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暖炉の男の子
冬のどんよりした雲を1枚めくると、真っ白で寒々しい大地が顔を見せました。さらに低く下りていくと、ポツポツと明かりのついた家が浮かび上がりました。外の気温はマイナス12度。肺も凍るような寒さの中、ちょうど、大地主の男がまきを取りに出たところです。
「トンツクさん、トンツクさん」
大地主の男に、知り合いのごますり男が声を掛けました。トンツクは最初気付かないふりをして、振り返る前に一度顎ひげを整えました。顔を合わせる者にはいつだって立派だと思われていたいのです。そのため、威厳の見せ方には1ミリも譲れないこだわりがありました。顎ひげを真っすぐ立てて、眉間を狭め、フンと力を込めて胸を張る。彼の場合はそれでした。
「これはこれは、イッチさんではありませんか」
たった今気が付いたとばかりにトンツクは言いました。
「きょうもひどい雪ですね。あまりに雪が降るものですから、一日中雪かきで肩や腰がたまらんのなんのって、村じゅうの人が言ってますよ。一層のこと、穴倉でも作ってこもりたい気分です。それはそうと、いつも思うのですが、トンツクさんの家の周りだけ雪が少ないのは、どうしてで?」
イッチはこんもり雪が積もった自分の家と、ちっとも積もっていないトンツクの家を見比べました。トンツクは、ニンマリ笑うと、イッチの肩を引き寄せました。
「実は、ここだけの話」
「ほうほう」
イッチは耳をそばだてました。
「うちの暖炉は特別でしてねぇ……1個のまきをくべるだけで、普通の3倍は暖かくなる一級品。年中ポカポカ、家の床まで温かい。熱さが暇をして、家の周りまで暖めてくれるってわけなんです」
「ほう! それじゃあ、まき代も随分安く済みますね。いったいどこの暖炉をお使いなんです? 一級品ときちゃあ、さぞお高いのでしょうね」
「少しばかり値は張りますが、買って後悔させません。なにしろ、コウ領にいる暖炉専門の職人に作らせた特注品ですから」
「さすがはトンツクさん。お目が高い!」
イッチは鼻穴を大きく広げ、興奮して息を吐きました。
「暖炉は冬国の生命線ですから、いいものを選ばなくては」
「たしかに。うちは妻と子どもの6人家族。部屋数も多いですから、毎月の暖房費はばかになりません。まきを買うためにあくせく働いているようなもんです。はぁ……みんな、自分が払わないからと言って、バンバン使う。まきを買うのは私だというのに。特に下の娘ときたら、まきがポンと湧いて出るものだと思っている」
「まぁまぁ、いずれお父さまの苦労が分かる年になりましょうよ」
「すみません、つい家族の愚痴を……」
「いえいえ、生きていれば愚痴くらい吐きたくなりますよ」
2人はワハハと笑いました。
「暖炉の件ですが――あまりにいい話なので、本当は誰にも言いたくなかったんですよ。でも、イッチさん。あなたとは付き合いも長いですから、特別に今回の業者を紹介しましょうか?」
「ぜひぜひ!」
イッチは二つ返事でした。
「あぁ、なんてありがたい! 助かります」
「いいんですよ」
「それで、おいくらで?」
トンツクは肩にからんで耳打ちしました。
「そんなにっ!」
「なに、高いだけの価値があります。よく言うではありませんか。安かろう悪かろうってね。いい暖炉は人を笑顔にします。あなたの家族も喜ぶ。一生物ですよ」
最後の一言が決め手になったようです。イッチは
「よし、決めました。ぜひ紹介してください」
とにっこりしました。
「では、詳しいことはのちほど」
イッチはルンルン気分で帰って行きました。1人になったトンツクは、いい話ができたとほくそ笑み、小屋からバケツ1杯分のまきを詰めて家に戻りました。
外と違って、部屋の中は南国のような暖かさです。でも、おかしなことに、部屋の真ん中にある暖炉には、火どころか、まき一つ燃えてはいませんでした。トンツクは、どっかり大きな尻を椅子に下ろして新聞をめくりました。
「いいカモを捕まえた。しめた、しめた。1個のまきをくべるだけで普通の3倍は暖かくなる――そんな都合のいい暖炉なんて、どこにもないのに! 自分がただ高い暖炉を押し付けられたとは思いもしないだろう。フハハハハ!」
外の雪は、一層ビュービューひどい風とともに強まっていました。トンツクは台所に行ってかまどの上で湯を沸かし、ジャガイモ、ニンジン、ダイコン、肉の切れ端、香辛料を入れてグツグツ煮込みました。さて、最後に魚醤を数滴垂らせば頰も垂れる冬国スープの完成です。
トンツクは大きなお皿を二つ用意して、黄金色に輝くスープをよそいました。ところが、「さぁ、ご飯だよ」とも「お待たせ」とも言わずに、むしゃむしゃ大皿の一つを平らげ、残りの大皿を持って地下へ続く階段を下りて行きました。地下通路の、突き当たりにある、木でできた扉の前で足を止め、ポケットの中をまさぐり、コツンと当たった金色の鍵を取り出し、鍵穴をカチャッと回しました。扉が開くと、ゴウゴウ空気もゆがむ熱気があふれました。壁に掛けられた温度計は55度を示しています。
部屋の中を照らすのは、壊れかけた灯籠の明かり一つ。粗末なベッドとテーブル、椅子、床には大量の本が積まれていました。高価な家具が一式ある居間とはまるで違う光景です。この地下室は、鉄格子さえないものの、あまりに閉鎖的で、陰気な空気のする所でした。
普通の人なら、これだけ熱い部屋に人が住んでいるなんて考えたくもないでしょう。しかし、部屋の角には、およそ健康とは見えない、鎖で手をつながれた男の子がいました。ボサボサの髪は赤色で、しばらく自分の顔も見ていないのか、表情は無頓着、こんなに熱いのに、目は人のぬくもりがまるで感じられません。彼は1冊の本を開き、感動のない目でただただ文字を追っていました。
