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第2話 ドラマみたいにはいかない馴れ初め
いつになったら恋人に会わせてくれるのよ、という母親の小言には、毎度のことながらうんざりしてしまう。
良介にフラれてから二週間が経ったが、私はいつも通りの毎日を送っていた。ショックで仕事も手に着かない、などという女々しいことは一切なく、むしろ今まで以上に仕事に打ち込むことができた。上司や後輩が引くほどのワーキングハイだった。
毎週のようにかかってくる母からの電話。「最近どう?」「元気にしてる?」から始まり、二言目には「結婚」という地雷ワードが出てくる。三言目には「早く孫の顔が見たい」だ。典型的にもほどがある。独身アラサー女の心にはマインスイーパ並みに地雷が埋まっているというのに、うちの母親はいつも容赦なくその地雷原を土足で踏み荒らしてくれている。
時代が時代とはいえ、母は二十二で結婚し、二十三のときに私を産んだ。三十過ぎても婚約の話が出ない私に痺れを切らしているようで、「今の彼とは結婚するつもりなの?」「いつになったら結婚するの?」「本当に結婚する気あるの?」と時が経つにつれて母の剣幕もエスカレートしている。
『まったくもう、ちんたらしてると子どもが産めなくなるわよ』
今日もこの調子だ。
私は鬱々とした気分で相槌をうった。「はいはい、わかったわかった」
彼氏とは別れた、なんて馬鹿正直に話してしまえば母親が発狂しかねない。しつこい詮索と説教を避けるためにも、破局については触れないことにしておこうと心に決める。
『全然わかってないじゃない。いつになったら結婚するの』
「いつでもいいじゃん、そんなの」
『よくないわよ』
「別に結婚しなくても生きていけるし。お金もそれなりに稼いでるし、マンションだってあるし」
『あんた、一生独身でいるつもりなの?』
電話口の母の声が少し甲高くなる。鼓膜が痛い。
『私たちが死んだら、誰も頼れる人がいないのよ? 老後もずっと独りでいいわけ?』
「でもそれって、結婚したって同じことじゃん。家族に先立たれたら、老後どうせ独りになるんだし」
『そういうことを言ってるんじゃないの』
……あー、面倒くさ。
母はいつも威嚇する小型犬のようにキャンキャンと喚く。ヒステリックな声を聞いてるだけで私のイライラも募っていく。
「もういいでしょ。ほっといてよ」
私の投げやりな態度にかちんときたようだ。母の語気が強くなる。『ほっといてたから、こんな取り返しのつかないことになったんじゃない』
……こんな取り返しのつかないこと?
今度は私がかちんとくる番だった。「なにそれ。私のこれまでの人生は失敗だって言いたいの?」
『そうじゃなくて――』
「結婚がすべてじゃないでしょ。母さんの時代とは変わったの」
私も語気を強めた。ほぼ怒鳴っているような口調になってしまったけど、もう引くに引けない状況だ。
「だいたい、母さんはどうなの。今、幸せなの? いっつもお父さんの悪口ばっか言ってるけど、結婚してよかったって思ってる? そんな姿見てたら、結婚したいなんて全然思えないんだけど。将来、母さんみたいな結婚生活送るくらいなら、このまま一生独身でいたほうがマシ!」
『なっ』電話の向こうで母が息を呑む。『あんた、なんてこと言うの――』
「そんなに娘に結婚してほしいなら、ちゃんと幸せな夫婦像を示していただけませんかねえ!」
母が何か言い返そうとしていたが、私は電話を切って電源を落とした。
「……あー、もう」
掌で顔を覆い、はあ、と大きなため息をつく。
いい年して母親にキレてしまった。今まで我慢していたことが、今日は我慢できなかった。やっぱり良介と別れたショックを引きずっているんだろうか。……いや、自分はそんな女々しい奴じゃない。きっと疲れているせいだろう。仕事も忙しかったし、ここ最近は厄介な案件が多かった。虫の居所が悪かっただけだ。そうだ、そうに違いない。ひたすら心の中で言い訳する。
さすがにここまで言えば母もしばらくは電話してこないだろう。それだけが救いだ。とにかく今は放っておいてほしい。
結婚だの出産だのと口うるさい親からの電話の直後は、いつもきまって心が荒れてしまう。こんなときはドラマを観て癒されるに限るなと思い立ち、テレビの電源を入れ、チューナーを起動した。最近ずっと仕事に没頭していたので録画した番組が溜まっている。その中から、今最もハマっているドラマを再生した。タイトルは『ドラマチック・ラブ』、通称『ドラ恋』。その名の通りドラマのような王道要素が楽しめる、アラサーOLのヒロイン・アイコと、ニューヨークからやってきた嫌味なイケメン同僚・カズマのラブコメディ第3話だ。
CMは飛ばさず、その間に冷蔵庫から缶ビールを取り出し、つまみも用意した。
先週の第2話では、アイコの元カレのたぁくんをカズマがクールに撃退する、という痛快な展開を見せてくれたが、この第3話もなかなか面白かった。アイコにとって嫌な男でしかなかったカズマが、前回に引き続き、怒涛の勢いで好感度を上げてきやがる。手始めに、資料室で高い場所にあるファイルを取ろうとしたら足元がぐらつき、倒れそうになったアイコを、なぜかその場にいたカズマが抱きかかえて支える(「きゃっ」「大丈夫か?」「ご、ごめん!」「俺が取ってやるよ」というベタなやり取りの)シーンがあった。さらには、アイコがストーカー被害に悩んでいることを知ったカズマが残業後の彼女を(外車のスポーツカーで)家まで送ってやったり、通勤電車で痴漢に遭うアイコを偶然同じ車両に乗っていたカズマが助け出したり(スポーツカーで通勤設定はどこいったんだ?)と、ヒロインのピンチには必ず助けにきてくれる白馬の王子様っぷりに、「むしろお前がストーカーなんじゃないの?」と一抹の疑惑が頭を過ることもあったけど、総じて胸がきゅんきゅんさせられた。カズマを演じている役者が今をときめく人気イケメン俳優なので、何をやっても許せてしまう。やはりイケメンの力はすごい。
恋愛ドラマを観ると、いつも「いいなぁ」と思ってしまう。ヒロインが羨ましい。私もこんな恋愛したい、こんな恋人がほしい、そんな願望やら欲求やら煩悩やらがどんどん湧いてくる。まあ、俳優のような男前が身近にいるわけがないとはわかっているが、それでもついつい憧れてしまう。
誤解のないよう言っておくが、別にヒロインのように助けてもらいたいわけではない。男に甘えたいわけでも、守ってもらいたいわけでも、養ってもらいたいわけでもない。私は一人でも生きていける。男がいなくたって平気だ。仕事もあるし、友人もいる。三年前に買ったこの3LDKのマンションもある。
とはいえ、やっぱり恋人はほしい。男の力を借りなくても生きていけるからといって、男がいらないというわけではないのだ。カズマみたいなベタなイケメンと、ベタな出会いをして、ベタな恋愛をしたい。ドラマのように。私の願いはただそれだけだ。それだけといっても、それがものすごく贅沢な願いだということはよくわかっている。
……男、探すか。
良介にフラれ、フリーになって一週間。恋愛のことは極力考えないように生きてきたが、そろそろ重い腰を上げるときがきたようだ。母親に文句を言われなくて済むよう、早く次の恋人を見つけなければ。
とはいっても、残念なことに身の回りのいい男はすでに狩り尽くされている。高身長・高収入・高学歴の同世代イケメンは皆、既婚者ばかり。そんな彼らに手を出すわけにもいかない。不倫は私の主義に反する。ドラマみたいといっても、不貞だの離婚だの慰謝料だのという、そういう昼ドラみたいなドロドロした恋愛がしたいんじゃない。ラブコメのようなキュートでポップな恋を楽しみたいだけだ。
狩り尽くされているならば、新たな狩場で出会いを探すしかない。私はとりあえず今流行りのマッチングアプリを利用してみることにした。二十代前半の頃に一度使ったことがあるから、だいたいどんなものかはわかっている。
私が登録したのは、『ラブマッチ』という比較的ライトなアプリで、気になる人を選んで『💓』ボタンを押し、相手もそれに『💓』を返してマッチングすると、互いにメッセージを送り合えるようなシステムになっている。誰からでも自由に連絡が来るというわけではなく、ある程度ふるいにかけられるのが有り難い。気に入らない場合は『💔』ボタンを押すことで相手からのアプローチを拒否することができる。もちろん、相手の男性にその通知が届くことはない。
さっそく名前や顔写真、プロフィールを登録したところ、すぐに男性からいくつものアプローチがあった。一時間弱の間に二十人から『💓』が送られてきている。なかなか大漁だ。「おっ」と気分が上がりかけたが、その男性陣のプロフィールを見て、すぐに落胆した。
「オッサンばっかじゃん……」
三十後半はまだ許せる。ほとんどが四十代、中には五十代の男性もいた。以前登録したときは、アプローチしてくる男性のほぼ全員が二、三十代だったというのに。
――私が三十を過ぎたからか?
