第1話 ドラマみたいにはいかないヒロイン

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第1話 ドラマみたいにはいかないヒロイン

 恋人の良介からいきなり「大事な話がある」との連絡があったので、金曜の夜に食事をすることになった。奇しくもその日は付き合って五年目の記念日で、しかも彼が予約した店は初デートで訪れた思い出のイタリアンレストラン。――役満じゃないか。これはアレだ。どう考えてもアレだろう。絶対アレしかない。まったく、わかりやすくて困るなぁと仕事中にもかかわらずついニヤニヤしてしまう。パスタに舌鼓を打つ私を前にして、指輪の入った小さな箱を取り出す良介の姿が目に浮かんだ。それと同時に、パパパパーンというあのお決まりの曲が脳内に流れて私を盛大に祝福する。  ――ああ、私ついに、プロポーズされるんだ。  これでやっと独身女を取り巻く煩わしさから解放される。時代錯誤でデリカシーのない会社のクソ上司に「お前のような気の強い女には嫁の貰い手がないだろう」なんて嫌味を言われることも、既婚同級生たちとの子供同伴女子会で肩身の狭い思いをすることも、毎週のようにかかってくる母からの電話で孫を催促されることもなくなるのだ。おめでとう、私。結婚おめでとう。末永くお幸せに。 業界大手の外資系企業のコンペが近いこともあり、今週は鬼のような忙しさだったが、この日だけは命に代えても良介との約束を優先させるつもりだった。なんたってプロポーズされるんだから。会社から急な呼び出しがあっても絶対出ないぞという強い意思を込めて、終業時刻を迎えた瞬間、社用の携帯端末の電源はオフにした。 仕事を無理やり切り上げ、足取り軽く約束の店へ向かった私を、良介はやや強張った顔で待っていた。とりあえずお酒と料理と注文し、飲み食いしながら相手の出方を待つ。 しばらくして、 「……奈律子、あのさ」  と、良介がついに話を切り出した。 「なに?」 私はパスタをフォークに巻き付けながら、白々しく小首を傾げた。きたぞきたぞと盛り上がる心を自制しつつ、涼しい顔で食べ物を口に含む。 「実は、ずっと言おうと思ってたんだけど……」 良介の様子はいつもと違っていた。どことなく歯切れが悪く、なんだかソワソワしているように見えた。あー、緊張してるんだなー、プロポーズだもんしょうがないよなー、などと暢気なことを考えていた私は、 「俺と別れてほしい」  という彼の発言に、口の中に含んだパスタを「ぶっ」と勢いよく皿の上に噴き出してしまった。おまけに細長くカットされたベーコンが勢い余って気管に貼り付いたせいで、げほげほと何度も噎せた。ワインで無理やり胃の中に流し込んでから、良介の顔を睨み付ける。 「……今、なんて?」  別れてほしいって言った? いやまさか。そんなはずはないよね。結婚してほしいの間違いだよね?  予想外の展開とベーコンのせいで涙目になっている私に、良介はまるで飲酒運転で事故を起こして謝罪会見をしている芸能人のような面持ちで、粛々と頭を下げた。 「俺と別れてくれ」 聞き間違えじゃなかった。彼の薄い唇から、はっきりと「別れ」の言葉が飛び出してきて、私の鼓膜と心をぐっさりと突き刺した。 「そんな――」 鈍器で殴られたような衝撃を覚え、頭がくらくらする。数年前に歯医者で抜歯したときの、変な器具で虫歯をかち割られた衝撃に似ている。あの後めちゃくちゃ顔が腫れて大変だったなぁ、なんて余計なことまで思い出し、いかんいかんしっかりしろ、と現実から目を背けようとしている自分を叱咤する。 「え、ちょっと待って。別れたいって、なんで? どういうこと?」 「ごめん……今まで先延ばしにしてたけど、これ以上付き合うのは、奈律子に申し訳なくて……」 「いやマジでどういうことなの」 寝耳に水だ。働かない頭で懸命に彼の言葉を理解しようとしたが、無理だった。まったく状況についていけない。この五年間、別れ話が出たことなんて一度もなかったし、それどころか喧嘩したことすらなかった。なのに、いきなりどうして。すべて順調だと思っていたのは、私だけだったのか? ただただ唖然としていると、 「実はこの前、会社の後輩に告白されたんだ」  と、良介は申し訳なさそうに言った。 「山城さんっていう、五つ下の子なんだけど」  その女なら知っている。山城玲奈。去年の社員旅行の写真を見せてもらったとき、三枚に一枚は良介の隣に写っていた女だ。若くて小柄で色白で巨乳でゆるふわパーマの女子アナ系で、男ウケの塊みたいな、たぶん私のいちばん苦手なタイプ。会ったことないけど。 「その子といると、落ち着くというか、癒されるというか……」 と、尻すぼみな声で良介が告げる。おい待てよ。それってイコール私といても落ち着かないし癒されないってことか? あ? なんかちょっと腹立ってきた。 「彼女のことを女として好きなのか、ただ後輩として可愛いと思っているのか、自分でもよくわからない。でも、こんな中途半端な気持ちで、このまま奈律子と付き合い続けるのは失礼だから、別れた方がいいと思ったんだ。奈律子のためにも」  奈律子のためにも? ……ふざけとんのか?  良介の話を聞いているうちに、まるで血管を流れているアルコールに火がついたかのように、全身がかっと熱くなってきた。 ……あ、やばい。今、私、めちゃくちゃイラついてる。  ベタなドラマみたいに飲み物を相手の顔にぶっかけてやりたい気分だった。この赤ワインで良介のワイシャツを真っ赤に染めやれば少しはスッキリするだろう。いや、いっそのことボトルでこいつの頭をかち割ってやりたい。ワイシャツはお前の血で赤く染め上げてやる。 物騒なことを想像しながら怒りに震える両手をぐっと握り締める。ちょっとでも気を抜けば今すぐにこの拳が暴れ出してしまいそうだった。突然の修羅場に店内は大混乱、良介は病院送り、私は暴行罪で逮捕。そんな顛末だけはさすがに避けたい。  落ち着け、奈津子。冷静になれ。 自分の中に燻る凶暴な衝動をなんとか理性で抑え込み、心を落ち着かせようとワイングラスを一気に呷る。 「……そう、わかった」  どうにか言葉を絞り出した。極力明るい声色で告げて大人の余裕を見せつけるつもりだったのに、ドスの利いたヤクザみたいな声になってしまった。 グラスに手酌でワインを注ぎ足し、一気に飲み干す。空になるとまた注いで、また飲んだ。面倒になってきたので最後は直接ボトルに口を付けた。瓶を呷り、ひたすら酒を一気飲みしている私を、良介は呆けた顔で見つめている。 ボトルが空になったところで、 「今までありがとう。ごちそうさま」  わざとらしいほど口角を上げてにっこりと微笑み、エレガントな所作で席を立つ。いつもデート代は割り勘だったけど、今日くらいは良介に全部払わせよう。慰謝料みたいなもんだ。  くそ、こんなことなら一番高いワインを注文してやるんだった。 別れてくれ。わかった。今までありがとう。――それで終わり。慰謝料は高くも安くもない、味もごく普通のワイン一本。 自分でもびっくりするほどあっさりした別れだった。きっと良介はもっとびっくりしていることだろう。私がキレたり泣き喚いたり暴れたりするような最悪の事態も覚悟していたはずだ。  今宵、五年も付き合った彼氏を若い女に盗られた。結婚も秒読みだと(私は)思っていたのに。なんて最悪な日だ。良介とは上手くいっていたと(私は)思っていたし、結婚してからも上手くやっていけると(私は)思っていたのに。まさか、こんな絵に描いたような不幸が自分の身に降りかかってくるとは。今夜のために猛烈な勢いで仕事を片付けていた昼間の自分が馬鹿みたいだった。 とはいえ、彼氏にフラれたことよりも、二十代後半から三十代前半にかけての貴重な五年間を無駄にしてしまったことの方が堪えていた。