「飯だ、飯!」
トンツクは鍵で乱暴に皿をたたき、テーブルの上に大皿を置きました。イッチと話していた声とは百八十度異なり、今は刑務所にいる強面の看守そのものです。
「いいか。しっかり飯を食べろ。お前が倒れたら、私の家が冷え切ってしまう。50度を下回らないようにするんだ」
トンツクは温度計を指さしてガミガミ言いました。
「1度でも下回ってみろ。すぐさまお前を鞭で打ってやるからな」
するとどうでしょう。鞭という言葉を聞いた途端、男の子は急にガクガク震え始めました。言葉の鞭が効いたようだと、トンツクは満足そうにニタリと笑い、扉をバタンと閉めて鍵をかけました。
この男の子こそ、トンツクが秘密にしている、特別な暖炉だったのです。信じられないかもしれませんが、この子は熱を生み出せる不思議な力を持っていました。例えばコップ1杯の水が目の前にあるとしましょう。彼は触れただけで50~100度のお湯に変えることができるのです。それでも自分がやけどをすることはなく、髪一つ燃えることもありません。彼自身、普通の人より熱さや寒さに強いという特性を持っていました。
彼が閉じこめられている部屋に関して言えば、天井にはいくつもの穴が開いており、そこから熱気が上がって家中を暖めるという仕組みでした。人の熱でここまで暖かくなるなんて、村人たちは夢にも思っていないでしょう。10歳そこらの男の子が、地下室に閉じ込められているということも、当然分からないわけです。
男の子は出されたご飯を食べませんでした。おなかは正直に空腹を訴えているのに、意地でも食べたくないという思いが頭をチラつくからです。でも、食べなければ力がつきませんし、50度を下回れば鞭で打たれるという罰が待っています。これまで、ご飯を食べないという理由で何度も背中を打たれてきたので、あの時の痛みを思い出しては恐怖で頭を締め付けられ、食べないということがしまいにはできなくなるのです。だから、この日も男の子はそういう自分に負けて、泣きながら大皿のスープを食べました。
ただ、ご飯を食べて、トイレに言って、風呂に漬かって、家の中を暖める。男の子はこの年になるまでずっと繰り返してきました。それ以外の生き方を、何一つ知らないのです。
けれども本は、いろんなことを教えてくれました。空は青々としているとか、雲が浮かび、雨や雪が降ってくるとか、そんなワクワクするようなことをです。そのたびに、男の子は目を閉じて、空や雲を思い浮かべるのです。本の世界では、どこにでも行けました。川や海に行って、魚という生き物が泳ぐ姿を見たり、鳥になって大空を飛び回り、たくさんの人が暮らす町や村を訪れたり……
ただ、分からないことがありました。白い雪がしんしんと降っているとか、赤や黄のお花畑とか、そういう言葉を見るたびに、白ってどんな色なんだろう? とか、赤ってどんな色なんだろう? なんて思うのです。男の子にはいちいち質問に答えてくれる人がいませんから、答えはいつだって身近な本の中にありました。赤色に関して言えば、お気に入りの北国夢物語に登場する暖炉の表現を見れば分かります。
ゆらゆら炎が波打つ様は、赤い宝石が生み出されるようであった。
なるほど。赤色というのは火の色をしているのだな、と。火の色は灯籠で知っていましたから、さながら自分の髪は赤い宝石か火のよう、というわけです。
トンツクが与えた物の中にはペンと紙もありました。頭を使わないとばかになると思ったからです。そのため、男の子は普通の大人より多くの言葉を覚え、意味を知り、文字を書くことができました。
でも、男の子にとってはひたすら”それだけのこと”でした。
本当に見たいもの、感じたいものは、紙に記された文字ではありません。
本も、紙も、ペンも捨てた外の世界。
空や雲は、どんなにか美しいことでしょう。太陽の光に目を細め、新鮮な空気をおなかいっぱいに吸う……そんな日が来ることを、願ってやみませんでした。逆に言えば、それしか持ち得なかったのです。
しかし、思い返してもみてください。手には鎖、部屋のどこにもない窓、鍵のかかった扉、鞭を振るう看守。男の子が外を知るには、あまりに高い壁です。本を読むだけでは、この状況を解決する手だてを見つけられないのです。今の男の子には、想像力に富んだ心でも、無謀な勇気でもなく、助けてくれる人が必要でした。
からっぽになった皿の底に、やつれた自分の顔が見えます。手を両頰に当て、男の子は喉の奥を鳴らしました。どんなに心が豊かになっても、自分の顔はちっとも豊かに見えませんでした。
男の子がいる村から遠ざかり、少し遠くに行ってみましょう。三つの大きな川を越え、七つの山を越え、雪原を進んだ先に立派な山があります。冬の風に吹かれたさみしい尾根を下ると、麓に軒を連ねる三角屋根の建物が見えました。町の中心部には白い楼閣が一際大きく堂々と立っています。剣士協会と書かれた楼閣の門をくぐると、目も覚める鮮やかな赤と金色の内装が広がりました。建物の外装が白く見えたのは、長いこと雪に当たり過ぎたせいです。
楼閣にある地下室では、大きなろうそくが真ん中の台に4本立てられていました。奥には、時代から取り残されたように立つ古びた石碑が一つ。内側から光を放つ、小さな赤色の石が置かれていました。
石の前で、1人の男が正座をしています。彼の名前はウイ。ツルツルのきれいな頭に、整えられた眉とひげ。剣士協会で2番目に偉い副会長です。ウイは、石から目を離すと、後ろで膝をついて待つ若い男を見ました。
