第3話 ドラマみたいにはいかない同居生活(ルームシェア)

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第3話 ドラマみたいにはいかない同居生活(ルームシェア)

 乗車率百パーセントをゆうに超える朝の電車は、まさに地獄だ。いつもは通勤ラッシュを避けるため早めに出社しているのだが、今朝ばかりはうっかり寝坊してしまった。慣れない他人の生活音が気になってしまい、なかなか眠れなかったせいだ。  すし詰めになった車内で、ふと、不穏な感触が寝不足の私を襲った。さっきから電車の揺れを装って体を触ってくる男がいる。背後に立っているスーツ姿の中年親父。手の動きが明らかに怪しい。  ――痴漢だな。  そういえば、と思い出す。現在放送中の『ドラマチック・ラブ』(通称『ドラ恋』)の第3話にも今みたいな場面があった。主人公のアイコが電車の中で見ず知らずの男に触られていたところ、偶然たまたまちょうどよく居合わせていた同僚のカズマというイケメンが助けに入り、痴漢を撃退するというシーン。あのときのカズマは頼もしくて本当に格好よかった。  駅に停まるごとに乗客が増え、内臓が潰されるんじゃないかというほど体に圧がかかる。それに伴い、痴漢の動きも大胆になってきた。悲しいことに私には痴漢から助けてくれるイケメンなんていないので、自分の身は自分で守らなければならない。尻を遠慮なく撫で回してくる気色悪いその手を、私は憎しみを込めてがしっと掴んだ。背後にいた男が私の反撃に驚き、びくっと体を揺らす。いい加減にしろよと、その手の甲に思い切り爪を立ててやった。 痴漢は慌てて手を引っ込めた。電車が次の駅に停まり、ドアが開いた瞬間、逃げるように降りていくスーツ姿のハゲ頭が見えた。 ――嫁のケツでも触ってろ、クソジジイ。 心の中で悪態をつく。痴漢の指に触れたとき、金属の感触があった。結婚指輪をした手でよく他の女を触れるな。しかも痴漢という犯罪行為までして。自分の旦那だったらと思うと腸が煮えくり返りそう。 こういうときばかりは、男って本当に性欲にまみれたどうしようもない動物なんだと幻滅してしまう(もちろん、理性でしっかりと自分をコントロールできる男性もいるわけだけど)。痴漢も露出狂もレイプ犯も、性犯罪者は全員刑務所にぶち込んで、二度と娑婆に出られないようにしてくれたらいいのに。 駅員には何も言わず、私は何事もなかったかのように改札を出た。 痴漢とか盗撮魔とかレイプ犯とか、そういうクズどもは自分の性癖を満たすことが第一なので、相手の容姿に興味がないタイプもいる。スリルを味わうためだけに性犯罪を犯す奴もいる。極端に言えば、女なら誰でもいいのだ。 だけど、世の中はそうは思わない。狙われるのは若くて可愛い女の子。犯罪を犯してまでブスやデブ、ババアを相手にするわけがない。そんな偏見がある。だから、美人じゃない女や若くない女が性被害に遭ったと主張しても、周囲の男性には「何言ってんだこの勘違い女」と冷ややかに叩かれるだけだ。 二十九歳のときに電車で痴漢に遭った私は、勇気を出して「やめてください」と犯人に注意をした。ところが、相手の男には「やってねーよ、ババアなんか触るわけないだろ」と逆ギレされた。思い出すだけで腹が立つ。 その後、車内で犯人の男と口論になり、乗客の誰かが非常ボタンを押したために電車が止まり、車掌が仲裁に入る騒ぎになった。周囲の乗客の中には「自意識過剰なオバサンのせいで会社に遅刻する」なんて(私に聞こえるだけの声量で)文句を言う男もいた。幸い、そのときは目撃者の女性が味方してくれたので私よりも犯人への風当たりが強くなったけれども、もし彼女がいなかったらと思うとぞっとするし、心底むかつく。 この一件で、私は痛いほど思い知った。「この人痴漢です!」と勇気を出して犯人を確保したところで、周りからは「ババアがなに騒いでんだ」と白い目で見られるだけなのだと。だから、触られてたとしても、自分で追い払うか、時が過ぎるのをじっと待つことしかしない。理不尽な話だけど、きっと私と同じような女性はたくさんいると思う。 「――高宮」 朝から痴漢に触られて嫌な気分だというのに、出社早々、嫌な奴が顔を見せにきやがった。メールチェック中の私を、同僚の黒沢が覗き込んでくる。「なに」と私はパソコンを睨み付けたまま答えた。 「おいおい、どうした。機嫌悪そうだな」黒沢がへらへらしながら言う。「人殺しみたいな顔してるぞ」 たしかに、ここに来るまでに頭の中で三人殺した。一人目は今朝の痴漢。二人目は五年前の痴漢。三人目はそのときに「ババアのせいで遅刻する」と文句を言った乗客。その三人の顔を思い浮かべ、フィリピン武術用の竹の棒でボコボコにする妄想をしながら、なんとか溜飲を下げていたところだ。 「痴漢に遭ったの。朝っぱらから最悪」 と、私は吐き捨てるような口調で返した。 黒沢のことだ。きっと『お前に痴漢するなんて物好きな奴だなぁ』とか言って馬鹿にしてくるに違いない。そのときは貴様を四人目にしてやる。 と、思いきや。 「……おい、まじかよ」 黒沢は顔をしかめ、真面目な声色で言った。 「大丈夫か?」 「はあ? ……いや、大丈夫ですけど」 思いもよらない言葉が返ってきて、私はちょっと戸惑ってしまった。……何こいつ。この前からどうした。なんか調子狂う。 「明日から俺と同じ車両に乗れよ。八時十二分に駅に着く電車の、二両目に乗ってるから」 いやいや。いらないからそういうの。なんで朝っぱらからこいつの顔見ないといけないんだ。てか同伴出勤て。お前が私のカズマになろうなんて百年早いわ。 「それで」さっさとどっかに行ってほしくて、私は話題を変えた。「なんか用?」 「今日、飲みに行こうぜ」 馴れ馴れしく肩を抱いてくる黒沢を振り払い、一蹴する。「あー、無理ですね。今日は友達と約束してるんで」 お前と飲んでる場合じゃない。私には今、親友に報告しなければならない大変重要な議題があるのだ。 「えーっ!? 嘘でしょ!?」 と、汐里は私の気持ちを代弁するようなリアクションを見せてくれた。 「あのコンビニ店員と一緒に住むことになったの!?」 今夜、汐里の部屋を訪れた理由は三つある。まず、居候させてもらったお礼(汐里の好きな店で買った好物のプリン)を渡すため。次に、彼女の家に置きっぱなしにしていた荷物を引き取るため。そして最後に、部屋の住人がひとり増えたという大事件を報告するため(もちろんこれが本題)。駅のコンビニで缶ビールを買って行き、汐里の部屋で飲みながら近況を打ち明けると、当然ながら彼女はものすごく驚いていた。良介と別れたとき以上の反応だ。 「私も嘘でしょって思ってるよ」 「なんでまた、そんなことに」 「まあ、なりゆきというか、取引というか……」  自宅マンションの一階のテナントに入っているコンビニエンスストア。そこで働く二十三歳のフリーター・吉田遥くんと、なんと私はこの度ルームシェアをすることになってしまった。 話を聞いたところ、吉田くんはバイトを掛け持ちするほどお金に困っているらしい。ほぼ毎日のように働き、その結果、過労で体調を崩してしまった。住んでいる部屋は月4万円のボロアパート。それでも家賃の支払いが遅れていて、大家からは退居するよう急かされていたという。 つまり、彼は部屋を探していた。 そして、私は部屋が余っていた。 ルームメイトでも探そうかな、という私の迂闊な発言に、吉田くんが食いついてくるのも当然の状況だった。 「たしかに、一緒に暮らせばお互いウィンウィンじゃん」と、缶ビール片手に汐里は声を弾ませた。「家に男の人がいてくれたら、やっぱり安心だし」 最近、私の家では空き巣未遂事件が起こったばかりだ。独りで過ごすには心細い。汐里の言う通り、誰かが傍にいてくれるのは有り難いと思わなくもないけれども。 「……いやでも、ちょっと後悔してる。早まったかもしれない」  吉田くんに「一緒に住みたい」と言われ、流されるようにOKしてしまったが、本当にこれでよかったのだろうか。