私、もう三十三だぞ。来月で三十四だぞ。この歳でまたゼロから恋愛しろってか? 勘弁してくれ。  酒でも飲まないとやってられない。でも一人酒は嫌だ。虚しさに拍車を掛けそうだ。誰かに付き合ってもらおう。「飲みたい気分だから今から来れない?」と親友の工藤汐里に連絡してみたところ、私の不穏な心情を察したのかすぐに了承の返事がきた。汐里はフリーのシナリオライターなのでフットワークが軽く、呼べばいつでも飛んで来てくれる。持つべきものは自由業の友人だなとつくづく身に染みた。 「――えっ!? 彼氏と別れたぁ!?」  行きつけ店のひとつ、駅ビル内にある大衆居酒屋で乾杯してから、今夜の事案を端的に報告すると、汐里は目を見開いて驚いていた。 「いやいや、嘘でしょ」 「私も嘘でしょって思ってるよ」  五年も付き合っていまさらフラれるなんて思わなかった。しかも付き合って五年目の記念日に。何の嫌がらせだよ、ふざけやがって、とやさぐれながら枝豆に齧りつく。この店でいつも注文するお決まりの一品料理が、今日はやけに塩が効いてるように感じた。 「というわけで、独り身になりましたぁ」  などと明るく笑ってみせたけど、汐里はますます気の毒そうな顔になる。 「本当によかったの、別れちゃって」 「うん、もういい」 相手が別れたいって言ってるんだから、しょうがない。これ以上どうしようもないと思う。未練がましいのも嫌いだし、私に対して気持ちがない男と付き合ったって時間の無駄だ。 「それに、自分でも思ったほどショックじゃないから、びっくりしてるんだよね。付き合って五年になるし、昔に比べたら会う頻度も減ってたし、もうそこまで好きじゃなかったのかも」 「そういうもんなのかなぁ」 と、汐里は首を傾げた。つまみの枝豆の殻を剥く爪がきれいに塗られている。ネイルサロンに行ったばかりなのだろう。 汐里は爪だけじゃなく、髪の毛も派手だ。肩の長さまである髪は明るく、パーマがかかっている。会社のルールに縛られることがなく、好きなようにおしゃれを楽しめる彼女がちょっとだけ羨ましかった。格好だっていつも自由そのもので、今日の服はスタッズが付いた黒いライダースに、誰かわからない外国人の顔がプリントされた派手めなカットソー。下はスキニージーンズで、足元はワークブーツ。なんだかヒステリックグラマーの店員にいそうだな、というのが率直な感想だ。  一方の私はというと、三十代OLのコスプレみたいなありふれたオフィスカジュアルである。ストライプのシャツとタイトスカート、足元はヒールがやや太めで歩きやすいパンプス。上着はもちろんジャケットだ。頭は何の面白みもない黒髪で、パーマがとれかかったロングヘアをひとつに結んでいる。ただでさえ老け顔なのに、若々しい汐里と並ぶと余計に老けて見える。周囲の人間に汐里の母親だと思われていないかちょっと不安になってきた。 最近は洋服も無難なものばかりを買ってしまう。色もモノトーンが多い。パンツや長めのスカートしかはかなくなったのは、いつからだろうか。 「そもそも、良介のことはそんなにタイプじゃなかったし」 理想が高すぎる自覚はある。私のタイプは昔から高身長・高学歴・高収入のイケメンだった。それに対して、良介の身長は173センチ。私は167センチ。ヒールの高い靴を履くと追い抜いてしまうから、彼とのデートのときはお気に入りのピンヒールを封印するしかなかった。学歴も私のほうが上だし、収入も私のほうが月十万くらい多い。顔は……まあ別に嫌いじゃなかったけど。 「だったら、なんで付き合ったの?」 と、汐里が尤もな質問をぶつけてくる。 その理由はひとつしかない。お通しのイカの塩辛をつまみながら私は答えた。 「ドラマみたいな出会いだったから」  良介との出会いは、五年前のある日の通勤途中。いきなり「あの」と声をかけられ、振り返ってみたらスーツ姿の良介が立っていた。「落としましたよ」と手渡されたのは私の家の鍵で、礼を言ってそのまま何事もなく別れた。彼に興味を抱かなかったので、連絡先は聞かなかった。 後日、大学時代の男友達に「合コンしたいから女の子集めて」と命じられ、同期と後輩を連れて行ったところ、驚いたことにそこには良介がいた。「あっ! あなたは!」「あのときの!」というまるで陳腐なシナリオのようなやり取りをしながら、若い頃から恋愛ドラマが大好きだった私は彼に運命というものを感じてしまったのだ。そこまでタイプではなかったのに、この人こそ、と思ってしまった。こんな出会い方じゃなかったら、彼と付き合おうとは思わなかっただろう。 「でも、結婚したいと思った相手なんでしょ?」 「結婚してもいいとは思ってた」 結婚「したい」と「してもいい」の差は大きい。とはいえ、この歳になると「してもいい」と思えるような相手の存在すら貴重だ。良介はそれなりに優しくて、まあまあ付き合いやすかった。仕事で忙しいときは放っておいてくれたし、文句も言わなかった。一緒にいて楽だった。結婚するならこの人かも、という思いは、歳を重ねるごとに強くなっていった。三十を過ぎて、「そろそろ結婚しないとな。するならこの人でいいかな」と思っていた矢先の破局。 「まあ、だからといって、別に結婚願望があるわけじゃないし」 結婚だって、母親がうるさいからさっさと身を固めてしまいたかっただけだ。切羽詰まっているわけじゃない。――なんて今の私が言ったところで、言い訳や負け惜しみにしか聞こえないだろうけど。 「仕事も楽しいし、毎日充実してるし、今の生活に満足してるから」 それに、こうして一緒にお酒を飲んで、愚痴を聞いてくれる親友もいる。だから別にフラれたって平気。寂しさなんか感じている暇はない。 「なっちゃんが納得してるなら、それでいいけどさぁ」と、汐里はどこか釈然としないような表情で言った。 汐里は私と同学年だけど、誕生日を先に迎えたので今は三十四歳だ。彼女とは小学生のときに同じ少年野球クラブ(『上添村サンダーズ』というチーム名だった)に所属し、それがきっかけで知り合った。私がキャッチャーで汐里はピッチャー。バッテリーを組んだこともあり、それ以来ずっと仲良くしている。かれこれ二十年以上の付き合いだ。まさか大人になってからもこうして酒を酌み交わすような仲になるとは、白球を追いかけていた当時は思ってもみなかったけれども。 「もし寂しくなっても、ペットを飼うのだけはやめた方がいいよ。心が満たされ過ぎて、私みたいに結婚できなくなるから」 そんな忠告をしつつも、それはそれで幸せなんだけどね、と自分の愛猫を思い浮かべたのか、汐里は本当に幸せそうに目を細めた。私と違って彼女は恋愛に一切の興味がなく、十年前に保護した野良猫ばかりを溺愛している。本人にまったくその気がないのがもったいない気もするけど、恋愛は義務じゃないし、恋人がいることがイコール幸せというわけでもない。どういう形であれ、大好きな彼女が楽しそうに過ごしているなら、親友としてはそれがいちばんだと思っている。 「寂しくはないよ。……ただ、ムカついてはいるけど」  破局を受け入れてはいても、相手を許したわけじゃない。腹を立てないはずがないし、正直なところ腸は煮えくり返っている。 「最後の最後まで男らしくないこと言いやがって」 私はおかわりした酒を呷り、この場にいない良介に向かって文句を垂れた。 「私に申し訳ない? 私に失礼だぁ? 私のためみたいな言い方してるけど、ただ単に他の女に目移りしたから私と別れたいだけのくせに」  突然の破局。自分より若い女の出現。癒される、落ち着くという良介の言葉。そのすべてに、私のプライドは傷ついていた。 「何いい子ぶってんだって話だよ。『好きな女ができたから別れてほしい』ってはっきり言えばいいのにさぁ。