三十代というだけで、ここまで市場価値が下がるものなの? うわ、信じらんない。軽くショックを覚えながらボタンを押す。💔、💔、💔、💔、💔、💔、💔――オッサンたちからのアプローチを次から次へと蹴っていたところ、辛うじて歳が近めな三十七歳が現れた。四歳差ならまあ問題ないだろう、と気を取り直してその男性のプロフィールに目を通す。三十七歳、年収三百万未満、身長167センチ。おまけに実家暮らし。――うわ、これは無理だわ。💔。
次の男性も年上だ。三十五歳。『はじめまして! 職場で出会いがないので初めてみました! 趣味は釣りとプロレス観戦。性格は真面目で、ちょっとSです(照れた表情の顔文字)』
ないわ。無理。自分で自分のこと「サド」だの「ドエス」だの言う男は本当に無理。自称S男はただ単に性格と口が悪いだけの勘違い野郎だって相場が決まってる。こいつも即💔。
その次に現れたのは年下の男だった。三十一歳の会社員。顔写真はなく、代わりにウユニ塩湖の写真を載せている。プロフィールには『似ている芸能人は坂口健太郎・綾野剛・北村匠海です』と書いてあった。
――系統バラバラやんけ。
結局どんな顔してんだ? キメラか? ちょっと見てみたい気もするけど、わざわざ冒険する暇はない。自己の顔面を表現するために三人ものイケメン俳優の名を書き連ねるその烏滸がましさ。地雷感が否めない。とりあえず💔を押した。
同い年の男性もいた。『三十三歳、身長180センチ、自営業、年収一千万以上』とある。「おっ」と思い、プロフィールの続きを読んでみた。『はじめまして、マサキと申します。会社を経営していて、常に海外を飛び回っています。仕事にとてもプロ意識を持っており、自身の体型維持や健康にも気を遣っています。体脂肪率は常に一桁をキープしています。プライベートでも手を抜きません。それが故に息抜きが下手(自覚はないのですが、周りの人間によく「もっと休め」と言われます)なので、癒してくれるような恋人を探しています。休みの日はドライブやサーフィンを楽しんでいます。車はAMGのスポーツカーです。クルーザーも所有しています。サーフィン歴は10年以上で、プロレベルです。最近はマンション投資を始めました。性格は真面目で、謙虚な人間だとよく言われます』
――どこが謙虚なんだよ。自慢だらけじゃねえか。その矛盾だらけのプロフィールをさっさと書き直せ。💔💔💔💔💔。
ナルシスト臭がぷんぷん漂ってくる男の文章に顔をしかめながら、私はアプリを閉じた。
「……ダメだ」
いい人が見つからない。むしろ事故物件ばっかり。私が探している「三十三歳独身、年収一千万、身長185センチ」のまともな性格した男前なんて全然いない。いるわけがない。近しい男を見つけても『💓』が返ってこないし、ひどいときはプロフィールに「※三十歳以上の方はごめんなさい」なんて注釈が書かれている。なんだよ、三十代がそんなに悪いのか。お前は四十代のくせに。くそ、腹立つ。
すっかり気持ちが萎えてしまい、三日足らずで退会した。
マッチングアプリはダメだ。写真はいくらでも誤魔化せるし、本人である保証もない。おまけに既婚者が紛れ込んでいる懸念もある。
たしかに私は三十過ぎだけど、見た目もスタイルも悪くないほうだと自負している。実物を見れば、もう少しマシな男が寄ってくるはず。
ということで、今度は婚活パーティに参加してみることにした。駅の傍にあるカフェレストランを貸し切って開かれた、思ったよりカジュアルな雰囲気のパーティだった。参加費は男性ひとり四千円、女性は二千五百円。男女合わせて四十人ほどが集まっている。
「なんで私まで……」
と、隣で汐里が呟いた。彼女には無理を言って同席してもらった。もちろん、参加費は私持ちで。
「ごめん、ひとりで参加する勇気がなくて」
「別にいいけどさ。こういうのって、ひとり参加の方が有利なんじゃないの?」と、乾杯のために配られたグラスを片手に汐里が尤もなことを言う。
たしかに、婚活の手引きサイトにもそのようなことが書かれていた。女性の数を集めるためか、友達と二人一組で申し込むと値引きになるようなイベントが多いので、ついつい誰かを誘って参加したくなるものだ。見ず知らずの集団の中に飛び込むには友人が一緒にいてくれた方が心強いが、逆に女同士でくっついて話してしまい、男性から声がかけにくくなるというデメリットもある。ひとりで退屈そうにしている壁の花の方が、男もアプローチをかけやすいらしい。
「次からは一人で参加するよ」と、私は答えた。「今日はまあ、様子見というか。婚活パーティがどういうものか、体験しにきただけだから」
「とか言いつつ、珍しく髪の毛巻いてるじゃん」
親友の鋭い指摘に返す言葉がない。付き合いの長い彼女は、私がコテで髪を巻いた日=気合いが入っている日、という法則を知っている。
「それにしても、いろんな人がいるねー」
会場を見渡しながら汐里が言った。仕事帰りでスーツの人もいれば、私服の人もいる。黒髪の男、金髪の男、ハゲの男。ヘアスタイルも様々だ。今回参加したパーティの条件は、男性は25~39歳、女性は25~35歳というものだった。比較的同世代が集まっているはずだが、見目はバラバラだ。
「っていうかさ、女性だけ35歳までって理不尽じゃない?」
「いやほんと、ひどい話だよ。差別だ、差別」
今回のように、女性の年齢だけを引き下げた不平等な婚活パーティは山ほどある。それだけ若い女が好まれるということか。世知辛い。
参加者にはプロフィールカードが配られていた。書かれている質問事項に沿って回答を埋めていく。名前(ニックネーム)、ナツコ。33歳。職業、OL。隣にいた女の子が年齢の欄に25と書き込んでいたのを見て、「うっ」と地味にダメージを食らった。実年齢を書くのを躊躇ってしまう。
反対側にいる汐里の手元を盗み見たところ、彼女は躊躇なくすらすらと記入していた。しかも、年齢の欄には「35歳」と嘘の情報を書いている。参加条件の上限ギリギリじゃないか。歳だけに限らず、名前はマキ、仕事はネイリストと詐称してばかりだった。
「ちょっと、なんで嘘つくの」
「え? ダメ?」汐里は悪びれもせずに首を傾げた。「だって私、別に誰とも付き合う気ないし。こんな見ず知らずの大勢の人間に個人情報を晒すのも怖いじゃん」
これだから独身主義は。警戒心が強い上に、やる気がなさすぎる。
「それに、一緒にいる私が三十五歳って書いとけば、三十三歳のなっちゃんが相対的に若く見えるでしょ。私に付き合わされた体を装えばいいよ」
……おお、なんていい奴なんだ。
その手があったか。さすが汐里、気が利く。自分を犠牲にしてまで友人を立ててくれるなんて。持つべきものは独身主義の友達だ。
――などと感動したのも束の間、酒豪の汐里は「元を取るぞー」と意気込み、すぐにバーカウンターへと移動してしまった。トークタイムが始まってからも食べ物ばかりに夢中で、タダ酒を浴びるように飲んでいる。なかなか自分のテーブルに戻ってこない。
酒活中の親友は放っておくことにして、私は自分の任務に集中した。せめて三人くらいは目ぼしい男を見つけて帰りたいところ。