吉田くんとはつい最近知り合ったばかりだ。基本的にコンビニ店員と常連客という関係で、プライベートで会ったのは一度きり。そんな男性といきなり一緒に暮らすなんて無防備すぎるんじゃなかろうか。吉田くんがまともな人間だという保証はどこにもないというのに。 「実は危ない子だったらどうしよう。普通そうに見えて、もしかしたら変質者とかサイコパスだって可能性もあるじゃん。人間の裏の顔なんてわかんないし」  ネガティブな想像をして不安がっている私を、汐里は咎めるような目で睨んだ。 「文句言わずゲロ掃除してくれて、危ないからって家にもついてきてくれるような心優しい子を、よくそんな風に言えるね」 「……ですよね、すいません」  そう。それだ。私は吉田くんにゲロを掃除させた。さらには空き巣だなんだと大騒ぎして、体調が悪い彼を安全確認に付き合わせてしまった。吉田くんには借りというか、負い目がある。だからこそ、「部屋に住みたい」と頼まれて断れなかったのだ。返報性の原理ってやつ。  吉田くんはもうすでに引っ越しを終えていることだろう。いまさら「ごめん、やっぱあの話はナシで」なんて非情なことを言い出すほど私も人でなしではない。 「腹を括るしかないかぁ」  生活に困っている十個下の子からお金を巻き上げるのはさすがに気が引けるので、家賃も光熱費も払わなくていいと提案し、護衛としてタダで住まわせるつもりだった。それでは申し訳ないと吉田くんは遠慮し、家賃の代償にと掃除や洗濯などの労働を買って出てくれた。その方が私も助かる。住み込みのボディガード兼家政夫を雇ったと思えば、まあ悪くはないかもしれない。 月五、六万円分の出費が浮き、「これでバイトを減らせる」と吉田くんは喜んでいた。ここしばらく、彼は月に二日も休んでなかったらしい。そりゃ体も壊すわな、と納得してした。 そんなこんなで、若い男の子と一つ屋根の下で暮らすことになってしまったわけなんだけども。 「だったら、うちで酒なんか飲んでないで早く帰りなよ」と、汐里が私の手から缶ビールを取り上げた。 「えっ、なんで」 「だって、家に若いイケメンが住んでるんだよ? 早く帰って顔見たくないの?」 「いや、ペットじゃないんだから」私はため息をついた。「っていうか、別にイケメンじゃないし」  まあ、顔立ちは整ってるけど、と吉田くんの顔を思い出しながら呟く。世間的に見れば、黒沢には劣るけど良介よりは上、くらいのレベルだと思う。個人的には私は塩顔がタイプなので、顔においてはどちらかというと良介の方が好きだけど。 「シャバーニ似じゃん。十分イケメンだよ」 「ゴリラ界ではイケメンかもね」 とにかく自分のタイプではないことを強調しつつ、「ドラマ観たら帰るから」と私は缶ビールを取り返した。 時計の針が十時を回り、BGM代わりに点けていたテレビの番組が切り替わる。毎週欠かさず観ている『ドラマチック・ラブ』の第6話が始まった。今週からはいよいよアイコとカズマのドキドキの同居生活。とにかく視聴者全員をカズマにメロメロにしてやろうというスタッフの意気込みが感じられる回で、ラブコメでありがちな壁ドンや床ドンはもちろん、「いやいやありえないだろ」と思わずつっこみたくなるような、ベタで作為的で、それでいて羨ましくなるような胸きゅんシーンの連続だった。切れた電球を取り換えようとしたアイコがバランスを崩してカズマの上に倒れ込んでしまったり、酔っぱらって帰ってきたアイコが間違えてカズマの寝室のベッドに潜り込んでしまったり、これでもかというほどラブコメ感満載のおいしいハプニングを畳み掛けてくる。 アイコが風呂から上がったところ、ちょうどカズマが入ってきて、うっかり脱衣所で居合わせてしまう、なんてシーンもあった。タオルで体を隠して「キャーッ」と悲鳴をあげるヒロインと、「ごめん!」と慌てて出て行くイケメンのお決まりのやり取りには、さすがに「いやいや鍵かけろよ」と迂闊で無防備なヒロインに心の中でツッコミを入れてしまう。 ラストシーンでは、いつの間にかリビングのソファで眠ってしまったアイコを、カズマがお姫様抱っこで寝室へと運んでいた。ベッドに寝かせ、布団をかぶせて、なんと額に軽くキスをした。  ところが、アイコはこのときすでに目を覚ましていた。「えっ、今の何!? キスされたー!?」と真っ赤な顔で戸惑うアイコ。そして次回へ続く。  ……ベタだわー。ベタすぎる。でもそこがいい。これよ、これ。こういうのが見たいのよ。 次回が待ち遠しいな、と来週放送の第7話に思いを馳せていると、 「なっちゃんとゴリラくんも、こんな風に恋に発展しちゃうんじゃないのー」と、ほろ酔いの汐里がニヤニヤしながら言った。 「ありえないって。相手、二十三歳だよ?」 「それがどうした」 「私が十歳のとき、彼は生まれてなかったんだよ? 私が二十歳のとき、彼まだ十歳だったんだよ?」 「なに当たり前のこと言ってんの。簡単な引き算だぞ」 「二十歳の時、十歳の子を好きになったりする? ならないよね?」 私の質問に、汐里はうーんと唸った。「まあ、それは子どもだからねえ」 「そういうことよ」 「どういうことだよ。今は法に触れるわけじゃないんだし、歳の差なんて関係ないでしょ」 「歳の差以前に、彼は私の条件に合ってないもん」  たとえ吉田くんが同い年だったとしても、申し訳ないが中卒のフリーターは結婚相手として考えられない。よって、恋愛対象として見ることができない。それに、顔もそこまでタイプじゃない。 「ストライクゾーンで言えば、外角低め大きく外れて大暴投、って感じ」 「なっちゃんならどんな球でも捕れるでしょ。キャッチング上手かったから」 「恋愛においては守備範囲狭いからね、私」ビールを飲み欲し、次の缶ビールを開けながら言う。「それに、向こうだって三十三のオバサンは嫌でしょ」  散々偉そうなこと言ってしまったけど、そもそも吉田くんだって私なんか願い下げだと思う。 「ただのルームメイトとして、仲良くするつもりだから」  そう。彼はただの同居人。男として見るつもりはない。絶対に。  ドラマの放送が終わり、余韻に浸る間もなく「早く帰ってルームメイトと親交を深めなさい」と汐里に部屋を追い出されてしまった。 帰宅したのは夜の十一時半過ぎ。部屋の電気は消えたままだ。吉田くんはもう寝ているのだろう。  ――という予想は外れ、化粧を落とそうと洗面所のドアを開けたところ、そこには全裸の吉田くんが立っていた。 「どわっ」  と、私は驚きのあまり変な声で叫んでしまった。対する吉田くんはタオルで体を隠しながら、「きゃー」と棒読みの悲鳴をあげている。 「ご、ごめん!」  掌で目を隠しながら、私は慌ててドアを閉めた。  ……いや、ちょっと、なに。びっくりした。 「――ってか、お風呂入るなら鍵かけてよ!」 ドアの外から文句を言うと、 「すんません」と、病み上がりの掠れ気味な声が返ってくる。「鍵かけたら、高宮さんが洗面所使えないと思って」 「お気遣いありがとう!」  まあ、ノックしなかった私も悪い。今度から気をつけよう。 気まずい気持ちを誤魔化そうと、私はすぐに話題を変えた。「具合はどう? 少しはよくなった?」 「あ、はい。もう元気っす。ベッドがふかふかで、よく寝れたんで」 いやあれ普通のパイプベッドと安物のマットレスなんだけど。どんだけ劣悪な環境に住んでたんだろうか、この子は。 「そう、それならよかった」  踵を返し、リビングに向かう。キッチンの横にあるダイニングテーブルの椅子に腰を下ろしたところで、私は勢いよく顔を突っ伏した。ゴンッと、結構な音を立てて頭がテーブルにぶつかった。かなり痛いけど、今はそれどころじゃない。 ……見てしまった。  全部、見てしまった。全部。 「いやいやいやいや」  ついさっき『男として見るつもりはない』なんて、モノローグで偉そうに言ったばかりだけど。 「どう見ても男!」  心の声が口から飛び出す。 うあああ、と唸りながら頭を抱え、髪の毛をかき乱す。忘れよう忘れようと心がけても吉田くんの裸体が脳裏に焼き付いて離れない。