私のことを考えてるようなポーズとって、罪悪感から逃れようとしてんじゃねえっての」 「お前のためって言う奴に限って、だいたい自分のことしか考えてないよね」 「それよ」 私は汐里の顔に向かって指を差し、うんうんと頷いた。 「男は結局、若い女がいいんだろうねえ」汐里は世知辛い真理を呟きながら、小鉢の中のポテトサラダを口に運んでいる。 「今は若くても、そのうちオバサンになるのに」 「ねー」  十年後、オバサンになった山城を見てせいぜい後悔すればいい。心の中で良介を呪いながら、私はグラスに残っていたビールを飲み干した。 「まあまあ、今日は好きなだけ飲んでよ」と、私に飲み物のメニューを渡しながら汐里が言う。「責任もって家まで送り届けるからさ」  グラスを空にしてからメニューを眺める。次は何にしようか。ビールにも飽きたので焼酎にシフトすることにした。  今日はとことん付き合うと言われたけど、男にフラれてくだを巻く惨めな女にいつまでも付き合わせるのも申し訳ないので、汐里とは十一時前に別れた。 飲み足りない気分でいた私は、自宅マンションの一階にあるコンビニに吸い寄せられるように入店し、缶ビールとスルメを買った。レジにいる店員は初めて見る顔だった。『よしだ』と書かれた名札には研修中のマークが付いている。新人にしては手際がいいが、残念なことに愛想がない。仏頂面に加え、背が高く体が大きいせいで威圧感がすごい。顔も体も全体的にごつくて、どことなくゴリラのシャバーニを彷彿とさせる風貌だった。 そんな新人店員がレジを打ってくれたはいいが、そのぶっきらぼうな接客に私はちょっとイラっとしてしまった。まあ、そんなことは今にはじまったことじゃないというか、この店の接客レベルは普段からだいたいこんなもんで、彼に限らずほとんどの店員の態度がよろしくないのだが。 ……ダメだ。私の心、冬の日本海並みに荒れてるわ。  普段なら軽く流せることでも、今夜はついイライラしてしまう。でも、仕方ない。それほど今日はひどい一日だったんだから、ちょっとくらい許してほしい。  ところが、そんな私に、さらなる追い打ちをかけてくる奴が現れた。 『良介と別れたんだって? 来週のパーティどうする?』 情報が早すぎる。友人の田辺からのメッセージに、うわぁ、と私は頭を抱えた。 来週のパーティ。どうしよう、すっかり忘れていた。もう二度と良介と会うことはないだろうと思っていたのに、こんなに早く顔を合わせる機会がやってくるとは。 この男、田辺翔也は私の大学時代の友人で、良介の会社の同僚でもある。五年前、良介と出会った後、再会した合コンで幹事を務めていたのがこの田辺だった。共通の友人というのは厄介なものだな、とつくづく思う。 田辺は五歳年下の元モデルとの挙式を来週に控えている。式は身内のみで、二次会のパーティは友人・知人を集めて盛大に行うというので、私も顔を出すつもりでいた。本来なら良介と二人で行く予定だったけど、今となってはその約束は破棄されてしまったも同然。それに正直なところ、今は他人を祝うような気分でもない。どうしよう、と頭を悩ませる。出席か欠席か、返事を決められずにいる。  出席すれば、確実に良介と会う。つまり、良介がいることを知っていながら、私はそのパーティに行ったことになる。良介からしてみれば、私が故意に会いにきたように見えなくもないかもしれない。「もしかして、あいつまだ俺のこと好きなんじゃね?」とか思われたらどうしよう。めちゃくちゃ癪だ。冗談じゃない。 それに、パーティに行くのは私や良介だけじゃない。あの山城玲奈とかいう男ウケ女も来るはずだ。良介は玲奈の先輩で、田辺は良介の同僚、ということはイコール田辺も玲奈の先輩だということになる。もしかしたら、良介は玲奈と一緒にパーティに来るかもしれない。私はわざわざ高い会費を払って元カレと新しい女が仲良くしているところを見せつけられにいくのか? ……拷問かよ。絶対嫌だ。 『お祝いしたいのは山々だけど、欠席させてもらおうかな』と返信しようとしたところで、ぴたりと手を止める。  ……このまま欠席の返事をしていいのだろうか? ふと、思った。行かなかったら行かなかったで、なんか負けたような気がしないか。いや、負けたって誰にだよ。良介に? 玲奈に? それとも自分に? 誰と戦っているのか自分でもよくわからないが、このまま逃げるのも性に合わない。ここへきて私の無駄に高いプライドが邪魔をしはじめた。 返事を迷っている間に、田辺から続けてメッセージが届いた。 『さすがにひとりじゃ気まずいよな? 友達連れてきてもらって全然いいから! 前向きに検討してみて!』 このお情けは正直ありがたかった。 友達。――すぐに思い浮かんだのは汐里の顔だ。彼女なら事情を知っているし、誘えば喜んで一緒に来てくれるだろう。けれども、こんな私のくだらない見栄に彼女を付き合わせるのも申し訳ない気がする。今日だってヤケ酒に付き合ってもらったばかりだというのに。  小一時間悩んだが、結論は出なかった。とりあえずは保留だ。「ありがとう、考えてみる」とだけ返信して、私はスマートフォンをテーブルの上に放った。  ……あー、なんか疲れた。 急にどっと疲労感が襲ってきて、私はソファに寝転がった。あ、化粧落としてから寝転がるべきだったな、と気付いたがもう遅い。今日くらいは横着してこのまま眠ってしまいたかった。 ところが、そんな甘えを許すような私じゃなかった。一晩でもスキンケアを怠れば三十を過ぎた女の肌はすぐに老け込んでしまう。重い体に鞭を打ち、私は洗面所に向かった。高価なクレンジング用のジェルをふんだんに塗し、顔の塗装を落としていく。続々と現れる小皺やシミにがっかりしながら顔を洗い、先行美容液、コラーゲン液、化粧水、乳液、保湿クリームと何重にも塗りたぐった。こんなに層を重ねているのは私の顔かミルクレープくらいだろう。鏡に映る自分の顔をじっと睨み付けては、日に日に深くなるほうれい線にぞっとしながら洗面所の電気を消す。 顔を洗ったおかげで、すっかり眠気が覚めてしまった。こんなときは大好きなドラマでも観て心を癒すかと思い立ち、テレビの電源を入れて、ハードディスクに録画している番組を再生する。十月から始まった秋の新ドラマで、タイトルはその名も『ドラマチック・ラブ』(通称『ドラ恋』)。三十歳のOLが主人公の王道ラブコメディだ。いつの間にか録画が二週分も溜まっていた。早く消化しなければ。 買ってきた缶ビールを開け、つまみのスルメを口にくわえたまま画面を食い入るように見つめる。晩酌しながらラブコメを観る時間ほど幸せなものはない。 このドラマもなかなかベタな話だった。ニューヨーク本社からやってきたイケメンエリートサラリーマン・カズマ(三十歳独身。身長180センチ。英語ペラペラ)がヒロインであるアイコの部署に配属された。部内の女性社員たちが浮足立つ中、すでに恋人のいるアイコは一切興味を示さない。むしろ彼の高飛車で偉そうな態度に「なにこのニューヨーク男、ムカつく!」と反発を覚えるばかりだ。 ところが、1話のラスト五分で物語が大きく動いた。同棲中のアイコの恋人(居酒屋でナンパされた二歳年下のバーテンダーというあからさまに当て馬臭い設定)の浮気が発覚する。アイコが自宅マンションに帰宅したところ、玄関に女物の靴を見つけ、自分がいない間に度々恋人が女を連れ込んでいたことを知る。相手の女は恋人の勤務先のバーで働く学生バイトで、二十一歳という若さ。……アイコの心中はお察しする。 二股をかけられていたことにひどくショックを受けるヒロイン。誰もいないオフィスで泣きながら残業していたところ、そこに偶然忘れ物を取りに来た例のニューヨーク男が現れる。『何があったか知らないが、泣くか仕事するかどっちかにしろ』と言われ、仕事の手をぴたりと止めて大号泣しはじめたヒロインに、今までの高飛車で意地の悪い態度が一転、ニューヨーク男は黙って付き添い、しまいには彼女を家まで送り届けた。 