄色が多い」
(北は?)
イザナは短い言葉で尋ねました。
「白だ」
クロスキの言葉にイザナは押し黙りました。白ということは?
(夢の中に出てきた白いお面を着けた男は、北の領地に関わる人?)
「最初に私が言った通り、かつて北領と呼ばれた地に栄えていた民族のお面に似ている」
「北の領地って……」サンは沈んだ声で言いました。「あの壁を越えた先の場所」
「ちょっと待ってて」
クロスキはそう言って腰につけた鍵の束を引っ張り、脚立に上って高い棚の一番上を開けました。中から黒い箱を取り出すと、台の上に優しく置きました。
「北の領地に関する史料はほとんど残ってないんだ。もう千年も誰もあの壁を越えられていないからね。だけど、他の領地に流れていた品もある。その一つがこれさ」
クロスキはガラス細工でも扱うようにそっとふたを開けました。固唾をのんで見守っていたイザナたちはその正体に拍子抜けしました。壁に掛けられたお面とはまったく違ったからです。色はなく、下地の石がむき出しで、人間の目と思える丸い穴が二つポカンと開いているだけでした。
「なんですか? これ」
サンは心のままに言いました。
「お面だよ」
クロスキは1人だけ目をキラキラさせていました。
「これが?」
そう言ったのはレキでした。
「当然色は剝がれているが、研究の結果、これがきれいな白い色をしていたことが分かった。あくまで発掘したままの状態だから手が加えられていないが、壁に掛かっているお面は、人の手によって復元されたものだ。君たちが見たいのはこちらではなくて」クロスキはお面をしまうと、別の棚から違う箱を取り出しました。「こちらだろ?」
今度はきれいに白く塗装されたお面が入っていました。
「これは、さっきのお面を復元した複製品だよ」
「偶然、じゃないよな? イザナ、これ……君が見たっていうお面の絵と似てるよ」
レキの言葉が頭の中をグルグル回りました。イザナ自身、自分がこのお面を見て描いたんじゃないかと思うくらい、とても似ていたので気味悪くなりました。
「どうして君はこのお面を知っているのかな?」
急にクロスキが疑惑の目を向けてきました。
(知りません)
「でも、知っていなければこんな絵は描けない」クロスキはさらに続けます。「夢は現実で見たものが影響することがほとんどだ。記憶の整理。つまり君は……どこかでこのお面を見たのかもしれない。その恐ろしい夢を見る前に」
(ありえません。だって)
イザナは懸命に説明しようとしましたが、手がこれ以上動きませんでした。
「私はうそだと思いません」サンが助け舟を出してくれました。「あんな怖いお面を一度でも現実で見れば、きっと誰だって忘れないと思います」
「そもそも、そんな千年も前にあったお面を誰が持ってるって言うんだ。例えマニアックな連中が持っていたとしても、着けて歩いていれば警察に捕まる。昔と今じゃ価値観も違うんだ。お面なんて誰も着けない」マッケンロウはもっともらしく言いました。
「もしかして……」急にサンが真剣な面持ちで言うので、みんなが注目しました。「イザナが見たっていう、男の人……センドウ――」
そのとき、ガシャン! と台の上にあったつぼが床に落ちました。
まったく嫌な話ではありますが、そういう系の話をしている時に限ってつぼが割れたわけです。誰も触ってないよな? という目くばせがしばし沈黙を生みました。
「君が言いたいことは分かった」
クロスキは肩の力を抜いて言いました。
「でも……」サンはもう顔が真っ青でした。「まだ名前を全て言ってない」
「最初の数文字でも分かる」クロスキは言いました。
「どうしてつぼが割れたの?」
スエンは誰も聞かないことを聞きました。
「あぁ、ここではしばしこういうことが起こるんだ。誰もいないのに皿が落ちて割れたり、消したはずなのに明かりがついていたり。怖がることはない」
「クロスキ、あぁ、なんていうか」マッケンロウは言葉を濁しました。「今日のところはこの辺にしておくよ」
「分かった」
しぶしぶマッケンロウは言いました。
(あのドアの向こうにはなにがあるんですか?)