がたいがいいなとは思っていたけど、想像以上の肉体だった。腕が太くて、胸板が厚くて、腹筋もボコボコしてた。お尻も締まってた。 「……いい体してるな」 ――じゃなくて。なんてこと口走ってんだ、私。 このままでは生々しい妄想をしてしまいそうだ。しっかりしろ、奈津子。頭を切り替えようと、私は教育番組を付けた。ちょうどイタリア語のテレビ講座が放送されているところだった。真面目な番組でも見て雑念を振り払おう。 講座の中にはイタリア語の解説だけでなく、イタリアの歴史や文化、芸術の紹介もあり、今回はダビデ像にまつわるエピソードが取り上げられていた。画面にでかでかと映されたその筋骨隆々な全裸の彫刻に、つい先ほど目の当たりにした光景が頭によみがえってくる。……ダメだ、ダビデ像がさっきの吉田くんに見えてきた。いや、彼の方がダビデより十倍はいい体してたけど。いやいやそういうことじゃなくて。 くそっ、ミケランジェロめ。お前がこんなの作るから余計なこと思い出しちゃったじゃないか。理不尽に八つ当たりしながら、私はテレビを消した。 「――飲んできたんすか」 不意に声をかけられ、心臓が跳ね上がる。風呂上がりでホカホカした吉田くんが、タオルで髪をガシガシと拭きながらリビングに入ってきた。 「……あっ、う、うん」 相手の格好を見て、私は心の中で「ぎゃー」と悲鳴をあげた。 吉田くんは黒のボクサーパンツ姿だった。ぼこぼこした腹筋を惜しげもなく晒している。首にかけたタオルの隙間から大胸筋がちら見えしていて、なんかもう腹が立つほど雄々しかった。やっぱりどこからどう見ても男でしかない。 「……ねえ、吉田くん」 「はい」 「パンツ一枚でうろうろするの、やめてもらっていい?」 注意すると、吉田くんは「えっ、なんで」という顔になった。なぜそこで驚く? 「全部見られたから、もういっかなって思って」 なんてあけすけな性格なんだ……。 裸を見られたにもかかわらず吉田くんは平然としている。恥じらうようすはまったくなく、それどころか逆に開き直ってやがる。……なに? いまどきの子って裸を人に見られても平気なの? そういうもん? 気まずいのは私だけ? ひとりで悶々としていた自分が恥ずかしい。 とはいえ、目のやり場に困る。 「いやいや、よくないでしょ」 吉田くんは無表情のまま小首を傾げた。「ダメすか?」 「ダメです」 私は子どもをしつけるような口調で言った。 「私がパンツ一枚でうろうろしてたら、どう思う?」 「やったー、って思います」 「…………」  言葉を失ってしまった。真顔でそんなことを言うもんだから、どこまでが冗談かわからなくて困る。 「でも、高宮さんが嫌ならやめます」 「嫌というか」目の保養ではあるけど。「湯冷めしちゃうでしょ。病み上がりなんだから、ちゃんと服着ようね」 ……私は母親か? そうですね、と返事して、吉田くんはスウェットの下を穿いた。上も着ろ。 「洗面所、どうぞ」 そう言われ、まだメイクしたままだったことを思い出す。そうだ、早く化粧を落とさないと。「苦しいよぉ」「息できないよぉ」と肌が悲鳴をあげている。 「スッピン見ても驚かないでね」 などと冗談めかして言ってみたところ、 「いや、店で何度も見てるし。何ならゲロ吐くところも見てるんで、これ以上なに見ても驚かないっす」  と、無表情で返された。 「……そうでした」 全然フォローになってないけど。まあ気は楽になった。 椅子から立ち上がり、洗面所へと向かう私を、 「……あ、高宮さん」 吉田くんが急に呼び止める。 「ん?」 「動かないで」 囁くような声色だった。 「えっ」 「いいから」  急に、吉田くんが真剣な眼差しになる。さらに、一歩ずつ、ゆっくりと、私のほうに近付いてくる。 気付けば、すぐ目の前に吉田くんが立っていた。いやいや、近い近い近い。 「えっ、なに、なに」 内心焦りながら後ずさる私を、吉田くんが壁際に追い込んでいく。 次の瞬間、ドンッ、と彼は右手を勢いよく壁に押し当てた。私の体は壁と吉田くんの間に挟まれ、身動きがとれない状態だ。 「ちょっ、ちょっと」 ――知ってる。これ知ってるぞ。ドラマで観たやつだ。 ドラ恋の6話が頭を過った。 ……うおお、これが噂の壁ドンってやつか! まさか自分が実際に体験することになるとは! なんて内心興奮しつつ、私は狼狽えた。 「よ、吉田くん……?」 いったいどういうことなんだ。私に何をするつもりなんだ。目を丸くして吉田くんを見つめる。 すると、 「すいません、虫がいたんで」 と、彼は手をこちらに向けた。大きな掌の真ん中で小さな虫が潰れている。 「……は?」 吉田くんはすぐに私から離れ、キッチンのシンクで手を洗った。ハンドソープをつけて、入念に。 「え? ……虫?」 「小バエっす。だぶんクロバネキノコバエっすね。土の中に卵産むやつ」 虫を殺したかっだけ? 壁ドンじゃなくて虫バン? おいおい紛らわしいんだよ。 「ちょっと汚れちゃいましたね」 と、吉田くんはご丁寧にティッシュで壁を拭った。 ……なんだよ、無駄にドキドキしちゃったじゃないか。  ひとりで勝手に照れたり焦ったりしていた自分が馬鹿みたいだ。恥ずかしさを誤魔化そうと、私は「明日、小バエ取り買ってくるねー」と明るい声色を作ったが、「この種類には市販の小バエ取り効かないっすよ」と真顔で返された。  幸か不幸か、色気のない共同生活になりそうだ。    汐里が焚きつけたせいか、裸を見てしまったせいか、はたまた虫バンされたせいか、その夜に見た夢には吉田くんが主役で登場した。 床に寝転がっていると、いきなり吉田くんが上から覆いかぶさってきたのだから、夢の中の私はもう心底びっくりしていた。いやいやいやこれはまずいだろと焦っていると、彼は「そのまま動かないでください」と囁き、私の顔の横に両手をついた。 ――これって所謂、『床ドン』ってやつじゃね? うわー、なんでなんで。なにやってんの吉田くん。さすがに今回は小バエを殺そうとしてるわけじゃないよね? と内心焦っている夢の中の私に、吉田くんはゆっくりと顔を近付けてくる。 ……やばい雰囲気になってきた。  まさかこのままキスされるんじゃ――と慌てていると、吉田くんはぴたりと動きを止めた。そして、私から離れていく。 違うんかい、と拍子抜けする。 ほっとしたのも束の間、また吉田くんが顔を寄せてきた。そして、またすぐに距離を取る。その繰り返しだ。顔が近付いたり、離れたり。近付いたり、離れたり。――吉田くんはなぜか、私の上で腕立て伏せをしていた。 目を覚ますと同時に、私は頭を抱えた。 ……マジで変な夢見たわ。 これは『床ドン』じゃなくて『床ドン腕立て』だ。というか、なんで私の上でやる必要がある? 筋トレならひとりでやってくれ。夢の中の吉田くんに勝手極まりない苛立ちを覚えながらベッドを出る。今日は会社も休みなのでせっかく昼まで寝ようと思っていたのに、頭のおかしい夢のせいですっかり眠気が覚めてしまった。 いつもなら休みの日は自宅でゆっくり過ごすことが多いけど、家に他人がいると思うと落ち着かないものだ。 「おはようございます」 「おはよう」 リビングで同居人と挨拶を交わす。吉田くんはスウェットのズボンにタンクトップ姿だ。本人にその気はないんだろうけど、立派な二の腕を見せつけられるこっちの身にもなってほしい。長袖を着ろ、長袖を。もう十一月だぞ。 インスタントのコーヒーを飲みながらニュース番組をぼんやり眺めていると、吉田くんがいきなりカーペットの上で腕立て伏せを始めたので、思わず口の中の液体を噴き出しそうになってしまった。 「よ、吉田くん、なにやってるの」 「え? 筋トレっすけど」 日課なんで、と吉田くんは得意げに答えた。 ……また夢に出てきそう。 「ごめん、今は腕立てやめて」 「え?」 「別のにして。腹筋とか」 「はあ」 何が何だかわからないといった表情を浮かべながらも、吉田くんは頷いた。 日課の筋トレが終わると、 「高宮さん、これ食べていいっすか」 と、吉田くんはキッチンに吊り下げていたバナナを指差した。 