トークタイムは各グループ十分ずつ。男性側が女性のいるテーブルを順番に回るようになっている。テーブルにはそれぞれ五人の女性がいる。私の席は以下の面子だ。
ミユキ。二十五歳。フリーター。
エリ。二十七歳。会社員。
サリナ。二十九歳。保育士。
そして、ナツコ。三十三歳。会社員。
最後に、ほとんど席を外しているマキ。三十五歳(自称)。ネイリスト(詐称)。
――この五名(一名はほぼ戦力外だけど)での戦い。私と汐里以外は皆二十代だ。スタートから不利な状況にいることは否めない。
パーティが始まり、スタッフから簡単な説明があった後、すぐにトークタイムが始まった。最初のグループの男性陣が我々のテーブルにやってくる。見た感じ若い子が多くてちょっと怖気づいてしまった。プロフィールカードを見ると案の定全員が二十代で、「うっ」と再び精神的ダメージを食らう。
幸いなことに二十代の若い男の子でも、三十過ぎの萎れた私に興味を持ってくれる人もいた。「僕、年上の女性が好きなんです」と、あっけらかんと宣言する子もいる。「あとで連絡先交換しましょう」と言ってくれた子は二十五歳の美容師。若すぎる。話が合うとは思えない。愛想笑いだけ返しておいた。
次のグループにも、そのまた次のグループにも、私の条件に合う男性は見当たらなかった。三十代後半の男性参加者は特に残念で、売れ残り感が強い。私も人のこと言える立場じゃないけど。
時間が経つにつれて、飲まなきゃやってられない気分になってきた。私は席を離れ、バーカウンターの中にいる店員にビールを注文し、ビュッフェスタイルの料理を次から次に皿に盛った。
そうこうしているうちに、すべてのグループとのトークが終わった。休憩を挟んでから連絡先交換タイムに移ります、とスタッフがマイクで説明している。
「どうだった? いい人いた?」
シャンパン片手に席へ戻ってきた汐里に、私は肩を落としてみせた。「全然ダメ。もう帰ろう」
連絡先を交換したいと思う相手はひとりもいなかった。これ以上無駄な時間を過ごしたくない。汐里を連れて会場を出る。入り口にいるスタッフには「仕事に遅れるので帰ります」と嘘を吐いた。
汐里はたくさん酒が飲めて満足そうだったけど、何の収穫もなかった私にとってはただ金を払ってタイプでもない男と喋るだけのしんどいイベントに終わった。これならまだ場末のホストクラブで遊んだ方が楽しめる気がする。結局、私も途中から元を取ろうとトークそっちのけで酒活に励んでしまう始末。こんなはずじゃなかったのに。
私の周りの良い男は狩り尽くされている、というのは間違いだ。正しくは、この世のいい男はすでに狩り尽くされている、だった。うすうす気付いてはいたけど、こうして目の当たりにしてやっと事の重大さを痛感する。二十代後半でも厳しい市場だというのに、三十三の私が今から相手を探して見つかるわけがない。ごく普通の男だと思っていた良介がとんでもない優良物件に思えてきて、なんだか惜しいことをしたような気分になってしまう。お高くとまらずにあの美容師の子と連絡先だけでも交換しておけばよかった。最近は後悔することばっかりだ。
「――高宮、飲み行こうぜ」
珍しく定時に退社しようとパソコンの電源を落としている私に、同期の黒沢が声をかけてきた。私が彼氏にフラれたことを知って以降、困ったことに三日に一回はご飯に誘われるようになってしまった。
「行かない」
「いいだろ、ちょっと付き合えよ」
「今日は友達と約束してるから」
「俺も一緒に行っていい?」
「はあ? 駄目に決まってるでしょ。馬鹿じゃないの」
産休で人員がひとり減った上、大きなコンペを抱えていたこともあり、ここ最近はずっと残業続きだった。ようやく落ち着いたので、今夜は久しぶりに汐里と会うことになっている。楽しみにしていた親友とのサシ飲みをこの男に邪魔されたくはない。しつこく食い下がる黒沢を振り払い、私は早歩きで会社を出た。
――ということがあったと、行きつけの居酒屋で話したところ、
「もうさ、その人と付き合っちゃえば?」
と、汐里はとんでもないことを言い出した。
「はあ?」私は大げさに目を見開いてみせた。勢いよく首を振る。「黒沢と? いやいや何言ってんの。ありえない。絶対無理、無理無理無理」
あいつと付き合う? 想像しただけで寒気がする。
「でも、かっこいいんでしょ、その人」
「見た目はいいよ。性格は最悪だけど」
容姿だけは社内トップクラスだと思う。入社式で初めて会ったときに一目惚れしかけたという過去の思い出は、絶対に墓場まで持っていこうと心に決めている。
「それで、その後の婚活はどう?」
汐里に進捗を尋ねられた私は、露骨に肩を落として答えた。「全然ダメだね」
インターネットで調べてみたところ、婚活の極意を紹介しているブログに、『マッチングアプリは複数を並行して利用し、出会える男性の分母を増やすべし!』と書かれていた。たしかにその通りだと思った。私はひとつのサイトにしか登録していなかったし、しかも三日で辞めてしまった。たまたまそこの紹介物件がひどかっただけで、他の場所にはもっといい男性が隠れているかもしれない。
「そう思って、他にも二つのマッチングアプリに登録してみたけど、まあ結果は同じだったよね」
結局、「おっ」と思うような男性には巡り会えずに終わった。
「なっちゃんは理想が高すぎるからなぁ」
美人なのにもったいない、と汐里がため息をつく。
……もったいない、か。
ふと思う。彼氏ができないことよりも、妥協してつくった彼氏と付き合うことの方がもったいないんじゃなかろうか。時間も労力も無駄にするんじゃなかろうか。
「なっちゃんが男だったら、絶対モテただろうね」と言う汐里に、はたしてそれは褒め言葉なのだろうかと枝豆を摘みながら首を捻る。
「やっぱり三十三からの婚活はキツいわー」
私は深いため息をついた。
「男は三十過ぎたら『脂がのった』って褒められるのに、なんで女だと『とうがたった』だの『賞味期限が切れた』だの言われるんだろうね。ほんと不公平だわ」
「ねー」
三十手前で焦りはじめる女たちの気持ちが今更になって理解できた。二十代と三十代では明らかに扱いが違う。私の人生を「取り返しのつかない」と評した母親の気持ちも、ちょっとだけわかった気がする。たしかに、どう足掻いても二十代には戻れない。
「私の知り合いの話なんだけどさぁ」
と、汐里がビール片手に口を開く。
「その子には『二十五歳までに医者と結婚する』っていう目標があって、大学時代に医者を目指す学生が集まるサークルに入って、医学部に通う彼氏を捕まえたの。五年付き合って、見事に二十四歳で結婚。旦那は親の病院を継ぐことになっているから、将来は院長夫人」
「うわ、すごっ」
よく言えば計画的、悪く言えば打算的だ。
「つまり、本気で結婚したいなら、大学生の頃から婚活しないといけないってことよ。三十手前になって焦りはじめても時すでに遅し」
身につまされる話だ。二十代後半を捧げた恋人との破局がどれだけ人生の痛手になるかということを改めて思い知る。良介との交際を無駄な時間を過ごしたとまでは言いたくないが、もったいないことをしたという後悔は拭えない。
