彼女が歌うとき

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 扉を開けて店内に入る。バーテンダーがカウンター越しに僕を見た。 「いらっしゃい」  街のはずれ、あまり治安の良くない通りに面したその店は薄暗く、すえた臭いがこもっている。狭い店内には古びたテーブルと椅子が乱雑に配置され、奥には塗装のはがれたアップライトピアノがぽつんと置かれていた。  店内の人間は、バーテンを含めた全員が『ナチュラル』だった。つまり、何らかの遺伝的背景により進化しなかった人々だ。この場で思念交換を試したわけではないが、そういうことは感覚でわかる。  ふらつく足でカウンターに寄りかかると、初老のバーテンは僕を哀しげに見た。 「だいぶ飲まれてますね」  彼の懸念をよそにウイスキーを注文する。添えられたチェイサーは無視し、小さなグラスを一気にあおった。腹の中がカッと熱くなる。同時に、くすぶっていた怒りと羞恥が再び燃え始めた。  数時間前、業界のトップ・ライターが僕の仕事についてレビューを配信したのだった。『新進気鋭のエージェント、トニー・マルッキが仕掛けたライブは、私たちを驚愕させた。彼のアサインした歌手たちがわざとらしい思念(イメージ)を歌に乗せてまき散らし始めると、私の友人はオリーブをのどに詰まらせ……』ああ、悪かったな! どうせ僕には才能を見抜く才能がないんだ!  恨みごとが口に出ていたらしい。突っ伏していた頭を上げると、バーテンが目をそらした。もうどうにでもなれだ。空のグラスを突き出して二杯目を要求する。  そのとき、店の奥で動きがあった。しょぼくれた爺さんがピアノの前に座り、ふたの鍵を開けている。 「……なんだあれ」 「駆け出しの歌手に、場所を貸してまして」  バーテンの言葉に思わずうめいた。音楽関係でしくじって酒に逃げたあげく、場末のバーでしろうとの歌を聞かされる。なんて皮肉だ。  その歌手とおぼしき若い女が、バックヤードから現れた。体に張りつくような安っぽいドレスに、おざなりにまとめ上げた髪。卑猥な言葉を投げる男たちに悪態をつきながら、彼女はピアノのそばに立つ。  爺さんの前奏が始まり、その調律されていないキンキンした音に僕の肌は粟立った。観客の誰かがゲップをする。何もかもがひどく惨めだった。  彼女が歌い出すまでは。  古臭いスロー・ブルース。だが、歌い出しから僕の耳には他の雑音が入らなくなった。  彼女は間違いなくナチュラルで、その歌から思念(イメージ)を感じ取ることはない。それなのに、彼女の歌からは燃えるような感情がほとばしっていた。  薄汚れたバー、野卑な客たち、そこで歌う自分自身。それら全てに対する怒りが、彼女の目の中で(おき)火のように輝いている。  一曲歌い切ると、彼女は仏頂面のまま引っ込んだ。僕は動くことができなかった。
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