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回想4
初めてのキスは、付き合って一ヶ月後だった。
恥ずかしそうに俯いた譲さんの顔が、ゆっくりとこちらを向き嬉しそうに緩んだ。
互いの唇が軽く接触する程度だったけれど、それでも満たされるには十分だった。
手を握る、肩を抱く、キスをする。
少しずつ距離は縮まっていったが、そこまでだった。
決定的に突きつけられたのは、高校一年生の夏。
保健室の奥の小部屋で、触れ合いがごく自然に過剰になっていったその矢先の事。
「これ以上は、駄目」
体に触れながら舌を絡めるキスの途中、譲さんは強い意思を持ってこの先に続くであろう行為を拒絶した。
息を乱しながら、俺の肩と胸元に手を当てて突き放すように腕を伸ばす。
目にはうっすら涙を溜めて、濡れた口元をきゅっと結んで顔を逸らした。
「…………はい」
譲さんの気持ちを汲んで、渋々、本当に渋々、愛しいその体から手を放した。
しかしながら、昂った気持ちと、熱くなった体を持て余して不機嫌を隠すことができなかった。
そんな俺の様子を察した譲さんは、申し訳なさそうな表情でこちらを見ていた。
「君でも、そういう顔するんだね」
「しますよ、普通に」
恋人に拒絶されて不満に思わない男がいるだろうか。
相手が大人で、自分が子供なのは重々承知している。
少しでも「子供」だと思われないように、聞き分けの良い振りをしてきた。
だから、この人の前であからさまに不満を顔に出すなんて、恐らく初めての事だった。
「ごめんね。でも、僕は大人で、君はまだ高校生だから」
「分かっています」
「それに、ここは僕の職場で、君にとっては神聖な学び舎だ」
「神聖かどうかは疑問ですけど、そうですね」
分かり切った事を再確認するように譲さんが言うので、納得しているとの主張の為にただ肯定を繰り返していた。
子供を諭すように言わなくても理解していますよ、と頷く。
「さすがに、立場と場所が良くない」
「それは、立場と場所が違えば、これ以上の行為も可能という事ですよね」
揚げ足を取る訳ではないが、念を押すように訊いた。
そのどちらも、簡単に変えられるものだ。
呆気ないくらいに。
永遠に高校生のままではいられないし、高校生でなくなればこの場所に戻ってきたくとも戻ることは叶わない。
それが三年も先の事だしても、大した問題ではない。
俺にとっては、譲さんと過ごす時間がこの先もずっと続く事が重要なのだから。
「そうだね」
果たして、俺にそこまでの覚悟があると分かっているのか、譲さんは穏やかに微笑んだ。
今は、それで十分だ。
「分かりました」
「君は本当に物分かりが良いね」
言質を取れた事に満足をして納得すると、譲さんが今度は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
二人の関係について、もっと食い下がると思ったのだろうか。
そんな意味の無いことを、この人の前でする筈がない。
「相手が譲さんだからですよ」
「そうなの?」
意外だったらしく、瞳が大きくなった。
譲さん以外にどう思われようと関係ない。
「嫌われたくないので」
本心は隠して、無理矢理微笑んだ。
我が侭な子供だと思われるのも、面倒な子供だと思われるのも遠慮したい。
年齢差を縮める事はできないが、精神年齢なら対等でいられる余地がまだある。
彼の重荷にならないように、頼られる存在であるように。
その為の努力は惜しまない。
どれだけ時間が掛かったとしても、必ず手に入れてみせる。
「こんな事で嫌ったりなんてしないよ。可愛いな、と思うくらい」
そう言って微笑む譲さんは美しくて見惚れてしまうが、セリフには不満がある。
駄々をこねるのが可愛いなんて、完全に子供扱いじゃないか。
「それが嫌なので」
「可愛いな」
思わず呟いた一言を拾った譲さんが、肩を揺らしてクスクスと笑った。
その仕草と表情の方が、よっぽど可愛いと思う。
これで十歳も年上なんて何かの間違いだろう。
「……どっちが」
「何か言った?」
「いいえ」
誤魔化したところで、譲さんには聞こえていただろう。
俺が何を言っても、大人の余裕とばかりに目を細める。
「約束するよ、祐斗くん」
どうにも埋められない焦燥を掻き立てる微笑み。
白い手から立てられた小指が目の前に差し出された。
「君が卒業したら、……」
小指の向こうで、真剣な表情の譲さんがゆっくりと唇を動かすのが見える。
―――僕の全てをあげるから。
その時には美しく微笑むその余裕ごと全てを奪うつもりで、迷うことなく、その細い指に自らの小指を絡めた。
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