それは野菜スムージーを作るときの大事な材料なんだけど、まあいいだろう。一本くらい。 「どうぞ」 「いただきます」 房から一本もぎ取り、吉田くんはむしゃむしゃとバナナを食べている。「おいしい」とも何とも言わず、床に胡坐をかき、黙って口をもぐもぐしている。ペットのゴリラを飼っている人の生活ってこんな感じなのかもしれないな、なんてことを考えてしまった。この世にペットとしてゴリラを飼っている人がいるのかは知らないが。 吉田くんはよく喋るタイプじゃない。年齢の割に落ち着いているせいか、同じ空間にいても意外と気にならなかった。しばらくはダラダラしようと思い、私はよれた寝間着のままソファに横たわり、テレビを付けた。 録画していた韓国ドラマ(財閥のワガママ御曹司とタフな貧乏ヒロインのよくあるラブコメ)を観ていたところ、吉田くんが不意にこっちを見た。 「な、なに?」 「高宮さんって、スッピンの方が若く見えますよね」 「……ど、どうも?」 褒められてる、のか? どうなんだろう。唐突に変なこと言い出さないでほしい。リアクションに困る。 「今日、休みなんですか」 「うん」 「今から掃除機かけたら、邪魔っすよね?」 「いや、大丈夫。字幕だから」 その後、吉田くんは黙々と掃除機をかけ続けていた。リビングからキッチン、廊下、自分の部屋。隅々まで念入りに。働き者だ。 ソファに寝転がってテレビを観ている私に、 「高宮さんの部屋、入ってもいいすか」廊下から吉田くんが声をかけてくる。「床、掃除機かけるだけなんで」 「うん、いいよー」別に見られて困るものは置いていない。「ありがとー」 吉田くんは風呂やトイレ、キッチンの排水溝まで掃除していた。見かけによらず家庭的な子だな、と感心する。 「家事得意なの?」 「まあ、普通に。親が死んでから、ずっと自分でやってきたんで」 「……あー、そうだったね」 吉田くんのご両親は彼が中学生のときに亡くなっている。そりゃあ、一通りの家事が身についているはずだ。 ふと思った。もしかしたら、彼が中卒なのは両親の死による経済的な理由なのだろうか。体調を崩すほど忙しく働いていたのも。気にはなるけど、こんな立ち入った話を訊くのはさすがに憚られる。 「適当でいいよ。せっかくの休みなんだから、吉田くんもゆっくりしてて」 という私の言葉に、吉田くんは「いえ」と首を振った。 「タダでおいてもらってるんで、これくらいはさせてください」 その後、吉田くんはスーパーに買い出しに行き、帰ってくると、「なにか適当に作ります」と言った。ダラダラしながらドラマを観ている間に、掃除も洗濯も終わっていて(さすがに下着だけは自分で洗濯することにしているけど)、さらには昼食まで出てきた。カルボナーラだった。これがかなり美味しかった。 ……ここは実家か? 勝手に掃除されて、勝手に洗濯されて、勝手に飯が用意されている。なんだこの休日。最高じゃないか。まるで実家暮らしに戻ったかのような気分だった。おいおい誰だよ、サイコパスだの変質者だの失礼なこと言ってた奴は。吉田くん最高、と掌を返しながらパスタを咀嚼する。 「料理もできるんだね。すごい」 感動する私に、吉田くんは「たいしたものは作れませんけど」と謙遜した。パスタがたいしたものじゃなかったら何だというんだろう。普段お米すら炊かない自分の駄目さを思い知らされた。 共同生活は思いのほか順調だった。 二週間も経てば、家に他人がいる生活にもすっかり慣れてしまった。吉田くんの足音にいちいちびくついていた時代は終わった。最初は気乗りしなかったルームシェアも、今では結構まんざらでもない気分でいる。 吉田くんはいい拾い物だった。家事ができる。年齢の割に落ち着きがあって、うるさくないし、家に置いていても邪魔にならない。おまけに余計な干渉してこない。絶妙な距離感を保ってくれる。 週に二日もないような貴重な休みを、今までは掃除や洗濯やら買い出しやらといった家事に費すしかなかった。それが、今ではほとんど吉田くんがやってくれているので、休日は体力の回復に専念できるようになった。しかも、部屋の中はいつ見ても清潔だ。これはむしろ彼にお給料を払うべきなんじゃないかと思い、日頃の感謝を込めて先週はちょっと高めの焼き肉屋に連れて行ってみた。二人で外食するのは初めてだった。高級部位を嬉しそうにむしゃむしゃ頬張る吉田くんの顔を見ているだけで、私は腹も胸もいっぱいになってしまった。 その帰り道、たまには一緒に酒を飲むのもいいね、という話になった。ほろ酔いの私が「時々こうして一緒にご飯食べようか」と提案してみたところ、同じくほろ酔いの吉田くんが「いいっすね、それ」と賛同してくれた。それ以来、二人の時間が合う日は一緒に食事をすることが増えた。別に深い意味はない。ただ単に同居人との親睦を深めるためだけの食事会だ。 今日は、吉田くんのバイトが休みだった。夜は久しぶりに一緒に食べれそうだなと思っていたのだが、 「――主任」 同じ営業部の片野さんが深刻そうな顔で話しかけてきたので、ものすごく嫌な予感がした。 「ちょっといいですか。お話がありまして」と、女子トイレに呼び出される。片野さんは入社二年目の二十四歳。私の部下にあたる。 「今夜、三國物産の人に飲みに誘われたんですけど、主任も一緒についてきてもらえませんか?」 と、彼女は小声で言った。 クライアントの接待は別に珍しいことじゃない。というより、我々営業部にとっては接待こそが仕事みたいな部分もある。 「どうしたの? なにか問題あった?」 「いえ」片野さんは首を振る。「ただ、ひとりじゃちょっと不安で……」 片野さんはまだ新人に毛が生えたようなものだけど、仕事はしっかりやってくれている。そんな彼女がここまで不安がっているのには、きっと何かしら理由があるのだろう。私は「わかった」とだけ答えた。 片野さんを先に帰し、ひとりトイレに残ったところで、「あー、しまった」とため息をつく。今日は親睦会の日だというのに、早めに家に帰れなくなってしまった。スマートフォンを取り出し、吉田くんのメッセージを開く。『今夜はすき焼きにしましょう』という彼の言葉を見て、なんともいえない申し訳なさがわいてくる。 『ごめん、今日接待が入っちゃった。すき焼きは来週にしていい?』と返信したところ、しばらくして吉田くんからは『大丈夫です。仕事がんばってください』と返ってきた。 ……あーあ、すき焼き食べたかったなー。今日は早く帰れると思ったのにな。 別に吉田くんとはいつでも食事できるし、何ならほぼ毎日のように顔を合わせている。一緒に住んでいるんだから。それなのに、ひどく残念な気分になった。食事の約束が流れたことに対して意外とショックを受けてる自分に、ちょっとびっくりする。  その夜、三國物産の社屋の近くにある寿司屋を、私は片野さんと一緒に訪れた。先方の担当者は芦屋という名で、歳は五十前後。腹が出ていて頭の寂しい、どこにでもいるような中年男だった。 「高宮と申します。片野がいつもお世話になっております。一度ご挨拶しておきたくて同席させていただきました」と、私は適当な理由をつけて頭を下げた。 「こちらこそ、お世話になっております。芦屋です」 名刺を交換しながら挨拶を交わす。芦屋の名刺には肩書きがなかった。この歳で役職付きじゃないなんて、とこっそり訝しがっていると、 「いやあ、女性が二人も来てくれるなんて、華やかでいいですねえ。うちは男ばっかでむさくるしい会社なもんで」 芦屋は目じりを下げて笑った。第一印象では、どうも感じがいいとは思えなかった。ただの直感に過ぎないけど。 カウンター席しかない店だったので、三人並んで座ることになった。左から私、芦屋、片野さんの順だ。私たちが決めたわけでなく、芦屋が最初に真ん中に座ったので、自然とそうなってしまった。「両手に花ですなぁ」と喜ぶ芦屋を、なんとなく不愉快に感じてしまう。もちろん、大事な取引先なので顔には出さない。 ただ酒を飲んで世間話をするだけの、ごく普通の接待だった。