43人が本棚に入れています
本棚に追加
Ⅴ 忘却の里
幾つかの山を越え、深い霧を抜けた先にあったのは、森に囲まれた集落らしき光景。
空気が澄んでいるのを感じる。
どこからか激しい水音が聞こえてくるので、恐らく滝があるのだろう。
「ここが、忘却の里……?」
イリスの母親、つまりわたしの乳母の故郷。
ふくよかでいつも笑顔だった彼女を思い出す。そんな彼女の息子が、イリス・ティージュだ。
彼とわたしは、生まれたときから共に育った。
琥珀色の髪と瞳を持つ引っ込み思案の少年は、そのまま、穏やかな青年となった。
【あなたは、私の希望でもあります。最初で最後のお願いです。どうか、生き延びてください】
一度だけ抱きしめられた。あのときの熱は今でも覚えている。
あれから百年経った。
彼は百歳を超えて、まだ生きているのだ……。
それにしても、秘密結社フォイユとはいったい何なのだろう。
イリスの孫だと名乗ったアベイユ青年は、その目的がグルナディエ王国の滅亡と、リアの殺害だと語った……。
シュカが話しかけてくる。
『美しい場所だ』
「そうだね」
木漏れ日は地面に透明な宝石を散りばめる。
しばらくわたしたちは留まっていたが、人の気配に身構える。
すると、わたしたちの前にひとりの青年が姿を現した。
ダークグレーのベストにジャケット。センタープレスの入ったパンツ。
前髪は整髪剤で後ろに撫でつけていて、額が露わになっている。
まるで客人を迎えるような装いに見えた。
「お待ちしておりました」
恭しく頭を下げてきたのは、琥珀色の髪と瞳の持ち主。
会うのは三回目だ。
わたしは決して警戒を解くことなく、彼の名を口にした。
「アベイユ……」
「名前を憶えていてくださったとは、光栄です」
アベイユが唇に薄い笑みを浮かべた。
イリスの穏やかな微笑とはかけ離れているのに、どこか似ていて、胸が痛むようだった。
なんとか平静を装い尋ねる。
「待っていた、というのは?」
「そろそろ、祖父へ会いに来る頃だろうと思っていました。今日は調子が優れないのでお会いしていただくことはできませんが、貴女のことは丁重にもてなすよう言われています。どうぞ、こちらへ」
『ジャン、』
シュカの言葉を小声で制する。
「大丈夫。その時が来たら呼ぶから」
『承知した』
ばさっ、と大きな動作でシュカが羽ばたき、空高く消えた。
わたしはシュカを見送るとアベイユへ視線を移す。
アベイユは両手を軽く挙げた。
「そんな鋭いまなざしを向けないでください。私は、いえ、我々は貴女へ危害を加えるようなことは一切ありません。その点でいえば、この里は世界中のどこよりも貴女にとって安全な場所ですよ」
「……それは、イリスの指示?」
「はい。ネニュファールの生まれ変わりの傍にいるよりも、ずっと、ずっと、貴女にとって穏やかな時を過ごせると断言します」
「その言い方はやめてちょうだい。リアは確かに王子の生まれ変わりだけど、マグノリアという一人の人間よ」
強く訂正すると「善処しましょう」と、アベイユは非対称な表情で答えた。
それからわたしに背を向ける。
「ご案内します」
意を決して、後に続く。
ロングスカートがふわりと空気を含んだ。
リアに見立ててもらった魔女集会のための、戦闘衣装だ。
大地をしっかりと踏みしめて歩く。
「ここには現在五十人ほどが暮らしています。そもそも忘却の里は、およそ百年前には限界集落でした。グレーヌ王国が崩壊させられたとき、なんとか逃れてきた人々が集まり、現在の状況になったのだと祖父からは聞いています」
わたしが絶望の淵にいた頃の出来事、なのだろう。
イリスはきっと先陣を切っていたに違いない。
住宅は木造で、王都の一般的な住宅とは違い、平屋造りのようだった。
それぞれ柵に囲まれた庭があり、野菜が育っていたり、鶏がのんびりと歩いている。
ここには、ちゃんと人間の暮らしが根づいているのだ。
「基本的には、自給自足。そして少しの物々交換で、私たちの生活は成り立っています」
「その裏で秘密結社として暗躍しているってことね」
アベイユが立ち止まり、わたしへ視線を向けた。
「はい。この里の人間すべてが、秘密結社フォイユのメンバーです」
最初のコメントを投稿しよう!