イザナはこの部屋に来た当初から視界に入っていた奥のドアを指さしました。
「あぁ、あの向こうには今回の目玉がある。だけどマッケンロウの言う通り今日はこの辺にしておいた方がいい」
「なにがあるんですか?」
スエンは真っすぐな視線をクロスキに向けました。
「……棺だ」
「誰の?」
マッケンロウがずいっと迫りました。
「今言った名前だ。分かるだろう? だが、まさかその名前が出るとは私も考えていなかったよ」
(どういう意味です?)
「私は今回、君たちにある貴重な死面を見せたかった。そう――センドウキョウの死面をね」
怖いもの見たさ、というわけではありませんでした。ただ、イザナたちは真実を確かめるべく、あのドアの向こう側に入ることを決めました。クロスキがドアの鍵を開けて入ると、物が雑多と置かれた一番角の位置に巨大な石の棺がありました。
「何百年も前に展示したことがあった。だけど、奇妙なことが立て続けに起こってね。展示はそれ以降一度も行われていないよ。触れた者は皆必ず不幸になると言われている棺なんだ。そのおかげで研究者たちもこの棺を開けたがらない」
「それじゃあ、誰もこの棺を開けたことはないのか?」
マッケンロウは気難しい顔になって言いました。
「記録に残る中では誰もね。ただ、センドウキョウが葬り去られた時、この中に入れられたという記述が棺の表面に彫られている。それは間違いないよ」
みんな物静かに棺を見下ろしていました。これが本当に千年も昔の棺だというのでしょうか? それにしてはきれいな状態で、表面に書かれている文字まで鮮明に見えました。
(どうして棺がここにあるんですか?)
「それに関しての記述は一切ないんだ。センドウキョウというのは、かつて北の領地繁栄にその力を尽くした英雄的存在。そう、君たちと同じように水の石の器として、選ばれた者にしか扱えない能力を持っていた。北の領地は彼の力によって水の都として栄え、その礎を築いたんだ」
そんな彼が、どうして世界を氷に変えたというのでしょう? イザナは今の話を聞いただけでは納得できませんでした。
「なにが彼を変えてしまったの?」
スエンはイザナの心を代弁してくれました。
「分からない。器には、光と影の部分が存在すると言われているが、彼を完全なる影へ変えてしまっただけの、相当な理由があったのだろう。もちろん、だからといって、こんな未来にしていいはずがない。この超氷河期のせいで、恐ろしい数の人が死んだんだ。北領地の人口全て――」
まるで、自分に言われているようで、イザナは心苦しくなりました。もちろん、レキやサンだって同じ心中のはずです。器というのは、本当に世界を変えるほどの力を秘めているのですから。
クロスキは立派な台の上にかけられた大きな布を取り払いました。石像でしょうか? 首から頭の先まで精巧に造られた人の顔が現れました。パッと見て、年はトウヤンやサメヤラニとさほど変わらないように見えます。恐怖というものはおよそ感じられない、安らかに目を閉じる青年の美しい顔でした。
「センドウキョウの顔だ」
「これが?」
レキはあっと驚きました。
「本当に?」
サンは目を丸めました。
「でも、クロスキ。棺は誰も開けたことがないんじゃないのか」
「死面というのは死んだ直後の顔から作る。だから、この死面が作られたのは千年前だ」
「カンザ様が言ってました。センドウキョウはイザナを狙っていると」レキは言いました。「考えたくなかったけど、そうかもしれない。お面をかぶってイザナの前に現れたのは、センドウキョウだったんだ。だって……イザナの火の力を一番恐れているから」
「でも、どうしてお面をかぶって現れたの? この死面が彼の顔なんでしょう? なら、お面で顔なんて隠さないで、普通に現れたらいいのに」
スエンは強い口調で言いました。
(彼はもう、死んでいる)
イザナは書き記しました。