「あー、私も医者と結婚したいー」焼酎をちびちび飲みながら軽口を叩く。「どうやったら医者と出会えるかなぁ」
「風邪引いて病院行けば?」
「それただの診察じゃん」
「そこから仲良くなれるかも」
「無理。この辺の町医者なんて、じいさんばっかりだし」
「孫を紹介してもらうとか」
「もう医者じゃなくてもいい。普通のサラリーマンでいい。背が高くて稼ぎがよくて頭もよくて顔もよければ。会社員でも自営業でも何でもいい。おまけに性格もよければ」
「条件多すぎ。ちょっとは目を瞑ろうよ」
彼女の言う通り、すべての条件をクリアするような男が残っていないことは、ここ最近かなり痛感している。とはいえ、高身長・高学歴・高収入の私が、相手に自分と同等の条件を求めて何が悪い、とも思ってしまう。
「まず、学歴は捨てよう。高学歴でも貧乏だったら意味ないし」
という汐里の提案に、私は頷いた。「たしかに。おっしゃる通り」
「これだけは絶対、っていう条件は?」
「そうだねえ……やっぱり収入は捨てられないかな。身長も高い方がいいけど、私よりかは」
「顔か性格だったら、どっち取る?」
「うーん……」
悩ましい問題だ。不細工な相手とセックスするなんて考えられない。気持ちが萎えてしまう。かといって、性格が最悪な相手と結婚してもやっていける自信はない。すぐ離婚しそうだ。
「答えが出せません」
これ以上の妥協はできそうにない。
小刻みに首を振った私に、
「もうさ、いっそのこと収入を捨てちゃえば?」
と、汐里が大胆なことを言い出した。
「いやいや、そこ捨てちゃダメでしょ」
自分より金を持ってない男と結婚して経済的に足を引っ張られるくらいなら、このまま独身でいたほうがマシじゃないか。
「なっちゃん、バリキャリの高給取りなんだからさ、相手の収入なんてどうでもよくない? 夫ひとりくらい養っていけるよ」
「えー」
「高卒で無職、でも身長180センチ以上で、性格のいいイケメン――みたいな相手を探せばいいよ。意外と見つかると思う」
「いやそれただのヒモじゃん」
自分のためにお金を稼ぐのは好きだけど、それが男を養うためとなると気が進まないものだ。家庭を養ってる世の中の既婚男性は偉いなあ、としみじみ思った。
汐里と別れ、私は自宅までタクシーで帰った。時刻はまだ十一時前。終電を逃したわけじゃないが、なんとなく電車で帰るのが億劫だった。近頃はちょっとの距離でもすぐタクシーに乗ってしまう。お酒を飲むのは楽しい。飲み会も嫌いじゃない。だけど、ものすごく疲れる。三十を過ぎてから目に見えて体力が落ちた。寝ても疲れが抜けないし、アルコールも抜けない。代謝も下がっていく一方。日に日に老いていくのを感じ、このまま婆さんになっていくのかと時折ものすごく怖くなることがある。タクシーの窓ガラスに映った自分の顔もひどく老け込んでいて、軽く傷つく。
釈然としない部分がないこともないけど、汐里の言うことは一理あると思う。そもそも、高身長・高学歴・高収入のイケメンが、必ずしも「いい男」であるとは限らない。固定概念や偏った理想は捨てるべきなのかもしれない。第一に考えなければならないのは「この人と結婚して幸せになれるかどうか」だろう。……いやでも、お金のない生活は不幸せに決まっている。やっぱり相手の収入は条件から外せない。それに、毎日不細工な男の顔を見て幸せになれるか? 無理無理。やっぱり顔も大事だ。
結局なにも妥協できず、堂々巡りで終わった。
マンションの前でタクシーを降り、またもや吸い込まれるように煌々と光るコンビニの店内へと足を踏み入れる。ビールとつまみを買うためだ。
「いらっしゃいませー」
深夜バイトの不愛想な挨拶が飛んできた。レジにいたのは吉田くんだった。私の顔を見て、「あ」と呟く。
「高宮さん、いらっしゃいませ」
どうも、ビールとスルメの人です。
こないだはありがとう、と礼を言ってからお酒の棚へと直行する。アサヒにするかキリンにするか悩んで、結局両方買うことにした。
いつものように缶ビールとスルメをレジに持っていくと、
「また酒っすか」
と、吉田くんが苦笑いを浮かべた。
「悪い?」
「いえ。毎度ありがとうございます。九百二十円です」
「はい」
「八十円のお返しです」
お釣りを受け取った私に、
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
軽くお辞儀し、吉田くんがにこっと笑った。いつもの仏頂面が嘘のような、ものすごく愛嬌のある笑顔だった。前のコンビニでは愛想がよかったという話は、どうやら嘘ではなさそうだ。
……なんだよ、ちょっと可愛いじゃないか。
仕事にも恋愛(というか婚活)にも疲れている三十代OLには、その笑顔はぐっとくるものがあった。なんだか少しだけ癒された。買い物する度にこんな人懐っこい笑みを向けられたら、四十のオバサンがストーカーに豹変するのも無理ないかもしれない、とさえ思えてきた。
一日の最後にいいもの見せてもらったな、なんてことを考えながら、自宅へと戻る。そういえば、いつも週末にかかってくる母からの電話が、今週はなかった。やはり先日の口論が効いているようだ。このままずっとかかってこなければいいのに、なんて親不孝者な考えが浮かぶ。
メイクを落としてスキンケアを終えてから、缶ビールを開ける。晩酌のお供にとテレビをつけた。今はこれ以上結婚と向き合いたくなかったので、今夜は恋愛ドラマではなく、代わりに違うジャンルの作品を観ることにした。たまたま放送されていた映画を流しながら酒を飲む。十年ほど前に人気を博したジャパニーズホラームービーだ。
映画が中盤に差し掛かったときだった。コン、コン、コン、コン――と、小刻みに何かを叩くような音が聞こえてきた。
「……ん?」
眉をひそめ、耳を澄ます。映画の効果音かと思ったが、違う。うちだ。玄関の方から聞こえてくる。
――……え? なにこの音?
寒気を感じながら廊下に出る。
コン、コン、コン、コン。
玄関に近付くにつれて大きくなる。その妙な音はドアの外から聞こえてきた。
「え、なに……」
恐る恐る、ドアスコープを覗き込むと――――男がいた。
「ひっ」
私は思わず悲鳴をあげた。
帽子とマスクをした見知らぬ男がドアの前に立っていた。外からドアスコープを叩きながら。
私の悲鳴が届いたのか男は慌てて走り去った。次第に足音が遠ざかっていく。
――えっ、誰あいつ!? 何!? 何なの!?
私は恐怖のあまり軽くパニックに陥った。その場に座り込み、荒い呼吸を繰り返し、バクバク鳴ってる心臓をどうにか落ち着かせようとした。
――とにかく、警察に通報しなければ。
スマホを手に取り、震える指で110番を押す。ついでにテレビのチャンネルも深夜のバラエティに替えた。
「――おそらく、空き巣の仕業でしょうね」
通報を受けて駆け付けた警察官は、一通りの事情聴取を終えてそう言った。
「空き巣、ですか……」
住人が中にいるのに空き巣? それって空き巣って言わなくない?
