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さようなら
家族のリリが死んだ。
天からお迎えが来たのだ。
彼女と出会ったのは、10年ほど前。
私が夫である克也とまだ付き合い始めたころのことだった。
デートのために出かけたショッピングモールのペットショップ。
なんとはなしに見つめていたガラスの中に、彼女はいた。
ふわふわのぬいぐるみにがぶりとかみついて、ぶんぶんと頭をふっているふわふわの彼女。
その本能むき出しの嚙みつきに、私は、惹かれた。
「抱っこしてみますか?」
あまりに真剣に見つめていたからだろう、ペットショップの店員さんに話しかけられる。
克也の顔をちらりと見る。
デートの最中に犬を抱く女をどう思うかということが頭をよぎったのだ。
しかし、克也は私の心配をよそに、にこにことして「抱かせてもらいなよ」と言った。
私は安心して、店員さんに「お願いします」と軽く会釈をする。
「ほんとにふわふわなんだ、すごい」
彼女をそおっと抱きしめてみる。
すると、先ほどまでの野性味あふれた姿はどこへやら、もともとそうすることが当たり前だったかのように、腕の中にすっぽりと収まった。
私が頭を撫でると尻尾なんか振っちゃって嬉しそうに。
「かわいいなぁ」
克也も彼女のことを撫でる。
彼女は克也に撫でられても尻尾を振り続けている。
人懐こい子なのかもしれない。
「あら、その子が抱かれて幸せそうにするなんて珍しい。実はいろんなお客さんに威嚇するので困っていたんですよ。ほら、それで、値段も大分下がっちゃって」
自分のとこの生き物に対してその物言いはどうなんだろうか。
そんなことを思ったが、店員さんの目論見通りにか、私の目は彼女の値札の方へと移る。
買えない額じゃない。
でも、ペットの世話にかかるお金、もしもの時の病院代などなどを考えると買うのは現実的ではない。
今一人暮らししているアパートもペット不可だから引っ越さなきゃいけないし。
私は心の中で首を振る。
一目惚れしたけれど、現実を見なきゃね。
「ありがとうございました」
彼女を店員さんに返そうと手を伸ばす。
すると、彼女はじいっと私の目を見つめてきた。
ずっと一緒だよね? そう言っている気がして、手を離すのをためらってしまう。
そんな様子を見てか、克也が言った。
「すみません。その子をかって帰りたいんですが、子犬を飼育するのに必要なもの一式と、世話の仕方、教えてもらえますか?」
「ちょっと、私の部屋じゃ……」
「うちならペット可だし、広いし大丈夫だ。お前も一緒に住むか?」
いきなりの同棲のお誘いに私は顔を赤らめる。
そんな。
ペットのついでみたいに同棲を決めちゃっていいのかな。
でも、克也は今まで付き合った人の中でとびきりいい人だし、同年代の中でもかなり稼いでいるほうだし……。
もう一度彼女の顔を見る。
克也と私を見比べるようにきょろきょろと見て先ほどよりも尻尾を嬉しそうに振っているその姿を見て、私の心は決まる。
「わかった、そうする」
「名前はどうする?」
聞かれて先ほどの野性味あふれた凛々しい彼女の顔を思い出す。
「リリ」
「リリ、か。かわいい名前だな」
その日から、私とリリは家族になった。
そして、克也と私が家族になったのも、その日からそう遠くないことだった。
そして、それからなんだかんだ抱えきれないくらいいろいろあって、10年ほど過ぎた今日、リリが死んだ。
老衰でそろそろかもしれないということは、かかりつけの獣医にも言われていた。
胸の中には、彼女の亡骸がある。
年老いてよぼよぼになった肌から、自分はもう十分生きた、ということを伝えてきているようだった。
でも、それでも私の涙は止まらないし、納得も出来ない。
もっと彼女は生きられたはずだ。
ぼろぼろと泣きながら、リビングへ向かう。
そこでテレビを見ている、夫に伝えるのだ。
最後に。
「克也、リリ死んだよ」
「おお、そうか」
「興味、ないんだね」
「そんなことないさ」
「ペット葬というのがあるみたいなんだけど」
そこではじめて、克也が表情を変える。
「それ、余計に金かかるんだろ? 俺は出さないぞ」
心の中でため息をつく。
そう、そうだ。
克也はいつもそうだった。
結婚してから、ずっと。
彼のその答えで、心は決まった。
