回想3

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回想3

 高校に進学後も、中等部の保健室を訪れる日々は変わらなかった。  笑顔で迎えてくれる譲さんに毎日でも会いたかったが、少し自重し週に1、2度に留めていた。  会う回数が減っても穏やかに過ごせていたのは、関係性が変わったのが大きかった。  譲さんと、「末永く」「付き合う」栄誉を得られた事に、思いの外舞い上がっていたようだった。  その日も、真新しい高校の制服に身を包んで放課後の保健室の扉を開けると、窓際にいた譲さんが変わらぬ笑顔でこちらを見た。  駆け寄りたい衝動を抑え、まずは室内に誰もいない事を確認してから、二人きりの空間を作るように扉を締めた。 「佑斗くん」  ごく自然にそう呼ばれて、窓の方へ向けた足が思わず止まった。  それは紛れもなく自分の名だ。  譲さんから名前で呼ばれた嬉しさよりも、呼ばれ慣れない響きと唐突さに困惑が勝った。 「……あの」 「何?」  不意を付かれて動揺する俺とは対照的に、譲さんはニコニコと笑っていた。  背後から陽を浴び輝く姿が眩しくて、思わず目を細めた。 「俺のこと、前からそういう風に呼んでいましたか?」  と確認するまでもなく、そんな風には呼んでいなかったのは確実だ。  なんなら、「君」と二人称で呼ばれる事の方が多い気がするが、名前に呼ばれる場合は間違いなく「西原くん」だった。  ずっと、他の生徒と分け隔て無くそう呼ばれていたから、自分が彼にとって「特別」なのだと確信が持てなかった。  告白を経てもそこは変わらず、表面上だけでも「特別」である事を隠しているのだと都合の良い解釈をしていた。 「君の前では、今日が初めてだよ」  部屋の中程で立ち止まった俺の元に近寄りながら、譲さんは微笑みそう言った。  まるで、俺の前以外では名前で呼ぶ機会があったかのような言い方に、つい深く追求したくなってしまうのは仕方がない。  いつから、どんなタイミングで、どう呼ぼうと理由なんて必要ないが、その心境を聞きたいと思った。 「どうしたんですか、突然」  耳に残る余韻を楽しみつつも、あっさり不意打ちされてしまった事が悔しくて手放しで喜べずにいた。  たかが名前の呼び方一つで浮かれてしまうとは、なんてガキ臭い。 「今年から君のお兄さんが着任されたでしょ? 西原くんに西原先生だとややこしいから、君は名前で呼ぶことにしたんだ」  譲さんは、一見尤もな理由を流暢に語った。  確かに、この春から俺の兄が高等部で数学科の教師として勤務することとなった。  俺の授業を担当する訳でもなく、校内での接点はこれと言って無いため、あまり気に留めていなかった。  なる程、と納得しかけたところで、はたと気付いた。  俺以上に、譲さんと兄の接点なんて無い。  同じ組織に属する同僚という関係にはなるが、中等部と高等部の教員に密接な関わりがあるとは思えない。  まして、養護教諭と数学教師だ。  俺と兄の二人を苗字で呼んで、ややこしい場面に遭遇する確率はほぼ皆無だろう。 「嫌だった?」 「そんな事はないですけど、そんなにウチの兄との接点があるのかと思いまして」  疑問を口にした途端、譲さんの表情が固まった。  そして、ジワジワと赤くなっていくのを隠すように、両手で顔を覆ってしまった。  その反応から、何か言ってはいけない事を言ってしまったらしかった。 「本当に、君はどうしてそうなのかな」 「どういう事ですか」  罵られているような言い回しだったので、慌てて身を屈めて譲さんの表情を見ようとしたが手が邪魔で窺うことができなかった。 「せっかく、尤もらしい言い訳を思い付いたのに、すぐに見破るのは可愛気がないと思うよ」  ようやく顔を上げた譲さんは、拗ねたようにそんな事を言った。  正直、何を言われているのかさっぱり分からなかった。 「言い訳?」 「君を名前で呼ぶ言い訳」  はぁ、と大きく息を吐いた譲さんは、部屋の隅に設置された電気ポットへと足を向けた。  直ぐ隣にはカップや茶葉等が置かれた棚があり、いつもここでお茶やコーヒーを淹れてくれるのだ。 「白状するとね、少し恋人らしい事をしてみたくなったんだ」  手際よく二人分の飲み物の準備をする譲さんは、赤い顔のままそんな事を言った。  譲さんの背後で待機していた俺は、頭の中の辞書で「こいびと」という単語を猛烈な勢いで引いていた。  そして、俺の辞書に「恋人」以外は無いと結論付け、ようやく譲さんの意図を汲む事ができた。
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