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孤立
長期休暇もあと3日で終わるころ、イザナは協会の地下室に通い始めました。自分にできることが氷を解かすことなら、今度はもっと大きな氷を解かせるようになりたいと思ったからでした。マッケンロウの付き添いで、イザナは氷を相手に挑み続けました。気絶する心配もあってか、レキたちには無理をするなと言われましたが、3回目にお面の男に襲われた時から、心にポッと闘志の火がともったようでした。
イザナは刀を氷に押し付けました。赤い光が氷の中に伝わっていく感覚を思い出しながら、前回よりも少し大きめの氷に挑戦してみたのです。またあの耳障りな音。我慢我慢。氷は湯気を立てて解けていきました。体中の血管が拡張する感覚です。けれども、今度は1個解かしたくらいではへこたれませんでした。
「君は天才だ」
とにかく詩的なマッケンロウは褒め上手でした。うまくいかない時はけなさず、励まし、うまくいった時にはばかみたいに褒めてくれるのです。わざとらしいとさえ思える言動も、褒められる方としては気分がいいものでした。
地下室には計102個の大小さまざまな氷塊があるのですが、2カ月の間にイザナは計67個の氷を解かしました。これは驚くべき進歩で、その頃になると、目に見えて力の変化を感じることができました。サンとレキができるように、火を出すことができるようになったのです。ライターほどの小さな光でしたが、その威力は普通の火と変わりません。ろうそくに火をともしたり、紙を燃やしたりすることができました。もちろん、大火事にもなる力なので、特別な理由がない限り力の使用は禁止されていました。
ついに氷を一つ残さず解かし切った時、イザナはうれしさのあまり部屋の中を走り回りました。
(やった! ついに僕は全て解かしたんだ!)
マッケンロウが協会長へ報告へ行っている間、イザナは1人部屋の中央に寝転がりました。ぼんやりと天井を眺めている時、初めてここにきて救われた思いがしました。氷河期の終わりを夢見る人たちのために、自分のこの力が無駄ではなかったのだと証明できたような気がしたからです。
走ってやってきたトウヤンはイザナを見つけると、そのままの勢いで抱き上げクルクル回りました。
「すごいじゃないか! あんたってやつは! よく頑張ったな!」
トウヤンの褒め言葉は良薬のように染み込んでいきました。ふと入り口を見ると、ニコニコしながらサンたちがのぞいていました。
「カンザ様! カンザ様! ついにあの子がやったのです。イザナが!」
部屋の中に響き渡るマッケンロウの声と一緒に、協会長のカンザが現れました。空っぽになった部屋を見回すと、いつも冷静な顔に笑みを浮かべました。
「よくやりました、イザナ」
サンたちも中へ入ってきてワッとイザナを囲いました。
その日は興奮してよく眠れませんでした。あんなにたくさんの氷を解かすことができたのです。もはや、かつて暗い地下室で暖炉として働くだけの日々を塗り替え、たくさんの人の役に立てていることが、心底うれしくて、うれしくて、たまらなかったのです。サン、レキ、スエンは夜中お菓子パーティーを開いてイザナを祝福してくれました。
「みんな、今日は私からいいお知らせがあるの」
話が盛り上がったところでスエンが言いました。
「みんな! 注目!」
レキは拍手してもり立てました。
「ユリオスが元に戻ったの!」
イザナたちは一瞬現実のことか分からずポカンとしていました。
「自然と戻ったの」
スエンは目を潤ませ、そんな彼女をサンは抱きしめました。
「……よかった。本当に。長かったですね」
「お父さまが心配して、一緒に暮らすのはあと1カ月後になると言っていたわ。あぁ、みんなに心配をかけたわ。でも、もう大丈夫よ」