表情を変えずに、私は彼に応える。
「大丈夫、独身時代の貯金で払うから」
「そうか」
また、興味をなくして克也はテレビに戻る。
振り返って、お風呂場に向かう。
まずは、リリの体をちゃんと綺麗にしてあげないと。
暖かいお湯に浸した布で優しく、優しく、拭いていく。
段々と、死後硬直が進んでいくその体。
涙が彼女に落ちてしまわないように、それを拭いていくのは一苦労だった。
全身を拭き終わり、優しく、彼女の死を悼むための準備を終える。
それから電話を二本。
一本は、ペット葬を扱っている会社に。すぐに予約を取ることができた。
葬儀は明後日に決まった。
そしてもう一本は、家族、姉に。
リリが死んだこと、彼女の葬儀は自分の独身時代の口座から払って欲しいということを伝える。
「ねえ、あんた……」
勘のいい姉がなにかを察したのか言おうとした言葉を、私は携帯の電源を切ることで遮る。
さあ、これで、準備ができた。
お迎えが来たから、さようならだ。
「飯、まだか? おっと、ちゃんと手は洗えよな。死体扱った手のまんま飯作るなんて最悪なこと、するなよな」
こちらを向きもせずに言う克也に私は振りかぶって突き刺す。
脳天をかちわってやろうと思ったのに、はじめて人を殺傷するために使うソレはなんだか重くて狙いが上手く定まらない。
ナイフは、彼の肩を裂く。
「ぎゃああああああああああ」
叫び声が響く。
痛いだろう。そうだろう。
だって、あんなに裂けて血が出ているもの。
「お、おまえ、なにするんだよ」
「お迎えが来たから、さよならするの。あなたと」
私は笑みを浮かべる。
遠くで電話が鳴っている。
私は痛みのせいで床に転がっている克也に馬乗りになる。
抵抗しようとするが、痛みのせいで両腕が上手く動かないのか、私を振り払うことができない。
再び刺そうとして、心の中の何かのストッパーが動いてしまう。
ほんとに?
ほんとに殺していいの?
私はその思いを振り払う。
あの日の、出会った日の、野性味あふれるリリの姿を思い出して。
そして、こいつがリリにしてきた悪行を思い出して。
私は断罪しなくてはならない。
ナイフをしっかりと握って、彼の胸に狙いを定め、突く。
一突目。
結婚してすぐ、リリに怪我をさせた罪。
二突目。
子供ができない私を何度も何度も殴った罪。
三突目。
子供が出来ない原因をリリに押し付けて、捨てようとした罪。
四突目。
不妊だとわかった私のことを職場で石女と言いふらした罪。
五突目。
仕事のストレスを、リリに対する暴力で発散した罪。
何度も何度も、突き刺す。
一突きに、罪をのせて。
リリと私の悲しい感情をのせて。
けれど、何度も何度も刺しているうちに、考えるのはリリのことばかりになっていく。
克也がリリにした数々の悪行を思い出して、心からあふれてきて私はめったに彼を刺す。
いや、もう彼だったものか。
いつの間にかそれはもう、ピクリとも動かなくなっていて。
私の体の周りは血まみれで。
手は人を何度もさした疲労のせいか、その恐怖のせいか、ぷるぷると震えていた。
かたりと、私はナイフを落とす。
「は、ははは、はははははははっ」
なぜだか、笑いがこみあげてきた。
段々と、それは乾いてく。
今まではリリと生きるという目標があった。
けれど今の私は、同志も、癒してくれる存在も、失った。
耐えてきた心も、限界だ。
ずっと、決めていた。
リリの死に、夫が心を動かさないようならば、お別れしようと。
彼は、離婚と死、私が考えていた二つの方法を自分で選び取ったのだ。
その態度と、行動で。
「さて、と」
私はふらふらとたちあがる。
電話がうるさい。
でも、大した問題じゃない。
こんなことをした私が会えるかわからないけれど、私のお迎えもすぐくるはずだから。
ナイフを拾い、胸に突き立てる。
刺す前にちょっぴり嫌な気分になる。
克也をさんざん刺したナイフで私は……?
「それが罰になるかもしれない」
そうしたら、リリと同じ天国に行けるかも。
そんな淡い期待を込めて、私は自分の手に力を込めて、突き刺した。
「お迎えが来たから、さよう、なら、だ、ね……」
途切れ途切れの意識の中、サイレンの音、バタバタという足音と、叫び声をあげる、姉の声を、きいた、きがした……。
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