内心首を捻っている私に、別に珍しいことでもないと言わんばかりの涼しい表情で警官が説明する。「ドアスコープを外し、そこから特殊な道具を差し込んで鍵を開けることができるんです。最近、この辺りで同じような手口の被害がありましてね」
「な、なるほど」
そんなことができるのか。知らなかった。
たしかに、マンションのオートロックなんてあってないようなもの。他の住人のあとをつけたり、宅配業者を装ったりと、中に入ろうと思えばいくらでも方法はある。
「ですが、もしかしたら覗き目的やストーカーのようなパターンもありますので、十分注意してくださいね」
「は、はあ……」
放心状態で頷いた私を残し、警察官たちは帰っていった。明日になったら管理会社に連絡して防犯カメラの映像を確認してくれるらしい。さらにパトロールの回数を増やしてくれるとのことだが、それでも不安は拭えない。
……怖かった。
死ぬかと思った。怖すぎて。こんなに怖い思いをしたのは生まれて初めてだ。今日観たホラー映画も、小さい頃に入ったお化け屋敷も、今夜の事件に比べたら可愛いものだ。結局この世でいちばん怖いものは幽霊でも怪物でもなく、人間だということだろうか。
すべての窓の施錠を確認し、寝室の手の届くところに金属バットを置いた。昔、野球をしていた頃に使っていたもので、今でもたまにバッセンに持って行くこともあるけど、まさかこうして護身用することになるとは思わなかった。
――さて、寝るか。
布団に入り、目を閉じる。
数秒後、
「…………って、寝れるか!」
がばっと勢いよく起き上がった。ダメだ、眠れない。あんなことがあった直後にスヤスヤと眠れるわけがない。目を閉じると、スコープ越しに見たあの男の顔が頭に浮かんでしまう。またあの男が私の部屋に来て鍵を開けようとするんじゃないか。そんなことばかりが頭を過ってしまう。
独り暮らしは自由で楽だ。その反面、心細い部分もある。女の独り暮らしがいかに物騒かを改めて思い知った。こういうときばかりは、誰かが家にいてくれたらと思わずにはいられない。結婚して、旦那と一緒に住んでいれば、こんな恐怖に震える夜を過ごさなくて済むんだろうなぁと。
結局、考えないようにしようと思っていた結婚のことまで考えてしまった。くそ、あの空き巣め。許さんぞ。
孤独を嘆いたところで何の解決にもならない。自分の身は自分で守らなければと、私は金属バットを抱きしめるようにしてベッドに横になった。なにかあったとき、すぐに応戦できるように。鉄臭いし、ひんやりとしていて抱き心地は最悪だけど、少しだけ心が落ち着いた。
――そうだ、武術を習おう。
ふと思いついた。自分の身は自分で守るしかない。護身は独身女の嗜みだ。
翌日の昼休み、欠伸を噛み殺しながら社員食堂で定食を注文し、さっさと平らげてから格闘技系の教室をネットで検索してみた。女性向けのレッスンは意外とたくさんある。空手、ボクシング、キックボクシング、ムエタイ、ブラジリアン柔術――こんなに選択肢が多いと逆にどれにするか迷ってしまうな。
「主任、何してるんですか?」
不意に部下が声をかけてきた。
片野美紀。入社二年目の二十四歳だ。残業過多で激務の会社に勤めているにもかかわらず、いつも血色がよく、肌に張りがある。これが二十代前半の力か。常にくすんでいる上に空調を浴びてシワシワに乾燥している私とは大違いだ。最近は彼女の若々しさが眩しすぎてその顔を直視できない。
「習い事でも始めようかと思って、ネットで調べてる」
「習い事ですか」片野さんが話に乗ってきた。「実は、私も最近、料理教室に通いはじめたんですよ」
「へ、へえ、そうなの」
料理教室か。眩しい。
「主任は、何を習おうと思ってるんですか?」
「……ピラティス?」
「ピラティスいいですよねー。私の友達も最近ハマってます」
本当はフィリピン武術を習う予定だ。さすがにドン引きされそうなので言えなかった。
フィリピン武術教室は駅からすぐ近くにあった。毎週決まって同じ時間に参加しなければならないグループレッスンだと、突然の仕事や飲み会で行けなくなってしまうことが多い。その点、自分と先生との都合だけ合わせればいいプライベートレッスンは楽だ。少々値は張るけど、一対一だから上達も早いだろう。
仕事が終わってから、教室まで体験レッスンの申し込みに行ってみたところ、たまたま時間空いているとのことでそのままレッスンを受ける流れになってしまった。着替えをレンタルし、更衣室でよれよれのスウェットに着替えた私を、小柄だけどムキムキマッチョな先生が待っていた。見るからに格闘家という隙のない雰囲気が漂っている、ような気がする。
体験レッスンは三十分で、「カリ」と呼ばれるフィリピン武術の基本的な動きを教えてもらった。細い竹でできた二本の棒を振り回して、相手を攻撃したり、相手の攻撃を受け流したりする。この棒が手元にないときはどうやって戦えばいいんだろう、なんて素朴な疑問が頭に浮かんでしまった。
先生の手刀を素手で受け止める練習もした。先生の動きは流れる水のように滑らかだけど、私はそうはいかなかった。ぎこちない。先生の力が強すぎて、レッスンが終わる頃には前腕が青あざだらけになっていた。高宮さんDVを受けているのでは、と周囲の人間に誤解されないか一瞬心配になったが、そもそも自分にはそんなドメスティックな関係の男がいないことを思い出した。
筋がいいと褒められたので、私はうっかり入会することにした。乗せられると弱いのは昔からだ。入会金五千円と、レッスン料(十回五万円の回数券。安いのか高いのか相場がわからない)を払った。さらに、レッスンに使う二本の竹の棒(三千円)まで買わされたので、私はこんな長物を手に持った状態で満員電車に乗る破目になってしまった。周囲の視線が痛い。
そんなこんなで自宅に戻ってきたときには、いつもと違う心地いい疲労感があった。やっぱり体を動かすのは大事だ。心身ともにすっきりする。
とはいえ、自宅はまだ落ち着ける場所じゃない。部屋にいると昨夜の出来事を思い出してしまう。フィリピン武術のおかげでちょっと強くなった気はするけど、私は所詮三十三歳のひ弱な女。先生みたいなムキムキマッチョの格闘家にならない限りは、常にあの空き巣の男に怯え続けなければならない。
格闘技をかじったマッチョを護衛としてレンタルできるサービスがあればいいのに、なんてアホなことを考えた。一晩五千円から一万円くらいで。私だったら喜んで払う。ストーカー被害にあっている女性や、DV夫から逃げてきた女性、なんとなくひとりで家にいるのが寂しい女性、いろんな方面からの需要があると思うんだけどなあ。
まあ、そんな夢みたいな願望はさておき。唯一リラックスできる空間であるはずの自宅にいながら気が休まらない、というのは大問題だ。ストレスが半端ない。これはよくないな、どうしたものか、と頭を悩ませる。ここから電車で三十分ほどの距離にある実家に帰ることも考えたが、気が進まなかった。母と顔を合わせれば何を言われるか想像しただけで憂鬱だ。
そんな私に救いの手を伸ばしてくれたのは、やはり二十年来の親友だった。昨夜の出来事を汐里に話したところ、
『大丈夫? しばらくうちに泊まれば?』
と提案してくれた。有り難い。持つべきものは気心知れた独身の親友だ。私はお言葉に甘えることにした。
汐里の家は隣町にある。私はキャリーバッグに三日分の着替えを詰め込み、最寄り駅から歩いて十五分の距離にある1LDKのマンションを訪れた。来る途中にコンビニで買った缶ビールとスナック菓子を手土産に。
「ごめんねー、迷惑かけて」
災難だったね、と気の毒そうに汐里は言う。「遠慮しないで、好きなだけいていいからね。私だって、いつもなっちゃんちにお邪魔してるし」
私の自宅の空き部屋には来客のためのベッドを置いてある。といっても遊びにくるのはだいたい汐里しかいないので、もっぱら彼女専用のゲストルームと化していた。
「ありがとう。お邪魔します」
勝手知ったる汐里の部屋のソファに腰を下ろすと、どこからか黒猫が現れ、私の膝の上に座った。この子が汐里の愛猫で、名前は影千代。何度も顔を合わせたことがあるので私にも懐いてくれている。
「かげちゃん、しばらくお世話になります」頭やら背中やらを撫でまわしていると、影千代はゴロゴロと喉を鳴らして目を細めた。