(だから千年も呪いとして生きている。そんな彼が、僕らの前に現れるなんて、きっと簡単なことなんだよ)
「だったらどうして本気で襲ってこない?」
レキは声を荒げました。この問いに答えられる者はいませんでした。
5人が大博物館を出たのは、それから30分後のこと。馬車の中は終始静かで誰も例の死面に関して話そうとしませんでした。協会につくと、それぞれ黙々と部屋へ戻りましたが、レキとサンはいつもの部屋に戻って今日あったことを少しだけ話しました。
(君の言う通りだよ、レキ)
「どうしたのさ?」
(センドウキョウが本気で殺そうと思えば、僕を殺すことなんて簡単さ。だって、あんな巨大な氷の壁を作るだけ大きな力を持っているんだから)
イザナは少し考えてからまたペンを走らせました。
(そうしないってことは、できない理由があるからだよ)
「さぁ、なんだろう?」
レキは言いました。
(力が弱まってるんだ。うまく説明できないけど、僕たちだってずっと力を使うのは疲れるだろう? 氷だって解けないために力を使い続ける必要がある。僕が地下にある氷を少し解かしただけで、倒れてしまったように。千年も氷の壁を解かさないでいるのは、並大抵の力じゃない。そっちの方だけで、僕を殺すだけの力が残っていないんだ)
「それって……じゃあ、やつが本気を出したら俺らなんて一瞬で殺されるってこと?」
(今のは思い付き。だけど、他に理由があるのかもしれない)
「なかなかいい思い付きだと思うよ」
レキはそう言って布団の中にもぐり込みました。
「裏を返せば、俺たちだって彼を倒せるほどの力があるってことじゃないか。同じ器なら、きっと彼の暴走を止めることもできる。特に君の火の力はね」
最後にレキは「おやすみ」と言い、イザナは灯籠の火を息で消しました。博物館であった出来事を考えながら眠ったせいか、イザナは悪夢にうなされました。レキやサン、スエン、みんなが死んで死面にされる夢です。イザナはたった一人生き残って、彼らの石で固めつけられた顔を見てわんわん泣いていました。
それから数日は奇妙なことも起こらず、平穏な時間が過ぎていきました。イザナとしてはいまだに治らないユリオスとスエンのことが大きな心配事の一つで、大博物館に行ったからといってなにか解決に向かうという保証はありませんでした。これ以上の問題事はごめんだと思った矢先のこと、さらに輪をかけてひどいことが起こりました。
「誰もうまやには近寄るな!」
道場で稽古をしていると、階段の下から誰かの叫び声が響きました。イザナたちは急いで廊下に飛び出しました。なんだか下の方がざわついています。トウヤンはサメヤラニとルットに目くばせして、そろって階段を下りて行きました。しばらく様子を見ていると、スエンが駆け上がって言いました。「大変なの!」
「なにがあった?」
レキが尋ねるとスエンはためらいがちに目を伏せました。
「馬が……」
4人は外に出て人だかりができている中に突っ込みました。人をかきわけて進むと、あのいとしい白い馬、シンが横たわっていました。シンの前には、トウヤンがうずくまっていました。
「トウヤン、この馬はもう……」
そばにいた誰かが言いましたが、トウヤンはシンの前から動きませんでした。よく見てみると、シンの目は白く濁り、瞬き一つしません。トウヤンやイザナを見て、うれしそうに振っていたしっぽも、腹も上下に動いていませんでした。イザナは持っていたノートとペンを落としてシンに駆け寄りました。胸がドキドキして、喉の奥が詰まりそうです。でも、隣にいるトウヤンを見た時に、イザナは深く絶望しました。いつも明るい笑顔を絶やさないトウヤンが、動かないシンのことをじっと見つめ、涙を流していたのです。
イザナは人だかりを抜け出しました。外へ出て、誰もいない場所までくると、雪の上に膝を着いてそばにあった大きな木の幹にもたれかかりました。この町に来なければ、動物たちの様子がおかしくなることも、シンが死ぬことも、なかったかもしれません。みんなを悲しませるために生まれてきたのだろうか、とすら思いました。