芦屋の愚痴(八割方が最近の若手社員のふがいなさについて)を、相槌をうちながらひたすら聞く。芦屋のグラスに片野さんがお酌する。芦屋がオヤジギャグを飛ばし、私たちが愛想笑いを浮かべる。よくある光景だと思っていた。トイレに行くために私が席を立った、そのときまでは。 トイレから戻ってきたところで、私は見てしまった。見えてしまった。カウンターの下で、芦屋が片野さんの太腿の上に手を伸ばしているところを。それだけじゃない。今度はその手を腰に回し、さらに掌を徐々に上に滑らせていく。芦屋は、片野さんの胸を揉もうとしていた。 虫唾が走る光景だった。憤りのあまり、かっと体が熱くなった。片野さんは引きつった笑顔で身を捩らせ、なんとかその手を躱そうとしている。その姿に、目頭が熱くなってきた。 ……ああ、そういうことだったのか。 彼女が私を呼んだ理由が、今になってわかった。彼女からの限界のサインを、私はずっと見逃していたのだろう。もっと早く気付いてあげていればと後悔が芽生えてくる。 「片野さん、今日はもう帰りなさい」 後ろから声をかけると、赤ら顔の芦屋が眉をひそめた。「ええ? なんだって?」 私はにっこりと微笑み、 「申し訳ありません、芦屋さん。実は彼女、今朝から体調が悪かったんです。熱があるのに無理して出社していたので帰らせようとしたのですが、今日は芦屋さんとのお約束があるとのことでしたので。何かご迷惑をかけてしまったらいけないと思いまして、私も同席させていただいた次第でございます」 片野さんの顔が一瞬、歪んだ。今にも泣き出しそうな表情だった。 「そうだったのぉ」と、芦屋は暢気な声で言う。「最近はインフルエンザも流行ってるからなあ。まあ、おうちでゆっくり休みなさい」 「はい。申し訳ありません」消え入りそうな声で片野さんが頭を下げた。「失礼します」 片野さんが店を出ていったところで、 「綺麗どころがいなくなってしまい、すみませんね」私は自虐的に笑った。「私ではつまらないかもしれませんが、飲み直しましょう」 「いやいや、高宮さんも十分おきれいだ」隣に座る芦屋の掌が、今度は私の太ももに手が伸びてきた。いやらしい手つき撫で回され、寒気がする。まるでムカデが這いずりまわっているような感触だ。スカートじゃなくてよかった。色気のないパンツスーツを選んだ今朝の自分に感謝したい。 十一時過ぎになんとか接待を切り上げ(お酌し続けて芦屋を先に潰してやった)、電車を降りたところで、電話がかかってきた。片野さんからだった。『主任、あの後大丈夫でした?』と不安そうな声色で訊かれた。私を残して帰ったことに罪悪感を覚えているようだった。 駅から自宅まで歩きながら、彼女の話を聞いた。『彼氏はいるのか』だの『今度一緒に温泉行こう』だの、打ち合わせで顔を合わせる度に、芦屋はいつもセクハラ染みた発言していたらしい。無駄に回数の多い打ち上げや接待ではいつも隣に片野さんを侍らせ、酒が進むにつれてベタベタと体を触ってくるのだという。片野さんは次第に芦屋と二人きりになることに恐怖を抱きはじめ、今夜は上司である私を誘った、というわけだ。男を呼べば機嫌を損ねるが、女なら上機嫌らしい。女好きクソエロオヤジめ。公私混同して女の体ばっか触ってるから、いつまで経っても出世できないんだよ。 帰宅したのは十一時半。吉田くんはまだ起きていて、リビングのテレビで野球中継を観ていた。日米親善試合の延長戦だった。 「おかえりなさい」 シャワーを浴びたばかりのようで、濡れた短髪をタオルで乱雑に拭いている。今日はちゃんと服を着てくれていたので、ちょっとほっとした。 「ただいまー」 彼の顔を見て、「あー、そういえば今夜はすき焼きの予定だったなー」と思い出す。申し訳なさが蘇ってきた。 「今日はごめんね。ドタキャンしちゃって」 「いえ、気にしないでください」 「楽しみにしてたんだけどなぁ、すき焼き」 セクハラクソオヤジと経費で食べる高級寿司よりも、うちで吉田くんと食べるすき焼きの方が、断然おいしいに決まっている。 今日の接待を思い出し、 「……はあ」 あからさまに大きなため息をついた私に、「お疲れですね」と吉田くんが水を注いでもってきてくれた。 そう。疲れた。心底疲れた。ソファに座り、水を一気飲みする。 「ちょっと、仕事でいろいろあって」 そうですか、大変でしたね。そんな返事が返ってくるかと思いきや、吉田くんは無言で私の隣に座った。私の顔をじっと見つめている。これは「話せ」ということだろうか。 十歳も年下の子に会社の愚痴を吐き出すのもどうかと思うけど、ここはご厚意に甘えることにした。というか、誰でもいいから愚痴りたい気分だった。 「部下がセクハラに遭ってた」 吉田くんは目を丸くした。「まじすか」 「まじっす。二十四歳の女の子。今日、接待に同席したんだけど、クライアントのおっさんが、その子の足とか腰とか胸とか触ってた。こりゃまずいって思って、先に帰したんだけど」 話を聞きながら、吉田くんは「うわ」と顔をしかめている。 「打ち合わせで会う度に、いつも嫌なこと言われてたらしい。なんていうか、今まで気付いてあげられなかったのが、本当に申し訳なくてさぁ……」 上司であり、同じ女である私が守ってあげるべきだったのに。自分の至らなさに凹んでしまう。 「私のせいだよ。課長に『あの会社の後任には彼女を付けろ』って言われて、何の疑問も抱かずにその通りにしちゃったんだよね。簡単な案件だったから、経験を積ませるためなんだろうと思ってたし、彼女自身もやる気だったから、特に問題ないと思ってたんだけどさ……まさか、先方の担当者が若い女の子好きだから、っていうクソみたいな理由だったなんて」 そりゃ、若くて美人なら仕事も円滑に進むことだってあるし、契約を延長してもらいやすいこともある。クライアントの機嫌を取るために美人社員を担当にあてたがる上司がいるのも事実。だけど、セクハラは看過できない。 「それで」と、吉田くんが口を開く。「高宮さんは、大丈夫だったんですか?」 「え?」 「そのオヤジと二人で飲んでたんすよね、今まで」 この子、もしかして私のことを心配してくれてるのだろうか。 「うん、まあ。軽く触られはしたけど。……でもほら、私はもういい年だし、こういうの慣れてるから」 「嫌じゃないんですか」 「そりゃあ、いい気はしないよ。正直、ぶん殴ってやろうかと思った。……でも、部下が今まで必死に耐えてきたものを、私がぶち壊しにするわけにもいかないから」 「我慢したんすね」 「彼女が今までしてきた我慢に比べたら、たいしたことじゃない」 どんなに嫌だったことか。取引を打ち切られることを恐れて強い態度を取れない女性に対し、それをわかった上で触ってくるなんて。社外セクハラも質が悪い。 「……やっぱり一発殴っときゃよかったかな」 独り言のように呟くと、吉田くんが目を細めた。「高宮さんのそういうところ、いいと思います」 そういうところ、というのが具体的にどういうところなのかはわからなかったが、素直に受け取っておくことにした。「ありがとう」 「……高宮さん、昨日はすみませんでした」 その翌日、出社したばかりの私に、片野さんが駆け寄ってきた。今にも泣き出しそうな顔をしていたので、私は彼女の腕を引っ張って女子トイレに連れていった。 「いいの、気にしないで。私のほうこそ、気付いてあげられなくてごめんね。今まで辛かったよね」 「すみません、すみません」と繰り返しながら、とうとう彼女は泣き出してしまった。可哀想に。ずっと苦しんできたんだろう。ひとりで抱え続けて。 きっと本当は、最後まで自分で担当したかったはずだ。今まで先輩たちの補佐役ばかりだった彼女にとって、小さい案件とはいえ初めて任されたメインの仕事だった。一生懸命頑張ろうとしたのだろう。嫌なことを言われても、触られても、笑って流して。誰にも相談せずに堪えて。これは私の仕事だ、他の誰にも渡したくないと、職務を全うしようとした。そんな彼女の心を、あのオヤジは平気で挫きやがった。 昔の自分を思い出し、目頭が熱くなってきた。