54人が本棚に入れています
本棚に追加
第4話 ドラマみたいにはいかないライバル
第4話 ドラマみたいにはいかないライバル
三か月ぶりに足の爪にマニキュアを塗った。なんとなくおしゃれしたい気分だったからだ。別に、部屋の中を裸足でうろうろしてると同居人に見られるから、という理由ではない。
新しい下着も買った。どれも古くなっていたからだ。そろそろ買い替えようと思っていた。別に、干している洗濯物を同居人にうっかり見られたら恥ずかしいから、というわけではない。
いつもは日経ウーマンくらいしか読まないが、珍しくファッション誌を買ってみた。三十代向けの雑誌の十二月号で、私と同い年くらいの有名女優が表紙を飾っている。特集のひとつ、『三十五歳から始める投資術』が目当てなのであって、別に、その下に書かれていた『年下男子に好かれる着回しコーデ』という文字に興味を惹かれたわけではない。
五万円の美顔器を購入した。イオン、アイケア、保湿、EMS、冷却、と五つのモードを搭載した最先端モデルだ。三十代前半、肌の曲がり角はとっくにドリフト走行で曲がり切っている。アンチエイジング活動にもより力を入れなければならないな、と常々思っていただけで、別に、若い同居人に釣り合おうと努力してるわけじゃない。違う、そういうつもりはない。断じて違う。
「――いや、違わないだろ」
汐里の鋭い指摘が飛んできた。
吉田くんがバイトで不在なのをいいことに、現在二人で宅飲み中だ。缶ビールを呷りながら近況を報告した私に、汐里はやや呆れ顔で言う。
「めちゃくちゃ意識してんじゃん」
「そんなことは……」
ないけど、と言いかけて、私は首を捻った。
「え、意識、してんのかな……?」
どうなんだろ。困ったことに、自分でもよくわからなくなってきた。
視線をさまよわせ、つけっぱなしにしていたテレビの画面に目を向ける。現在絶賛放送中の人気ドラマ、通称「ドラ恋」こと『ドラマチック・ラブ』の録画。先週放送分の第7話を肴に酒を飲む。ドラマの中ではちょうど、ヒロインのアイコが額にキスをされたこと(6話の回想)を思い出して顔を赤らめていた。カズマの行動に戸惑い、「えっ、あれはいったい何だったの?」「もしかして、彼は私のことが好きなの?」と思春期の中学生みたいにあたふたしているアイコ。「いやでも、キスされて嫌じゃなかったし」「もしかして私、彼のことが好きなの?」と、カズマのことをどう思っているのか自問自答し、(視聴者はとっくに知ってたけど)今更ながら自らの恋心に気付くくだりに、私は思わずテレビを消したくなってしまった。見ていてなんだか恥ずかしくなってきた。
汐里はテーブルにビールを置き、
「ねえ、何かあったんでしょ?」
と、前のめりで尋ねた。
「え」
「一緒に住んでるんだから、そりゃ何かあるに決まってるよね。ねえ、何されたの? キスされた? それとも、押し倒されたとか?」
「いやぁ、それがなんにも」
吉田くんがうちに住みはじめて一か月が経ったが、残念ながら彼との間にはいまだ何もない。
――って、いやいや、残念ながらって何だ。全然残念じゃないから。むしろ健全で誇らしいことだから。
「そうは言っても、なんかあるでしょ。男女の触れ合いが」
男女の触れ合いって……と呟きながら、私は先日のセクハラ案件を思い出した。仕事で嫌なことがあってヤケ酒に走っていたあの夜、吉田くんは私の傍にいて愚痴を聞いてくれた。えらい、と頭を撫でて褒めてくれた。酔っぱらって寝てたら、肩に担いでベッドまで連れてってくれた。
「ただ、それだけですけど」
別にキスされたわけでも、抱きしめられたわけでも、押し倒されたわけでもない。二人揃って泥酔し、目が覚めると隣に全裸の吉田くんが寝てた、なんて古今東西のドラマで三億回くらい使われてるような展開も一切ない。男女というより、ただの友人同士の触れ合いの範疇におさまっている。
ということを汐里に説明すると、彼女は「うわー」と歓声と悲鳴の中間のような声をあげた。
「年増キラーだね、ゴリラくん」
「年増言うな。同い年だぞ」
「三十過ぎた女はそういうのに弱いんだよなぁ。乾いた心に潤いが染み渡るような、そういう繊細な優しさに」
たしかに、彼の優しさは押しつけがましくないし、嫌味がない。なんというか、「実家のお袋」みたいなあったかさがある。一緒にいて癒されるし、安心もする。深酒した翌朝に吉田くんがシジミ汁を作ってくれた話をしたところ、汐里は「家庭的アピールするあざとい女子かよ」と眉をひそめていた。
「魔性だね、魔性のゴリラだ。なっちゃんが彼に落ちるのもしょうがない」