ユリオスが元に戻り、地下室の氷を全て解かし、これで一件落着というわけにはいきませんでした。これらはあくまで本来の目的を達成するまでの過程でしかありません。しかし、クロスキが言っていた通り、その過程が大事なのです。その言葉を借りるのならば、今直面している問題にも言い換えることができるでしょう。つまり、地下の氷は氷の壁を解かすための鍵であり、ユリオスの復活は動物凶暴化の救いとなるかもしれないということです。まぁ、動物に関して言えば、鍵となればいいのですが……なかなか原因究明とまではいきません。
この日、イザナは氷の壁にやってきていました。カンザの意向で実際に氷の壁を相手にしてみることにしたのです。いつもの稽古仲間に加え、この日は顔もよく分からない協会員たちがぞろぞろイザナの様子を見にきていました。
「いつも通りだ」
レキがニコッと笑いました。
いざ巨大な氷の壁を前にすると、体がすくみました。地下では巨大だと思えた氷塊も、ここでは豆粒ほどの大きさですし、何よりこんな巨大な壁を解かすなんて、想像もできません。イザナは刀を抜いて切先を氷の壁に押し当てました。赤色の光が氷の中に染み込み、徐々に広がっていくのが見えました。
「その調子だ」
そばでトウヤンが言いました。
今のところ、なんの問題もありません。彼の言う通り、いい調子で光が伸びていますし、周りのみんなは息をひそめて見守っていました。でも、イザナは違和感を感じていました。あの耳障りな音がまったくしないのです。それどころか、いつもなら、どこかしら氷が解け始めるというのに、解ける気配が感じられないのです。
「なんの音?」
スエンがポツリと言いました。
氷の壁全体がミシミシ音を立て始めたのです。森中の木々がきしむ音に似ています。あまりに壁が横つながりなので、音は次第に共鳴して町全体をのみ込みました。ミシミシ……ミシミシ……
「一度引いてください」
カンザの合図でイザナは刀を引き抜きました。広がっていた赤色の光は小さくなっていき、完全に消えました。それでもきしむ音は鳴り止まず、あっけに取られる一同を恐怖の渦にのみ込んだのです。
「不気味ですね。まるで生きているみたいです」
サンは言いました。
トウヤンはイザナを守ようにそばにピタリとついていました。
「皆さん、壁から離れてください」
冷静な声色でカンザは言いました。
「異物だ」研究チーム側に立っていたマッケンロウはしげしげと言いました。「この壁は彼の力を異物として感知し、反応しているんだ。だが変だ。地下室で解かした時は、耳鳴りのような音が鳴ったのに対し、壁の場合はきしむような音」
この日は大博物館のクロスキも来ていました。「人間の場合、異物が体内に入った時、排除しようという働きが生じる。免疫細胞や、生理的現象、そういった行動で」
クロスキとマッケンロウは嫌な予感を感じ取って見つめ合いました。
「こりゃあまずいぞ」クロスキは言いました。「反動はあんな小さい氷塊の比ではない」
「カンザ様、今すぐ橋の向こうへ戻るべきです」
マッケンロウがカンザにそう忠告した時、ピタリと音が鳴りやみました。
「退却しま――」
カンザが言いかけた瞬間、大地が揺れました。経験したことのない横揺れに、壁の前にいた人々は立っていられなくなりました。
「戻れ! 戻れ!」
誰かが叫びました。1人が橋の方向へ走り出すと、残りの人たちが後になだれました。
「待て!」サメヤラニは橋を渡ろうとしていた人たちに怒鳴りました。「揺れが収まってからだ!」
パニックとなった集団には届いていませんでした。木製の橋はミシミシと揺れだし、渡りかかった人たちはあまりの揺れで立ち往生になりました。
「橋が壊れるぞ!」
トウヤンは揺れの中走っていき、橋に突入していった人たちを引き戻しにかかりました。
「サメヤラニ!」
ルットは声を掛けて彼と一緒にトウヤンの手助けに入りました。体の小さなイザナはサンたちと身を寄せ合い、大人たちを見ていました。しかし、橋の中腹にはまだ数名の人が取り残されており、トウヤンが手を伸ばしたところで橋の中央に亀裂が入りました。
「みんな橋から離れろ!」
サメヤラニは壁側で待機する人たちに叫びました。トウヤンたちは、まだ傾く橋の上に取り残されていました。ついに橋は真っ二つに裂け、ぐらりと大きく傾きました。横滑りに橋を滑り落ちていく2人の大人をトウヤンは必死でつかみました。手すりを右脇に挟み、左手に2人を宙づりにつかんで離しませんでした。ギリギリのところで3人を救出したサメヤラニは、ルットを突き出して岸に上がらせました。