どうせ結婚までの腰掛けだろうと見くびられながら、理不尽な扱いに抗おうと必死に働いた二十代の頃を。セクハラ、パワハラ、モラハラ、なんでも耐えてきた。上司も先輩も誰も助けてくれなかった。社外セクハラにも、会社は何も対策もしてくれなかった。 だからこそ、彼女のことは、私が助けてあげなければ。 「もう我慢しなくていいからね。三國物産の担当は、山崎くんに変わってもらおうと思ってる。片野さんには代わりに、彼に担当させるつもりだった会社を回すから」 「……ありがとうございます。すみません」 上司にもちゃんと話を通しておくことにした。デスクに出向いたところ、課長はクソ忙しそうで「好きにやれ」と軽くあしらわれてしまった。部下がセクハラに遭ってたっていうのにその程度のリアクションかよ、と苛立ってしまう。おう、好きにやらせてもらおうじゃないの。 山崎くんに事情を話すと、彼は快諾してくれた。「さすがに俺なら触ってこないでしょう」と冗談めかして笑っている。申し訳なさそうに頭を下げていた片野さんの顔にも、ようやく笑みが戻った。 よかった。これでひとまず解決だ。 ――ところが、そう簡単にはいかなかった。こっちを立てればあっちが立たず、というのがこの世の常。その日の午後、私は課長に呼び出された。片野さんと山崎くんが三國物産に担当替えの挨拶をした、直後のことだった。 「おい、高宮」デスクに呼びつけた課長が、不機嫌そうに言った。「どうなってんだ」 課長はたしか今年で四十五歳。プライドが高くて男尊女卑の、どの会社にもひとりはいる典型的な時代錯誤おじさんだ。十五年前に手を出した派遣社員と結婚し、中学生の一人娘がいる。子どもが大きくなったので専業主婦を辞めて働きたいと言い出した奥さんに『俺が稼いで不自由ない生活をさせてやってるだろ』と言い負かしてやった――などというエピソードを数年前の忘年会で得意げにほざいていたので、見事に私の嫌いな人間トップ10入りを果たし、その後も上位をキープし続けている。 「何がですか」 「三國物産が、契約を切ると言い出したぞ」 ――うわ、なんて露骨な……。 思わず声に出してしまうところだった。あのエロオヤジめ。やはりそうきたか。 「ころころ担当者を替えるような会社は信用できない、だそうだ」 「ころころ変えられるような会社にも問題があるんじゃないですかね」 「高宮」 課長の声が低くなる。 「担当を片野に戻せ」 「今朝、片野さんがクライアントのセクハラで困ってるんで担当者を男性に変えたいと説明したら、課長は好きにやれとおっしゃいましたよね」 私の話、ろくに聞いてなかったな。忙しいからって適当に聞き流したくせに、いまさらになって文句言いやがって。こいつはこういうことが度々あるから困る。心底むかつく男だ。 「とにかく、片野さんは担当にはつけません。このままじゃ彼女が潰れてしまいますよ」 すると、課長がとんでもないことを言い出した。 「じゃあ、お前が担当しろ」 「……はあ?」 「あのおっさん、担当者が女じゃないと扱いづらいんだよ。うちの課はお前と片野以外に女がいないんだから。片野がやれないなら、お前がやるしかないだろ」 さも当然のように暴論を振りかざす目の前の男に、私は開いた口が塞がらなかった。 「それに」と、課長がへらへらと笑いながら言う。「三十半ばの女だったら、あのおっさんもさすがに触らないだろうしな」 ……しばいたろうか、こいつ。 「いや、私も触られましたけど、昨日」 「おいおい、本当かぁ?」 課長は小馬鹿にしたように鼻で嗤った。 「節操のないオヤジだなあ。おっぱいが付いてりゃ誰でもいいのかよ」 不躾な発言の数々に我慢ならず、さすがにブチ切れそうだった。拳を握りしめ、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。 「とにかく、三國物産は今後、高宮が担当しろ」 「それは、私なら触られていいってことですか?」 「お前くらいの歳になれば、こんなのどうってことないだろ。昔はどこでもやってたんだから。お前だって慣れてるよなぁ?」 たしかに、片野さんの代わりに私が担当すれば済む話かもしれない。セクハラ発言も笑って流せるし、別に触られたからって傷つくような歳でもない。 だけど、モヤモヤする。「はーい、そうですねー、私がやりまーす」とは言えなかった。言ったら負けだと思った。「検討させてください」とだけ答えて、私は自分の席に戻った。 仕事一筋。何よりも会社の利益を考えているつもりだ。二十代の頃だって、どんなに嫌なことにも耐え続けてきた。上司や取引先のセクハラを乗り越えて必死に頑張ってきた。出世して今の地位を築き、ようやく、ちょっとずつだけど男性から一目置かれるようになってきた。 それでも、まだこんなくだらないことに耐えなければいけないのだろうか。 頼んでもいないのに常に男から「美人」だの「ブス」だのと美醜の評価を下され続け、若いうちはベタベタ触られ、歳をとったらババアだなんだと馬鹿にされる。死ぬまで続くのか、これが。地獄かよ。 「――あー、おかえりー」 深夜二時過ぎ。居酒屋のバイトから帰ってきた吉田くんに声をかけると、彼は私を見てぎょっとしていた。私は右手にグラス、左手に焼酎の瓶を抱えてリビングのソファに座り、お気に入りの恋愛ドラマのDVDを観ているところだった。 「まだ起きてたんですか」 「うん。ちょっと眠れなくてね」 手酌で酒を注ぎ、いっきに呷る。吉田くんは私の隣にそっと腰を下ろした。 「嫌なことでもあったんですか」 「あ、わかるー?」 「誰だってわかりますよ」 と呆れたように言いながら、吉田くんが瓶とグラスを奪い取った。代わりにウォーターサーバーの冷水を注ぎ、私に持たせる。彼は「ひとりでこんなに飲んだのか……」と一升瓶の軽さに目を丸めていた。 「それで、何があったんすか?」 吉田くんが心配そうに顔を覗き込んでくる。 「……昨日話した、セクハラ取引先」私は口を尖らせた。「上司に、お前が担当しろって言われた」 「まじすか」 「まじっす」 いくら焼酎を呷っても、モヤモヤした気分は晴れなかった。 すべてが許せない。入社二年目の子がやるような簡単な案件を、このクソ忙しい私に押し付てきたことも、ふざけんじゃねえよと思った。お前ならセクハラされないと、女としての価値がないかのように言われたことにも、セクハラされても構わないと人としての尊厳を踏みにじられたことも、腹が立った。社会人としても、女としても、人間としても軽んじられているようで、心が挫かれた。 今回に限ったことではない。あの課長は、いつも私を馬鹿にする。飲み会の席では毎度毎度、三十過ぎても結婚していない私を茶化し、嫁の貰い手がないだの何だのと貶してくる。毎回笑って流してるけど、私だって傷つかないわけじゃない。 「時代錯誤のクソ野郎が」 社会に出てからというもの、悲しくて泣くことより、悔しくて泣くことのほうが増えたような気がする。今日の出来事と、今まであの課長に言われてきた罵詈雑言の数々が走馬灯のようによみがえり、自然と涙腺が緩んできて、私は気付けば涙を流していた。隣に吉田くんがいるというのに、「あのクソ課長、殺す!」と恨み節を叫びながら、私は号泣した。 「まじでむかつく、しね、しね、ころす」 二本の竹の棒で課長をタコ殴りにする想像をしながら、傍にあったクッションをボコボコに殴りつける。今週は頭の中で何人も殺したなぁ。それだけ嫌なことがあった一週間だった。ストレス過多でここ数日は肌荒れもひどいし、生理も遅れてる。 「くそ、ころす、まじころす」 涙が止まらず、鼻水まで出てきた。こんな可愛げのない泣き方があるだろうか、と自分でも呆れてるが、止まらない。 吉田くんもさぞドン引きしていることだろう、と思いきや、彼はなぜか肩を震わせて笑いを堪えていた。 「……ねえ、なに笑ってんの」 「すいません、面白くてつい」 むかついたのでクッションを吉田くんに投げつけた。顔に直撃して、彼は「いてっ。肩つよ。さすが元キャッチャー」と目を丸めている。 