「え? 私、落ちてんのかな?」
「『年下男子に好かれる着回しコーデ』は言い訳できませんよ」
うあぁ、と嘆息しながら頭を抱える。なんでこんな雑誌買っちまったんだ、私。
「いやまあ、普通にいい子だよ、吉田くん。真面目で素直だし、優しいし。一緒に住んでたら誰だって好きになると思う。人間として、ね」
という言い訳じみた私の言葉を、汐里が一蹴する。「なに言ってんだ。男としても好きなんでしょ」
「…………」
返す言葉がない。
……まあ、たぶんそういうことなんだと思う。もし、仮に、万が一、万が一の話だけど(絶対ありえないけど)、吉田くんに「好きです、付き合ってください」なんて言われたら、コンマ一秒の速さで「喜んで」と答えてしてしまいそうな気はしている。
うわぁ、と私はビール片手に項垂れた。
「やだどうしようもうほんと何やってんだろ私」
結婚はどうした、結婚は。
婚活中の女が十歳も年下のフリーター男子に好意を抱くなんて、正気の沙汰じゃない。もうすぐ三十四になるというのに。婚期は遠退く一方だ。
ドラ恋の7話はアイコがカズマを意識しすぎて無駄にぎくしゃくしてしまう、というありがちなストーリーだった。すれ違う二人の姿が視聴者のもどかしさを掻き立ててくる。缶ビールをもう一本開け、続けて第8話を再生した。自分を避け続けているアイコを、カズマが誘うシーンから始まった。
『日曜に試合があるから、応援に来てくれないか』
カズマはサッカー歴十五年で、今でも会社のフットサルチームに所属している、という設定らしい。
週末になり、試合の応援に訪れたアイコを待っていたのは、カズマの元恋人(ハーフモデルの社長令嬢)だった。この女、度々登場しては『あなたなんかじゃカズマとは釣り合わないわ』などとマウントを取ってくる絵に描いたような嫌な奴だ。でもまあ、陰湿な裏工作をしてくるライバルより、こういうタイプの方が正々堂々としていて逆にすがすがしい気がしないでもないけど。そんなことはさて置き、なんとなく、『あんたなんかじゃ釣り合わない』というライバル役のその言葉が、私の耳にいやに残った。
……吉田くんとは釣り合わないよなぁ、私じゃ。
私があと十歳、いや、五歳でも若ければ。せめて私が二十代だったら。
なんてことをひとりで考えて勝手に落ち込んでいたところ、不意に玄関で物音がした。ドアの鍵が開く音とともに、誰かが部屋に入ってくる。吉田くんだった。
「お、おかえり」
びっくりした。今日は居酒屋のバイトじゃなかったっけ。突然のご本人の登場に目を丸めていると、吉田くんはダウンジャケットを脱ぎながら「ただいまっす」と返した。
「早かったね」
「お客さん少なくて暇だったんで、先に上がらせてもらいました。人も余ってたし」
「そうなんだ」
こんなに早く帰ってくると思わなかったから、こうしてリビングで酒盛りしていたんだけど。
すると、
「お邪魔してまーす」と、ほろ酔いのテンションで汐里が挨拶した。「奈津子の友達の工藤でーす」
彼女の顔を見て、吉田くんは「あっ、この前の」と指を差した。
「あのときはどうも。なっちゃんがお世話になりました」
私がコンビニの前で嘔吐したあの夜、汐里も一緒にいた。だから、二人とも一応面識はある。
買ってきた缶ビールはいつの間にか空になっていた。つまみも残り少ない。「ちょっと買ってくる」と腰を上げたそのとき、
「あ、俺行きますよ」
と、吉田くんが脱いだばかりのダウンを羽織りながら言った。
「いいの?」
「せっかく友達が来てるんだから、高宮さんは家にいてください」
「ありがとう。ごめんね」
今帰ってきたばかりなのに、嫌な顔ひとつせず買い出しに行ってくれるなんで。玄関でお金を渡し、吉田くんを見送って再びリビングに戻ると、
「いい子じゃん!」
と、汐里が私の心の声を代弁した。
「でしょ」
うんうん、と頷いて同意する。そうなんだよ、いい子なんだよ。
「めちゃくちゃ優しいじゃん」
「優しさって罪だよねぇ」
あんなに風に毎日優しくされたら、そりゃ誰だって好きになっちゃうだろ。犯罪を正当化する気はないけど、例の四十代のストーカーババアの気持ちもわからなくもない。
残り少ないビールを飲み干してから、汐里は「十歳年下って聞いて、正直ナシかなって思ってたけど、あの子ならアリ。全然アリ」と何度も頷いた。
「せっかく一緒に住んでるんだし、ここは押してこうぜ。ガンガンいこうぜ」
焚きつけてくる汐里に、私は苦笑いを返した。
「いやぁ、あんまりそういう空気にはしたくないんだよね。吉田くん、過去に四十代のオバサンに言い寄られたことがあるらしくて」
