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なんとか控え室に戻ると、ラックスは僕をソファに座らせて首回りを確認した。
先ほどのできごとは、表向きは酔っぱらいのケンカということになったらしい。実際は何があったのか知りたがる彼女に詰め寄られ、僕は洗いざらい白状した。
「そんなことで殴ったの? バカじゃないの?」
「バカとはなんだ。僕は君が侮辱されたから……」
「そんなの、いつものことでしょうが」
「何を言うんだ」と言おうとして、僕はいつかの職務質問を思い出した。それに寒いテラス席。場末のバー。
「さっきのスピーチだってさ。ハイ・ライフの奴らのしたり顔、見なかった?『恵まれないナチュラルの子どもたちに、より良い教育を与えます』なんて言って」
ラックスは『旧人』と呼ばれるのを嫌がるが、僕は『ミュータント』と呼ばれても気にしない。それは僕らが多数派で、世界が僕らに暮らしやすくできているからだ。
「でもまあ、ありがと。怒ってくれて」
「それは……」僕は恥ずかしさにうなだれた。「……ごめん」
ラックスの怒りが失われることを心配していた自分は、なんて傲慢な奴だろう。彼女の怒りの源は常に目の前にあった。今まで気がつかなかっただけなのだ。
「え、ちょっと、何言ってんの? 顔上げなよ」
突然落ち込み始めた僕に、ラックスの声が大きくなる。
「さっきからおかしいよ? 気持ち悪い……まさか、頭打ってないよね?」
相変わらずひどいことを言っている。だが目を上げると、その眉尻は下がっていた。彼女も、僕の様子から何かを感じ取ったのだろう。
僕たちは思念以外にも交換できるものがある。そんな気がした。
「グレイディさん? 大丈夫ですか?」
控室のドアが控えめにノックされる。僕たちは顔を見合わせた。
「まずい。どうしよう?」
さっきの暴力沙汰を思い出し、僕の全身から嫌な汗が吹き出る。それを見たラックスが意地の悪い笑みを浮かべた。
「何ビビってるのさ。もちろん歌って帰るのよ。あっちが嫌だって言ってもね。何があろうとショウ・マスト・ゴー・オンでしょ!」
そう言って、座り込んだ僕に片手を差し出す。大きな黒い瞳の中で、今日も世界が燃えていた。僕は彼女の歌が好きだ。例え、その背後に怒りや苦しみがあったとしても。
彼女が歌うなら、そこが月の裏側の中国軍基地でも僕はついて行くだろう。
「……わかったよ」
僕はその手を握った。ラックスは僕の手をぎゅっと握り返した。

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