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第十五話 運命の番
投獄されてどれくらいの時間が経った事でしょう。すぐにでも私は処刑されてしまうと思っていたけれど、太陽が上がりまた日が沈んで行く虚しい時間を過ごしました。
ここはジメジメとしていて、食事は一日に一回だと教えられ、粗末なベッドが一つだけありました。
看守の男性達の目は恐ろしく、居心地が悪いのは、暗殺の罪状とは別に夫を裏切った姦通罪も課せられているせいでしょうか。
いつ、処刑されるか分からない最期の時を私は、アルノーの事だけを考えて静かに聖書を読んでいました。そしてそれに飽きると私は、冷たいベッドの上で横になり、小さく膝を抱えるようにして目を閉じる事にしたのです。
――――お父様はもう処刑されてしまったのかしら。
――――お母様もきっと私を軽蔑したでしょうね。未亡人になったお母様は故郷に帰るのかしら。
幼い頃の厳しい躾を思うと、今でも恐ろしく感じますが、同時にお母様に対して申し訳ないと言う気持ちも生まれてしまうのです。けれど私は私の選択に後悔などしていません。
今は余計な事は考えず眠りにつきましょう。
天井から滴る水音と、時折聞こえるネズミの声に怯えながらいつしか私は眠り誘われました。
けれど、粗末なベッドに慣れない私は、空腹と共に何度も浅い眠りから目が覚めてしまったのです。
微睡みの中、水音に混じって冷たい階段を誰が上がってくる音がして私は自然と体を硬直させました。何人かの足音と共に、鍵が擦れ合う音がして看守がやってきたのだと知りました。
牢屋の鍵を開けられる音がして、私は嫌な予感がし、身を守ろうと体を起こすと看守の男性達が舌打ちする声が聞こえました。
「起きたか……騒ぐなよ」
「なぁに、明日処刑される身だ。ギロチンが恐ろしくなって、泣き叫んでいると思われるだろう」
「すまないな。俺たちは金を受け取っちまったし、あんたは美人だ」
私は恐怖におののき、声も出せずにベッドの端で小さくなりました。残念な事に、この部屋には唯一武器になりそうなフォークもナイフも無いのです。
抵抗するすべは無く、彼らの話によるとどうやら私の処刑は明日になるようです。本当の恐怖を感じると声を出すことも出来ず、震えるしかないのだと絶望しました。
「やっ……、アルノー! 助けて!」
看守達が近づき、両腕に触れようとした瞬間、街の方から獣の雄叫びと共に、爆発音が聞こえました。男たちは何事かと顔を上げると塔のくり抜かれた小さな窓を見つめます。
私は自分の体を守るようにして、一体何が起こっているのかも分からず震えていました。外の異様な雰囲気に、看守たちは血相を変えると私を振り向きます。
「命拾いしたな。大人しく待っていろ」
「それにしても一体何だ、火事なのか?」
「いや、違う……なんだか外の様子がおかしいぞ」
看守達は、口々にそう言うと、再び牢屋に鍵をかけると慌てた様子で階段を下りていきました。私は胸を撫でおろし、一体外で何が起こっているのだろうと心配になって、小さな塔の窓から外を眺めました。
街に火の手が上がっているのか、わずかに赤い光が見えます。数人の看守達も慌てふためき何やら話し込んでいるように見えましたので、これは尋常では無いと気が付きました。
私は再びベッドに座ると胸元を抑え、心臓が高鳴るのを感じたのです。
――――アルノー、貴方なの?
獣人狩り?
それとも、内乱のようなものが起こっているのかしら……あるいは、隣国からの攻撃なのでしょうか。私はともかく、アルノーが無事であってほしいと胸元で手を組むと強く祈り続けました。
どれ位の時間が経った事でしょう、外で看守達の怒号と銃声、争うような音がして私は鉄格子を掴むと、先の見えない階段を覗こうとしました。
しばらくすると静かになり、やがて何者かの影が見えると、私は鉄格子から離れて後退ります。一体誰が、この牢獄に用があって足を踏み込むと言うのでしょう。
もしかして、会いたいと願い続けていたアルノー?