「え、なにそれ」
「ストーカーされたんだって」
掻い摘んで事情を説明すると、
「あー、そりゃまずい」
と、汐里も神妙な顔つきになった。
「そのババアのせいで、年上がトラウマになってるかも」
「だよね」
「なっちゃんも、どちらかといえばババア寄りだしね」
「ババア寄り言うな。同い年だぞ」
あの日、バッティングセンターの帰り道で、私は彼に言った。「勘違いしないから安心して」と。「勘違いしない」=「彼に対して好意を抱かない」と約束したのだ。だからこそ、吉田くんは私に気を許してくれている。それだけのことだ。
なのに、私はその協定を破ってしまった。
吉田くんからしてみれば、「なんだこのオバサン、ちょっと優しくしただけで勘違いしやがって」という状況だろう。私は結局、例のストーカーババアと同じ轍を踏んでいるっわけだ。
今、ここで私がアプローチすれば、吉田くんは怖がって逃げてしまうかもしれない。そうなるくらいなら、このままルームメイトとして傍にいる方が断然いい。
「だから、何もしたくないの」
逃げているだけかもしれない、と思うことはある。三十を過ぎたら体も心も傷の治りが遅い。失恋のダメージは結構引きずってしまう。当たって砕けて傷つくくらいなら、このまま楽しい片思いを続けていたい、というのが本音だ。
「まあ、いいんじゃない? 好きになるだけなら自由だし」
吉田くんに嫌われたくない。十個も年下の男の子に言い寄るキモくて痛いオバサンだと思われたくない。だから、相手に関係を迫るようなことはことはしない。彼のトラウマを刺激したくない。「好きだ」とも「付き合いたい」とも言わない。それで構わないと思っている。
「今までは結婚を意識してたから、相手の仕事とか年収とか、いろんなことを気にしてたけど、今回はそうじゃないっていうか……そういう打算的なこと全部抜きにして相手を好きだって思えたの、久しぶりなんだよね」
結婚相手としていい物件かどうかなんて、どうでもよかった。私は、ただ純粋に吉田くんのことが好きなのだろう。だから、こうして傍にいられるだけでいいと思えた。ただ一緒に過ごしているだけで楽しいから。
「いいじゃん」と、汐里が笑った。「私も応援するよ」
数分後、買い出しに行っていた吉田くんが帰ってきた。
「お待たせしました」
「いえいえ、ありがとう」
「あと、これ」と、郵便物を私に手渡す。ついでに取ってきてくれたらしい。「ポストに入ってました」
新築マンションとピザ屋のチラシの中に、美容室のDMが混じっていた。「お誕生日おめでとうございます」と書かれたポストカードだ。「十二月二十日にお誕生日を迎えられる高宮さまに、お得なクーポンをご用意いたしました。十二月中にご来店いただきますと全メニュー10%オフ&ヘッドスパサービスさせていただきます。ご来店心よりお待ちいたしております」と印字されている。そういえばもうすぐ誕生日だったな、と憂鬱な気分になった。三十四歳。いよいよアラサーとは呼べない歳になりつつある。
コンビニの袋を覗き込んで、
「あっ、これ、なっちゃんの好きなやつだ」
と、スルメを手に取りながら汐里が声をあげた。
それに対し、吉田くんは褒められたゴリラみたいな顔をしている。「高宮さん、うちの店でいつもこれ買ってるんで」と、得意げに鼻の穴を膨らませた。
ビールとつまみになりそうなものを適当に買ってきて、と頼んだだけなのに、さりげなく私の好物を混ぜてくるとは。汐里は「さすが、よく見てるねー」とニヤニヤした。仲のいい男女を冷やかす小学生みたいな顔だ。……やめて、そういうの。
これ以上余計なことはしないでくれ、と心の中で祈っていると、
「ねえ、吉田くんもいっしょに飲もうよ」
と、汐里が提案した。さっそく余計なことを。
「ほら、座って座って」
「いやいや、なに言ってんの。吉田くんバイトで疲れてるし、迷惑だろうから――」
「いいんすか? お邪魔します」
吉田くんは素直に腰を下ろしてしまった。汐里と向かい合うようにして、私の隣に座っている。
「ねえ、吉田くんって、彼女いるの?」
という汐里のストレートな質問に、私は吉田くんの死角で頭を抱えた。やめてくれー。応援してくれるのはありがたいけど、そういうのはいらない。
「いないっす」
「へー、そうなんだ」
……へー、彼女いないんだー。ふーん。
いいこと聞いた。汐里のファインプレーのおかげで、気持ちがちょっと浮上する。まあ、吉田くんに彼女がいないからといって、自分がその座につくことはできないんだけども。