はあ、と長ったらしいため息をつき、体操座りの体制で膝を抱え込む。手の甲で雑に涙を拭っていたら、吉田くんがティッシュを取ってきてくれた。涙と鼻水で濡れた私の顔をやや雑に拭きながら、 「どうするんですか、それで」 と、尋ねた。 「どうしようかなぁ」と言いつつも、どうにもできないことはわかってる。「まあ、オバサンの私がやるしかないだろうね」 「俺はそうは思わないっすけど」 「……それって、やるしかないとは思わないってこと? それとも、私はオバサンじゃないってこと?」 「両方です」 吉田くんはクッションを抱えながら、はっきりと答えた。 「何歳だろうと、女性は女性っすよ。触られていい人なんかいないでしょ」 「きみって奴は……ほんと、もう」 うう、と思わず唸る。若いのになんて人間のできた子なんだ。吉田くんの言葉に、また涙が止まらなくなってきた。あのクソ課長に聞かせてやりたい。 二十だろうと三十だろうと四十だろうと、女は女。一人の人間。下に見て言いわけじゃない。そんなシンプルな考えが、どうしてこの社会には浸透していないのだろう。 私だって、本当は平気じゃない。平気だ平気だと言い聞かせているだけだ。痴漢や取引先に触られ、上司に嫌味を言われる度に、確実に心は削られているし、自尊心もすり減っていく。 「なんか、むかつきますね」と、吉田くんは眉間に皺を寄せた。「新人の子は高宮さんが守ってくれるのに、高宮さんのことは誰も守ってくれないなんて」 歳をとって、出世して、可愛げがなくなって。私は守ってもらえるような立場じゃなくなった。別に守られなくてもいい。だからって、軽く扱われていいわけじゃない。女としての、人間としての尊厳を守るために、これからも戦わなければならない。 「大丈夫。自分のことは自分で守るよ」 手の甲で涙を拭い、無理やり笑顔をつくる。 次の瞬間、吉田くんの手が伸びてきた。そっと私の頭に触れ、よしよし、と撫でた。 びっくりして硬直していると、 「えらい、えらい」 と、彼は優しい声色で言った。 ただ、それだけだった。「えらい」のひと言だけ。でもそれは、今の私がいちばん必要としていた言葉だった。今の私はただ、自分の頑張りを認めてくれる人がほしかった。気を抜けばまた涙腺が緩みそうになり、唇を噛みしめてなんとか我慢した。モヤモヤしていた心が、ちょっとだけ晴れていく。 「明日、課長に掛け合ってみる」 なんて大口を叩いてしまったのは、酔っているせいだろうけど。でも、彼のおかげで戦う覚悟はできた。 「かっこいいっす、高宮さん」 吉田くんが微笑んだ。普段は無骨で仏頂面な分、たまに見せる笑顔にはなかなかの破壊力がある。 私は鼻声をすすりながら、「知ってる」と答えた。  翌朝の私は、三十三年に渡る高宮奈津子史の中で歴代三位に入るくらいぶっさいくな顔になっていた。泣き過ぎて両目が腫れ、酒の飲み過ぎで顔がぱんぱんにむくんでいる。寝る前のスキンケアも手を抜いてしまったので肌荒れもひどいし、夜更かしのせいでくまも濃い。普段スッピンを恥ずかしげもなく晒している同居人にも、さすがにこの日ばかりは顔を見せることが憚られた。 「おはようございます」 「……おはよう」  いつものように、リビングで挨拶を交わす。吉田くんは何事もなかったように接してくれているが、内心「何だこのオバサン、ブッスー」なんて思われてたらどうしよう、と心配になってしまう自分がいる。 「えっ、なんかいい匂いするんだけど」  この日のリビングには食欲をそそる匂いが漂っていた。見れば、食卓の上にごはんと味噌汁が並んでいる。 「朝飯作りました」  ……なんていい子なんだ。朝っぱらから感動してしまう。 「高宮さん、いつもコンビニ飯ばっかだから。もっとちゃんとしたもん食った方がいいですよ」 「君は自分の店の客が減ってもいいのか?」 言葉を交わしながらダイニングテーブルに向かい合って座る。朝はいつも食べない派だけど、今日は食欲がわいてきた。 「昨日はごめんね、みっともないとこ見せて」 いい歳して人前であんなにわんわん泣いてしまうなんて思い出すだけで恥ずかしい。自己嫌悪に陥る私に対して、吉田くんは涼しい顔をしている。幸いあまり気にしていないようだった。 「前回は泣きながら吐いてたんで、今回はかわいい方っすよ」 「……あの日のことはもう忘れてくれない?」 睨み付けると、吉田くんは歯を見せて笑った。悪戯っ子みたいな無邪気な表情をしたかと思えば、すぐに真面目な顔に戻り、 「これ以上なに見たって驚かないんで、俺の前では我慢しないでください」 と、なんとも男前なことを言ってのけた。 ……この子、本当に二十三歳か? 人間力が高すぎる。人生何回目? 後光が差しているように見えてきた。あまりに眩しすぎて直視できなくて、私は目を反らしたまま「ありがとう」と呟いた。 いただきます、と手を合わせてから、味噌汁を一口すする。 「……おいしい」 「シジミ汁にしました」 「なんか、味が濃いね。すごく効きそう」 「シジミを水につけて凍らせたやつを、そのまま味噌汁に使ったんです。オルニチンが八倍になるらしいっすよ」 「なにその裏技」 「テレビでやったから、試してみたっす」 もう一口すする。たしかに八倍の味がした。二日酔いが和らいでいく気がする。 「深酒したら飲んでくださいね。作り置き、冷凍庫に入れてるんで」 「あ、うん。ありがとう」 酒癖の悪い私のために作り置きまで……本当に気が利く。なんていい子なんだ。朝っぱらから感動させられっぱなしで、十歳年下の男の子に甲斐甲斐しく世話を焼かれるのも悪くないな、なんてことを思ってしまった。 化粧をして、着替えて、玄関で靴を履いていると、 「いってらっしゃい」 と、吉田くんが声をかけてきた。私の頭に手を置き、「がんばって」と言って、髪の毛が乱れない程度に優しく撫でた。 ……出た。また出たよ、これ。まったく、三十過ぎの女がよしよしされて喜ぶとでも思ってんのか? 喜ぶけどさ。 憂鬱な一日になりそうなところが、吉田くんのおかげで爽やかな朝を迎えることができた。 ――がんばって。 吉田くんの言葉を思い出す。 そうだ。がんばれ、奈津子。 よし、と自分を奮い立たせ、私は席を立った。向かう先は、課長のデスク。 「課長、お話があります」 「なんだ」 パソコンのキーボードを叩きながら不機嫌そうな声が返ってきた。 「三國物産の担当者の件ですが。やはり、山崎に任せてもよろしいですか」 その途端、課長の表情が曇った。「お前、昨日俺が言ったこと覚えてるよな?」と私を睨み付けながら言う。 付き合いは長くても、相手は一回りほど年上の男だ。戦うにはそれなりの覚悟とエネルギーがいる。がんばれ奈津子。負けるな。心の中で唱えながら、課長を真っ直ぐ見据えて言い返す。 「忘れました」 「……あ?」 「忘れたんで、もう一回言っていただけませんか」 嘘だ。本当は覚えている。すべて、一字一句、正確に。 「お前、舐めてんのか」 課長の眉間に皺が寄った。 怯みそうになるけど、こっちだって引くわけにはいかない。 「そういえば、課長には中学生の娘さんがいらっしゃいますよね」 唐突に話題を変えた私に、いきなり何だ、と課長は首を捻っている。私は構わず話を続けた。 「昨日のお言葉、もう一度言っていただけませんか。将来、課長の娘さんが、社会人として立派に働く三十三歳のOLになって、会社の上司から同じことを言われたらどんな気持ちになるかを想像しながら」 私の言いたいことは十分に伝わったと思う。うっ、と課長は顔をしかめて押し黙った。 この世に触られてもいい女なんていないのだ。自分の娘なら駄目なのに、年増の部下ならいい、そう言えるもんなら言ってみろ。 「娘さんのことを考えながら、もう一度、昨日と同じ台詞を私に言ってください」 さあ、ほら、早く。課長は覚えていらっしゃるんですよね、昨日ご自身がおっしゃったことを。さあ。 私は課長のデスクに両手をつき、身を乗り出した。 「『あのおっさん、担当者が女じゃないと扱いづらいんだよ』『うちの課はお前と片野以外に女がいないんだから。