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一、肖像/四月(1)
始業式のあとに立ち寄った写真部の部室前で、一彦は思いがけず恋に落ちた。
部室は校舎の北側のはずれにあって、今は人の気配もない。春先の冷たい廊下にずらりと並んだ部員の展示作品のなかに、そのポートレートはあった。
被写体はひとりの男である。ザラザラとした質感のモノクロ写真に、一彦は一瞬で目を奪われたのだった。
男の年齢は三十歳くらいに見える。もう少し上かもしれない。広いデスクに向かって、ペンと長い定規で図面のようなものを引く姿をとらえたポートレートだった。
一彦は写真の前に立って被写体の男を眺めた。
職業は、グラフィックデザイナーだろうか。建築士かもしれない。
しかしふと疑問に思う。図面を引くような作業は、今はパソコンでするのではないか。もっと年配の職人なら、こんなふうにペンと定規を使ったアナログな作業をするかもしれないが、被写体の男はまだ若い。
それならばこれは撮影のための演出だろうか。
そう思うととたんに、完璧に計算しつくされた構図に思えてくる。
カメラマンは被写体を、デスク越しにほぼ真正面からとらえている。背景は暗く沈み、デスク周辺だけが明るく浮き上がっている。
乱雑に積みあがった書類、散らかった筆記用具、飲みかけのグラス、灰皿、そこに置かれた吸いかけの煙草、そこからのぼる煙。ひとつひとつが念入りにセッティングされた撮影小物のように感じられた。
被写体の男も、もしかしたらプロのモデルかもしれない。
いやいや、写真コンテストじゃあるまいし、と一彦は頭を振る。高校の写真部のたかだか校内展示で、金のかかるプロのモデルを使うだろうか。使わないだろう。他の部員の作品を見ると、いずれも高校生らしい身近な題材ばかりだ。空もよう、道ばたの猫、同級生、家族。
この作品だけ、何かがとんでもなく異質だ。
一彦はさらに写真に目を凝らした。
見れば見るほど、被写体の彼は一彦の好みのど真ん中なのだった。
うつむいているので表情ははっきりわからないが、きっと低音の利いたいい声をしているのだろう。まさにオスの骨格の持ち主だ。
シャツの袖を無造作にまくった長い腕も好みだし、ペンを握る指の表情も、はっきりいって色気がありすぎる。しかも左利き。一彦は彼が左手で、器用にすいすいと図面を引くさまを思い浮かべてうっとりする。
撮影者は誰だ――白川健太。
どんな人物なのだろう。被写体との関係は?
「この写真、気に入ってくれた? 新入部員は大歓迎だよ」
背後から声をかけられて飛び上がらんばかりに驚く。声の主を振り返ると男性教師が立っていた。にこやかに話しかけてくる。
「一年生じゃないよね? 雰囲気的に」
「三年です。転入です」
それを聞いて、教師がぽんと手を打った。
「ああ、君が三年の転入生か。うちは進学校だから転入試験は難しかっただろう。よく受かったね。よほどの秀才なんだろうと職員室で噂していたよ」
「はあ」
「初めまして、写真部顧問の白川です。それ、俺が撮ったの」
一彦が見惚れていたポートレートを指さす。
「そうなんですか。どうりで」
「うん?」
「どうりで、他とぜんぜん違うわけだ。顧問の作品かよ」
ぼそぼそと一彦が独り言を言うと、白川は笑みを浮かべた。
「この被写体はね、俺の兄貴です。男前でしょ」
「そうなんですか」
一彦はあらためて白川を見た。彼も姿のいい男だった。上背もあって、濃紺のⅤネックセーターとシャツの下は引き締まった体つきをしているのだろう。しかし、被写体の男とはあまり似ていない気がした。
「血は、つながっていないんだ」
白川が一彦の思考を見透かすように言う。
「両親が再婚して連れ子同士だから」
「あ、あの」
「うん?」
「いろいろ……複雑なんですね」
「あはは、ごめんね。コメントに困るよね。写真とは関係ないし」
「いえ、あの」
「えーと、何クンだっけ」
「草壁です」
「草壁君は、写真経験者?」
「いえ。……いや、まあ、はい」
「よかったら入部してよ。もうすぐ部員たちも来るからさ、暗室とか見ていったら?」
さわやかな笑顔で一彦を誘いながら、白川は部室のドアの鍵を開ける。うっかり一緒に部室に入ってしまった。
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