しばらく三人で他愛ない話をしていたところ、
「あっ、もうこんな時間だ」
と、唐突に汐里がわざとらしい声をあげた。こんな時間って、まだ十時前なんですけど。
「じゃあ私、そろそろ帰るね」
「えー、まだ飲もうよ。今日は泊まってけばいいじゃん」
「だめだめ。私の部屋はもう吉田くんのものだから」
「部屋、使っていいっすよ」
吉田くんが真顔で言う。
「俺、高宮さんの部屋で寝るんで」
思わず「ぶっ」とビールを噴き出しそうになってしまった。吉田くんは「冗談っす」と笑っている。顔がちょっと赤い。あ、酔ってるな。
もう、と私は吉田くんの肩を小突いた。
そんな私たちを、汐里は「あらあら」とお節介な親戚のおばさんみたいな顔で眺めている。
「そうしたいところだけど、やっぱ帰るよ。影千代が待ってるから。ごめんねー」
と言い残し、汐里は颯爽と帰っていった。
あいつめ、と顔をしかめる。わざとだな。魂胆はわかってる。私と吉田くんを二人きりにしてやろうと余計な気を回したのだろう。
その流れで、私たちは二人で飲み直すことにした。
しばらくして、「あ、そうだ」と吉田くんがビールを飲みながら思い出す。
「高宮さん、今度の日曜、暇ですか?」
日曜は幸い休みだ。家で少し仕事しようとは思ってるけど。
「うん、まあ。暇だけど」
「草野球サークルの試合があるんです。よかったら一緒に来てくれませんか?」
「えっ」
「俺、先発で投げるんで」
……もしやこれは、試合に出るから見に来てください、ってやつか? 頑張ってる吉田くんを応援しろってこと? うわ、と感動が込み上げてくる。まるでドラ恋みたいだ。
「別にいいけど」
興味はないけど見に行ってあげてもいいよー、みたいなテンションを装って答えたところ、
「やった!」
と、吉田くんが破顔した。めちゃくちゃ嬉しそうだ。……なによ、そんなに私に見に来てほしかったのか。かわいいやつめ。
「助かります、人数足りなくて困ってたんすよ」
……って、私も試合に出るんかい。
*
「……ねえ、本当に大丈夫かな。ちゃんと野球やるの、二十年ぶりくらいなんだけど」
「大丈夫っすよ。全然いけます。他のメンバーも初心者ばっかなんで」
「三十代の運動不足なめんなよ」
私は顔をしかめた。
「肉離れとか靭帯やっちゃいそうで怖いなぁ」
「そのときは俺が抱えて帰りますから」
冗談なのか本気なのかわからないことを言いながら、ユニフォーム姿の吉田くんが笑った。白地に黒のラインと地味なチームロゴが入っただけのオーソドックスなデザインだけど、体格のいい彼が着るとすごくかっこよく見える。まるで本物のアスリートみたいだ。
私もお揃いの服を着ている(余ってるものを貸してもらった)けど、Sサイズとはいえメンズ用なのでちょっとぶかぶかだ。アンダーシャツとソックスだけはこの日のためにわざわざ新調しておいた。髪の毛は高い位置でひとつに結び、帽子の後ろの穴に通している。二十年ぶりの私のユニフォーム姿を見て、吉田くんは「さすが、似合いますね」とお世辞を言った。
好きな男の子を応援する青春気分を味わえるんじゃないか、とせっかく楽しみにしていたのに、まさかプレイヤーとして借り出されるとは思わなかった。どうしてこう、ドラマみたいにいかないものなのだろう。
吉田くんのチームメイトは二十代から四十代の男性ばかり。私がグラウンドに到着すると、皆「吉田が女の人を連れてきた!」と大騒ぎしていた。
「はじめまして、高宮奈津子です」
「吉田に聞いたよ、キャッチャーだったんだって?」
「ええ、まあ。大昔の話ですが」
あまり期待しないでくださいね、と苦笑を浮かべた、そのときだった。
「みなさぁん、飲み物買ってきましたぁ」
甲高いぶりっ子声とともに、全身ピンクのジャージを着た若い女が現れた。両手に荷物を抱えてやってきた彼女に、若い男性陣が、「手伝うよ」だの「重かったでしょ」だの言いながら駆け寄っている。まるでお姫様扱いだ。
「好きなの自由にとってくださいねー」なんて言ってたくせに、その女は買い物袋の中からスポーツドリンクを取り出し、
「遥くん、どうぞ」
と、吉田くんにだけ手渡しした。
強烈な違和感を覚える。なぜ吉田くんだけ特別扱い? しかも、「はるか」くん? なんで名前呼び? いったいこの女、吉田くんの何なんだ? ……もしやこれは、ライバル登場か。
などとヒロイン気取りで警戒していると、彼女は私に気付き、小首を傾げて言った。
「あっ、もしかしてぇ、遥くんのおか――お姉さんですかぁ?」
……今、わざと「お母さん」って言いかけたよな?