『泣くようなことじゃないだろ。男にフラれたくらいで』 『泣くわよ! だって私、もう三十なのよ!』 『三十だからなんだ。まだまだこれからじゃないか。キリストだって三十の頃から宗教活動を始めたんだぞ』  というニューヨーク男のよくわからない励ましを受け、アイコは恋人と別れる決心をする。――というのが、第1話のストーリーだった。 なんだか今の自分と重なってしまい、つい酒が進んだ。まあ、一方的に別れを告げられた私とは、だいぶシチュエーションが違うけど。 「いいドラマだわぁ……」 これは当たりかもしれない。仕事にも恋愛にも疲れた三十代のOLにとって、こういうドラマは実に有り難い。難しいことを考える必要もなく、晩酌しながらノンストレスで見られる、現実の辛いことを忘れさせてくれる、ベッタベタできゅんとくるラブコメ。こういう作品こそが心の乾いたアラサーに必要なのだ。このプロデューサーはよくわかっている。フィクションの世界くらい、夢のような話を見せてくれ。  缶ビールがあっという間に空になり、もう一本買っときゃよかったなと後悔した。続けて第2話を再生する前に、私は財布を掴んで部屋を出た。酒を買いにマンション一階にあるコンビニへと向かう。いつものようにアルコールの棚に直行し、プレミアムなモルツとスルメを手に取ったところ、怒鳴り声が聞こえてきた。 レジで客がごねている。歳は七十半ばくらいの、いかにも気難しそうな爺さんだ。そんなに叫んだら血管が切れてぶっ倒れるんじゃないかと心配になるほどの大声て、爺さんは「おつりが百円足りないんだよ!」「あんた、さっきちゃんと確認しなかっただろ!」とコンビニ店員を叱責している。ものすごい剣幕だ。別に百円くらいでそんなガミガミ言わんでも、これ長くなりそうだな早く帰りたいのに、なんて私はうんざりしながら爺さんの後ろに並んだ。 事態は一向に収束しそうになかった。対応しているのはあの『よしだ』という研修中の店員だ。どんなに怒鳴られても「いえ、ちゃんと確認しましたけど」と不愛想な表情で返している。その態度がまた火に油を注いでいる。  おそらくこの吉田くんはちゃんと正しい額のおつりを渡したんだろう。この爺さんが悪質なクレーマーなのか、もしくはちょっと認知症気味なのか。今は亡き私の祖父も、晩年は財布の中身を確認する度に、「万札が減っとる! 誰が盗ったんだ!」と大騒ぎしていたことを思い出した。 爺さんは店員が間違っていたと主張しているが、店員は絶対に間違っていないと認めない。話はずっと平行線だ。このままじゃ埒が明かない。早くビール買って家でドラマの続きを観たいのに。心の中でため息を吐きながら、私は自分の財布の中から百円玉を取り出した。「あの、すみません」と爺さんの曲がった背中に向かって声を掛ける。 「これじゃないですか、あなたの百円。そこに落ちてましたよ」  私はその辺の床を適当に指差した。爺さんは面食らったような顔になり、茹蛸みたいに紅潮していた顔色がみるみるうちにもとに戻った。いや、すまんすまん、と禿げあがった頭を撫でている。 「財布に入れるときに落としとったみたいや。すまんな、兄ちゃん」  すっかり機嫌が直ったようだ。爺さんは吉田くんに謝罪し、店を出ていった。はよ帰れ、と胸の内で呪いながらレジにビールを置き、年齢確認ボタンを押す。 「ありがとうございました」  会計を済ませた私に吉田くんが声を掛けた。いいえ、どういたしまして。心の中で呟きながら、私は無言で会釈した。早歩きで部屋に戻り、つけっぱなしだったテレビの前で缶ビールを開ける。ドラ恋の2話を食い入るように見つめた。 ドラマの後半には、別れた彼氏が新しい女を連れているところにばったり出くわしてしまう、というお決まりのシーンがあった。 『奇遇だな、こんなところで会うなんて』  と、アイコの元カレがへらへら笑った。典型的な当て馬の貫禄が漂っている。 『ねえ、誰ぇ?』と元カレに腕に手を回した若い女が間延びした声で尋ねた。こいつが例の浮気相手だろう。頭も股も緩そうな女。八割方気のせいかもしれないが、どことなく山城玲奈に似ているように見えた。 『たぁくんの知り合い?』  元カレの名前はタクヤだった。だから「たぁくん」か。なかなかイラつかせてくれるカップルである。 『まあ、そんなとこ』と、たぁくんは答えた。舐めた口ぶり。所詮、たぁくんにとってアイコはただの遊びだったのだ。  そのとき、アイコは仕事中で、あのニューヨーク男も一緒にいた。次のクライアントとのアポイントまで時間があるので、このカフェで時間を潰そうとたまたま訪れたところだった。そんな中、店から出てきたたぁくん御一行とばったり居合わせた、というドラマならではの状況だ。  カズマを一瞥し、 『そいつ、彼氏?』  と、たぁくんがヒロインに尋ねた。値踏みするような視線を送っているが、身長も学歴も収入も圧倒的にカズマの方が上だ。勝っているのは若さくらいだろう。 『いえ、違います』 即座に否定するカズマ。 元カレは『だよなぁ』と声をあげて笑っている。小馬鹿にしたような、感じの悪い笑い方だった。絵に描いたようなクズさである。  すると、カズマはアイコの肩を抱き、 『僕の片思いなんです』  と、微笑んだ。 目を見開いて驚くヒロイン役の主演女優の顔がアップになり、ちょっと感動的なBGMが流れはじめる。 『ずっと彼女のことが好きだったから、別れてくれてよかった』  気を回したカズマの嘘だということはわかっているけど、ドキッとしてしまう台詞だった。 『物好きな男もいるんだなぁ』たぁくんが負け惜しみを言う。『お前みたいなブスを好きだなんて――』  次の瞬間、カズマが暴言を吐く元カレを黙らせた。それも拳で。憎たらしい男の顔を思い切り殴りつけたのだ。 『俺の大事な女性を侮辱するな』  無様な姿で床に転がる元カレを、カズマが一喝する。ものすごい怖い顔と、低い声で。 その直後、すぐに爽やかな笑みを作り、傍にいた若い女に名刺を渡す。 『失礼しました。病院に行かれる場合はご連絡ください。治療費はいくらでもお支払いしますので』 にっこりと微笑んだ男前に、女は見惚れていた。正直たぁくんよりも彼の方が断然顔がいい。たぁくんは殴られた頬を抑えながら心底悔しそうな顔をしている。アイコの顔にも笑みが戻った。ニューヨーク男の株がストップ高だ。カタルシスに富んだ、なんともスカッとするシーンだった。 私は思わず一時停止ボタンを押し、「これだ!」と叫んでしまった。 良介に未練があると思われず、さらに、私も惨めな思いをすることなく結婚パーティに行く方法。 「この手があったか」  そうだ、新しい男を連れていけばいいんだ。 ……でも、誰を?  翌日。出社してすぐにパソコンの電源を入れ、メールチェックを終えた私は喫煙所へと向かった。 白煙がもくもくと立ち込めるブースの中を覗き込むと、同期の黒沢の姿が見えた。今日はカルバン・クラインのスーツだ。いつも通り気取ってやがる。透明のガラスをノックすると、黒沢がこちらに気付いた。出てこい、と人差し指で合図したところ、彼は渋々、灰皿に煙草を押し付けた。 「なんだよ」 「来週の土曜日、暇?」 「は?」 黒沢は顔をしかめている。十年以上一緒に働いてるけど、これまで私がこいつを誘うことなんて今までに一度もなかった。警戒するのも無理ない。 「暇でしょ? ちょっと頼みあるんだけど」 「暇じゃねえし」 「バイトしてよ。時給三千円出すから」 という私の言葉にただ事じゃないと察したようで、黒沢はやっと興味を持ってくれたようだ。「なんだ、バイトって」 「友達の結婚パーティに行くんだけど、同行者を探してるの」 「そんなの、彼氏誘えよ」 「それができないから頼んでるんでしょ」 「……まさか、別れたのか?」 