Ⅰ 旅立ちまでのプロローグ

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 時計台の、少し褪せた若草色の屋根に降り立つ。  人間だった頃は見上げるばかりだったからふしぎな感じがする。それでも、懐かしさは込み上げてきた。 「……時計台は、変わってないね」  眼下に広がるのは大通り。  両脇に連なる煉瓦造りの建物は、噴水のある広場は、知っているようで知らない場所に思えた。  行き交う人々の衣服や髪型は、わたしが暮らしていた頃とはどことなく違うように見える。  言葉にはしていたものの、改めて感じる。この地はもう、わたしの故郷では、ないのだ……。 『水占いで現れた少年を探すんだっけ~?』  シアがわたしの肩から屋根に飛び降りるのと同じタイミングで、声が出てしまう。 「見つけた」 『なんと』  自分でも驚いた。こんなにすぐ、見つけられるなんて。  だけど、分かってしまった。  土埃のなかでもはっきりと。まるで、輪郭が光っているようだった。  大通りの隅をよろよろと歩く少年の姿。  煤まみれの黒髪は艶がなく、ぼさぼさで。  (ろく)に栄養を摂っていなさそうな骨と皮だけの腕には傷や痣だらけで。  服だって洗っていなさそうな、ところどころ穴の開いているもので。  あまつさえ靴は片方しか履いていない。 「ほんとうに……あれが……?」  自分の目で見てもまだ信じられなかった。  胸が痛くなって、心臓の辺りを手で押さえる。  ……息が、苦しい。  確証はないのに。王子の生まれ変わりかどうかなんて。  それなのにどうして目を離せないんだろう。 『どこからどう見ても物乞いだね~。手に持っているのは盗んだものかな~?』  ぽて。 『あ、転んだ~』  少年がバランスを崩して地面に倒れる。同時に、持っていた食べ物をそこかしこへぶちまけた。  慌てて拾い上げようとしたところに、立派な身なりをした小太りの男が近づいて行く。 「この盗人が! ガキだからって容赦しねーぞ!!」  ごすっ!  鈍い音。  男が少年を蹴り上げる。  道行く人々は眉をひそめ、顔をしかめて通り過ぎて行くだけ。 『ありゃ、死ぬね。かわいそうに~』  シアがあくびをした。 『ジャン?』  シュカが声をかけてきたとき既にわたしは地上に降り立っていた。  少年に背を向けて小太りの男と向き合う。  突然現れた黒ずくめのわたしに、小太りの男は瞳を見開いた。 「あぁ? なんだお前は」 「通りすがりの者です。いくらなんでも、幼い子どもをここまで痛めつけるなんてやりすぎでは?」 「ふん。何も知らないくせに。こいつは盗みの常習犯なんだよ」  倒れ伏せたままの少年を男が靴で踏みにじった。  わたしはちらりと視線を落とす。少年は悲鳴を上げることもせず、歯を食いしばって耐えているようだった。  ……これ以上は見ていられなかった。 「わたしが弁償します。今日のところは見逃してもらえませんか」  首にかけてきたネックレスを取り外し、男に差し出す。  色とりどりの宝石が連なる豪華なそれは、わたしが魔女となってから取り戻したフォイユ家のコレクションのひとつ。見る者が見れば、歴史も価値もある代物だ。  さっと男の目の色が変わる。 「ふんっ。どうせならこの先もなんとかしてくれよっ」  奪うようにしてネックレスを掴むと、男は大きな声を出しながら去って行った。 『よかったの~?』 「あれだけじゃないから」 『だが、あんな輩に宝石の価値が解るものか』 『まぁ、人間なんてあっという間に死んじゃうし、すぐ取り戻せるか~』  わたしは重たく長い溜め息を吐き出した。  それからようやく少年へ振り向いてしゃがみ込む。  顔じゅう擦り傷だらけ。殴られた頬はあかく腫れている。唇の端は切れて血が出ていた。  なんて無様な、惨めな姿なんだろう……。  状況をまだ理解していない少年は、僅かに震えているようだった。 「喋れる? きみ、名前は? 何歳? 親は?」  できるだけ、冷たくならないように語りかける。  すると少年がゆっくりとわたしへ顔を向けた。 「……!」  今度はわたしが驚く番だった。  こんな状況でも光を失っていない、澄みきった菫色の瞳……。  見た目は全然違うのに。  瞳だけが、王子と同じ色をしていた。  彼は――間違いなく王子の生まれ変わり――。  動悸が速くなる。  自分で会いに来たくせに、こんな形で再会するなんて信じられなかった。  ほんとうは二度と会いたくなかった。だけど、足は自然と向かっていた。水占いをしてまで。空を飛んでまで。  そして、大事なネックレスを手放してまで。  この感情をどう説明すればいいのか、今この瞬間でさえ分からない。  泣きたいのか、怒りたいのか。  そのどちらでもないような……気が、した。 「大丈夫。わたしは」  それでも。  味方、と言うことはできなかった。  わたしはこの少年の()()に裏切られたのだから。すべてを奪われたのだから。  味方には、なれない。 「……わたしは、ジャン」 「ぼく、は、マグノリア。歳は分からない。親は、いない」  声変わりはまだ遠そうな、幼くて細い声。  10歳より下、だろうか。痩せすぎていて判らない。  それにしても。  長い長い人生で――決断というのは、こうも唐突に迫られるものなんだろうか?  今や、からからに喉が渇いていた。  味方にはなれない。  だけど。  見捨てることも、できない。  それならば。 「10年。10年できみがひとりで生きていけるようにしてあげる。もし、この手を取ってくれるのなら」  わたしは右手を差し出す。  マグノリアの瞳が大きく見開かれ、わたしをゆっくりと見上げた。  彼は迷わなかった。  わたしへとぼろぼろの手を伸ばして、きた。  いつの間にか震えの止まっていた手は、小さくて、やわらかくて、頼りなくて。  ――温かった。
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