「飲もう。嫌なことは飲んで忘れよう」
と、汐里が言った。そうしよう、と頷き、買ってきたビールとつまみを開けて乾杯する。ふと時計を見遣ると、夜の十時前だった。もうすぐドラマの放送時間だ。
「テレビ付けていい?」
「いいよ」
チャンネルをあの番組に合わせる。画面に映った俳優を見て、
「あっ、これ知ってる」と、汐里が声をあげた。「ドラ恋ってやつでしょ? 最近流行ってるらしいじゃん」
「そうそう。私も毎週観てる」
「なっちゃんは昔から恋愛ドラマが好きだよね」
秋に始まったラブコメティ『ドラマチック・ラブ』も、今週で第5話目を迎えた。放送開始からもう一か月以上が経つのか、早いなぁ。
第4話までは、あんなにツンツンしていたニューヨーク男ことカズマが怒涛の勢いでデレはじめて、視聴者の女性たちの心を鷲掴みにしていた。さらには仕事がうまくいかなくて落ち込むヒロインに「お前はいつも頑張ってる。俺は知ってる」なんてことを言って抱き締め、ヒロインの心も鷲掴みにしていた。出会ったばかりの頃は「無能」呼ばわりだったくせに。変わり身がすごい。
第5話では、カズマの元カノ(ニューヨークで知り合ったアメリカ人ハーフのモデルで社長令嬢、という盛りに盛ったキャラ設定)が登場した。よりを戻そうとする過去の恋人を、カズマは鬱陶しそうにあしらっている。過去に三年も付き合った相手だというのにかなりの塩対応だ。
「ねえ、知ってる?」と、CM中に汐里が口を開いた。「いい男っていうのは、モテる男じゃないらしいよ」
「なにそれ、どういうこと」
「恋愛ブロガーの記事に書いてあったんだけど、モテる男っていうのは、ただ無駄に愛想振りまいて女に気を持たせてるからモテてるだけなんだって。いい男は自分が好きな女にしか興味がないから、それ以外の女には塩対応なんだよ。このカズマみたいに。だから、モテる=いい男じゃないってこと」
「……なるほど」
カズマは当初、ヒロインを邪険に扱っていた。それは彼女のことをなんとも思っていなかったからだ。浮足立つ社内の女性に対しても素っ気なかった。ところが、ヒロインに好意を抱きはじめてからは態度が一転。びっくりするほど優しくなった。
ふと、同期の黒沢の顔が頭に浮かんだ。あいつはたしかにモテる。でも、いい男だとは思えない。その理由がよくわかった。あいつは女という生き物全員に好かれようとするタイプ。ただの女好きだからだ。
「言われてみれば、たしかにそうかも」
「でしょ」
ドラマの終盤では、なぜかヒロインの住んでいるアパートが火事になっていた。隣の家のストーブから出火し、ヒロインの部屋にまで被害が及んだため、とてもじゃないが住める状況ではなくなってしまう。
仕事も上手くいかず落ち込んでいたところに、追い打ちをかけるように住む場所まで失ってしまったヒロインのアイコ。どうすりゃいいんだと途方に暮れる彼女に、カズマが言った。『うちに住めばいい』と。半ば強引に4LDKのタワーマンションに連れていかれたところで、次回へ続くとなった。
「うわ、最高」
拍手せんばかりの勢いで私は歓声をあげた。次週からはドキドキの同居生活か。相変わらずベタすぎるドラマだけど、そこがいい。さらに面白くなってきた。
「私もハイスペックなイケメンとタワマンに住みたいわ」
という私の願望に、汐里は同意しなかった。「私は猫と二人暮らしがいちばんだな」と影千代の頭を撫でている。
ふと、気になったことを訊いてみた。「汐里ってさ、親に何も言われないの? 結婚しろとか、子ども産めとか」
「うん。全然」
「いいなー」
羨ましい。汐里の家は昔から、いい意味で「放任」だった。中学生の頃、二人で夏祭りに行ったことがある。楽しくて時間を忘れ帰りが遅くなってしまい、私は母親にめちゃくちゃ怒られた。一方、汐里のお母さんの第一声は『あ、おかえりー。遅かったねー』だった。もちろん、心配していないというわけじゃない。汐里のお母さんは汐里のことを信頼しているのだ。「うちの子は危ないことをしない、馬鹿な真似もしない」という信頼が根底にあるからこその放任。
「ほら、うちの親って離婚してるでしょ? だから、結婚=幸せとは限らないって思ってるるところがあってさ。小さい頃から、『男に頼らなくていい女になりなさい』って言われて育ったよ」
「すごいなぁ、かっこいいわ」
自分のことは自分で幸せにしなさい。もし結婚するとしたら、「幸せにしてくれそうな男」じゃなくて「幸せそうな男」を選びなさい。そうすれば、結婚しても離婚しても自分の幸せはずっと続くから――それが汐里の母の教えだという。すごいお母さんだ。さすがシングルマザー、逞しさが違う。
そんなお母さんの教育あって、汐里はしっかり自立した強い女性に育っている。自立しすぎて独身主義になるという教育が行き過ぎたきらいはあるが。「うちの娘だからきっと幸せになってくれるだろう」という信頼があるからこそ彼女の母親は何も心配せず、口を出してこないのかもしれない。
それに比べてうちの母は。口を開けば小言ばかり。結婚、出産、孫の顔。それ以外はすべて父の愚痴。三年に一回は『離婚したい』と言い出す時期がある。そんなに嫌ならさっさと別れてしまえばいいのに、ひとりで生きていく覚悟もない。
うんざりした気分になりならがテレビを見つめる。次回予告では、アイコとカズマがお揃いのマグカップを買いに行く描写が流れていた。新婚生活を彷彿とさせるようなシーンだ。きっとこの二人は最終回で結婚するんだろうな、と思った。恋愛ドラマでは、結婚こそがハッピーエンド。きれいなドレスを着て、親族や友人から祝福されて、隣にはタキシード姿のかっこいい男性が立っていて。
そんなヒロインの花嫁姿に、私はこれまでずっと、ただ漠然と憧れを抱いていた。
でも、私の最終回は結婚じゃない。現実の物語はその先も続いていく。結婚から人生の第二章が幕を開けるというのに、その先のことを考えもしなかった。どんなドレスを着ようかとか、どんな式にしようかとか、自分の花嫁姿ばかりを夢見ていた。誰でもいいというわけじゃないけど、隣に立っている男には興味がなかった。その証拠に、良介のタキシード姿を想像したことは一度もない。彼と一緒にリビングで寛ぐシーンも、彼が生まれた子どもをあやしているシーンも、私の頭の中の脚本にはなかった。
覚悟がないのは私も同じだ。結婚する必要性を見いだせないくせに、ただなんとなく、ずっと独身でいるのも嫌だと思っている。汐里のように腹を括り、独身主義を貫き通す覚悟もない。私たち母娘は結局似た者同士ということか。
いや、むしろ、父というたったひとりの男性と添い遂げる覚悟を決めた母親の方が、私なんかより断然立派なのかもしれない。
汐里の部屋に居候して三日。替えの服と下着が底を尽いたので、いったん自宅まで取りに戻ることにした。
親友の家とはいえ、さすがに何週間も長居するのは気が引ける。早めに出ていかないとな、と思っていた。来週からは腹を決めて実家に帰ろっかな。いや、はたして来週まで持つだろうか。その前に体力の限界がくるかもしれない。ソファで寝る生活が続き、最初にやられたのは腰だった。ただでさえ積年のデスクワークで腰痛を患い、数年前には軽度のぎっくり腰を経験している身だ。このまま老体に鞭を打ち続ければ取り返しのつかないことになりそう。
昔はどんな場所で寝ても平気だったのになあ、と若かりし頃を思い出して凹みながら、三日ぶりに自宅の最寄り駅で電車を降りた。階段を避けてエスカレーターに乗り、改札を出る。仕事帰りで疲弊していることもあってか、引きずるキャリーケースがいやに重く感じた。
久しぶりの我が家に到着し、お前がザルだからこんなことになったんだぞ、と恨みながらマンションのオートロックを解除する。怪しい奴がいないか、きょろきょろと過剰なまでに周囲を警戒しながら、ひとりエレベーターに乗り込み、十二階のボタンを押した。
回廊を進んだいちばん奥――自宅に着いた。1207の文字が書かれた部屋のドアノブに手を伸ばしたところで、
「……えっ」
予想外の事態に血の気が引く。
――鍵が開いてる。
……え? なんで? 閉めてたはずだよね? え? えっ?
あんなことがあったんだから鍵をかけ忘れるはずがない。うそ。どうしよう。待ってどういうこと。心臓がバクバクしてきた。
――まさか、またあの男が? 今度こそ本当に空き巣が入った?
