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浮かれて前のめりに頷いていた数瞬前の自分が嘘のように、胸の奥がヒヤリと冷たくなった。
「君のノリが良いから、油断してしまったよ」
顔を上げることなく、言い訳のように呟くのが聞こえた。
誤魔化すような乾いた笑い声からは、後悔が感じられた。
「俺は本気ですよ」
まるで、その気もないのに話を合わせるだけの軽口だと思われていたのが癪で、ついムキになって言った。
「高間さんに言われるまでもなく、どんな口実を見つけてでもここに通おうと考えていました。さっきの言葉は、同じ事を思っていたんだって嬉しかったです」
俯いたままだった譲さんの肩が微かに揺れた。
ゆっくりと顔を上げた彼の表情を読み取りながら、何かしらの琴線に触れる事が出来たのだと思った。
「……僕は、君だけが特別なんだよ」
舞い上がるような事を言ってくれているというのに、伏せられた瞳とは視線は合わない。
「俺もです」
「君が考えているよりずっと重たい意味だよ。そんな大人は嫌だろ?」
突き放されているのだと感じて、咄嗟に譲さんの手を取った。
反射的に顔が上げられてようやく合った瞳は、せつなく潤んでいた。
「教員のクセに中学生を好きになってしまった、どうしようもない大人なんだよ」
そう言って、落ち込んだように息を吐く姿が堪らなく愛しかった。
譲さんにとって、それは許されない感情なのだろう。
当然だな、と冷静に納得する一方で、言いようのない喜びが全身から溢れ出るのを止められなかった。
「奇遇ですね」
力の加減もできずに掴んだ手を、絶対に逃さないように握りしめた。
顔がだらしなく緩むのも抑えられなかった。
「俺も、生徒のクセに先生を好きになってしまった、どうしようもないガキですから」
「好き……?」
信じられないものを見るような目が向けられていた。
悟られないように気を遣っていたとは言え、大した用もないのに頻繁に保健室を訪れていた奴に下心が無い訳がないだろう。
全く気付かれていなかった事に驚きつつも、いつもは落ち着いている彼が珍しく動揺する様子を興味深く見守っていた。
「僕は男だよ」
とても混乱しているらしく、譲さんは分かり切った事実をわざわざ伝えてくれた。
真剣に諭すような一言に、思わず笑ってしまった。
そんな事を今更伝えられた所で、何も変わらない。
「知ってますよ。それに、高間さんだって男の俺を好きって言ったじゃないですか」
「そうだけど」
思えば、性別に対しての葛藤は最初から無かった気がする。
性別や立場を気にする隙もなく、この人に惹かれていたのだ。
「好きです。だから、さっきのおねだりは撤回なんてしないでください」
「お、おねだりって……! そう聞こえてしまったのなら謝るよ」
気まずそうに顔を赤らめた譲さんは、そのまま切り取って飾りたい程に可愛く思えた。
「あれは、少し、甘えてみたくなっただけで」
口ごもるように弁解した所で、更に愛しくなっただけだった。
本人に自覚はないのだろう。
言い直した言葉の方が破壊力が強いという事に。
「本当に、僕は君の事になると調子が狂うんだ」
譲さんは申し訳なさそうに呟いて、大きく息を吐いた。
こちらとしては、これ以上ない程に嬉しい告白だった。
―――俺だけが特別。
ずっと気になっていた答えを教えてもらったようだった。
何度も反芻して、脳裏と胸に深く刻む。
この先、何があっても一生忘れないように。
「いいじゃないですか」
赤い顔に手を伸ばして、柔らかい頬に触れた。
ピクリと小さく肩が揺れたが、拒絶と取れるような反応は無かった。
保健室でこんな風に過ごすようになって一年ほど経っていたが、あからさまな意思を持って触れるのは初めてだった。
「これからは、もっと甘えてください」
相変わらず緩んだままの顔で言うと、譲さんは困ったような表情でこちらを見た。
「無責任な事を言うものじゃないよ」
「責任取りますから、大丈夫です」
絶対に逃さないように、即座に答えた。
咄嗟に出てきた言葉だったが、いい加減な気持ちではない。
どうしたら伝えられるのか分からず、俺はただじっと譲さんを見つめていた。
「僕と、付き合ってくれるつもり?」
「はい」
「末永く?」
「勿論です」
質問が可愛らしくて抱き締めたくなる。
まるでプロポーズのようだ、と気付いて高揚感に包まれた。
譲さんは気付いているのだろうか、と様子を窺うと今まで見た事のない程に顔を赤くして照れていた。
「それなら、……よろしくお願いします」
頬に寄せた俺の手に譲さんの手が重ねられて、その瞬間、二人の関係は静かに、けれど劇的に変わった。
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