「サメヤラニ!」
ルットは絶叫しました。
「ひもを作れ!」
サメヤラニは橋の手すりにぶら下がりながら叫びました。みんな一斉に自分たちの着物を脱ぎ捨てると、それを一つ一つつなぎ合わせて長いひもを作りました。イザナたちも自分たちの服を一つに束ね、ひもにつなぎました。
「今投げる!」
ルットは一番体格のいい大柄な男にひもを持たせると、ひもを崖側に下ろして残る人々にひもを持つよう指示しました。
「もっと伸ばしてくれ!」
サメヤラニはひもを受け取ると、トウヤンが右手につかんでいる所まで下り、1人ずつ引き上げていくことにしました。眼下には、底なしの真っ暗闇が口を広げています。トウヤンの手は限界でしたが、彼は鬼の形相で滑りつつある手を離そうとしませんでした。
「あともう1人! トウヤン、頑張れ」
サメヤラニはトウヤンの左手にぶら下がった男にひもを下ろし、救出することに成功しました。
「トウヤン!」
サメヤラニは自分の左肩にひもをぐるぐる巻き付けて、トウヤンのそばに下りました。ここで握力の弱った彼にひもを握らせれば、何かの弾みで落ちていく可能性があります。サメヤラニは自分の右手でしっかりトウヤンを抱きしめました。
「引き上げて!」
ルットの掛け声で、陸側のチームは力いっぱいひもを引きました。
「いち、にー、いち、にー」
イザナたちは掛け声に合わせてひもをたぐり寄せました。サメヤラニの頭が見えました。
「見えたぞ!」
誰かが叫びました。
「そら! もうひと踏ん張り!」
マッケンロウが一声掛けました。ついに2人は引き上げられ、冷たい雪の上に倒れ込みました。橋は、完全に崩壊していました。こんな状況にもかかわらず、誰も谷底に落ちることなく無事だったのは、トウヤンやルット、サメヤラニの判断が的確で早かったからに他なりません。
ルットとともにイザナたちは彼らのそばに駆け寄りました。
「お前はいつもそうやって無茶を」
サメヤラニはため息を漏らしました。
「無茶はどっちだ」
その言葉に、ようやくサメヤラニは笑顔を取り戻しました。トウヤンたちに助けられた人は皆自分たちの軽率な行動に肩を落とし、命がけで助けてくれた彼らに感謝を述べました。ようやくひと段落したわけですが、唯一向こう岸に渡れる手段の橋を失った今、安全に戻る手段はありませんでした。
「皆さん、1カ所にまとまって。これからどうするべきか話しましょう」
ウイは動揺する人々に落ち着いた声で語り掛けました。
「見て! 向こうに人が!」
誰かが叫びました。さっきの揺れと音で様子を見にきたのでしょう。向こう岸に手を振る剣士たちの姿が見えました。みんな、おのおの無事であることを知らせるために、手を振り返しました。
「日が暮れれば気温はさらに低くなります。西と東に第2の橋、第3の橋がありますが、徒歩で移動しても1日はかかる距離です。馬もいません。寒さをしのぎ、向こう側との連絡手段を取る手だてを考えましょう。こちらには道具もありませんから、救助を待つしかありません」
カンザはガクガク震える人たちを見て言いました。
「ここから向こう岸まで、100メートルあります。縄を通すにしても、暗くなれば視界不良で危険です。もし向こう側の計画が決まったら、夜明けとともに行動を開始した方がいいのでは?」
ルットは言葉を選んで言いました。
(いい考えがあります)
突然ノートを前にして現れたイザナに、大人たちはざわめきました。こんな子どもになにができる、と言いたげな表情です。
(矢文でこちら側の状況を伝えればいいんです)
「しかし、弓矢など誰も――」
ウイが周囲を見渡すと、スエンがおずおず前に出て弓を掲げました。
「私は剣士協会の弓師、スエンです。彼の言う通りにしましょう」
「しかし、それは子ども用の弓矢です」ウイは言いました。
「いつも稽古している射的までの距離は90メートル。私の弓は最大200メートル先まで飛びます。任せてください」
スエンは力を込めて言いました。
