回想3

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 付き合っていると言っても、それらしい事は何もしていない。   校内でしか会っていない上に、会えるのは短時間だ。  会話の内容も、以前とそれ程変化はない。  強いて言えば、会話の中に中等部と高等部の違いを報告する項目が増えたくらいだ。  人目を避けている為、俗に言うデートなんてした事も無い。  二人が同じ気持ちだったと分かっただけで、呆れる程に何の進展もなかった。  互いの呼び方も含めて。 「いい歳をした大人が何を言うんだって、笑ってもいいよ」  恥ずかしそうにはにかむ横顔が愛しくて堪らなかった。  笑うなんて、とんでもない。  むしろ、「付き合う」という記号だけで安心していた自分を恥じるべきだ。  譲さんと対等でいたい、と大層な理想を掲げておきながら、彼の些細な望みにすら気づけずにいた。  たかだか義務教育を終えただけの分際で、この人に近づけたような気になり浮かれていたのだ。  反省を態度で示そうと、譲さんを後ろから抱き締めた。  こんなに華奢で、背も俺とあまり変わらないのに、この人は俺よりもずっと大人で、きっと俺よりも「恋人」という意味を知っている。  ジワリと胸の奥に広がる焦燥感に負けて、無意識に腕に力が入っていた。  譲さんが手に持っていたカップが、動揺を表すようにカチャっと音を立てた。 「笑いませんよ。恋人らしい事、俺もしたいです」 「……揶揄っているだろ」 「まさか」  本心から答えた。  この人と色々な事をしたい、という欲望は果てなくあるというのに、どうして悠長に構えていられたのだろう。  告白の前と何ら変わらない日々に、何故疑問を抱かなかったのか。 「それより、俺の名前を知っていてくれたんですね」  この時点で、譲さんに名前を訊かれた事はなかった。  仕事上、生徒たちの名前を目にする機会はあるだろう。  中でも、頻繁に訪れる生徒の事くらいは記憶しているだろう。  それとは別に、中等部では生徒会で活動をしていたから、どこかで見聞きしていてもおかしくはない。  知る機会なんていくらでもある思いつつも、どこか抜けた所のある人だから、ちゃんと知っていてくれたのが嬉しかった。  俺の素朴な一言に、譲さんは首を巡らせて心外そうに顰めた顔をこちらに向けた。  顔が近くて、今更ながら心臓の音が聞こえていないかと焦る。 「あのね、君は僕を侮りすぎ」 「失礼しました」 「本当にね」  素直に謝ると、譲さんはクスクスと笑って許してくれた代わりに、するりと腕の中からすり抜けてしまった。  譲さんの温もりに触れていた箇所が無性に寂しい。  間近で見た彼の綺麗な肌の白さが、残像のように目に焼き付いていた。 「俺も、名前で呼んでもいいですか?」 「誰を?」  すかさず訊き返されて、少なからず脱力してしまった。  誰を、って。 「高間さんに決まっているでしょ」 「ああ、そっか。いいよ」  相変わらずの軽い了承は、いつもより少し弾んで響いた。  もしかして喜んでいるのだろうか、とその表情を窺おうとした矢先、譲さんが何かを思い立ったように振り向いた。  そして、じっとこちらを凝視したまま、探るように口を開いた。 「でも、祐斗くんの方こそ知ってるの? 僕の名前」  まるでさっきの仕返しとばかりに訊いてくる。  確かに、生徒が教師のフルネームを知る機会は、その逆よりも少ない。  けれど隠されている訳でもないし、知ろうと思えば手段はいくらでもある。  例えば、学校の広報や職員名簿。  わざわざそんな物を調べなくとも、保健室の入り口に掲げられている防火担当責任者の札で毎回その名を目にしていた俺には、愚問中の愚問だった。  譲さんの口から自分の名を呼ばれたそれだけの事で、いつもより少し近づけた気がして、漆黒と言うには明るいその髪に触れた。 「侮らないでください、譲さん」  俺が名を呼ぶと、瞼を閉じて嬉しそうに微笑んだ。  重ねた唇から笑みが漏れた。
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