「この仕事を頼めるのは、あなたしかいません。当たり運が強いと言えばいいのか、外れ運が強いと言えばいいのか、私には分かりませんが――トウヤン、引き受けてくれたということは、当たり棒でも引いた気分なのでしょうね」
若い男は、頭を上げてにっこり笑いました。長いつやのある髪を一本に結び、ウイと同じ協会服を着て、赤色の耳飾りを着けています。見た目はがっちりとした男ですが、笑うと少年の名残が感じられました。
「高い金がもらえる仕事って聞いたから来ただけだ。それで? なにをすればいい、俺は」
まったく緊張感のない声です。見るからに年上、地位が高いウイを前にしても、トウヤンは物怖じせず、むしろ爽快なほど無遠慮でした。年功序列を重んじる大人なら彼を煙たがるでしょうが、ウイは
「この石の持ち主……火の器を捜してきてもらいます」
と、眉をピクリとも動かさずに続けました。
「器ってなんだ。皿のこと?」
「いいえ、人です」
トウヤンは舌を巻きました。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ!」
「はい?」
「つまり、人捜しか」
「そうです」
「名前は? 出身地は? 顔は?」トウヤンは次々に質問しました。「情報をくれ、情報を。どうやって捜せばいい」
「名前も顔も、出身地も分かりません」
「はい?」
今度はトウヤンがそう言ってやりました。
「火の石が教えてくれます。器の居場所を」
ウイは赤色の石をトングでつまみ、小袋にしまうとトウヤンに渡しました。少しだけのぞいてみると、石は暗闇の中で赤く光っていました。
「この石がねぇ。なーるほど、道理で他の剣士が受けたがらない仕事なわけだ。合点がいった。この仕事はとにかく、面倒くさそうだ。石が教えてくれる? もしもーし、俺の声、聞こえてますかぁ? 火の器はどこにいますかぁ?」
トウヤンは小袋を揺すって言いました。
「ちっとも教えてくれないぞ? この石」
「器に近づくごとに、石の光は強くなります。その光を頼りに進めば、火の器がいる場所まで行けるでしょう」
「分かった」
半信半疑でトウヤンは返事をしました。
「この石は、世界を元に戻すために必要なものなのです。私たちは春も、秋も、夏も知らない。なぜなら、千年前に水の器が暴走し、世界を超氷河期に変えてしまったからです」
「そりゃあ、随分と壮大な話だな。今の仕事となんの関係がある」
「関係もなにも、火の器こそ、われわれが捜し求めていた人間なのです。千年、ずーっと石の持ち主は現れないままでした。けれど、ついに、石が光り輝いた! これが、なにを意味するか分かりますか? そう、火の器が、この世界のどこかにいるということです」
ウイは荒っぽく息を吐きました。
「まぁ、分からなくて当然でしょう。私も、あなたも、生まれる前の話ですから」
「春、夏、秋。そいつはうまいものなのかねぇ」
「春は小鳥たちがさえずり、花の香りが風に舞い、夏は陽気な太陽が植物を育み、秋は黄金色の田畑が一面に広がる、これは、千年前の人類が書き残した記述。今は見る影もありませんが、かつて、この地には四季がありました」
「ふぅん」
トウヤンは眠たそうに目をこすりました。
「私の話、聞いてます?」
「あぁ」
「もともとこの世界は、東西南北四つの領主が治めるバランスの取れた世界でした。それぞれの領主が火、水、雷、風の器を有し、豊かな土地を築き上げたのです。しかし、水の器が影にのまれ、氷の器に変わったことで、世界は超氷河期へ突入したのです。火、雷、風、残りの器は氷の器に殺され、残された人々は、石のありかを隠すために、この楼閣を建てました。氷の器は、今もこの三つの石を狙っています」
「なんで」
「石を壊すためです」
「そもそも、どうして、そんなわけの分からん石が世の中にある。おかげで世界は氷河期。子孫の俺たちはいい迷惑だ。そうならなきゃ、俺たちはぶどう酒だって飲めたはずだろ?」
「愚問ですね」
「なんで!」
「あなたは、夜空に浮かぶ星の数を正確に数えられますか? 宇宙や種の起源を、誰もが納得する言葉で説明できますか? 答えはいいえです。石と器に関しても、これと同じことが言えるでしょう。つまり、私たちは、与えられたものから答えを導き出すしかないのです」
トウヤンは唇をとがらせました。
「――雷、風、この二つの器は既に見つかっています。残るは、火の器だけ」
「本当か? その2人はどこにいる」
「協会で保護しています。どちらも10歳の子どもです」
「子ども?」
トウヤンは表情をコロッと変えました。
「えぇ」
「ってことは、火の器も子どもの可能性が高いわけだ」
「断定はできませんが」
「よし、分かった。俺が火の器を捜してくる」
「お願いしますよ、トウヤン」
「報酬ははずめよ」
「頑張り次第では報酬も弾みますし、火の器の指導者を任せるかもしれません」
「指導者?」
「わが協会としては、器を剣士として育成する方針なんです。その管理職を1人選ばなければなりません」
「そいつは願ってもない話だ」
トウヤンはニタリと笑いました。
「まずは火の器が先決。さぁ、今すぐここを立ち、器を捜してきてください」
トウヤンは小袋を懐にしまい、一礼して立ち上がりました。
「忠告を忘れていました」
トウヤンは振り返りました。
「石には触れないでください。それは、生身の人間が直接手で触れてはいけない物なのです。そして、ここへ戻るまで、石を自分の命だと思ってください」
「ご丁寧にどうも」
トウヤンは、なにか思い出したように振り返りました。
「そうだ、じいさん! 久しぶりに会ったんだ、俺が戻ってきたら、みんなでパァーッと飲み会でもしよう! サメヤラニたちにもよろしく言っといてくれ! じゃあな」
トウヤンを見送ってから、ウイはしげしげと思いました。