「その子の言う通りです」
カンザの一言で採用され、さっそく大人たちは向こうに飛ばす文章を練り上げ始めました。ペンも紙も幸いイザナが常備していたので、それで事足ります。その間、スエンは弓を飛ばすイメージを入念にしていました。
「あなたが言うまで、誰も思いつきやしませんでした」
サンは寒さでがくがく震えながら褒めたたえました。
「大人たちより、よっぽど機転が利くじゃないか。イザナがここにいてくれて本当によかった」レキも言いました。
日は来た時より西側に大きく傾いていました。話し合いを進める大人たちは、皆かじかむ寒さに震えています。誰もがこんな所で孤立するとは思っていなかったので、大した道具も持ち合わせていませんでした。しかし、イザナは彼らが持ってきた物の中に、一つの雪かき用スコップを発見しました。それを借りてきて、雪かきを始めました。
「なにしてるのさ」
レキは不思議そうに尋ねました。
(なにもないけど、雪ならある)
紙とペンは貸し出し中のため、雪に文字を書きました。
「雪だるまでも作るつもり?」
(かまくら)
「かまくら? ……かまくら! あぁ、なるほど! 雪風をしのぐ場所を作ろうってことか」
レキの言葉を聞きつけた暇な大人たちがやってきました。
「それなら、私たちに任せろ」
屈強な男たち(剣士もいれば研究職の人もいます)を引き連れたクロスキが、腕を組んで言いました。会議に夢中のトウヤンたちを除いても、手の空いた大人は12人います。イザナ、サン、レキ、スエンを入れて16人。これくらいの人数がいれば、一基と言わずに何基も作れるでしょう。
「作ったことあるの?」
「当たり前だろ? 雪国の男たる者、かまくらの一つ朝飯前よ。なぁ?」
マッケンロウが後ろの男たちに問い掛けると、「おぉ!」と声が返ってきました。
「よっし! イザナ、こんなに手伝ってくれるってさ!」レキは大喜びで言ってから「でも、スコップは一つしかない」と弱気になりました。
「橋の残骸を使うさ」
ここは、マッケンロウとクロスキの研究職コンビが本領を発揮しました。まずはマッケンロウが簡単な設計図を雪の上に描いて、役割分担を決めました。「雪の踏み固め役」には力自慢の2人。「雪かき役」は4人。「雪運び役」は4人。踏み固め役の補助やその他役割の援助に向かう「お助け役」6人。大人と比べて力のないイザナたちは、お助け役でした。
「日が暮れる前に3基は作るぞ! みんな、頑張ってくれ」
マッケンロウは元気に呼び掛けました。役割ごとに作業が始まるころ、会議チームが連絡用の文を完成させました。
「スエン、お願いします」
カンザから文の付いた矢を受け取ったスエンは、緊張しながらうなずきました。彼女は崖の前に立つと、100メートル以上先にある木の壁を見つめました。目の前に広がる漆黒の闇に負けそうになったのか、スエンは唇をかみしめました。
「大丈夫」
サンが彼女のそばで優しく言いました。
「道場の的と一緒ですよ」
「そうね」
スエンは一呼吸すると足踏みし、弓をかけて弦をゆっくりと強く引きました。彼女の手が弓から離れた時、矢は光のごとく宙を切り裂いていました。早すぎて、みんな矢がどこにいったのか確認するのに手間取りました。
「当たった!」レキが叫びました。「壁に刺さってる!」
かまくらを作っていた人も、見守っていた人も、その言葉でワッと飛び上がりました。
「ほら、向こうの剣士が気付いて確認してるよ」
レキの言う通り、向こう側の剣士が矢文を壁から取り、手紙を確認している様子が見受けられました。剣士は手を振って合図をしてくれました。
「すごいよ! スエン、君のおかげで手紙が届いた!」
「この距離を的確に打てるなんて、すごいです!」
レキとサンは口々に言いました。イザナもうれしかったのですが、なにより彼女の腕には心底驚きました。希望が一つ見えた瞬間でした。30分としないうちに、向こうから矢文で返事が来ました。こう書かれていました。
