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1・皇太子の負傷
「人間がやけに多いな。狭苦しい場所にごちゃごちゃと。」死神は言った。
「皇太子が重傷を負ったのだから、当然でしょう。」死神の秘書マリクは言った。「部屋の真ん中のベッドに寝かされているのが、皇太子パラス様です。」
首都から徒歩で一日ほどのサリウス村。その村役場の一室に、多くの人が集まっていた。バラスの供の者たちや、村長をはじめとする役場の者たちだ。皆一様に心配そうな表情を浮かべている。
死神とマリクの姿は、人間たちには見えていない。
「何度も言うが、わしの仕事は死者を冥府に迎え入れることじゃ。生きている人間に用はない。」死神は言った。
「こちらも何度も言わせていただきますが、重傷を負っておるのは皇太子なのですぞ。」マリクも負けずに言い返した。
「それが何じゃ? わしは下っ端だが神じゃぞ。人間など皆一緒じゃ。」
「そうは行かないのです。最高神ゼウスが、人間の世界が乱れるのを好まないのです。」
マリクは神と人間のハーフとして生まれ、死神の秘書となった。死神の仕事を補佐するだけでなく、ゼウスと死神の間の連絡係も、重要な任務だった。
「アリアス様、ザカリア医師が王宮よりお見えです。」若い男が部屋に入ってきて、背の高い人物に報告した。
アリアスは、供の者たちの中で一番地位の高い人物だ。貴族階級に属する者らしく、身なりも立派だった。
「通せ。」アリアスは命じた。
ザカリア医師が入ってきて、診察を始めた。脈を取り、体温を確かめてから、大鹿の角に突かれた胸の傷を念入りに調べた。
「容体はどうなのだ?」アリアスが尋ねた。
「最初に診させていただいた時と、ほとんど同じです。」
「というと?」
「傷は決して浅くはありませぬが、お命に関わるほどの深手ではありませぬ。目をお覚ましになってもよいはずなのですが・・・」
「目が覚めたら、この滋養たっぷりのスープを召し上がって頂きたいわ。」若い娘が、湯気の出ている椀をバラスの顔に近づけた。
「出過ぎた真似は止めなさい、エリス。」村長のテゼーが言った。
「まあまあ、村長殿。娘さんのお優しい心遣いを叱ることもありますまい。香りや音によって、目を覚ますこともあるのですぞ。」ザカリアは言った。
エリスは、テゼー村長の娘だ。今年で十七歳になる。バラスが猟場で怪我を負い、村役場に担ぎ込まれてから、献身的な看病を続けていた。
「座って休んでおられたバラス様に向かって、大鹿が突進してきたのを、私も見た。その勢いは凄まじかった。
だが、バラス様は狩りの名手だ。ご自身が怪我を負うことなく、大鹿を仕留めることができたはずだ、と私には思える。なぜ角で突かれてしまったのか? 何か体調に異変でもあったのだろうか?」アリアスがザカリアに尋ねた。
「今のところ何ともわかりかねます。」ザカリアは言った。「一刻も早く目が覚めることを願うばかりです。」
「そうか・・・」
「では、私はこれにて。明日にでもまた参りましょう。」ザカリアは立ち上がり、ドアに向かって歩き出した。
「王宮で何か動きがあったのではないか?」アリアスは、ドアの手前でザカリアを呼び止め、尋ねた。
「私は一介の医師ゆえ、詳細なことはわかりかねます。」
「噂でも何でもよいのだ。」
「実は、『バラス様の容体が思わしくないなら、ミレイユ王子を皇太子に立てるべき』と、アゾフ大臣が、王に進言されたという噂を聞きました。」
ミレイユはバラスの異母弟で、二歳下の二十歳だ。ミレイユの母はアゾフ大臣の娘だから、もしミレイユが皇太子となれば、アゾフ大臣は次の国王の祖父という立場を手に入れることになる。
「やはりそのような動きが出て来るか。王は何とお答えになったのだ?」
「『バラスの存命中に、別の者を皇太子に立てることはない。』とお答えになったとのこと・・・これも噂の域を出ませぬが。」ザカリアは、一礼して部屋を出て行った。
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