(私をじいさん呼ばわりするのは、あいつだけだ。昔から変わらんな。副会長であることを、うっかり忘れてしまう。いけない、いけない、一緒にいると調子を狂わされる)
「ウイ様、カンザ様がお呼びです」
その時、地下室に協会員が下りて来て言いました。
「今行きます」
トウヤンは分厚い外套を羽織り、しんしんと雪が降る外に出ました。待ちわびた白い馬が元気よくヒィンと鳴きました。
「待たせたな、シン」
トウヤンは荷物からニンジンを取り出して、食べさせてやりました。
「いい話がもらえた。さぁ、これを食べたら、ひとっ走りしてもらうぞ」
トウヤンは小袋をつまみ上げると呼び掛けました。
「おーい。火の石とかいうやつ。俺は、火の器とやらを捜さなきゃいけないんだ。そいつは今、どこにいる」
やっぱり返事をしません。なんて不愛想な石でしょう。まったく先が思いやられますが、ここでやっぱりやーめた、とはいきません。なぜなら、今回の報酬は1回で1年は余裕で暮らせるだけのお金だからです。
「あんたの光だけが頼りなんだ。頼むよ」
なんだか急に、石に話し掛けるなんてばからしく思えました。トウヤンは半ばやけくそになりながらシンに飛び乗り、ハイヤッと声を上げて町を出て行きました。
山を抜けると雪原に出ました。人の足で何時間もかかる大地の移動も、馬の足を借りればあっという間です。何時間も進んだところで、トウヤンは不思議な感覚を覚えました。胸に、ぬくもりを感じたのです。
「ドゥ! ドゥ!」
トウヤンは急停止しました。小袋が、湯たんぽみたいに熱くなっているのです。袋の口を開けてみると、心なしか、赤色の光が強くなっています。触れてみたいという気持ちがトウヤンの喉を鳴らしました。しかし、頭によぎったのはウイの声でした。
”石には触れないでください”
どうなるのだろう、という好奇心にトウヤンは身を焦がしました。こんなにきれいな宝石なのに、触れたら危険だなんて信じられません。ここにはウイもいませんし、少しくらい触っても、ばれることはないでしょう。さっさと袋の口を閉じてしまえばいいものを、トウヤンは長らく宝石にみとれていました。思えば、彼にとって、こんなにきれいな光を見たのは初めてのことでした。真っ白な世界に身を置きすぎたせいか、かじかむ指先の向こうに見える赤色の光は、どこか懐かしい太陽に見えました。
トウヤンは手袋を外し、冷たい指先をそっと火の石に触れました。突然、頭の中にずかずかと踏み込んでくる記憶が走りました。荒れ狂う空、逃げ惑う人々――それらの情景から突き飛ばされた時、頭を殴られたと錯覚するほどの痛みを感じました。なにが起こっているのかも分からないまま、宙を舞っていました。空と大地が反対に見えます。例えるなら、磁石の同極がぶつかった時の衝撃。石に触れた瞬間、トウヤンは吹き飛ばされていたのです。
目を開けると、目の前で石が雪に半分埋もれていました。指先が焦げて煙を上げています。ほんの少し触っただけなのに。トウヤンは、怖くなって小袋の中に指を使わず石をしまいました。雪の上で寝そべり、しばらく頭をからっぽにしていました。
「悪い夢でも見てるみたいだ」
再びシンにまたがり、走り始めました。深い森に立ち入ると、途端に胸に感じていた温かさは途絶えました。どういうことでしょう? トウヤンは小袋の中をのぞきました。石の光が弱くなっています。ここでようやく、石が教えてくれるという意味を理解しました。火の器がいる方向を走っている時に、石は温かくなり、違う方向を進めば冷めるというわけです。光もまた同様でした。
トウヤンは胸の温かさと光を頼りにシンを走らせました。当然、彼はまだ知らないのです。火の器が、あの、暖炉として暗い地下室に閉じ込められた男の子ということを。
剣士協会の楼閣を出てから5日が過ぎました。トウヤンは、火の石が温かく光を強める方向にシンを走らせ、一際光が強まる場所にたどり着きました。その場所こそ、冒頭でトンツクと男の子が登場した小さな村だったのです。
「よしよし、寒い中よく頑張ったぞ、シン。さてと、しばらくはここで宿を取ってゆっくりするとしよう。俺もお前も、今はくたくただ。疲れて今は、なにも考えたくないんだ」
トウヤンはシンを引き連れて意気揚々と村の中を歩きました。
「それにしても、この村は人気がないな。これじゃあ昼なのか夜なのか分からない」
宿を探していると、村の中で一番大きな家の前を通りました。そこだけ他の家より明らかに雪が少なく、妙な違和感を覚えました。でも、この時はほとんど無意識的な違和感だったので、足を止めることなく宿に向かいました。村唯一の宿で部屋を借りたトウヤンは、シンをうまやに預けて、たっぷりのニンジンを与えました。いつも話し相手と言えば馬のシンだったので、日が暮れてもシンのそばで話し掛けていました。
「この村のどこかに、火の器がいるらしい。見てみろ、シン。小袋の中で石が太陽みたいに光ってる。袋越しに見て、こんなにまぶしいんだ。直接見たら目が焼けちまうよ」
トウヤンが小袋をクルクル回しながら言うと、シンは全てのニンジンを平らげてニヒヒと笑いました。
「そんなに急いで食べると胃に悪いぞぉ? もっとゆっくり食べな。ほら、新鮮な水をくんできてやった。うまいもんを食べた後は、うまい水に限るね」
トウヤンは満タンバケツをシンの目の前にドンと置きました。おいしそうに水を飲み始めたシンを横で眺めながら、トウヤンはそろそろ自分も部屋に戻ろうと立ち上がり、2階にある部屋に上がるとベッドに倒れました。そのままぐぅすかいびきをかいて、夢の中。