状況は分かりました。今、救助隊と警察の方が話し合っているところです。計画が決まり次第、こちらから情報を送りますが、まずは日が暮れる前に輸送用のロープを張りましょう。こちらから一度、縄をつけた矢を放ちます。なわ伝いにくいを送りますので、くいを安定した所に打ち付けてください。こちらにもくいを打ち、なわを張って物資を相互に送れるようにしましょう。
追伸 矢文とは名案ですね。
しばらくすると、書面通り、縄のついた矢が氷の壁に当たり落ちました。縄伝いにきたくいを地面に打ち付け、向こう側の打ったくいとつなげました。じっと様子をうかがっていると、向こう岸から大きなかごが回ってきました。2点のくいを支点に1本のなわを継ぎ目なく張っているので、同じ方向に引けばつるした物を動かせるといった具合です。最初のかごには人数分の食料が詰まっていました。
「食料が届いた! 水もある」
トウヤンの一言でみんな安心しました。
そんなふうにしてロープ間のやりとりが進み、外套、手袋、スコップ、燃料油、布、工具、鍋、鉄板……といった必要なものが続々と届けられました。
かまくら作りにはほとんど全員が参加し、一気に作業速度が上がりました。こうして直径4・5メートル、高さ3メートル、厚さ60センチほどの巨大なかまくらが三基完成しました。中にはちゃんと座る場所も、物を置ける場所もあり、1基につき大人8人は余裕で入ることができました。職人が作ったような出来栄えに、みんなが拍手をしました。
いよいよ日が暮れる前、イザナは各かまくらに用意していた木片を台に並べ、火を付けて回りました。みんなイザナが簡単に火を付けるのを見て、感激したようでした。イザナは最後にトウヤン、サメヤラニ、ルット、レキ、サン、スエンが待つかまくらに戻り、火をともしました。
「不思議ですね。雪の中にいるのにポカポカする」
サンはチカチカ燃える火を見つめながら言いました。
「雪の中は密閉性が高いから、暖かい空気が上に昇っては下に降りるという循環が起こっているんだ。だから暖かい」
レキはさらりと言いました。
「やぁ、みんな元気かい」
火の前でまどろんでいるところに、マッケンロウが大荷物を抱えてやってきました。
「さっき向こうが送ってくれた物だ。毛布も道具も食べ物もある。ここに置いておく」
「文はきたか?」
トウヤンは尋ねました。
「そのことだが、トウヤン。向こうの作戦決行は明け方になるそうだ。さっき連絡がきた」
「どうするつもりだ」
「臨時の巨大な橋をかけるらしい。今制作中だそうだ」
「橋を?」
「そうだ。簡単に説明しよう」
マッケンロウはカップを台の上に置き、箸を1本持って言いました。「箸をはしごだと思ってくれればいい。いいか? 左側の淵が私たちのいる壁側で、右側の淵が向こう岸側だ。箸をこうやって単純に谷間をまたぐようにしてかける。単純だろ? あとは強度の問題だな。またあの地震が起こればたまったもんじゃない」
「あぁ、子どもでもよーく分かりやすい説明だよ」とレキ。「棒持って綱渡りするわけにはいかないもんね」
「これが一番確実で安全な渡り方だ。あとは、あまりいい知らせではないんだが、さっき第2と第3の橋も崩れかけていると聞いた。つまり、他に方法はない」
「分かった、最善を尽くしましょう」ルットは言いました。
経験したことのない夜が訪れました。谷間を駆け抜けていく風が不気味にびゅうびゅう吹き荒び、日中よりも雪が降っています。夕食は鍋でふかしたジャガイモに水でした。トウヤンたちはたびたび他のメンバーと話すためにかまくらを出て行きましたが、イザナたちはかまくらの中でじっとしていました。
イザナは隣でうとうとするレキたちをぼんやりながめながら、とにかく無事に朝を迎えられることを願いました。まさか大地震が起こって壁の前で寝泊まりすることになろうとは、想像もしていないことでした。そして、今でも切っ先を壁に押し当てた時のことを思い出すのでした。
翌朝、冬眠から覚めたクマのように外へ出ました。天気は曇りです。なにやら向こう岸が騒がしいので見てみると、木の壁の一部がポッカリと取り払われ、100メートル以上もある巨大な橋がかけられようとしていました。自分たちが寝ている間に、寝ずの作業を続けてくれていたという証拠です。