「君がシバに来てからおかしくなった」
サヒロの声です。どうしてここまで追い掛けてきたのでしょう。よりにもよって、こんなところで2人きりになるなんて。イザナは彼の顔を見るのも嫌でした。なにより、ちょうど自分が自覚していたことを言われるのは、気分がいいものではありません。
「君のせいだ。ひょうが降ったり、動物たちの気が狂ったり――スエンが10針縫うこともなかった! 僕が言ってることは当てつけか? いいや、違うね。これは事実だ。石の力を手にした君のことを殺そうと、センドウキョウが動き出したんだ。この僕がそのことを知らないとでも思ったのか? ばかげている。とっとと出て行けよ。君がこの町にいると迷惑なんだ」
イザナはゆっくり立ち上がると、目も合わせず下を向きました。サヒロは雪をすくうと丸めてイザナの顔にぶつけました。ぼろりとくだけた雪のかけらが顔を伝いました。イザナはなにも反抗する気にならず、ただうつむいたまま彼とは反対方向の森へ歩いて行きました。
「スエンが君のことを裏でなんて言ってるか知ってるか」
イザナはとぼとぼ歩きながら耳を立てました。
「化け物だ!」
その言葉にイザナは全身震えるのが分かりました。これまで抱いたことのない激しい怒りが足を止め、サヒロにつかみ掛かっていたのです。2人は取っ組み合いのけんかになりました。もみくちゃになった勢いで、丘の上から森の中へ転がり落ちていきました。息を荒くしながら2人は雪の上をはいつくばり、また取っ組み合いをしました。スエンがあんなひどいことを言うはずがない、イザナはそう心の中で思いながら目の前のサヒロに憎しみを向けました。
「いいかげん……認めたらどうだ!」
サヒロは乱暴に言いました。イザナは首を振りました。それが彼の癪に触ったのでしょう。サヒロはイザナを突き飛ばしました。悲しいやら、悔しいやらで、頭がくらくらしていると、突然森の中を強風が吹き抜けました。森中の木々が不気味にきしみだし、枝が揺れ、かぶさっていた雪が宙を舞いました。
「なんだ……」
サヒロは後ずさりしながら周囲を見渡しました。森のどこかに見えないなにかがいるような恐ろしさを、2人は感じていました。急に辺りが静かになりました。自分たちの息遣い、心臓の鼓動、それらが耳に残るほどしーんとなったのです。イザナは必死に目を凝らして森の奥を見つめ、100メートルくらい先にポツンと立つ男を見ました。
「あれ!」
サヒロは金切声を上げて指をさしました。あぁ、確かにこれは夢じゃありません。だって、現にサヒロも見ているのですから。男は、ゆっくりと近づいてきます。
「なんなんだ! あれは……なぁ、見えるだろ? おい!」
イザナはゆっくりうなずきました。低い地鳴りみたいな音が突然後ろで聞こえ、2人はバッと振り返りました。さっきまで遠くに立っていた男が、目の前に移動していたのです。
「あぁぁぁああ!」
サヒロは叫びました。ここまで至近距離になれば、顔もはっきりと分かりました。間違いありません。イザナがこれまで苦しめられてきた白いお面を着けた男だったのです。男は幽霊のように足がなく、右手に持った透明な刀を振りかざしたまま外套を巻き上げ、猛スピードで迫ってきました。イザナは赤色に輝く刀を抜き取り、腰が抜けたサヒロの前で構えました。
刀はなんの役にも立ちませんでした。男は透明な刀でイザナの体を貫き、体を通り抜けていきました。イザナはあまりの痛みに叫びました。目が開きません。誰のかも分からない記憶が頭の中に浮かび上がってきました。男の叫び声、水の中に溺れるような苦しみ……
頭の中に流れ続けていた記憶は急に消え、暗闇の中に、のっぺりとした白いお面が現れました。なにもしゃべらず、ただそこにあるのです。イザナは気が狂いそうになりました。
(お前は誰なんだ!)