片野がやれないなら、お前がやるしかないだろ』『三十半ばの女だったら、あのおっさんもさすがに触らないだろ』『「節操のないオヤジだなあ。おっぱいが付いてりゃ誰でもいいのかよ』『お前くらいの歳になれば、こんなのどうってことないだろ』『昔はどこでもやってたんだから。お前だって慣れてる――」 「もういい! わかった!」 課長が私の言葉を遮った。 詰め寄る私から目を反らし、 「……わかったから」 と、呟くように言う。 「先方は私がしっかり説得します。担当は山崎でよろしいですか?」 「……好きにしろ。俺は知らんからな」 「ありがとうございます」 頭を下げてから、自分のデスクに戻る。斜め前の席の片野さんが心配そうにこっちを見ていたので、私は満面の笑みで親指を立てた。契約を切られたらそのときだ。今期の私の査定が下がっても構わない。セクハラ魔の取引先なんて、こっちから願い下げだ。  結局、幸いなことに、三國物産の契約は切られずに済んだ。  先方の担当者が変わることになったのだ。というのも、なんと芦屋が会社をクビになったからで、報告を聞いた私たちは心底驚いた。芦屋は電車内で女子高生に痴漢をして捕まったらしく、ニュースにもなっていた。常習犯だったようだ。まさかこんな幕切れになるなんて。触られた女子高生や片野さん、そのほかの被害者は気の毒だが、いい気味だと思った。クソオヤジ、一生反省してろ。 その後すぐに、新たに担当となった三國物産の社員が、謝罪と挨拶のために我が社を訪れた。若い女性社員だったので担当を片野さんに戻すことにした。彼女は溌剌とした表情で対応していた。歳も近く、気が合いそうな二人だった。一方、山崎くんはちょっと残念そうにしている。新しい担当者がなかなかの美人だったからだ。これだから男は、と呆れてしまう。 その日の帰り、スーパーに寄り、すき焼きの材料とシャンパンを買った。吉田くんも今夜はバイトが休みだというので、祝杯に付き合ってもらうことにした。 「カンパーイ!」 満面の笑みでグラスを掲げると、吉田くんは「ご機嫌ですね」と笑った。 「セクハラの件、解決したんだぁ」 と言って、いっきにグラスを呷る。風呂上がりの一杯は最高だ。それに、今日は特別酒がうまく感じる。 上司に啖呵を切ったことから、セクハラ担当者が痴漢で逮捕されたことまで、今日一日の出来事を、私は吉田くんに順を追って説明した。 「うまくいったのは、吉田くんのおかげだよ」 「俺、何かしましたっけ?」 愚痴を聞いてくれた。慰めてくれた。励ましてくれた。がんばって、って応援してくれた。そのおかげで頑張れた。……というのはさすがに気持ち悪いので、心の中だけに留めておくことにする。 「シジミ汁。あれのおかげで頭が冴えた」 「それはよかった。作ったかいがありました」 機嫌が良くて、心地よく酔いが回っていて、なんだかふわふわした感覚に包まれている。今の私は最高に気分がいい。 「吉田くんも」 と、私は彼の頭を掴んだ。短い髪の毛を「えらい、えらい」と犬を撫でるように乱雑に掻き乱す。 「働いて、家事もして、私の愚痴も聞いて、酒にも付き合って、吉田くんはえらいよ。いつもありがとうね」 いい子いい子と頭を撫で続けていると、いきなり吉田くんに腕を掴まれた。思ったより強い力だったので、ちょっとびっくりしてしまう。 私、なにか気に障ることをしただろうか。もしかして、これってセクハラだった? 撫でられて嬉しかったから、相手にもしてあげたくなった。ただそれだけのことで、他意はなかったんだけど。 「……ご、ごめん、嫌だった?」 不快な思いをさせていないかと心配になり、とりあえず謝ってみたところ、 「いや、そうじゃなくて」 吉田くんが首を振り、視線を下げた。 「袖、鍋につきそうだったので」 「あ」 寝間着の上に羽織っているカーディガンの袖が、吉田くんを撫でている間に危うく鍋の中に入りそうになっていた。 「手、出して」 吉田くんは私の袖を捲ってくれた。くるくると、丁寧に。本当に気が利く子だ。 「よし」両方とも捲り終えたところで、撫でろと言わんばかりに吉田くんが頭を差し出してくる。「さあ、どうぞ」 なに言ってんの、馬鹿じゃないの、と私は吉田くんの頭を軽く叩きながらも、ちょっと可愛いなと思ってしまった。 二十三歳という若さにしては、吉田くんは大人びている。幼い頃に両親を亡くしてからずっと大人の世界で生きてきたせいなのかもしれない。その辺にいる同世代の大学生とは、まとっている空気が違う。だからといって、完全に大人の男というわけではない。普段は落ち着いてるのに、たまに子ども染みた部分を見せてくるそのギャップには、なんというか、その……ちょっとぐっとくるものがある。 「肉ばっかり食べてないで、野菜も食べなさいよ」 口を尖らせて母親みたいなことを言いながらも、若い男子の小気味いい食べっぷりを眺めているだけで、酒が進んだ。 ……結果として、飲み過ぎた。 「こんなところで寝たら風邪ひきますよ」 ソファでうたた寝をしている私に、吉田くんが声をかけてきた。せっかく気持ちよく寝てたのに、なんで起こすかなあ。 うっすらと目を開けると、お風呂上りの吉田くんが視界に飛び込んできた。しかも、またパンツ一枚だ。お前こそ風邪ひくぞ。ちゃんとパジャマを着ろ、パジャマを。 注意するのも億劫なほど眠たかったので、私は再び瞼を閉じた。「こら、寝るな」という吉田くんの声が聞こえる。 「高宮さん、ベッドに行きましょう」 吉田くんが私の肩を揺さぶった。その言い回しやめてほしい。なんか変な意味に聞こえてしまう。 内心どきっとしながらも、 「やだー」と、私は幼稚園児みたいに身を捩りながら駄々をこねた。「ここで寝るー」 「駄目です」 「やだー」 起きたくない。動きたくない。歩きたくない。とにかく何もしたくない。甘えたい気分だった。 「じゃあ、運んでー」 と、吉田くんに向かって両手を伸ばした自分に、自分でびっくりしてしまった。相当酔ってるな、こんなこと言うなんて。 ……いや待った、これってもしかして逆セクハラか? 今の発言は完全アウトだ。撤回しなければ。上体を起こしながら、私は慌てて口を開いた。 「ごめん、やっぱり今のナシ。セクハラだった」 若い男の子に自分をお姫様抱っこさせようなんて、どう考えてもセクハラだ。これじゃ芦屋と同じじゃないか。 すると、 「別にセクハラじゃないっすよ。嫌じゃないんで」 と、吉田くんが答えた次の瞬間、彼の腕が私の体に触れた。右手で背中を抱き、左手を膝の下に差し込むと、 「よっ、と」 と、声をあげて抱き上げた。 憧れのお姫様抱っこ――ではなく。吉田くんは私の体を肩に担いだ。まるで米俵を運ぶよう百姓のように。 そうじゃないんだよ、と内心がっかりしつつも、五十キロ近い私の体を軽々と持ち上げるその逞しさに、ちょっとかっこいいなと思ってしまった。さすが毎日筋トレしているだけのことはある。不覚にもドキドキしてきて、すっかり眠気が覚めてしまった。 吉田くんは俵抱きで私を部屋に運び、ベッドに寝かせて、ご丁寧に布団までかけてくれた。酔っ払いにも優しい。仏か。  ふと、あのドラマを思い出す。そういえば、ドラ恋にも似たようなシチュエーションがあったな。居眠りしているヒロインをお姫様抱っこで寝室へと運び、ベッドに寝かせ、額にキスする、あのシーン。 「おやすみなさい」 「おやすみー」 吉田くんが寝室を出ていった。部屋が真っ暗になり、しずかにドアが閉まった瞬間、軽い落胆を覚えた。 なんだ、そんだけかよ。してくれてもよかったのに。……キスくらい。 「え」 ……今、なんて? 物足りなさを感じてしまった自分に驚き、目を見開く。 「……マジか」 おいおい、何考えてんだ私。 「いやいやいやいや」  そんなわけないと笑い飛ばしても、一度浮かんだ疑惑は消えてはくれなかった。  ……私、まさか、吉田くんのこと好きなの?
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