黙って目を反らすと、沈黙を肯定と捉えた黒沢は急にニヤニヤしはじめた。私の不幸はこいつの幸福なのだ。黒沢とは昔から馬が合わなかったが、三十一のときに私が先に主任に昇進してからというもの、これまで以上に突っかかってくるようになった。よほど悔しかったんだろう。本来ならば借りをつくりたくない相手だけど、私の周りでこいつより見た目のいい男はいない。連れて歩くお飾りとしては、この男が最適だ。 「まじかよ、別れたのか。いつ? なんで? 何が原因?」 こいつは脳みそが下半身と直結しているので、いつも他人の恋愛沙汰に興味深々だ。私はうんざりしながら適当に答えた。 「他に好きな人ができたんだって。まあ、別にどうでもいいけど」 「そんなんだからダメなんだよ、お前は」と、黒沢が小馬鹿にしたように嗤う。「お前がそこで、『好きだから別れたくないー』って泣いてすがってたら、彼氏も考え直しただろうに」 「そんなみっともないことするくらいなら、別れた方がマシ」 「そう言うと思った。男のことで泣くような女じゃないよな、お前は」  よくわかってるじゃないか。さすがは同期だ。 ライバルといえば聞こえはいいけど、こいつのことは大嫌いだし、お互いにタイプじゃないから絶対に恋愛には発展しない。だからこそ、黒沢には素の自分をさらけ出している部分もある。 「パーティには良介の新しい女も来るの。そんな場所に独りで行って、まだ未練があると思われたら癪だし」 「だったら、行かなきゃいいだろ」 「行かなかったら行かなかったで、なんか負けたような気がするじゃん」 黒沢は「ほんと可愛くねえなぁ」と眉をひそめた。 「それで、俺に同行しろと? 元カレへの当てつけに」 「あんた、顔だけはいいから。適役でしょ」 「顔だけかよ」 「やりたくないならいい。別の人に頼むから」 別の人、に当てがあるわけではないが。 背を向けたところで、「まあ待て」と黒沢が私の肩を掴んだ。 「木戸さんがお前に引き継ごうとしてる案件、こっちに譲れよ」 「え? 松尾商事の?」 「そう、それそれ」  来月から産休に入る木戸さんが八年間担当していた案件だ。下半期は比較的手が空いてるから私が引き継ぐ気でいたけど、特に思い入れはない。こいつに譲ったところで痛くもかゆくもない話ではあるが。 「なんで?」 「あそこの担当者、すっげえ美人なんだよ」  うわ、そんな理由か。ドン引きする。相変わらずの女好きだ。公私混同する男は嫌だなと顔を顰め、私は「やっぱりこの話はなかったことに」と踵を返した。 ……あー、嫌だ嫌だ。 モヤモヤした気持ちを切り替えたくて退勤後に立ち飲み屋で酒を呷った。焼酎を数杯飲んでも気分は晴れず、帰りに近所のバッティングセンターへと立ち寄った。相変わらず寂れていて、客は私の他にひとりしかいなかった。  前回ほどではないとはいえ、今日も結構飲んでいる。アルコールが回っている状態でのフルスイングはまずいので、今日は控えめに遊ぼうと心に決めていた。球速100キロのブースに入り、機械にコインを入れようとしたところで、 「あ」  と、隣の打席で打っていた男が、私を見て声をあげた。 あ、と私も返す。  見たことのある顔だった。歳は二十代後半くらい。黒髪短髪。背が高くて、体が大きくて、仏頂面。すぐに思い出した。あのコンビニの新人店員じゃないか。たしか名前は「吉田」だっけ。制服姿じゃないから気付かなかった。 「やっぱり、ビールとスルメの人だ」  と、バットを振りながら彼が言った。なんだその通り名。あのコンビニ店員の間で私はそう呼ばれているのだろうか。恥ずかしすぎる。 「こないだは、ありがとうございました」  と、彼は飛んでくるボールに視線を向けたまま言った。足を踏み込み、腰を回す。バットがボールの芯を捉え、いい音がした。 ……おっ。こいつ、野球経験者だな。 スイングを見ればわかる。吉田くんの振りは鋭く、軸がぶれていない。リストも強い。いくら運動神経がよくったって、素人ではこうはいかないだろう。きっと野球部だったに違いない。 「あの百円玉、お姉さんのですよね? 助かりました」 さすがに気付かれていたか。いえいえ、と私は手を振った。「私の祖父も、あんな感じだったんだよね。だから、ほっとけなくて」 といい人ぶったことを言ってるけど、本音を言えば、あれ以上あの場で時間を無駄にするくらいなら百円払った方がマシだと思っただけだ。  機械にお金を入れ、私も打席の中に立った。地面とほぼ平行にバットを構え、飛んできたボールにコツンと当て、勢いを殺して地面に転がす。――要は、バントだ。 次の球も、コツン。次も、その次も、コツン。 コツン、コツン、コツン。  ひたすらバントし続けている私に、 「……え、なんでバント?」  吉田くんは動きを止め、こっちを見た。目を丸くしている。 「吐いたら困るから。今日、酒飲んできたし」 ボールを三塁側に転がしながら、私は答えた。……今のは勢いが強すぎたな。あれではランナーを送れない。 「昔、酔っ払ってバット振り回して、アホみたいに吐いたことがあるんだよね」あれはまだ私が二十代半ばだった頃の話だ。飛んでくる球に視線を向けたまま説明する。「それ以来、酒が入ってるときは控えめに遊ぶことにしてる」 「それでバント?」 「うん」 「……お姉さん、面白いっすね」  なぜか吉田くんは腹を抱えて笑い出した。……へえ、笑うんだ、この子。いつもは不愛想な接客してるくせに。意外だった。  バッセンでひたすらバントしてるアラサー女がどうやらツボに入ったらしく、吉田くんはずっと私を見て笑っていた。時折、「ナイスバント!」「あー、打ち上げたー」などと球場にいるオッサンみたいに野次ってくるものだから、非常にやりづらい。 そうこうしているうちに、球がなくなった。構えを解いた私に、 「ブンブン振り回していいっすよ。吐いたときは、俺が掃除するんで」 と、隣の打席から吉田くんが声をかけてきた。 「俺、掛け持ちで居酒屋でもバイトしてるんで、ゲロ慣れしてますから」 「……では、お言葉に甘えて」 正直、バントだけでは物足りない気分だった。もう一度、小銭を入れる。2ゲーム目は全球フルスイングした。やっぱりこうでないと。バットの芯に当たり、勢いよく飛んでいくボールを見ているだけでスカッとする。これが癖になるからバッセン通いはやめられない。  女らしさの欠片もない私のガニ股シャコタン打法に、「かっこいいフォームっすね」と吉田くんが笑った。……もしかして馬鹿にされてる? さっきから笑われてばかりだ。 1ゲーム三百円で二十球。私は3ゲームで切り上げた。六十球しか打っていないにもかかわらず、手が少し痺れている。昔は何百回も素振りして、何百球もボールを打ち続けていたのに、今ではたった六十回で腕が疲れてしまうなんて。老いたものだ。二十年以上も昔のことを思い出して嘆きながら、私は店の中にあるベンチに「よっこらしょ」と腰を下ろした。 すると、ゲームを終えた吉田くんが私の隣に座った。 「これ、どうぞ」  と、飲み物を渡す。店内の自販機で買ったミネラルウォーターだった。「こないだのお礼です」 「いや、いいって」 「ちゃんと水分取らないと。吐かないように」 たしかに。ありがたく受け取っておくことにした。「……どうもありがとう」 「お姉さん、いいスイングっすね。野球やってたんですか」  それはこっちの台詞だ、と思いながら私は頷いた。「昔ね。少年野球のクラブチーム入ってた」 「ポジションは?」 「キャッチャー」 「へえ、いいっすね!」  なぜか吉田くんのテンションが上がった。自分の分の水を一口飲み、口を開く。 「俺も野球やってたんすよ」 「だろうね。見ればわかる」 「中学までだけど。ピッチャーでした」  もっと無口な奴かと思っていたが、吉田くんは意外とお喋りだった。