いきなり先制攻撃がきた。二十歳そこそこの小娘に完全に舐められてる。
「はじめまして、北山美羽ですぅ」
ぶりっ子全開の挨拶をする女に、どう言い返そうか、笑顔をつくったまま悩んでいると、
「いや俺、姉ちゃんいないんで」
と、吉田くんがいつものクールな口調で先に答えたので、私は「高宮です。はじめまして」と普通に挨拶するに留めておいた。菩薩のような微笑みで。ここは年上の余裕を見せつけたいところだ。
そんな小競り合いというか、水面下の女の闘いをこなした直後、私はウォームアップがてらグラウンドの回りを数週走り、ストレッチに移った。こうして運動するのは久々だ。しっかり体をほぐしておかなければ、体を痛めて後々大変なことになりかねない。地面に座り、前屈して入念に太腿の裏の筋肉を伸ばしていると、後ろからそーっと近付いてきた吉田くんに強く背中を押された。「いててて、やめろ」と振り払うと、吉田くんは楽しそうに笑いながら私の隣でストレッチをはじめた。
「ねえねえ、吉田くん」
声をかけ、こそっと北山美羽を一瞥する。
「あの子、誰? マネージャー?」
シルバーのストーンでゴッテゴテに飾られた彼女のジェルネイルを見る限り、プレイヤーではないことは確実だろう。私なんてこの日のために爪を短く切ってきたんだから。深爪寸前だ。先週サロンでケアしてもらったばかりだったのに。
「飯島さんの職場の後輩らしいっす。よく練習観にきてます」
飯島さんというのはこのチームのキャプテンだ。北山美羽は別にマネージャーというわけでないが、いつも呼んでもないのにやってきては飲み物やら食べ物やらを差し入れしてくれるという。見た感じ、歳は吉田くんと同じくらいだろう。若いし、顔は可愛い(性格はお察しだけど)ので、チームの若手にはちやほやされているようだ。
「仲いいんだ?」
と、からかうような口調で訊いてみたところ、
「いや、全然」
吉田くんの答えはあっさりしたものだった。否定してくれて少しほっとしている自分がいる。
あの女、他の人を呼ぶときは名字に「さん」付けだったのに、吉田くんだけは名前に「くん」付けだった。明らかに態度が違う。しかも、皆に配った飲み物も、吉田くんのだけはクエン酸やらアミノ酸やらといい成分が入ったちょっと高めのスポーツドリンクだった。他の人はみんな普通のアクエリだったのに。吉田くんにその気がなくとも、向こうはあからさまに狙っていることが伝わってくる。
全員がストレッチを終え、キャッチボールに移ろうとした、そのときだった。「美羽もやりたぁい」と、グローブを持った北山美羽が言い出した。
「遥くん、投げ方教えて?」
語尾にハートマークが付いている声色だった。上目遣いで吉田くんにすり寄る肉食系女子に、私はおとなげなくもついついイラッとしてしまった。こんな女にだけは彼を盗られたくない。
そんな私の密かな心配を余所に、
「俺より飯島さんの方が教えるの上手いっすよ。少年野球のコーチやってるんで」
と、吉田くんは素っ気なく答えた。
……なんという塩対応。相変わらず容赦がない。さすがの北山美羽も顔が強張っている。
吉田くんは彼女に背を向け、
「奈津子さん、俺とキャッチボールしましょう」
私の腕を掴み、引っ張った。
「ん?」
――奈津子さん?
唐突に下の名前で呼ばれ、どきっとしてしまう。おいおい、どうした吉田。今日ちょっと変だぞ。やけにスキンシップ多いし。
でもまあ、その理由はなんとなくわかる。
「……ねえ、吉田くん」
ベンチ(というか美羽)から距離を取ったところで、私は尋ねた。
「私をここに連れてきたのって、もしかして、あの子を牽制するため?」
すると、吉田くんは目を丸めた。
「よくわかりましたね」
「いやいや、わかるよ。あからさまだもん」
私は苦笑した。
「気付いてたんだね、あの子に好かれてること」
そりゃ、あれだけ露骨だったら誰でも気付くだろうが。
「ベタベタしてきて迷惑してるんですよ。助けてください」
と、吉田くんは眉をひそめた。私と仲良さそうにしているところを見せつけて、北山美羽に諦めてもらおうという魂胆らしい。別にそこまでしなくても、と思わないでもないけど、もしかしたら例のストーカー事件のトラウマで、女性恐怖症とまではいかずとも、彼は女からの好意に対する警戒心が強いのかもしれない。余計なトラブルに発展しないよう無駄な恋の芽は早々に摘み取っておきたいのだろう。
「えー。かわいい子なのに、いいの?」
もったいないなあ、と私は心にもないことを言った。大人の余裕を装ってはいるが、本音は「そうだそうだ! あんな女やめとけ!」だった。
「興味ないんで。早く諦めてもらったほうが、彼女を時間を無駄にしなくていいでしょうし」
いいぞ、よく言った、と私の心の中でスタンディングオベーションが巻き起こる。すばらしい。吉田くんのこういうところが好きだ。硬派で誠実で、好きでもない女に対して無意味に気を持たせるようなことをしないところ。私にもこういう態度を取ってくれていたら彼を好きにならずに済んだのにな、と思わなくもないが、居候先の家主に対して感じ悪く接するなんて良識ある人間ならできるはずがない。まあ、悪いのは好きになった私のほう、ってことで。
吉田くんが私に優しいのはルームメイトとして同居生活を円滑に過ごすためであって、それ以上の意味はない。そのことを肝に銘じておけよ、奈津子。くれぐれも、勘違いして舞い上がったりしないように。