顔を洗ったり、体を拭いたり、身支度を済ませてから宿を出ました。小さなお店で朝食を済ませ、さてと、昨日の続きを考えなければならないと、小袋をのぞき込みました。やっぱり、火の石は昨日と同じように強い光を放っています。しばらく村の中を歩いていると、なにやら煙突工事中の家を見上げる1人の男がいました。彼はトンツクの家の隣に住む住人、最初に登場したイッチです。
「煙突でも壊れた?」
そう聞くと、イッチは上機嫌で首を横に振りました。
「とんでもない。今、新しい暖炉を新調中でしてね。隣の大地主様が、私によくしてくださったんですよ。おかげで、すばらしい暖炉に買い替えることができたんですよ。おっと、この話は他の人にはしないでくださいね。お見かけしたところ、あなたは旅人のようですから構いませんが」
「その大地主ってのは随分と人がいいみたいだな」
「トンツクさんは、お優しく、威厳に満ちた、素晴らしい方です。親切にいろんなことを教えてくれる。ほら、ご覧になってください。隣がトンツクさんの家です」
あぁ、そういえば昨日、妙に目に留まった家じゃないか。トウヤンはついでにあの違和感を思い出しました。そこで、こう探りを入れてみることにしました。
「どうしてあの家の周りだけ雪が少ない」
イッチは得意げになってせき払いしました。
「なんでも、1個のまきをくべるだけで普通の3倍は暖かくなる暖炉だそうで。だから家の周りだってなんのその、雪かきいらずというわけです。ふふふ、いずれ私の家だってそうなりますよ」
「そいつはすごい」
「えぇ、それはもう」
「それに商売の才がありそうだ」
イッチは急にきょとんとしました。
「あの方は相当な目利きでして……」
「いくらした」
「500万です」
「はぁ?」
トウヤンはむせ返りました。
「ご、500万って……あんた、だまされてやしないか?」
「一生物ですから。なに、それとも、トンツクさんが詐欺師だとでもおっしゃるのですか」
「いや、だってさ、普通に考えてみろよ。暖炉で500万なんて高すぎる。相場は設置費含めて50万から100万ってとこだ。いくらなんでも高すぎる。大事なことだから2回言ったぞ」
「しかし、まき代の節約を考えればですね……」
「怪しいも怪しい」
「なにを!」
「よぉし、分かった。そのトンツクってお偉い大地主様から直接話を聞こう。俺もちょいと気になることがあってね。物珍しい話は旅の土産になる。俺も世界中歩いてきたから面白い話の一つや二つ、くれてやるさ」
「いいでしょう」イッチは鼻穴から荒く息を吐きました。「確かに、旅人の話は物珍しいですからね。私の方から話しておきます。夕方にもう一度ここへ来てください。ただし! トンツクさんの潔白が証明されたら、謝罪してもらいますからね」
案外すんなり相手の懐に入れたものなので、トウヤンは宿に戻ってから、いい話が聞けるかもしれないと期待しました。大地主ともなれば、村のことはなんでも知っているだろうし、その中に変わった人間がいれば、火の器とも推測がつくはずです。
夕方になると、ちらほら雪が降ってきました。約束の時間まで、たっぷりと昼寝をしたトウヤンは、新雪のじゅうたんを踏みつけて約束の場所まで行きました。
「こっちです」
イッチは手招くとトンツクの家のドアを数回たたきました。すぐにドアが開き、トンツクは例のごとく、顎ひげを真っすぐ立てて、眉間を狭め、フンと力を込めて胸を張りました。
「あぁ、あなたがイッチさんの言っていた旅人の方ですね。ようこそわが村へ。ささぁ、外は寒いですから中へおあがりください」
部屋に入ると、暖炉がチカチカ燃えていました。テーブルの上には、ササでくるんだ根菜類の漬物、豆類、温かいお茶が並びました。トウヤンは自前の小さなたるに入った酒をドンとテーブルの上に載せ、栓を開けて3人分のコップに注ぎました。
「この、黄色のはなんです? 初めて見ますな」
トンツクはまじまじと見て言いました。
「ハチミツ酒だ。200年物のな。ここじゃ言えないくらい高価な代物さ」
「なんと、そんなに高級なものをいいのですか?」
「このくらいはお安い御用さ。なんたって、あんたはすんごい大地主様なんだから」
こうしてにぎやかなお茶会が始まりました。初めて口にするハチミツ酒に、2人は感激した様子で、一口飲んだだけでもう天にも昇るらしく、顔がポッと幸せ色に染まりました。
「ハチはとっくに絶滅したと思ってましたよ」とトンツク。
「あれですかねぇ、尻に針があるっていう……」とイッチ。
「コウ領のカトロって町に、古代バチの養蜂場があるんだ。それがとにかく大きい穴倉でさぁ、一日中ブンブンいってる。そこで採れるハチミツは絶品なんだ。南部の方が甘党が多いって言うしな、そのほとんどをコウ領で独占しちゃってるのさ。ハチミツ戦争って聞いたことある?」
「はぁ、よく分かりませんねぇ」
イッチはぽやーっとしながら言いました。
「ハチミツの独占をなくして、平等に領地へ輸出せよっていうマフ領主のお達しがあって、反対したコウ領主との間でいざこざがあった。それでハチミツ戦争が起こった。ちーっとも甘くない。つまり、俺が言いたいことはただ一つ、食い物の恨みは怖いってことさ。ところで、あんた方はずっとサキ領か」
「生まれた時からずっと」トンツクが渋い声で言いました。「あなたこそ、この村へはどんな用があって? こんな辺鄙な村に来てくれる人なんて……いませんよ」
トウヤンはここで隠し通すべきかと思いましたが、隠したところで2人に知られても困るようなことはありません。ここは、素直に事情を話してみようと思いました。第一、火の石とか器とか言われても、自分でさえピンとくる話ではなかったからです。そこで、トウヤンはウイから聞かされたことを2人に話しました。