話をふくらませてくる。愛想の欠片もない接客中とは大違いだ。人見知りするタイプなのだろうか。 「エースで四番だった?」 「なんでわかったんすか」 「なんとなく、そんな気がした」  バッティングが得意そうな構えだった。 「高校では野球やらなかったの?」 「中卒なんで。高校行ってないんですよ」 「へえ、そうなんだ」  ……中卒なのか。  私は横目でちらりと吉田くんを盗み見た。容姿はまあ、悪くない。目鼻立ちも整っていて、今風の濃い顔つきだ。肩幅や体の厚みがあり、ちょっとごつくてゴリラっぽいけど、背が高くてスタイルもいい。外国製のスーツが似合いそうだ。これで大学卒の会社員だったらな、と残念に思う。高卒ならまだしも、中卒か。しかも仕事はフリーターで、ただのコンビニ店員(兼、居酒屋店員)。これほどまでに条件の悪い物件はないだろう。女性でもバリバリ働くこの時代に、フリーターの中卒男と好き好んで結婚するような変わり者がいるのだろうか。この子の将来を考えると、つい母親みたいな気分で心配してしまう。余計なお世話だろうが。 「社会人の野球サークルに入ってるんで、今でもたまに投げてますけど」 「いいねえ。私はしばらく野球やってないなぁ」  こうしてバッティングセンターに来ることはあっても、ちゃんとした試合に出ていたのは中学の時までだ。あの頃は私も汐里も、髪が短くて真っ黒に焼けていて、男の子と間違われるほどの野球少女っぷりだった。 ふと腕時計を見ると、十時半を過ぎていた。もうこんな時間か。思ったより長居してしまった。 「そろそろ帰ろっかな」 私が腰を上げると、 「そうっすね」  と、吉田くんも立ち上がった。バッセンを出てからも、彼はずっと私についてきた。 「今からバイトなんです。深夜シフトで」  吉田くんのバイト先は私のマンションの一階だ。なんだ、目的地が一緒だったか。 こうして奇しくも近所のコンビニ店員と一緒に帰ることになってしまったわけだが、不愛想で寡黙な第一印象とは裏腹に、思いのほか会話が弾んだ。野球という共通点があるおかげかもしれない。 「いつもむすっとしてるから、もっと怖い子なのかと思ってた」 率直な感想を述べると、吉田くんは苦笑を浮かべた。自覚はあるらしい。 「前はもっと愛想よかったんですよ、俺」 「そうなの?」 「別のコンビニで働いてたときは、にこにこ笑って接客してました」 「えー、ほんと?」  それは想像できない。 「客からの評判もよかったです。むしろ、評判がよすぎたというか……常連客の女性がいたんですけど、俺がその人のことを好きだと勘違いしたみたいで」 「えっ」 「プレゼントが店に届いたり、シフトが終わるの待ち伏せされたりして、ちょっとした騒ぎになったんですよ。あと、同僚の女の子に嫌がらせしたり」 「こわっ」  他愛ない雑談をしていたつもりが、急に物騒な話になってきた。 「ちょっとしたっていうか、めちゃくちゃ大事じゃない」 立派なストーカーだ。警察沙汰になってもおかしくない。 「その女性、何歳くらいの人?」 「四十二だったらしいっす」 「よ、よんじゅうに……」 結構なオバサンじゃないか。 「吉田くん、今いくつ?」 「二十三です」 「……若いね」 もっと上かと思っていた。せいぜい二十七、八あたりかと。ということは、その常連客の女性とは十九歳差か……親子でもありえるほどの歳の差だ。 「迷惑がかかるんで、その店を辞めて、今のコンビニに移りました。家も知られてたから、引っ越して」 なるほど、だから研修中なのに妙に捌けてたのか。 「それで、今のクールな接客スタイルになったんだ? 客に勘違いされないために」 「はい」 「そっか、大変だったね」 気の毒な話だ。男の子とはいえ怖かっただろうに。 店員に一方的に思いを寄せ、ストーカーに発展する話はよくある。目を見て笑った、お釣りを渡すときに手が触れた、たったその程度の些細なことで自分に気があると思い込んでしまう頭のおかしい人間も、恐ろしいことにこの世には存在している。恋は盲目とはいえ、限度があるだろうに。 「あ、私は勘違いしないから安心して。今度から笑顔で接客してよ」 冗談めかして言うと、吉田くんは一笑し、「了解です」と答えた。 過去にそんな事件があったとはつゆ知らず、彼の接客にイラっとしていた私はつくづく心の狭い女だ。事情があって心が荒れていたとはいえ反省しなければ。  ――私って案外、欠陥だらけなんだなぁ。  三十三歳、役職付きのOL。年収は同世代平均の倍以上。マンション持ち。容姿もそれなりに整っていて、若い頃は正直モテないこともなかった。私ほどの優良物件は他にないだろうと思っていたけど、実のところは難アリだ。気が強い、がさつ、媚びへつらう気がない、男を立てることがない、料理もできない、可愛げがない、すぐイライラする。おまけに酒癖が悪い。こんな女が結婚なんてできるんだろうか。厳しい現実を思い知り、ちょっと凹んでしまう。  この先、万が一ずっと独身だったとしても、どんなに寂しかったとしても、狂って二十三歳の男の子をストーカーするような四十代にはなるまいと心に誓ったそのとき、私の視界に一枚の紙が飛び込んできた。吉田くんの上着のポケットから落ちたようだ。 私はそれを拾い、彼に声を掛けた。「吉田くん、なんか落としたよ」 ハガキだった。それが結婚式の招待状だということは一目見ればわかる。今まで嫌というほど出席してきたから。吉田くんは正直に答えた。「今度、中学時代の友達が結婚するんです」 出席にも欠席にも丸が付いていないようだった。「それはおめでたいね」と私は当たり障りのない言葉を返した。 「本当は行きたいんすけどね、欠席しようと思ってます」 「バイト忙しいの?」 訊くと、吉田くんは恥ずかしそうに視線を下げた。「いや、礼服買うお金がなくて」  どういう言葉を返すべきはわからなかった。バイトを掛け持ちしてもなお、スーツすら買えないというのか。日本の貧困化がどんどん進んでいることを思い知る。  と同時に、私の頭に妙案が浮かんだ。 「吉田くん、来週の土曜日、空いてる?」 「……え? まあ、空いてるっすけど」 「バイトしない? 日給スーツ一着で」 吉田くんはきょとんとした顔で私を見た。  私が吉田くんのスーツを買う。そして、土曜日のパーティに同行してもらう。吉田くんはスーツをゲットして、友人の結婚式にも行ける。我ながら良い取引だと思う。 元カレとその新しい恋人と顔を合わせるのが気まずい、一人で行くのが心細い、と正直に心境を説明したら、吉田くんは快く承諾してくれた。なぜだろう、黒沢の前では「未練があると思われたら癪」だの「行かなかったら負けた気がする」だのと強がってしまったのに、吉田くんの前では本音を曝け出すことができた。不思議だ。  パーティは午後三時からだったので、吉田くんと土曜日の午前中に待ち合わせした。駅前の百貨店にある海外ブランドのスーツを次から次に試着させる。上背があって肩幅もある彼はどれを着ても似合っていた。途中から楽しくなってきて「うわ、それもいいね。さっきの赤もよかったけど、青も似合うね。うわ、悩むなあ」と、着せ替え人形で遊ぶ少女のようにはしゃいでしまった。まるでラブコメでよくある、ヒロインが次から次に着替えていく試着室のシーンみたいでワクワクした。 「……あの」と、値札を見た吉田くんは恐縮していた。「こんな高価なもの、いただけませんよ」 「気にしないで、それだけの働きをしてもらうんだから」  こんな年上の女に貴重な休日を付き合わせるのだ。これくらいのお金は払わなければ割に合わないだろう。  結局、本人の希望もあって無難な黒のスーツを購入した。着せたまま店を出て、タクシーに乗ってパーティの会場へと向かう。 若さでは二十代半ばの女には勝てないが、経済力では勝てる。