音のしなくなった暗闇の世界から、お面がすっと消えてなくなりました。ほっとしたのも束の間、白いお面が顔につきそうなくらい近くにバッと現れ、イザナは息が詰まりました。目を開けると、今にも泣きそうなサヒロの情けない顔が見えました。胸を刺された痛みに立ち上がることができず、イザナは胸に手を当てました。ところが、血も出ていないし、服も破れていませんでした。
「なに言ってたんだよ」
サヒロは震えました。
「……君、さっき独り言のように言ってたじゃないか。私は……センドウキョウだって――どういうことだよ」
そんなことは一言も言っていないはずです。寝言でも言ったというのでしょうか? イザナは首を横に振りました。
「うそつくな!」
イザナは胸の痛みでそれどころではありませんでした。しばらく雪の上でうずくまっていると、レキ、サン、スエンが森の中へ踏み入ってきました。
「イザナ!」
レキは一番に急斜面を滑り下りると動けないイザナに駆け寄りました。
「彼になにをしたの?」
サヒロの妹スエンは詰め寄りました。
「僕はなにもしてない!」
「そんなのうそっぱちだ」
レキはジロジロ見て言いました。
サヒロは舌打ちすると、協会の方へひた走って行きました。
「なんだあいつ。なにも言い返してこないなんて……」
「戻りましょう」
サンは周囲を警戒しながら言いました。
イザナが3人に付き添われて協会に着く頃には、うまやの人ごみはまばらになっていました。トウヤンの姿は見当たりませんでしたが、とりあえず医務室で手当てをしてもらうことにしました。再びノートとペンを取り、あの時のことを証言する立場になったわけですが、どんなに言葉で書いても、あの時の恐怖をそのまま伝えることはできませんでした。
「またあのお面を見たの?」
「しかも、今度はお兄ちゃんまで?」
スエンはサンに続いて言いました。
(その時、僕は変なことを口走ったらしいんだ)
「変なこと?」
ベッドのそばで椅子に座っていたレキが首を伸ばしました。
(私はセンドウキョウだって)
3人はギョッとしました。
「やっぱり俺たちは間違ってなかったんだ。それってつまり、君の中にのり移ったってことだろ? その……センドウキョウが?」
今度はつぼかなにか割れなかったのでサンはほっとしました。
「サヒロはそんなこと、うんともすんとも言いませんでした」
「言わないわよ」
スエンはため息を漏らしました。
「サヒロがうそをついている可能性は?」
レキは言いました。
「わざわざそんなうそ言いますか?」とサン。
「でも、どうして2人森の中にいたんだ?」
レキの質問には、うまく答えられそうにありませんでした。ましてや彼が言っていたことをスエンに尋ねるのは死んでも嫌でした。
「そんなことよりも、トウヤンがひどく落ち込んでいます」
サンは言いました。
「そりゃそうだ。だってあの馬、トウヤンが子どもの頃から乗ってきたんだから。家族みたいなものさ。でも……どうしてトウヤンの馬だけ」レキは言葉を詰まらせました。「白い目になっても、死にはしないだろ? そう思ってた」
その晩、イザナはみんなが病室から抜けた後でトウヤンの部屋まで来ました。しかし、いざドアをノックしようとすると、手が動きませんでした。ドアの向こう側から、すすり泣く声が聞こえました。イザナはトウヤンとシンのことを思い、ついにドアをたたくことはできませんでした。ドアの前でへたり込んでいると、ふと込み上げるものがあって、目の奥が熱くなりました。初めて見た美しい外の世界を、ともに駆けてくれた白い馬。あの時の光景が頭をよぎりました。そこにはトウヤンもいました。
ドアが開きました。
彼と目が合いました。手が震え、頰を伝った涙がポタポタ落ちました。
(僕がこの町に来なければ)
そう書いたノートをイザナは隠しました。
トウヤンは、腰を低くしてイザナを抱き締めました。イザナはノートもペンも床に落としたまま、トウヤンの大きな背中に手を回しました。あんなに心強い大きな背中が、こんなに震えています。
「……死んじゃった」
トウヤンはかすれた声で言いました。
「死んじゃったんだ」
イザナはこくりとうなずきました。
「大事な仲間だった。シンは……俺の家族だった。もう、どこにもいない」
時折鼻をすすりながら、トウヤンはいつもより高い声で言いました。
「一緒に――走ったな、イザナ。雪原を、山の中を。どうか、忘れないでほしい、シンのことを。生きているものは必ず死ぬ。なんだってそうだ。始まりがあれば、終わりがある。だから生き物は死ぬ。でもな……こんな死に方はあんまりだ」
トウヤンは悔しそうに歯をくいしばりました。
稽古ずくしだった協会での生活に、一つの区切りが訪れました。イザナたちはそろって1カ月の長期休暇を言い渡されたのです。もともと剣士というのはカレンダー通りの休みがもらえませんから、こういったまとまった休みは貴重です。