超氷河期になった理由、火の器が世界を救うかもしれないということ、自分は名の知れた剣士で、高い金を積まれて火の器を捜しに来たということ……とにかく、それだけのことを手ぶり身ぶりを交えて話しました。
「うちにはいませんよ、そんな変わった子ども」
眉根をぐにゃりと曲げ、トンツクは強い口調で言いました。
「どうして子どもだと分かる?」
トウヤンの言葉にトンツクは表情を固めました。
「俺は一言も器が子どもだなんて言ってないぞ」
「な、なんとなくですよ」トンツクは笑いました。「それより、火の石とやらを見てみたいものです。ねぇ、イッチさんもそう思うでしょう? あなたがここに来るまで導かれてきたという、不思議な石を」
「いいけど、忠告しておこう」
と言いながら、トウヤンは上着をめくり小袋を外しました。
「絶対に素手で触っちゃいけない」
ゴクリと唾をのみ込む音が響きました。
「どうしてで?」
イッチは聞かずにいられませんでした。
「やけどする」
「暖炉の火みたいだ」イッチは光を隠しきれない小袋を見て言いました。
「忘れてた。やけどじゃ済まないな。屋根を突き破ることになる。実体験済みだ」
トウヤンは黒ずんだ指先を2人に見せました。恐怖心を植え付けるには十分な材料で、自分はそうなりたくないと思ったのか、2人はおとなしく首を縦に振りました。
「よぅし、それじゃあ見せてやろう」
テーブルの皿やコップを腕で払い、火の石を置きました。家の外で見たときよりも、はるかに光り輝いて見えます。トウヤンはパッと顔を輝かせるとトンツクを見ました。
「あんたが火の器か」
「勘違いですよ」
「でも、この石は火の器が近づくほど明るく光るんだ。あんたに違いない。さぁ、そうと決まれば俺と一緒に来てくれないか?」
「なにを言うんだね、君は!」
「俺についてくればハチミツ酒なんて毎日飲める。それでも嫌か? でも困った。俺は火の器を連れ帰らないと報酬がもらえないんだ。なぁ、頼むよ。お願い!」
そんな押し問答がしばらく続いた時でした。ドン、ドン、と低い物音が床下から響いたのです。さわいでいた3人は、ピタリと動きを止めて耳を澄ましました。
「キツネでしょう。最近地下の倉庫に紛れ込むんです」
そう言うトンツクを差しおいて、トウヤンは石を袋に持ったまま床にピタリと耳をつけました。不思議なことに、床に近付くほど光が強くなったのです。それに、ドン、ドン、という音がまた聞こえてきました。
「この音は?」
イッチが言いました。
「1人暮らしか?」
「そうです」
トウヤンはすっくと立ち上がりました。
「キツネじゃない」
それじゃあ、地下にいったい何がいるというのでしょう。イッチはわけが分からず2人の顔を交互に見ました。
「なにが言いたいんです」
答える前にトウヤンは走りだしました。地下へ続く階段を下りると、突き当たりに扉が見えました。扉越しに伝わってくる熱気。トウヤンは確信しました。
この向こうに答えがある。
振り返るとぜぇぜぇ息を切らして追い掛けてきたトンツクがいました。イッチは2人を追ってきたものの、どうすればよいか分からずに立ち往生。この状況でもトウヤンはまったく焦らず涼しい顔をしていました。
「奥になにがいる」
もうキツネとも言えなくなったのか、トンツクは返す言葉がありませんでした。
イッチは驚いた顔でトンツクの背中を見ました。およそ察しがついたのでしょう、今さっき火の器について聞かされたわけですから、熱気を帯びる扉の向こうに、人がいるのだと考えが及ぶのは自然なことです。無言を貫くトンツクの前で、今度は扉がドン、ドン、とたたかれました。
「人だ! 中に人がいる!」
イッチは扉の前に駆け寄って、開けようとノブに触れました。
「あっつぃ!」
「鍵はどこだ」
トウヤンはむっと不機嫌になって尋ねました。トンツクはチラリとトウヤンの腰にある刀を見て、言おうとした言葉をのみ込みました。トウヤンは目ざとくトンツクのポケットが膨らんでいるのを見つけると、ひょいと近付いて中から鍵を奪い取りました。
「返せ! それはっ」
トウヤンは追い掛けてくるトンツクをよけると、扉に鍵を差し込みました。
ドアを開けると、目も乾く熱気が3人をのみ込みました。さぁ、こうなったらもう何も隠し通すことができません。トンツクはガクリと膝をついて、この世の終わりとばかりに頭を抱えました。一方で、トウヤンとイッチは目の前の子どもに目を奪われていました。
「男の子?」
トウヤンは間の抜けた声で言いました。
「なんてひどい。鎖でつないでおくなんて」とイッチ。
「私はただ……」トンツクは続けました。「なにも知らなかった。そう、なにも知らなかった! この子が火の器だなんて」
「熱くないのか? ずっとこんな部屋にいて。普通なら焼け死んじまう」
「自分で熱を生み出せるのです」
「この子に暖炉の代わりをさせてたんだな」
トンツクはうなだれました。
「そ、それじゃあ、暖炉の話は――」イッチは顔をしかめました。「私にうそをついていたんですね? いい暖炉のおかげで家中暖かいのではなく、この子1人に暖炉の代わりをさせていたと。鎖でつないで、逃げられないようにして。なんてひどい。人のすることではありません。私にいい暖炉を売りつけたのも、自分の金儲けのためだったんですね!」
「お二人さん、今はけんかしてる場合じゃない。この子の解放が優先だ。鎖を解く鍵をくれ」
「扉の鍵と同じだ」と、トンツクは小さな声で言いました。
トウヤンは男の子に近づいて、鎖を外そうとしました。ところが、男の子はトウヤンが前に進むたびに後ろへ下がり、部屋の隅に身を寄せ、鋭くにらみつけました。
「大丈夫」
トウヤンはしゃがみ込んで優しく言いました。
「俺はトウヤン。あんたは?」
男の子は返事をしません。