――――そんなまさか。
――――だって、私はアルノーが憎むお父様の血を引くのですから。
――――けれど、あの夜のアルノーの瞳を信じたい。私と同じ気持ちだと信じたい。
そして階段を登ってきたのは、大きくてそれはそれは美しい黒豹―――。
「アルノー?」
「オリーヴィアお嬢様!」
私を見つけた黒豹の美しい瞳が揺らぐと、私の頬に涙が伝うのを感じました。ヒグマほどのある大きさのアルノーは鉄格子に噛みつくと、唸りながら、人が通れるほど曲げ人間の姿になると、私を強く抱きしめました。
これは夢なのでしょうか、もう二度と逢えないと思っていたアルノーが目の前にいるなんて、私の願いを、女神エルザは夢の中で叶えて下さったのかしら。
そうならば、なんて素敵な事でしょう。
「アルノー、どうして」
「――――オリーヴィア、君を愛してる」
私を離したアルノーはそう言うと深く口付けたのです。
柔らかな唇も、深く絡まる舌の感触も一度だって私は忘れた事なんてありません。
愛しさと切なさで飲み込まれてしまうような貴方との口付けはもどかしくて、貴方に心が届かない事にいつも苦しくて……どんな瞬間も記憶に残っているのです。
そして『愛してる』の言葉は現実なの?
唇が離れて、両手で頬を包まれた時、月の光に見た優しい緑と金が混じった神秘的な瞳は、夢ではないのだと感じたのです。
私は涙を流しながら、問い掛けました。
「貴方の本当の名前を教えて……」
「――――ディートリヒ」
「ディートリヒ、綺麗な名前ね……。愛してる、ディートリヒ」
月の光に照らされて、私達はもう一度深く抱きしめ合いました。長い時を経てようやく私達の想いが一つになったような、離れ離れになっていた魂の欠片が一つになって溶け合ったような気がして、私たちは無言のまま涙を流していました。
静かな言葉のない世界で、私たちは互いにこれから先何が起こっても、絶対に離れ離れにならない事を誓ったのです。
✤✤✤
私はディートリヒに抱きかかえられるようにして、塔を降りていきました。その途中でお父様が幽閉されている牢屋を通りがかったのです。お父様は私を見るなり、鉄格子を両手で掴んで叫びました。
「オリーヴィア! 助けてくれ、今ここから出してくれたら愚かな行いも娘として許してやる! ユーディトは確かに耄碌していたからな、早く義理の息子のギルベルトに代替わりしてくれと思っていた。せいせいしたよ。アルノー! 私を助けろ、お前は私に助けられた恩があるだろう。獣人達は義理堅いと聞くぞ」
ディートリヒは冷たい眼差しを向けたまま無言で立ち尽くしていました。私はディートリヒに降ろすように頼むと、お父様の真正面に立つと言いました。
「お父様。もし、私が娘として最後にお父様にお話できる事があるとすれば、一つだけ。女神エルザの信徒として悔い改め罪を償って下さい。貴方は、獣人に対して、とうてい口に出来ないほど残虐な事を行いましたね。そうして命乞いをした彼らの事も、無慈悲に命を奪ったのです。
ですから、お父様……、私は貴方を助けません」
私の言葉に、お父様だけでは無くディートリヒも驚いたように見つめました。命だけでも助けて欲しいと、私が願うと思ったのでしょう。
冷たい人間だと思われたかも知れませんが、罪のない獣人達の命を、残虐に無慈悲に奪ったことを許してはならないと言う考えを、改める事は出来ませんでした。
死の瞬間まで自分の罪を悔い、手に掛けてしまった魂達が、平穏に眠れるようにと女神に祈りを捧げて欲しいと願ったのです。
「親不孝者が! お前は悪魔の子だ! 獣人の奴隷と逃げた所で未来など無いぞ。オリーヴィア、お前は脱獄囚なのだからな」
「――――アルノーは奴隷なんかじゃないわ、お父様。彼は滅びの王の忘れ形見……ディートリヒ」
「アルフレッドよ。今ここで俺がお前を殺すことなどたやすいことだ。だが、オリーヴィア……彼女に敬意を払って辞めておく」
そう言うと、再びまるで大切な宝物を扱うように私を抱きかかえてくれました。言葉を無くして跪くお父様から目を離すと、私はディートリヒの首元に抱きつきました。
塔から出ると、すでに空は白み始め朝日がリーデンブルクブルク城を照らすように昇り始めていました。
ゆっくりと降ろされた私はディートリヒに肩を抱かれ、夜明けの風に髪を靡かせながら静かに彼を見上げると、彼は微笑み前をまっすぐ見つめます。
「新しい夜明けだ、オリーヴィア」
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