恐怖で手が震えてきた。まだ中に誰かいるかもしれない。このまま部屋に入って鉢合わせしたら大変だ。危ない。警察に通報する? いやでも、もしただ鍵のかけ忘れだったら? そのことを考えると軽率に大騒ぎできない。
とにかく、一刻も早くこの場を離れたかった。どこか安全な場所に避難したかった。
――よし、コンビニに行こう。
まずは人の目がある空間で安全を確保してから今後の対策を練ろう。すぐに私はマンションを出て、一階のコンビニまで走った。
のんきな入店音とともに中へ足を踏み入れると、
「――あ、高宮さん」
レジにいた吉田くんが、「いらっしゃいませ」より先に私の名前を呼んだ。
よかった。知った顔に会い、なんだか少しほっとする。
「どうしたんすか、そんなに慌てて」
血相を変えて飛び込んできた私に、吉田くんが眉をひそめた。
「あ、いや、その……」荒い呼吸を繰り返しながら、口を開く。「実は、ちょっと困ったことがあって」
私は吉田くんに事情を説明した。先日、知らない男が部屋に入ろうとしていたこと。空き巣の可能性が高いということ。しばらく友人宅に泊まって、今日久々に帰ってみたら部屋の鍵が開いていたこと。万が一のことを考えて中には入らず、このコンビニに逃げてきたこと。
要点をまとめて話すと、
「部屋まで一緒に行きましょうか?」
と、吉田くんが提案した。
「えっ」
「俺、あと五分で上がりなんで」
「……いいの?」
「ひとりじゃ危ないでしょ。ストーカーだったら大変だし」
そうか、この子は自分がストーカー被害に遭ったことがあるから私の気持ちをわかってくれるんだ。正直ものすごく有り難い。心の中で吉田くんを拝みながら、「助かる。ありがとう」と私は礼を言った。背が高くてがっしりした、見るからに強そうな体格の吉田くんが同行してくれるなんて、これ以上心強いことはない。空き巣も尻尾を巻いて逃げ出すだろう。
五分後、私服に着替えた吉田くんが出てきた。パーカーとジーンズ、その上に黒のダウンジャケット。全身ユニクロっぽいシンプルな格好で、無駄に飾らない彼らしさが滲み出ている。
「行きましょう」
「うん」
二人でマンションに入り、エレベーターへと向かう。エントランスできょろきょろしていた吉田くんに「どうかした?」と尋ねると、彼は目をぱちぱちさせながら口を開く。
「このマンション、分譲っすよね?」
「うん」
「高宮さん、いくつですっけ」
「三十三。来月で三十四」
「え」
表情の変化が乏しい吉田くんが、珍しく目を丸くした。……そんなに驚くことか?
「なに、もっと上だと思ってた?」
老け顔だもんねー、という私の自虐に、吉田くんは「ははは」と笑った。そこは否定しろ。地味に傷つくわ。
そうこうしているうちに十二階に着いた。吉田くんとの会話のおかげで少し和らいでいた恐怖心が、私の部屋が近付くにつれて再びじわじわと蘇ってくる。
1207号室のドアノブに手を伸ばし、
「開けますよ」
と、吉田くんが小声で言った。
「うん」
「鍵かけたんですよね」
「うん。かけたはず」
でも、100パーセント断言できる自信はない。97パーセントくらい。
「お邪魔します」
吉田くんが小声で囁く。私たちはまるで寝起きドッキリみたいなテンションで物音を立てないよう、しずかに玄関へと足を踏み入れた。
「吉田くん、これ使って」と、私は玄関の傘立てに差していた竹の棒を渡した。「万が一のときのために」
「なんすか、これ」
「フィリピン武術で使うやつ」
「……フィリピン、武術?」
吉田くんの頭の上に大量の『?』が飛んでいる。だけど、今は説明している場合じゃない。
何かあったときのために武器は必要だ。吉田くんは棒を受け取り、ずかずかと先に進んでいく。頼りになるなぁ、と感心しながら私は彼の大きな背中に隠れ、こそこそと忍び足で歩いた。
廊下の先にあるドアからは光が漏れていた。リビングの電気がついている。テレビの音も聞こえる。……やっぱり、私が鍵を賭け忘れたんじゃない。誰かが私の部屋に勝手に入ったんだ。
「誰かいますね」
「吉田くん、気をつけて」
心臓の鼓動が早くなる。竹の棒を装備した吉田くんが、逆の手をドアノブに伸ばす。私は彼の服を掴み、その背後に隠れたまま部屋の中を覗き込んだ。
リビングのドアを開けると、
「――あら?」
能天気な声が聞こえてきた。
ソファに座ってテレビを観ている女の顔に、拍子抜けする。
「お母さん!?」
そこにいたのは母親だった。
侵入者の正体が判明し、強張っていた体の力が抜けていく。
「脅かさないでよ、もう……」
呆れた。勝手に中に入って寛いでいる母親にも。こんなことで大騒ぎしていた自分にも。空き巣じゃなかったことは朗報だけど、警察を呼ばなくて本当によかった。危うく大恥をかくところだった。
ほっとしたら、今度はなんだか腹が立ってきた。私は母親に向かって文句を言った。「だいたい、何やってんのよ、人んちに勝手に入って」
「おでん作りすぎちゃったから、もってきたのよ。冷蔵庫に入れといたから温めて食べなさい」
冷蔵庫を開けると、上から二段目にタッパーが置かれていた。透明の耐熱容器の中から卵やこんにゃく、牛筋の姿が透けて見える。
「ちょっと、なに勝手にタッパー使ってんの。これ、毎朝卵焼き作るためのものなんだけど」
卵とマヨネーズを混ぜてチンするだけで簡単にふわふわの厚焼き玉子が出来上がる。忙しい朝の必需品なのに。
「まったくあんたは、何でもかんでもレンジに頼って……卵焼きくらいフライパンで作りなさいよ」
と小言をこぼしてから、母はドアの前に棒立ちになっている吉田くんに視線を移した。
「そんなことより、そちらの男性はどなた?」どことなく期待に満ちた表情を浮かべている。「もしかして、あなたが奈律子の彼氏?」
「いや、この人は――」
「ご挨拶が遅れました」吉田くんが頭を下げた。手に竹の棒を握ったままで、まるでアフリカの部族みたいだ。「吉田遥と申します」
「あらぁ、遥くんっていうの」
母は露骨ににやにやしている。
「初めまして、奈律子の母です。奈津子がいつもお世話に――」
……どうしよう、なんか妙な展開になってきた。
「ちょっと、やめてよ母さん」
慌てて間に割って入る。いろいろと詮索したそうな顔をしている母親を、どうにかして追い出そうと私は必死だった。
「頼むから帰って。今すぐ」
すると、母は珍しく素直に言うことを聞いた。「じゃあ、母さんもう行くわね。邪魔しちゃ悪いし」
「今度からちゃんと鍵締めてよね。実家じゃないんだから」
「はいはい」
吉田くんと二人で玄関先まで見送る。
母が去ってから、私は大きなため息をついた。「まったく、人騒がせな……」
「でも、よかったっすね、空き巣じゃなくて」
と、吉田くんが隣で口を開く。
「そうだね」と頷いてから、私は気になっていたことを尋ねた。「……ねえ、なんで否定しなかったの? 彼氏じゃないって」
先刻の母とのやり取りに、首を傾げる。どうして話を合わせてくれたんだろうか、この子は。
「まずかったですか?」
「いや、そんなことはないけど……」
むしろ助かった。一から説明するのも面倒だったし。空き巣に遭ったことを説明すれば、母に帰ってこいってうるさく言われそうだ。
「高宮さん、こないだ吐きながら言ってましたよ。『彼氏と別れて、母親にまた口うるさく言われる』って。だから、ここは話を合わせとこうと思って」
ああ、と頭を抱える。私、そんなことまで言ってたのか。
「……どうもありがとう」
なんて察しがよくて気の回る子なんだろう。ヒラのコンビニ店員にしておくのがもったいない。うちの会社の気が利かなくて使えない新人と交換したいくらいだ。
「じゃあ、俺も帰りますね」
「うん。ごめんね、お騒がせして」
「お邪魔しました」
玄関で靴を履こうとしたところで、思わぬことが起こった。体幹がしっかりしてそうな吉田くんの逞しい体が、不意に、ぐらりと大きく揺れた。
彼はそのまま床に膝をつき、壁にもたれかかった。
「吉田くん!?」
いったい何事だ、と私はぎょっとした。慌てて彼の体を支え、声をかける。
「え、ちょっと、大丈夫? どうしたの」
ふと、彼のダウンジャケットのポケットの中に押し込められている白い紙袋が目に留まった。『内服薬 吉田遥様 毎食後1錠』と書かれている。――処方箋だ。
「これって、もしかして……」
……もしかして、吉田くん、体調が悪かったの?