「そうか。そうだよな……話したくないよな。ずっとこんな所に閉じ込められてきたんだ。怖いよな――一緒にここを出よう。あんたを暖炉みたいに使ったりするやつの元に、いなくていい。自由だ」
トウヤンは手を広げました。男の子は背を向け、チラリと何度か振り返りました。
「鎖、外してやる。少し、おとなしくしてろよ」
なるべく男の子を刺激しないように、トウヤンはゆっくりと近づき、ついに鎖を外しました。軽くなった自分の手に驚いたのか、男の子は目を大きく開いて手をグーにしたりパーにしたりしていました。
「一つ、聞かせてくれ。いったい、どこでこの子を見つけたんだ。まさか、あんたの子どもでもあるまいし」
「落ちていたんだ。雪原に」
「落ちてた?」
「その子に名前はない。10年前のことだ。雪原の雪が溶けた真ん中に、この子が落ちているのを見つけた。その時に気付いたんだ。この子は不思議な力を持っていると。それで……」
「暖炉にしようと思いついたわけか」
トウヤンの言葉にトンツクはしぼみました。
「正直言って、あんたに子どもを育てる資格なんてない。育てるなら、他にもっと方法があっただろ。いくらでも。どうしてこの方法を選んだ?」
これ以上、なにを言っても過去は変えられません。トウヤンはため息を漏らすと、男の子に向き直りました。おかしなことに、男の子はじっとトウヤンが持った小袋を見ていました。
「やっぱり、これが気になるのか。ひょっとして、石の存在に気付いて壁をたたいていたのか」トウヤンは大したものだと感心しました。「教えてくれたんだな」
少し気を許した瞬間でした。男の子はトウヤンに襲い掛かると、小袋をふんだくり、風を切って外へ逃げて行きました。
「やられた!」
トウヤンは刀を抜かず、後を追い掛けて階段を駆け上がりました。あの石は少し触れただけで指が焦げ、体が吹き飛ぶほど危険な力を持っています。男の子が触れたらどうなるのか、考えたくもありませんでした。1階に出た瞬間、開けっ放しになった玄関の前に、男の子が立ち止まっていました。外に逃げようとして、踏みとどまっているように見えます。男の子は目の前に広がる白い世界に目を奪われていました。
「俺と話をしよう。ちゃんと全部説明する」
後ろから声を掛けると、男の子ははっとしておびえた目を向けました。
「だから――」
トウヤンがそっと伸ばした手を、男の子は反射的に振り払いました。パシンと当たった衝撃と熱でトウヤンはひるみました。ただ触れただけなのに、沸騰したヤカンに殴られたような熱さと痛みだったのです。さすがのトウヤンも笑顔ではいられません。しかし、ふと顔を上げた時に見た男の子は、ものすごく悲しい目をしていました。言葉を掛けてやる前に、男の子は外へ逃げ出していました。
トウヤンはゆっくり立ち上がると拳を握りしめました。
「ずっと閉じ込めてたのか」
怒りを感じ取っておびえているのか、トンツクは小さくうなずくばかりでした。トウヤンはドンと彼を壁に押し付けるとひどく熱っぽい目を向けました。
「どうか許してください。どうか!」
「そんなに俺が怖いか」トウヤンは声を震わせました。「あの子は……この何倍も怖い思いをしてきたんだ。目を見れば分かる。力でねじ伏せようとする者への恐怖。あんたがしたことが、どれだけあの子を傷つけてきたか分からないだろうな」
「許してください」
トウヤンはパッとトンツクから離れると玄関をくぐりました。
「俺じゃない。あの子に言うんだ」
そう言ってトウヤンは外へ飛び出しました。
男の子はそう遠くまで行っていないはずです。トウヤンは、トンツクの家を出てすぐにくっきりと残った小さな足跡を追い掛けました。夜は特に冷え込みます。いくら熱を生み出せる体質とはいえ、長時間慣れない外にいれば体調を崩すかもしれません。それに、火の器も、火の石もここで失ったら全てが終わりです。トウヤンはわずかに雲を透けて見える月の光を頼りに歩きました。
足跡は深い森の中に続いていました。横殴りに吹きすさぶ風の音が、森へ立ち入る者を拒んでいるようです。トンツクの家に外套を置いてきたことを後悔しました。寒さとの戦いでは、刀なんぞなんの役にも立ちません。でも、なにより先に男の子を捜し出さなければ、という思いがトウヤンを前に進めました。
「おーい」
腹の底から叫びました。何回かそうするうちに、男の子には呼ばれる名前がないのだと思い、またむなしい気持ちにさせられました。ですが、同時にあの男に名前を付けられなかったのはよかったのかもしれない、とも思いました。子どもを物のように使う男のことです、きっと「暖炉」とか「俺様専用の火」なんて付けたに違いありません。
やがて森が開け雪原に出ました。ちょうど頭上の雲が晴れ、雪原の真ん中で横たわる男の子を照らしました。彼の回りだけ雪が解け、地肌が見えていました。トウヤンは背中を向けた男の子の前に立ち、ほっと安心してのぞき込みました。さぞ怖くて泣いているのだろう、なんて思ったのはとんだ勘違いでした。男の子はほほ笑んでいたのです。火の石をギュッと抱き締め、母親の腕の中で安心して眠る子どものように、目を閉じていました。人を吹き飛ばし、やけどまでさせた恐ろしい石だったので、トウヤンはあっけにとられて頭をかきました。
「大したやつだな、あんたは」
トウヤンはかがみました。男の子はパッと飛び起きて大急ぎで木の陰に隠れました。とはいえ、癖のついた赤色の髪がひょっこり半分見えています。妙におかしく思えたので、トウヤンは噴き出しました。腹を抱えて長いこと笑っていると、陰から男の子が片方だけ臆病な目をのぞかせました。
トウヤンは木から少し離れた場所であぐらをかきました。