――と、三時間に一回くらいの頻度で自分に言い聞かせているけれども。
「そういうわけで、今日一日、彼女のフリしてくれませんか?」
こんなことを言われて、舞い上がらないわけがないじゃないか。なんとか喜びを押し殺しながら、私は「えー」と面倒くさそうな表情をつくった。
「お願いします、奈津子さん」
「ちょっと、やめて」
「助けてよー」
甘えた声で名前を呼ばれ、さらに腕を組んでベタベタしてくる吉田くんに、私の心はヘリウムガスより軽々しく浮かれていた。
「まあ、断るわけにはいかないよね。私も前に同じこと頼んだし」
「ありがとうございます、助かります」
そんな仲睦まじそうな私たちの姿を、北山美羽が離れた場所から嫉妬に狂った鬼婆みたいな形相で睨んでいた。
「うわ、あの子、めちゃくちゃこっち見てるんだけど……」
「見せつけてやりましょう」
と言って、吉田くんが私にボールを投げた。徐々に距離を広げながら、キャッチボールを続ける。楽しそうに笑いながら。
彼女のフリ、か。……まあ、正直ちょっといい気がしないでもない。ライバル女に勝ったヒロインみたいな優越感を覚えてしまう。性格が悪いな、私も。
しばらくボールを触っていると、だんだんと昔の感覚を取り戻してきた。キャッチボールで肩を慣らしたところで、チームに借りたキャッチャーミットを構えると、吉田くんが振りかぶってボールを投げ込んできた。バシッという皮を叩く乾いた音とともに、突き刺さるような強い衝撃が左手に走る。
「おっ、いい球投げるじゃん」
「あざっす」
吉田くんに付き合って二、三十球ほど球を受けてから、ベンチに戻ると、
「あの、お二人って、付き合ってるんですか?」
と、メンバーのひとりが百六十キロ越えの直球で訊いてきた。
「……あー」
ついに来たか、この質問。
「付き合ってるというか、その……」
「一緒に住んでます」
という吉田くんの回答に、「えーっ」「それって、同棲?」「マジかよ」と盛り上がるチームメイトの面々。いやまあ、嘘はついてないけど。
「いいから早く試合しましょう」
吉田くんはクールに流した。その背後で、北山美羽が私のことを親の仇みたいな顔で睨んでいる。その辺にあるバットを手に取って殴りかかってこないか心配だ。
試合はただの紅白戦で、吉田くんは先攻チーム、私は後攻チームなので敵同士だった。一緒のチームがよかったなと思わなくもないけど、勝負となれば話は別だ。
最初に聞いていた通り、先発は吉田くん。立ち上がりから調子がよかった。初回と2イニング目は無安打。3回に入っても吉田くんの好投は続き、二者連続三振だった。次の打者は、9番キャッチャー高宮奈津子。ついに私の打席が回ってきた。
試合前に吉田くんの球を受けていたおかげで、彼のボールに目が慣れていた。どんなフォームなのか、ストレートはどのくらいの速さなのか、変化球はどういう軌道を描くのか、だいたい頭に入っている。頻繁にバッティングセンターに通っている私にとって、打てないような球ではないなと思った。
とはいえ、女の(しかもブランクのある)私が吉田くんの力のある直球をクリーンヒットできる可能性は低い。最初から変化球狙いだ。だけど、それをキャッチャーに悟られてはいけない。直球を狙っていると思わせるため、初球と二球目のストレートをフルスイングした。どちらもファール。タイミングは合いつつある。ノーツーからの、三球目。吉田くんはカーブを投げてきた。
――これを待ってた。
タイミングを遅らせ、ストレートより威力の劣る変化球を、私は渾身の力で掬い上げた。
金属音が響き渡り、白球が高々と舞い上がる。ベンチから歓声が沸き、「あっ!」とマウンド上の吉田くんが叫んだ。ボールはそのままフェンスを越え、スタンドに入った。まさかのホームランだった。
よっしゃー、と私は力強く拳を握り、高く掲げた。誇らしげにベースを一周する私の姿を、吉田くんが悔しげに唇を噛みながら眺めている。
その顔を見て、ちょっとだけ胸が痛んだ。
おいおい、なにやってんだ私は。可愛く三振しとけばいいものを。わざわざ本気出して男のプライドを挫きにいくなんて。自分が投げたボールを、「やだー超はやーい打てなーい」と空振る女と、配球を読んだ上でフルスイングしてスタンドに叩き込み、これ見よがしにガッツポーズしてくる女、どっちが男性に選ばれるかなんて一目瞭然じゃないか。私なら絶対私みたいな女を恋人にはしたくない。
お前は本当に吉田くんに好かれたいのか、と自分を問い質しくたくなる。
……いや、我ながらほんと可愛くない女だわ。
可愛げがないにもほどがある。若干やっちまったなという気持ちがわいてきたけど、しょうがない、これが私なのだ。勝負事には手を抜かないし、相手が誰だろうと負けたくはない。「高宮さんナイス!」とベンチでチームメイトに祝福されている私を見て、吉田くんはちょっと困ったような顔で笑っていた。
結局、それが彼の心に火を点けることになってしまい、私のチームは中盤以降点を取ることができなかった。試合は8対1で私たちの完敗。吉田くんは9回をひとりで投げ切った。
「次は負けませんから」
と、帰り際に吉田くんが言った。私にホームランを打たれたのがよっぽど悔しかったようだ。
「絶対三振とります」
私はフン、と一笑した。「楽しみにしてるよ」
すがすがしい気分で、夕焼けに照らされた河川敷を吉田くんと歩きながら、ふと思う。