「ちょっと眩暈がしただけで」と吉田くんは強がっていたけど、ものすごく苦しそうだった。帰ろうとする彼を制し、とりあえずゲストルームに寝かせることにした。
風邪だろうか。おでこに手を当ててみたら、やっぱりちょっと熱っぽかった。処方箋は数種類ある。抗生物質と解熱剤、漢方薬。さらには血液検査の結果まで入っていた。
額に冷たいタオルを載せてあげると、
「……すみません、迷惑かけて」
と、吉田くんはかすれた声で言った。
「いや、私の方が迷惑かけっぱなしだし」
起き上がろうとする彼の体を、「いいから寝てて」と押し返す。
「具合、悪かったんだね」
拾った処方箋を見せると、彼は悪戯が見つかった子どものようにばつの悪そうな顔をした。
「風邪こじらせただけっす」
「なんで体調悪いのにバイト出たの……休めばよかったのに」
「今月やばいんで、働かないと」
そこまで無理をしないといけないほど生活が苦しいのだろうか。
「でも、流石にしんどかったんで、今日は早めに上がらせてもらいました」
「そっか、だから今日はバイト終わるの早かったんだ」
すぐに帰って休みたかっただろうに、私がこんな茶番に付き合わせてしまった。申し訳ないことをしたな、と反省する。
「体きついときに、ごめんね」
「いや、俺の方こそすいません」
「無理しちゃ駄目だよ。食欲はある?」
「はい」
それなら、何か用意しよう。せめてもの償いに。ご飯を食べさせて薬を飲ませるくらいのことは、してあげたい。
部屋を出ようとしたところで、
「――あの、高宮さん」
不意に、吉田くんが呼び止めた。
「なに?」
「お母さんのことなんですけど」
上体を起こした吉田くんが、妙なことを言い出した。
「何か、他の用事があったんじゃないすか?」
「え?」
意味がわからず、私は首を傾げる。他の用事? おでんを作りすぎたから持ってきたんじゃなくて?
「なんでそう思うの?」
「あのおでん、うちのコンビニで売ってるやつですよ」
「えっ」吉田くんの言葉に、私は目を丸くした。「うそ」
「間違いないです。高宮さんのお母さん、どっかで見たことあるなぁって思ってたんですよね。やっと思い出しました。二時間くらい前に、店に来てたんすよ。別のバイトが接客してたんすけど、おでん買ってたみたいで」
ということは、母はコンビニでおでんを買って私の部屋に入り、タッパーに入れておいたということ? なんでわざわざそんなことを? 作りすぎた、という嘘までついて。
もしかして、と思い至る。
……嘘でもつかないと私に会い辛かった、とか? マンションの前まで来たはいいけど、なんとなく踏ん切りがつかなくて、おでんを口実にしようとした?
「……あー」と、私は唸った。「もしかしたら、仲直りしたかったのかも」
「喧嘩してたんですか?」
「うん、まあ、ちょっとね」
私は苦笑いを浮かべた。三十過ぎて親と喧嘩というのも恥ずかしい話だ。
「ほら、吉田くんも知ってるでしょ。うちの親、結婚結婚うるさいって。そのことで、こないだ口論になっちゃってさ」
あの日以来、母とは喋っていない。電話もかかってこなかった。向こうも気まずさを感じていたのかもしれない。だから、私と話をしたくて部屋に来たのだろう。家を訪れる口実にするために、コンビニでおでんまで買って。
馬鹿らしい話だよね、と苦笑すると、吉田くんは真顔で首を振った。
それから、
「実は俺、両親いないんです」
と、唐突に身の上話をはじめた。
「え」
「俺が中学生の頃に、二人とも交通事故で死んじゃったんで。それからは、ずっと妹と二人きりで」
「そ、そうなんだ」
いきなりヘビーな話題を振られ、私はぎこちなく言葉を返した。なんで急にこんな話するの? 私はどういうスタンスで聞けばいいの?
戸惑いながらも神妙な表情を作り、彼の言葉に黙って耳を傾ける。
「だから、高宮さんのお母さんの気持ち、ちょっとわかりますよ。俺も妹をひとり残して死ぬのは不安なんで、やっぱり誰かと結婚してほしいって思ってます。妹にとっては、余計なお世話だろうけど」
だから、と吉田くんが続ける。
「高宮さんのお母さんも、高宮さんのことを思って言ってるだけっすよ」
「……そうだよね、ありがとう」
答えて、私は部屋を出た。まさか、十個も年下の子に諭されるとは思わなかった。だけど、そのおかげで素直に謝る気になれた。スマートフォンを取り出し、母へのメッセージを入力する。
『お母さん、この前はごめん。言い過ぎた。さっきの男の子はただの知り合い。鍵が開いてたから怖くて一緒に中に入ってもらっただけなの。彼氏とは別れた。他に好きな人ができたんだって。でも、私は元気でやってるから心配しないで。結婚のことは置いといて、今のままでも十分幸せだし、お母さんに産んでもらってよかったって思ってるから』
思いのほか長文になってしまった。
返事はすぐにきた。
『そんなことがあったとは知らないで、うるさく言ってごめんなさい。あなたの幸せが私の幸せです。あなたのような娘を産むことができて、お父さんにも感謝しています。結婚してよかったと思っています』
そうか、それならよかった。ちょっとじんときてしまった。
『たまには帰ってきなさいね。口には出さないけど、お父さんも寂しがってますよ』
最後に、母はこう続けた。
『追伸 今夜はウチもおでんです』
というメッセージとともに、おでんのちくわにかぶりついている父の写真が送られてきた。……なんだよ、意外と仲良くやってるじゃん。
父の姿を見たのは久しぶりだ。もう数か月は会っていない。しばらく見ない間に白髪が増えている。近くに住んでいるのに会いに行かないのは、いつでも会えるだろうという甘えがあるからかもしれない。親だって、いつまでも生きているわけでもないのに。いつの日か突然別れがやってくるかもしれないのに。吉田くんの両親のように。
――今度の休みは、久しぶりに実家に帰ろっかな。
そんなことを考えながらゲストルームのドアをノックすると、「はい」と元気のない声が返ってきた。用意した食事を部屋の中へと運ぶ。
「おかゆ、食べれそう?」
寝ていた吉田くんが頷き、もぞもぞと上半身を起こした。
「手作りですか」
「いや、レトルト。君んとこのコンビニで買ってきた」
という私の言葉に、吉田くんが一笑した。笑うと顔つきが幼くなるというか、年相応に見える。
「高宮さんのそういうところ、いいと思います」
という謎の感想を述べながら(そういうって、どういう? 褒められてるんだろうか、けなされてるんだろうか)、彼は自分のバイト先の商品をおいしそうに平らげた。
薬を飲んだところで、
「すいません、ベッドまで借りてしまって」
と申し訳なさそうな顔をしたので、私は掌を振った。
「あ、大丈夫大丈夫。ここ、ゲストルームだから。友達が泊まりに来たときしか使ってない」
「2Lっすか? 広いですね」
「いや、3L」
うちの間取りは3LDK。部屋のひとつは寝室、もうひとつはこのゲスト用(というかほぼ汐里用)。もうひとつは特に何も使っておらず、物置部屋と化している。
「部屋余ってて、もったいないんだよね」
つい苦笑してしまう。本当はこんなはずじゃなかったんだ。将来的には良介と住む予定だったのに、それも白紙になってしまった。またしばらくは独りで三つの部屋を持て余すことになりそうだ。
「ルームメイトでも探そうかなぁ」
なんて恥ずかしさを誤魔化そうと軽口を叩いたところ、思わぬ反応が返ってきた。
「あ、それ、俺じゃダメですか?」
「…………ん?」
――今、なんて?
ぽかんと口を開けていると、
「高宮さん」吉田くんが、私の手首をがしっと掴んだ。「俺、ここ住みたいです」
………………えっ?
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