田辺の結婚パーティには自分が持ってる中でいちばん高価なドレスを着ていくことにした。主任への昇進祝いに月給の三分の二を費やして買った黒い膝丈のワンピース。両袖はレースで透けていて、タイトなデザインがよりスレンダーに見せてくれる。あまりに高価すぎてまだ一度しか着たことがなく、ずっとクローゼットの奥で眠っていた。 昨日は仕事が終わってから慌ててフェイシャルエステに駆け込み、今朝は美容室で髪の毛を巻いてもらった。あまり気合いが入っていると思われたくもないので、ルーズなシルエットのアップスタイルにして、イヤリングやネックレスはあえて小ぶりで地味なものを選んだ。足元はアルゼンチンの職人が作った7センチのピンヒール。タンゴシューズブランドの一点ものなので、デザインもおしゃれで、なおかつ長時間の立食パーティに耐えられる強度がある。 最高に着飾った私。隣には若い男前。武装は整った。 会場はシックなレストランだった。当然、店まるごと貸し切りだ。入り口でゲストを出迎えているタキシード姿の田辺に向かって、私は皇族のような微笑を浮かべながら上品に手を振った。心ばかりの結婚祝いを渡すと、私の姿を見た田辺は「気合い入ってんなあ」と嗤った。 私は吉田くんをちらりと見た。お気に入りのピンヒールを履いても顔を見上げなければならないこの身長差は最高だ。彼氏役として連れて歩くには申し分のない人材。頼んで正解だった。 「大丈夫? もしかして、緊張してる?」  笑いかけると、吉田くんは苦笑を返した。「こういう場所、初めてで」 「大丈夫、大丈夫。ホストの顔が広いってだけで、内輪だけのパーティだから。リラックスして」 軽く肩を叩くと、吉田くんは小刻みに頷いた。 ドリンクを受け取り、私たちは会場の隅に陣取った。全体が見渡せる位置だ。ざっと眺めてみたところ、良介の姿は見当たらなかった。まだ来ていないようだ。  気にしない素振りを装っているけど、つい気にしてしまう。会場に入ってくる人物をちらちらとチェックしていたところ、見覚えのある顔が視界に飛び込んできて、思わず声をあげる。 「あっ」 「どうしました?」 「いや、なんでもない」 なんでもなくなかった。あの女、山城玲奈だ。良介の新しい女(候補)。裾がふわっと広がった淡いピンクのワンピースを着ている。しかもノースリーブで、丈は膝上だ。この季節にその露出はないだろ、と呆れ半分、恨めしさ半分で眺めていると、さらに知った顔がやってきた。 良介だ。 玲奈は入り口で良介を待っていて、二人は当然のように合流した。ここまで良介の車で一緒に来たんだろうな、と察してしまう。  なんだかやるせない気分になってきた。やっぱり来なきゃよかった。おとなしく家でドラマでも観ていればよかったんだ。心の中に芽生え始めた後悔に蓋をしながら、楽しそうな二人に背を向ける。 「ちょっとトイレ行ってくる」 「あ、はい」 良介に見つからないよう、部屋を抜け出した。トイレは入り口を出て右に曲がった廊下の先にあった。中に入り、鏡の中の自分を見つめながら気合いを入れ直す。しっかりしろ高宮奈津子。本来の目的を思い出せ。新しい彼氏(偽)を良介に見せつけてやるんだ。お前の逃した魚は大きいぞと思い知らせてやれ。大丈夫、今日の私は誰よりも決まっている。自信を持つんだ。 折れかけた心を奮い立たせてトイレから出たところ、なんと、目の前に良介が立っていた。びっくりして「ヒィッ」と幽霊でも見たかのような悲鳴をあげた私に、良介も目を丸くしている。彼はちょうど隣の男子トイレに入ろうとしていたところだった。 「な、奈律子、来てたんだ」 「ああ、うん、まあ」 まさか再会がトイレの前とは。格好がつかない。 「ひとりで来たの?」 「あー、いや」  彼氏と。  そう言おうとしたのに、なぜか口が動かなかった。 「……友達と」 「そ、そっか」 「うん。じゃ、じゃあ」  互いに気まずさを感じながら会話を切り上げ、踵を返す。 胸が締め付けられるような、なんともいえない息苦しさを覚えた。何なんだ、何がしたいんだ、私は。もう嫌だ。最悪だ。わけがわからなくて、頭がごちゃごちゃしていて、今すぐにこの場から逃げ出したかった。とにかく少しでも遠くへ離れてしまいたかった。  私は会場に戻り、隅で居心地悪そうにブュッフェの料理を食べている吉田くんの袖を引っ張った。 「帰ろう」 「え?」 「ごめん、帰ろう」 面食らっている吉田くんに「ごめん」と繰り返す。主催者に一声かけてから、私は吉田君の腕を掴んで外に出た。通りで拾ったタクシーに乗り込む。 「……いい年して何やってんだろ、私」 独り言のように呟く。 吉田くんのことを彼氏だと紹介できなかった理由に気付いた瞬間、すべてが虚しく思えてしまった。まだ、心のどこかで良介が戻ってきてくれないかと期待している自分が情けなかった。 ……なんだ、私、ちゃんと好きだったんじゃん。 「くだらない見栄張って、吉田くんを巻き込んで、馬鹿だった。本当ごめん」  ようやく自覚できた失恋のショックに涙が出そうになる。男の、しかも年下の子の前で泣くのは避けたい。歯を食いしばって耐えていると、吉田くんが口を開いた。 「俺だって、一緒ですよ。見栄を張ってました。結婚を祝いたい気持ちはあるのに、久しぶりに会った友達から、安物のスーツしか買えない中卒のフリーターだって見下されることが怖かった。だから、欠席しようと思ってました」  吉田くんはスーツの襟に触れながら、優しく微笑んだ。 「でも、このスーツのおかげで、胸張って出席できそうです。ありがとうございます、高宮さん」  彼の気遣いに満ちた言葉に、私はいよいよ泣きそうになってしまった。 夜のシフトが入っている吉田くんを家の前で降ろして、私はタクシーの運転手に「駅までお願いします」と告げた。窓に映る夜景を見つめながら、私はずっと泣いていた。ひと昔前のトレンディドラマのワンシーンみたいなチープな絵面だな、と思い、なんだか可笑しかった。 ……あーあ、こんなはずじゃなかったのにな。  計画は大失敗。ドラマみたいにスカッとする展開どころか、逆にモヤモヤしたものが残っただけだった。どうしてこうも上手くいかないのだろう。  一人になったところで自然と汐里に電話していた。彼女の顔が見たくなったのだ。ドレス姿のまま近くの居酒屋で落ち合い、急な呼び出しに戸惑っている汐里の前でヤケ酒を呷った。最初はビールで乾杯し、二杯目もビール、その後はハイボール、焼酎(芋)、焼酎(麦)……六杯目以降は何を注文したか覚えていない。とにかく酒を浴びるように飲みながら、私は何時間も愚痴を吐き出していた。何度も同じ話をした自覚はある。  日付が変わる頃に居酒屋を出た。まだ帰りたくないと駄々をこねると、汐里は笑って許してくれた。辛いとき、彼女はいつも傍にいてくれる。昔からそうだ。同じ野球チームにいた頃から、何があっても私に付き合ってくれる。ストレートを投げたがっていた彼女にスライダーのサインを出しても、彼女はいつも頷いてくれた。 野球少女だった頃を思い出して、なんだか急に昔が懐かしくなってきた。久しぶりに彼女と野球がしたくなった。「バッセンに行きたい」と提案し、タクシーに乗って近所の寂れたバッティングセンターを訪れた。私の行きつけ。スカッとしたい気分のときは、いつもここに来てバットを振る。 「何年ぶりだろう、バット握るの」 汐里は備え付けの金属バットを手に取り、素振りしながら苦笑した。 ちゃんと打てるかな、と彼女は謙遜していたけど、上添村サンダーズの切り込み隊長は今も健在だった。さすがのミート力で快音を響かせ、ヒットを量産している。  私も隣のブースに入り、機械に小銭を入れた。ドレスのまま大きく足を広げて打席に立った瞬間、ビリッと布が破けるような音が聞こえた気がしたけれど、聞かなかったことにした。 