……いや、待てよ。これじゃ恋愛ドラマのヒロインというより、スポ根ドラマのライバルじゃないか。私が吉田くんのライバルになってどうすんだ。
甲子園に連れてって、なんて可愛くおねだりするような役どころは、どうやら私には用意されてないらしい。やっぱりおとなしく三振しとけばよかったかな、とほんのちょっとだけ後悔してしまった。
年甲斐もなくグラウンドで張り切り過ぎたせいで、翌日はひどい筋肉痛に苦しむこととなった。
特に上腕と前腕、背筋、大腿四頭筋と大殿筋が痛い。いやもう全身痛い。体がうまく動かない。負傷兵のように足を引きずりながら出社し、普段の二分の一の速度でパソコンのキーボードを叩いていると、いつの間にか午前中の業務が終わっていた。筋肉痛のせいで全身が熱をもち、体がものすごく怠い。困ったな。正直、今すぐ家に帰って手負いの獣のように爆睡したいところだけど、今日の夜は課の忘年会がある。帰宅は何時になることやら。
昼休みになり、トイレに行ったついでに軽く化粧を直していると、吉田くんから電話がかかってきた。
『すみません、仕事中に』
「大丈夫、昼休みだから。どうかした?」
『今日、忘年会でしたよね? 帰りは何時になりそうですか?』
「結構遅くなるかな。たぶん、今日中には帰れないと思う」
課の忘年会はいつも二、三次会まである。日付を跨ぐのが常だった。
『じゃあ、先に飯食っときますね』
「うん。ごめんね」
と言って、電話を切った。まるで夫婦みたいな会話だな、なんてことを思い、ひとりで赤面する。
極力動きたくないので昼食はコンビニか自販機でパンでも買って腹を膨らませようとしたところ、部下の片野さんからランチに誘われた。先日のセクハラの一件で上司に啖呵を切って以来、彼女は私にすっかり懐いている。「私も高宮さんみたいな強くてかっこいい女性になりたい」なんて言うもんだから、「婚期逃してもいいなら頑張って」と忠告しておいた。強くてかっこいい女は、女には好かれても男にはモテない。
会社近くのインドカレー屋に入り、山盛りのチキンカレーを平らげ、さらにはナンをおかわりしている部下の若い胃袋に驚愕していると、
「主任って、彼氏いるんですよね?」
と、片野さんがど真ん中ストレートな質問を投げてきた。結婚や恋愛というデリケートな話題を三十過ぎた女に遠慮なく振ってくるとは。なかなか度胸のある子だ。
「いないよ」
正直に答えると、
「えっ」
と、彼女はなぜか驚いていた。
「黒沢さんと付き合ってるんじゃないんですか?」
「はあ!?」
黒沢――思いも寄らない人物の名前が出てきたので、思わず大声をあげてしまった。
「ちょっと待って、誰がそんなこと言ったの」
「みんな噂してますよ。黒沢さんがいつも高宮さん探してるんで、とうとうそういう関係になったのか、って」
「いや、違うから」
私は頭を抱えた。
「ほんと違うからね? よりによって黒沢とか、勘弁してほしいんだけど」
嫌すぎる。まだ部長の愛人だと噂される方がマシだ。
「でも、前にトイレで彼氏に電話してませんでした? 『今日は遅くなるから、ごはん先食べてて』って」
「……あー」
先週、会社の女子トイレで吉田くんに電話したときのことだろう。どこで誰に聞かれてるかわからないな、と身震いする。
「実は今、一緒に住んでる人がいて」
「やっぱり彼氏いるんじゃないですか!」
片野さんが興味津々な顔で身を乗り出した。
説明するのが面倒になってしまい、つい「うん」と頷いてしまった。勝手に彼氏にしてごめん、と心の中で吉田くんに謝る。黒沢との噂を払拭するためにも、ここは恋人役になってもらうことにしよう。何度も申し訳ないが。
「その人と結婚するんですか?」
片野さんの質問に、どうだろう、と首を捻る。「彼、まだ若いから。そういうことは考えてないと思うなー」
「いくつなんですか?」
「二十三」
「なんだ、別に若くない」
「いや、片野さんからしてみればそうかもしれないけど、三十四の私にとってはめちゃくちゃ若いから」
「そんなことないですよ。主任だってまだ若いですって」
お世辞をどうもありがとう。私は笑って流した。
最近、片野さんは変わったような気がする。以前より表情が明るくなったし、職場の人間と積極的にコミュニケーションを取るようになった。あのセクハラオヤジから解放されたおかげか、生き生きとしていて、よりいっそう眩しく見える。私もこれくらい若かったらなあ、と羨ましくなってしまう。
一応上司なのでランチ代は私が払った。「そんなつもりじゃなかったんですが、すみません。ごちそうさまです」と片野さんは恐縮していた。それから、次は割り勘でいいから飲みに行きたいと誘われた。まあ、部下に慕われるのは悪いことではない。素直に嬉しかった。
店を出たところで、私は「あっ」と足を止めた。
「主任、どうしました?」
「あ、いや」
反対側の通りに、吉田くんがいた。信号待ちしている。人ごみの中でもすぐに彼の姿を見つけてしまった自分にちょっと引く。どんだけ好きなんだよ。
吉田くん、今日は休みだって言っていたけど、こんなところで何をしているんだろう。買い物だろうか。
ひと言、声かけてから会社に戻ろっかな。いつでも会えるというのに、そんなことを思いつく。
「ごめん、先戻ってて。用事思い出した」
片野さんとはカレー屋の前で別れた。吉田くんはまだ私に気付いていない。横断歩道の反対側から手を振ろうとしたところで、私は固まった。
――え?