そこで、イザナたちは大博物館通いと商店街巡りを考えつきました。もう怪奇現象はこりごりなのかと思いきや、サンは調べものがあるとかで、クロスキを頼るようです。イザナもセンドウキョウにかかわる資料を見せてもらう約束を、彼から取りつけました。一方で、動物病院に預けたままのユリオスは、目が白いまま。スエンは有効な手段を考え出すために、イザナたちと一緒になって大博物館へ繰り出しました。あそこは図書館も併設しているので、調べものにはもってこいの穴場です。クロスキのおかげで非公開の資料も見せてもらえるし、ご飯だって好きなものをごちそうしてくれます。リオ教授と奇妙な現象をのぞけば、4人にとって、これほど過ごしやすい場所はありませんでした。
大博物館で夕方まで過ごし、帰りに商店街で買い物をしてから協会へ帰る。その繰り返しが、ここ最近4人の日課となっていました。
あの晩以降、トウヤンとの会話はめっきり減っていました。彼はたびたび氷の壁を見に出掛けているようですが、帰ってくる顔を見るたびに、どこか深刻そうに見えました。シンを失ってから、トウヤンの笑顔は目に見えて減った気がして、イザナは心の中にポッカリと大きな穴が開いた気分でした。もっとも、分厚い古代書を読みふけるうちに、そんな心労も吹っ飛ぶことはままありましたが……
「ちょっと! あんまり押さないでください! 呪いますよ!」
サンは後ろの3人に怒り心頭でした。何しろ、懲りずにクロスキの研究所へ入っては、例の棺を舐めるように見ていたのですから。先頭切って虫眼鏡を手にする彼の姿はどこかの名探偵さながらです。
「またつぼが割れたりして」
さすがに今のはタチの悪い冗談だとイザナはレキを小突きました。ほら、せっかくやる気になってくれたサンは、生涯恨んでやるとばかりにこちらを見ています。
「いい? 絶対に触っちゃ駄目ですからね。触らぬ神にたたりなし!」
「もう、俺たちとっくに触ってるもんね。千年後、自分の墓を虫眼鏡を持った子どもがジロジロ観察してたらどうだ? いやーな気分だろ? つまり、俺たちがしてることってそういうこと。でも、これも研究のためだと思えば、正当な理由になる。なんだってそうだ。これは肝試しじゃない!」
自分を卑下したり、はたまた正当化したりとレキの舌はまぁよく回るものです。イザナが自由に話せるとしたら、彼ほど弁解上手になれるとは思いませんでした。
「君たち、朝から晩までこんな暗ーい研究室にこもったりして、ろくな大人にならんよ」
ガラクタの山でせっせと食卓用テーブルを作りながら、クロスキが横槍を飛ばしてきました。
「あなたに言われたくありません」
サンは毒を吐くとまた虫眼鏡で棺の観察に移りました。
「今のは悲しいぞ。まぁ、言い得て妙。私の生き方はあまりお勧めしない」
レキは笑い過ぎて腹が痛いのかイザナに倒れかかりました。
「なぁ、こんなに棺に張り付いてさ、いったい何になるってんだ。せっかくの休みだ! 1カ月もあれば領地内を一周できる。このままじゃあ俺たちも缶詰だ。あぁ! せっかくなら……」
「酔っ払いみたいですね」
「酔っ払い? 知ってるか? 俺たち未成年だからお酒は飲めないんだぞ?」
「黙ってください」
なんて機嫌が悪いのでしょう。今のサンは皮肉もお生憎様といった感じで特にレキには容赦しません。
(まぁまぁ)
なんてイザナが看板みたいに出したところで、彼の目に留まる気配はありませんでした。相変わらずレキは酔っ払いのようにグダグダしゃべっていますし、隣にいるイザナとスエンはその取り扱いに苦難していました。そもそも、こんな暗い部屋の中でじっと同じことをしていろと言う方が、彼にとっては無理な話なのです。イザナは彼がじっとしていられないしゃべりたがり屋であることを知っていましたから。
なぜこうも棺に目がないかと言えば、理由は単純です。センドウキョウがどういう人物かを知ることが、敵を知る一番の近道だと考えたからです。本人の棺の表面には、絵やら文字がぎっしり描かれていたので、その意味を調べれば、答えが見つかるかもしれません。その言い出しっぺはレキでしたが、今では取って変わってサンが熱を上げている状態です。
「さぁ、研究者の皆さん。そろそろ午後のお茶ですよ」
クロスキが特製のガラクタテーブルに、お菓子を並べて待っていました。傾いたテーブルを囲って、イザナたちは討論会を始めました。
「私が一番気になったことは、棺を囲うようにしてあった絵の意味です。町が壊れたような災難を表していると思います」
「俺は中に何が入ってるのか気になる。骨以外に」
「それこそ祟られますよ!」
サンが言いました。
「私は棺のふたに描かれている1本の柱が気になった。どういう意味なのかしら」
(僕は……)
クロスキがドサッと分厚い虫食い本を真ん中に置きました。
「それは?」
サンは用心深い目を向けました。
「答え合わせだ。この中に、棺の研究結果が詰まってる」
「先に、言って、くださいよ!」
サンはクロスキを非難しました。
「時間の無駄だってこと?」スエンは言いました。
「無駄ではない。実物を観察することは、五感を刺激するからね」クロスキはパラパラとめくりました。「全部、現代語訳してある。絵の意味もね」
「見せて見せて!」
レキは手を上げました。
(絵の意味は?)