腰を落としてバットを構えると、 「久しぶりに見るなぁ、なっちゃんのそのフォーム」 と、緑のネット越しに汐里が笑った。 種田もびっくりのガニ股打法。まるで外国人打者のように豪快な私のバッティングフォームが好きなんだと、彼女は昔からよく言っていた。 「うおりゃ」 思い切りバットを振り回す。空振りだった。捉えたと思ったのに、手元でボールが消えた。 「……ねえ、あのマシン、スライダー投げてくるんだけど」 「投げてないよ。ストレートしか投げてない」 「でも今たしかにボールが曲がった」 「曲がってない。なっちゃんの視界が曲がってるだけ」  いやたしかに曲がったよな、と首を捻りながら、飛んでくるボールに合わせてバットを振る。ところが、また空振り。バットを出すタイミングが早かった。 「……今度はチェンジアップか」  なぜかボールがバットに当たらない。空振りばかりだ。仕舞いには、ボールが複数に分身しているように見えた。……魔球か? 大リーグボールか?  なんか今日は調子悪いな、と首を捻りながらバットを振り続ける。そのうち、ボールだけじゃなく、隣の打席にいる汐里までもが分身しているように見えてきた。 そこで、ようやく気付く。 ……あー、私、相当酔ってんな。そりゃ空振るわけだ。こんな状態でヒットなんて打てるはずがない。 くるくる回ったのは私のバットだけじゃなかった。フルスイングするたびにアルコールが全身を駆け巡り、1ゲームを終える頃には、私は自分の足で立っているのがやっとの状態になっていた。 ぐだぐだになった私を、汐里はベンチに座らせてくれた。自動販売機で水を買ってきて私に手渡す。「なっちゃん、大丈夫?」 「だいじょうぶ」  大丈夫じゃないな、と自分でもわかっていた。頭はぐらぐらするし、ちょっと気持ち悪い。ふわふわと宙に浮いてるような感覚がする。理性から解き放たれ、自分がどこにいるのか、何を言ってるかも、わからなくなってきた。 「……ねえ、しおりぃ」 「なに?」 水を飲み(ほとんど零して服がびしょびしょになった)、濡れた口元を手の甲で拭う。 「あのとき、私が泣いてすがってたら、なにか変わってたかなぁ」  酔いのせいでたかが外れ、思わず本音を漏らしてしまった。 ずっと気になっていたことだ。別れようと言われたあの夜、もし私が「嫌だ」と言っていれば、「好きだから別れたくない」と涙を流していれば、良介もちょっとは考え直してくれただろうか。私がもっと可愛げのある女だったら、彼は他の女に気持ちが移らなかったのだろうか。いまさら後悔したところでもう遅いことはわかっているけれど、それでも考えずにはいられない。 「……私だって、もっと可愛げのある女になりたかったよ」 彼氏に別れ話を切り出されたというのに、涙ひとつ見せない女。にっこり笑って立ち去る女。見栄を張りたくて他人に恋人のフリをさせるような女。ひどいもんだ。可愛い要素がひとつもない。私は結局、そんな女にしかなれないのだ。プライドが高くて見栄っ張りで、他人に媚びることが嫌いで弱みを見せられない、男にとってみれば頼られがいのないアラサー女。そりゃあ良介だって、こんな私よりも、女の子らしくて癒し系の若い女の方がいいに決まっている。  だからといって、自分を偽ってまで男に好かれたいとは思っていないけれども。 汐里が隣に腰を下ろし、 「なっちゃんは、今のままでいいんだよ」  と、赤子をあやすような優しい声色で言う。 「美人で、仕事もできて、かっこよくて。なっちゃんは自慢の親友だよ」 「でも、可愛くない」 私が口を尖らせると、汐里は「ふふっ」と笑った。……認めたな? 「それでいいんだよ。いつか、可愛くないなっちゃんのことを、可愛いって言ってくれる男が現れるから」 「……いないよ、そんな慈悲深い男」 いるわけがない。ドラマじゃないんだから。  人生はドラマみたいにはいかない。私はラブストーリーのヒロインにはなれないんだって、嫌というほど思い知った。  私の意識があったのは、そこまでだ。そのあとのことは一切覚えていない。  後で汐里から訊いた話によると、前後不覚の私を自宅マンションまで連れて帰ったはいいが、その途中、私は一階のコンビニの駐車場で嘔吐してしまったらしい。ゲロ処理は吉田くんがしてくれたそうだ。……最低だ、私。何から何まで迷惑をかけて本当に申し訳ない。こんなんだからフラれるんだよ。  二十代後半に差し掛かった時点ですでに「オール」という言葉が縁遠くなり、三十になる頃には次の日のことを考えて酒の量をセーブするようになっていた。記憶をなくすまで飲んだのは何年ぶりだろうか。日曜の夜になっても体調は優れなかった。容赦なくやってきた月曜の朝、暴力的なまでの二日酔いに苦しみながら出社すると、エレベーターの前で黒沢が声を掛けてきた。「どうした、ひどい顔だな」と、深酒と涙で両目が腫れている私を嗤う。 「仕方ないじゃん、五年付き合った彼氏にフラれたんだから」  という私の言葉が心底意外だったようで、黒沢は目を丸めている。「へえ、案外可愛いとこあんだな、お前」なんて妙なことを言い出した。 「……は?」 今、可愛いって言った? 私のことを? 聞き間違いか? リアクションに困っている私を、「なあ、今夜暇?」と黒沢は食事に誘ってきた。失恋した可哀そうなお前に俺様が奢ってやるよと言わんばかりの口調だった。 ……なにこいつ。何なの。今まで私のこと可愛くないだの可愛げがないだのボロくそに言ってたくせに、急にどうした。 こいつは自分より弱い立場の人間としか付き合わないボス猿気質の男だ。交際相手はだいたい年下で年収が自分より低く、自分に逆らわないようなおしとやかな女。自分よりステータスの低い友人に囲まれて悦に浸っているような最低な奴だ。 私に声を掛けてきたということは、私は今こいつに下に見られているというわけか。彼氏にフラれて落ち込んでいる三十過ぎの可哀そうな女だと見くびられているのだろう。だとしたら冗談じゃない。私はお前の自尊心を満たすための生き物じゃないんだぞ。 「結構です」  きっぱり断ったにもかかわらず、黒沢はめげなかった。なまじ女にモテるから自信があるのだろう。諦めの悪い奴だ。 「そう言うなって。たまには二人で飲みに行くのもいいだろ。同期なんだし」  押しが強い。失恋した今ならワンチャンいけると思われているのだろうか。 まあ、正直に言えば、黒沢の顔はタイプだ。身長も高いし、高収入。おまけに実家は有名な資産家らしく、小さい頃から贅沢三昧だったという。女から見てこれほどの優良物件はないだろう。打算的な考えを抱く自分に少し失望しながら、強く言い聞かせる。しっかりしろ、高宮奈津子。相手は黒沢だぞ。こいつは口も性格も悪いし、女癖も悪い。ガワはよくても中身は腐ってる。恋人と別れたからといって、こいつで手を打つほど落ちぶれたくはない。ちょろいと思われるのも癪だ。 ドラマだったらここで黒沢とのロマンスが始まるところなんだろうけど、幸か不幸か、人生はドラマみたいにはいかないものである。 「会社の近くに、美味い店があるんだ。酒でも飲んで嫌なこと忘れようぜ。愚痴でも何でも聞くし」 こういうときに誘いに乗らないところが私の可愛くない要素なのかもしれない。それでも、男に慰めてもらうなんてまっぴら御免だ。失恋の傷くらい自力で癒せる。 「結構です」と私は一蹴した。可愛げのない女だな、という非難がましい黒沢の視線を背中に感じながら。 男より弱いことが可愛げだというのなら、私は一生可愛くなくて構わない。 大股で廊下を闊歩し、オフィスへと向かう。さあ、仕事だ。今日も頑張るぞ。よくわからないパワーが私の中に漲ってきて、なんだか今夜は何時間でも残業できそうな気分だった。
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