橋がゆっくりと壁側の岸に下ろされたのは、お昼になってからでした。救助隊の隊員たちが1人やってくると足場をしっかり固定し、数人ずつ移動を開始しました。全員の移動が終わったのは午後3時ころでした。そういえば、スエンはどこに行ったのだろう? と見回してみると、迎えに来ていた父親のそばにいました。親のいないイザナは少しだけうらやましく思いましたが、そのすぐ横でにらんでくるサヒロを見た途端にげっそりしました。
誰かが谷に落ちてもおかしくない、そんな状況を乗り越えられたのは一人一人の力でした。だからなのか、生還した人たちはみんなお互いの肩を抱き合って祝福しました。けれどもその中で1人だけ、別のことを考えている様子のカンザがいました。イザナにはその理由が分かりませんでしたが、およそあの壁の奇妙な現象について考えているのだろうと思いました。
あんなにひどい夜を経験したものですから、協会に戻ると全てが安心できました。谷の風を感じることもありませんし、すぐ隣で壁の恐怖におびえることもありません。壁の一件があって以降、もう誰も氷の壁をどうこうしようと言う者はいませんでした。三つある橋のうち、一つが壊滅、残りの二つも崩れかけとくれば、そうすぐに動くことはできないからです。100メートルの谷間は人間にとって、いかに障害なのかを思い知らされた瞬間でした。
それから1カ月もの間、イザナたちは協会でおとなしく過ごしていました。安全な室内で稽古をしたり、ご飯を食べたり、普段していたなにげないことが実は最も幸せだったのだと痛感させられました。それに、きっとみんな、もうあの壁には関わりたくないと思っているはずです。別に解かさなくても死にやしない壁を、解かそうとして死にかけたわけですから。
スエンは久々にネコのユリオスと再会しました。まだ一緒に部屋には長時間いられないようですが、それでも彼女にとってはここ最近の苦労を癒やす出来事に違いありませんでした。イザナにとって癒やされることと言えば、しばらくの間は、あの氷の壁に関わらなくてもいいということでした。そもそも、あんな巨大な壁を解かそうとするなんて無茶な話なのです。そうだ、これは手に負えないことなんだ、イザナはそう思うことにしました。
「なぁ、あの橋が再建するまでに、どれくらいかかると思う?」
レキは尋ねました。
(さぁ)
「働きアリになれば半年もかからないですよ」
「半年も?」
「当たり前ですよ。あの谷に安全な橋をかけるのは、とても大変なことなんです。お金もかかれば時間もかかる」サンは声色を変えました。「さぁ、ユリオス。こっちですよぉ!」
4人はレキの部屋でユリオスの相手をしていました。スエンの愛ネコが無事に帰ってからというもの、サンの溺愛っぷりは驚くほどでした。ユリオスの目はもうすっかり元通りで、凶暴化することもなく平穏そのものでした。
レキもネコじゃらしを揺らしましたが無視されました。
「橋を作るのにも手間がかかるんです。設計する人、材料を頼む人、それを運ぶ人、加工する人、組み立てる人……」
「分かった分かった」
最後まで聞く気のないレキはゴロンと横になりました。
「ちょっと! 話はまだ途中ですよ。じゃあ、あなたに分かりやすく教えてあげましょう。私たちだって、かまくらを作るのに役割分担したでしょう? あれと同じです」
説教くさい言い方ではありましたが、イザナは彼の例えに納得していました。
「つまり、私たちがあの壁と向き合うのはまだまだ先ってことです」
「そういえば今朝、お父さまが協会幹部の人と橋の建設について話し合っていたわ。町の職員も来ていたから、まさに設計の計画を練っている最中ということね」
スエンはユリオスを優しくなでながら言いました。そのことで思い出したのですが、トウヤンやサメヤラニたちも朝から騒がしく廊下を歩いていた気がします。イザナたちは蚊帳の外という感じがしましたが、難しい橋の会議にでたところでろくな会話ができないのは目に見えていました。
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