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履行
本日、ようやく高校を卒業した。
式を終えて、関わりのあった人達に挨拶をして、早々に学校を後にする。
完全に気もそぞろだった。
慣れ親しんだ場所を離れるのは感慨深いものがあるが、長々と別れを惜しんでいる時間はなかった。
目抜き通りから少し脇に入った閑静な場所に建つマンションの、五階の奥の部屋の前で足を止めた。
インターフォンを押すと同時に鳴る無機質な音を聞きながら、落ち着かない気持ちを何とか静めようと息を吐いた。
「はい、どちら様?」
扉の向こう側から応対する声はどこか他人行儀で、若干の違和感を抱きつつ口を開く。
「西原です」
「えっ!? 祐斗くん!?」
名乗った途端、声だけで激しく動揺しているのが手に取るように分かる驚きの声が聞こえた。
俺が訪ねてくる事は承知している筈なのに、何故そんなに驚くのだろうか。
「ちょっ、ちょっと待って、すぐ開けるから」
ガタガタと不穏な物音と、やけに響く鍵を開ける音。
そして、開けられた扉から飛び出して来たのは、赤い顔をした恋人の姿。
火照ったように上気した頬と、鼻孔を擽る石鹸の良い香り。
……シャワーでも浴びていたのだろうか、と邪推して部屋に上がる前から昂ってしまう。
「ごめんね、こんなに早く来てくれるなんて思わなくて」
焦ったようにそう言って、ぎこちない動作で室内に招き入れてくれた。
恙なく卒業式を終え、一旦家に帰り制服を着替えてから来たから、それほど早い時間ではない筈だ。
むしろ、遅すぎるくらいだと焦っていたくらいだ。
「早く来すぎましたか?」
「ううん、そういう意味じゃないんだ」
リビングに通されて、ソファに座るように促される。
俺が座るのを見届けると、譲さんはそのままキッチンに向かった。
すぐに、両手にマグカップを持った譲さんが戻ってきた。
「コーヒーで良いよね」
「はい」
カップを受け取って、掌でその温かさを感じた。
コーヒーは譲さんの香りだ。
譲さんはあまりコーヒーを飲む人ではないが、その匂いを嗅ぐと譲さんの顔が浮かぶ。
保健室で一緒に過ごす時、いつもコーヒーを淹れてくれていたから。
自分は甘い飲み物を好むのに、俺のために常に用意してくれていたから。
今も、譲さんの持つカップからはコーヒーではなく、レモンティーの甘い香りがしている。
「友達と別れを惜しんだりして、もっとゆっくりするものだと思っていたから、びっくりしたよ」
譲さんはそう言いながら俺の隣に腰を下ろし、ふぅと一息ついた。
一人分の重みが加わって、ソファが僅かに沈む。
微かに体が触れて、冷静であろうと努める心が激しく揺れた。
友人や後輩たちとの別れを惜しむよりも、譲さんの元に駆けつける方が重要だった。
三年前の約束を果たしてもらいたい一心でやって来た、浅ましい奴だ。
―――君が卒業したら、……。
「約束しましたから」
「……そうだね」
この三年間、約束を忘れたことなど一度もなかった。
当時の事を思い返すと、仄かに体が熱くなる。
流石に三年は長すぎると思う時もあったが、実際に過ぎてみるとそれ程でもなかった。
側にいる事は許されていたし、共に過ごせるだけでも十分だったから。
「あれから一切この話をしなかったから、すっかり忘れられてしまったのかと思っていたよ」
そう言って、譲さんは肩を竦めて苦笑する。
確かに、卒業直前に保健室で譲さんが確かめるまで、二人の会話にこの話題が上ることは無かったし、自分から口にする事もなかった。
一言でも口にしてしまったら我慢が効かなくなりそうで、無意識のうちに避けていたのかもしれない。
けれど、それを言うなら譲さんも同様だ。
約束をした小指を離してから、互いにこの話に触れる事はなかった。
「考えないようにしていました」
「どうして?」
「指折り数えるのが苦手なので」
常に頭の中にはあったが、その期限から目を逸らしていた。
あと何日、なんてカウントダウンをしていたら気が狂ってしまいそうだった
からだ。
この人と個室に二人きりというシチュエーションを意識してしまったら最後、約束なんて簡単に吹き飛んでしまう。
「もう、必要ないという事ではなくて?」
ふーっとマグカップの中の熱い紅茶に息を吹きかけながら譲さんがぽつりと呟いたのは、全く理解できない一言だった。
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