「あんたが出てくるまで俺は帰らないからな。そもそも火の石を返してもらわないと、あのじいさんに怒られちまう」
返事のない男の子にトウヤンは話し続けました。どうして自分がここに来たのか、火の石や器とはなにか、どうして超氷河期になったのか、そのほかの石のこと、なにより大人が子どもにあんなことをするのは「ありえない」ということも。
話し過ぎて肺が凍り付きそうになっていると、突然強い風が木々を揺らしました。ギシギシ、ミシミシ、不気味な音です。顔を出していた月も隠れ、辺りは身もすくもような夜の闇に包まれました。トウヤンは危険な気配を肌身で感じ取り、すっくと立ち上がりました。妙な胸騒ぎと言いましょうか、とにかく誰かに見られているような気味の悪さです。
「行こう」
トウヤンは手を差し出しました。男の子は大きな手を今にもかみつきそうな目で見ると一歩後ろに下がりました。
「握手」
トウヤンはそう言ってにっこり笑いました。ずっとトゲトゲしていた男の子は、笑顔を見ているうちにビクビクするのをやめました。
「手を出すんだ。大丈夫、手袋してるから熱くない」
男の子は急に沈んだ顔になると、おそるおそる小さな手を伸ばしました。トウヤンはどんなに時間がかかろうと焦らせませんでした。男の子の気が向くまで、手を差し出して、いずれくるその時を気長に待ち続けたのです。男の子の小さく熱い手がトウヤンの指先にちょこんと触れました。
「よくできたな、偉いぞ!」
トウヤンは男の子の手を優しく握り返しました。こんなふうにされるのも、言われるのも初めての経験だったのでしょう。男の子は殴られもせず、鞭で打たれることもないことに驚き、間の抜けた顔になっていました。でも、ただそれだけのことです。今の男の子にとって、トウヤンは自分をいじめてこない人間で、好きでも嫌いでもない存在でした。
「名前、なかったんだな」
男の子はまただんまりを決め込みました。トウヤンはうーんと首をひねらせ、顎に手を当てて考え込みました。あれこれ名前が浮かんでは消え、ついにある一つの名前が頭の中に浮かびました。
「イザナ。どう? ほら、名前だよ。あんたの」
あながち嫌ではないのか、男の子は表情を変えませんでした。
「決まりだな」
トウヤンが歩きだすと、遅れてイザナも小さな歩幅でついてきました。言葉を発することはありませんでしたが、トウヤンについて行けば、もう暖炉にされることもないと知ったのでしょう。もう攻撃的な空気は感じませんでした。
2人が森を抜けて村に戻ると、トンツクが上着も着ないで待っていました。彼の姿を見た途端、イザナはトウヤンの後ろに隠れて出てこようとしませんでした。トウヤンは一度立ち止まり、イザナに優しく言いました。
「いいか? イザナ。あんたは今、あの男に許してほしいと言われるだろう。涙を流されるかもしれない。もしくは、いろんな優しい言葉で引き止められるかもしれない。……でも、あんた自身が決めることだ。今までされてきたことをよーく考えろ。許せるのか。大事なのはそこだ。恐怖で言いなりになるのは許しじゃない。支配だ。従順になることと、素直になることは違う。あんたとあの男は対等だ。だから、今、ここで素直にならないといけない」
トウヤンはほほ笑みました。
「嫌なら嫌と言え。自分の心にうそをつくな」
「どうか許してくれ」
情けない声が聞こえました。どうやらトウヤンに言っているのではなく、イザナに言っているようです。正直なところ、トウヤンは腹立たしくもありました。ずっと閉じ込めておいて、偶然見つかったから今さら許しをこうなんて、身の保身に走っているようにしか見えなかったからです。
「どうしたい」
トウヤンはイザナに振り返って尋ねました。ビクビクしながらトンツクとトウヤンを見比べた後、イザナは必死に首を横に振りました。トウヤンはニカッと笑顔になりました。
「許してくれないとさ! もう、あんたの顔も見たくないって」
おえつを漏らして雪の上に1人たたずむトンツクを置いて、トウヤンはイザナと宿に戻りました。イザナにとって外の世界は目に入れるもの全てが新鮮なようで、さっきからいろんなものを手にとっては興味津々にいじくりまわしていました。部屋にあった鏡に目が留まったのか、自分の顔を不思議そうに見つめていました。
「そういえばイザナ、さっきから部屋の中にいるのにちっとも熱くない。もしかして、自分で制御できるのか」
トウヤンがベッドから興奮して飛び起きると、イザナはびっくりして身をすくめました。火の石のことですが、今は小袋に戻してイザナの首にかけてあります。なにより彼が持っていた方がいいと思ったからです。
「ほら、手を出してごらんよ」
わけも分からず差し出した手をトウヤンは握りました。不思議なことに、さっきやけどをするほど熱かった手は、普通の人より少し高いくらいでした。言葉では説明がつきませんが、トウヤンは彼自身がそうしたのだろうと思い感心しました。
ここで一つ気になったことがあります。トウヤンはボロボロになった着物、手入れのされていない髪、すすけた頰を見て、あることを思いつきました。トウヤンは宿にある浴室にイザナを連れて行き、一通りきれいさっぱり洗い流しました。伸び放題の髪は腰丈まであったので、痛んだ部分をはさみで切り、乾かした後で一つに束ねました。子ども用の着物は後で買うことにして、今は自分のを小さく調整して着させました。随分と気に入ったのか、イザナは部屋に戻ってから鏡の前で自分の姿を見ていました。
「明日にはここを出る。だから今夜は気が済むまでゆっくり寝ておけ。ベッドは好きに使っていいからさ」
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