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回想2
月日が流れ、中等部の卒業が迫ったある日の事だった。
中学生として保健室を訪れるのは最後であろうと思われたその日、譲さんにいつものような笑顔はなく、どこか表情が暗く余所余所しかった。
その事を不審に思い、お節介を承知して訊いた。
「何かありましたか?」
「どうして?」
「元気が無いようなので」
世間話のような訊き方が悪かったのか、譲さんの表情は一層暗くなってしまった。
「そう見える?」
「はい」
頷くと、譲さんから溜め息が零れた。
物憂げな表情が色っぽくて、こんな顔は誰にも見せられないと思った。
「普通にしているつもりだったけど、やっぱり駄目だった」
譲さんは諦めたようにそう言って、もう一度息を吐いた。
こちらに向けられた視線はやけに寂しそうで、迂闊に立ち入ってはいけない話題だったのかもしれないと後悔した。
「もうすぐ卒業でしょ? それが、なんとなくねぇ」
曖昧な言葉では全てを汲むことはできず、譲さんが何に対して憂いているのか不明なままだった。
「卒業」という単語は自分には差し迫った行事だったが、譲さんにとってそれ程重要な出来事ではない筈だ。
良く分からないが、教師にしてみれば、面倒を見る生徒が入れ替わる程度の事だろうと思っていた。
譲さんのように、担任を持っていなければ尚更そうだろう。
しかし、優しく仕事熱心な彼はそうでは無かったらしい。
生徒の旅立ちに、物悲しく思いを馳せてくれていた。
自分もその中の一人にすぎないと割り切っているつもりだったが、その他大勢に纏められる程度の存在だと認めるのは癪だった。
「高間さんが卒業する訳ではないですよね」
「勿論」
「生徒と離れがたく思ってくれるのは嬉しいですけど、毎年そんな風にしていたら、この先身が持ちませんよ」
これから先、毎年のようにそんな憮然とした顔でこの時期を過ごすつもりなのか、と苦笑した。
そんな態度がお気に召さなかったようで、譲さんはじとっとした目でこちらを見た。
「君が、卒業してしまうからだよ」
分かり切った事を言われて反応に困ってしまった。
その名指しに、俺が期待してしまうような意味があるのだろうか。
「卒業したら、会う回数が減るなぁって」
詰まらなさそうにそう言って、譲さんはテーブルに頬杖を付いた。
それは、俺も残念に思っていた事だった。
同じ敷地内の高等部に進学すると言っても、中等部の時のように頻繁に訪れる理由がなくなってしまう。
怪我をしても、具合が悪くなっても、高等部の生徒用の保健室があるので、譲さんとは今までのような接点はなくなる。
となると、高等部の生徒が中等部の保健室を訪れても、譲さんに怪しまれない口実を考えなければならかった。
「そうですね」
俺はまるで他人事のように同意した。
平静を装っていたが、内心は動揺していたのだ。
例え社交辞令の一種だとしても、同じように思っていてくれた事が嬉しかった。
「君にはどうでもいい事なのかもしれないけど、僕には死活問題なんだよ」
「どうでも良くなんかないですよ」
「慰めてくれなくてもいいよ」
「本当に、思ってます」
この会話意味を、慎重に考えながら答えた。
死活問題なんて、どういう意味だ。
慰めているつもりなんて、これっぽっちもない。
勘違いしないように、浮かれて自惚れる事なく、譲さんの真意を汲むには心臓の音が邪魔だった。
「じゃあ、僕が君に会いたいと言ったら、会いに来てくれる?」
「すぐに来ます」
「こうして、一緒にお茶をして欲しいって言ったら、また僕の相手をしてくれる?」
「いくらでもしますよ」
「それから」
次々と即答していくと、譲さんは何かを言いかけて止めた。
そして、苦い表情を隠すように顔を逸らした。
「ごめん、今のは全部忘れて」
「何故ですか?」
「言うべきじゃなかった」
そう言いながら、反省を現すようにテーブルに両肘を付いて頭を抱えた。
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