「棺を囲う絵の意味は……町の崩壊を意味する。ふたの中央にある1本柱はセンドウキョウが処刑されたことを表す。なになに? この棺は1147年にマフ領ドリヨンで見つかった棺であり、明確な経緯は分かっていない。ただ、二度とよみがえらないように、厳重な鍵をかけて地下深くへ埋めたとしている。1325年、研究のためにシバ大博物館へ移動。柩の開け方は不明で、これまで柩を開けようと試みた者が謎の死を遂げている……」
(センドウキョウが処刑? どうして?)
それは、みんなが気になっていることでした。
「待って。次の項に載ってるわ」スエンが言いました。「センドウキョウ。出生日不明。没年347年。本名はオキドとされ、北東部の農村アジェの農家に拾われ、水の能力で当時雨不足で大飢饉となっていた北領地に雨を降らせ、人々を救ったという記録が残されている。彼自身はとても策略家であり、他者を率いる能力に富んでいた。北領地発展の親とも称された彼は、北領地の文化を好んでいた。能力の器、火、雷、風、水。水の器として生まれたオキドはその後、領主に雇われ北領地の発展に寄与。しかし、彼は大津波を起こし、北領地を水に沈め、氷にのみ込んだとされる。器の暴走が起こり、その後、大きな罪を背負ったオキドは、水死刑に処され、遺体が柩に納められたとされる。しかし、他領地では氷の壁ができる前に処刑されたという記述もあることから、一説では、暴走する前に遺体を他領地へうつすことは困難とされ、未だ真相は分かっていない」
レキは読んでから顔を上げました。「えぇと、つまり? センドウキョウは北領地を丸々滅したせいで、処刑されたってことだよな? なんだ、自業自得じゃないか」
「面白い記述があるわ」スエンは言いました。「センドウキョウは容姿端麗な青年として知られており、その当時、人々はあまりの美しさに目を見たものは、男女問わず虜になると噂されていた。しかし、オキドは自分の容姿を極度に嫌っており、自分の顔を描いた肖像画などは全て壊させた。そのため、残っている資料はほとんどなく、柩の側にあった死面が唯一、彼の顔を表すものだとされている」
「ふん、容姿に恵まれたのに、自分の顔が嫌いだなんて贅沢な悩みじゃないか」
レキは言いました。
(分かった。だから、このお面を着けていたんだよ!)
イザナは自分が描いたお面の絵を見せて書きました。
(北領地の文化を好んでいたということは、北領地発祥の白いお面をつけていた理由も分かる。これは彼の誇りだったんだ。自分の顔を極度に嫌っていたからお面を着けていた)
「でも、その誇りを彼は自分で壊したんですよ。故郷を、敬意を払っていたはずの大切な領地を。矛盾していませんか?」
(全てはここに答えがあるんだ)
「なかなかに鋭い考察だ」クロスキはうなりました。「君の夢と柩の研究書論文と題して学会で発表してみないかい?」
(ありがたいんですけど、結構です)
イザナは新しいページをめくってペンを動かしました。
「どうしてこんな力が強いの?」スエンは恐れた様子で言いました。「もう死んでいるというのに」
急にみんな黙りました。生きていれば、いずれみんな死にます。けれど、現実に起こっていることは、その理屈がまったく通用しないことばかりなのです。
「イザナが見たお面の男がセンドウキョウだとすれば、これでお面を着けている理由が分かったわ」
「……本当は、あなたのユリオスを早く助けたいんですけど」
サンは肩を落としました。
「元気出せよ」
しょんぼりする一同にレキは声を掛けました。
「俺たちは十分よくやってる。立ち向かってるじゃないか」
その言葉にサンとスエンがほほ笑みました。
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