驚き、目を見開く。
その場から動けなくなる。
吉田くんはひとりじゃなかった。隣に、女がいた。黒髪で華奢な、若い女の子。二人は横断歩道を渡り、こっちに向かって歩いている。まずい、と思った。なにがまずいのか、よくよく考えてみればわからないけど、このまま鉢合わせたくはなかった。
私は慌てて近くのコンビニに身を隠し、二人のようすを盗み見た。吉田くんはその子に笑いかけていた。
見たこともないような、優しくて、穏やかで、楽しそうな表情で。
傍から見れば、二十代前半の若いカップルだ。悲しいことに、すごくお似合いだった。
その後どうやって会社に戻ったかも覚えていない。抜け殻のような状態のまま、気付いたら自分のオフィスの入り口に立っていた。
――吉田くんに、女がいる。
非情な現実を突きつけられ、私の心は尋常じゃないほどショックを受けていた。夢遊病のようにオフィスをさまよい、間違えて隣の席の山崎くんの膝の上に座ってしまうほど気が動転していた。
ぎょっとしている山崎くんに「……あ、ごめん、間違えた」と普段よりワントーン以上低い声で謝り、廃人のような顔で自分の席に戻ると、ため息をつきながら突っ伏し、スチール机に頭を勢いよくぶつけた。ゴンッ、とものすごい音がしたので、山崎くんがさらにぎょっとしていた。結構な衝撃だったけど、今は頭より胸が痛い。三十過ぎの女の脆い心はいとも簡単に砕け散ってしまった。
……吉田くん、彼女いたんだ。
知らなかった。
……いや、いつの間に? この前はいないって言ってたよね? もしかして、あれ嘘だったのか。それとも、この短期間で作ったのか。
仲むつまじく女の子と歩いている彼の姿が脳裏によみがえってくる。すごく楽しそうだった。どんな美人相手でも塩対応な彼があれほどの笑顔で接していたということは、あの子はきっと本命の女に違いない。特別な存在なのだということが、吉田くんの表情を見れば嫌というほどわかった。
相手の女の顔を思い出す。若い子だった。しかも美人で、小柄で、細くて。学生だろうか。大学のミスコンに選ばれそうな、清楚な雰囲気の子。丈の短い、淡いピンクのフレアスカートがよく似合っていた。どこもかしこもピチピチだった。
一方、こっちは顔も体も心もヨボヨボの三十三歳(もうすぐ三十四歳)。どうやっても太刀打ちできない。彼女に勝っているのは皺の数(脳みそ以外の)くらいだろう。
嫌というほど思い知らされる。私はヒロインなんかじゃない。所詮は当て馬だ。いやむしろ、ライバルにすらなれない。ただ片思いしているだけの、知人その3くらいの役どころ。相手にされないモブ女でしかないのだ。
吉田くんとはいい関係を築けていると思い込んでいた。結構気に入られていると思っていた。この世の女の中でいちばん彼に好かれてるのは自分だろうという自負があった。もしかしたらもしかするかも、なんて期待しなかったわけでもなかった。
自惚れもいいとこだ。私なんて、吉田くんにとっては恋愛対象外のおばさんに過ぎないというのに。
だから舞い上がるなって言っただろ、と馬鹿な自分を責めたくなる。勘違いするなとあれほど自分に言い聞かせていたくせに。調子に乗った結果が、これだ。勝手に盛り上がって、勝手に傷付いて。三十三にもなって、なにを中学生みたいな独りよがりな恋愛してんだ、私は。いや、今時中学生の方がもっとマシな恋愛しているだろうに。
変に期待があった分だけ、地味にショックも大きい。失意のどん底だった。ああ、もうダメだ。こんな状態で忘年会なんて行けるわけがない。勤続十二年、私は初めて会社の忘年会を欠席した。体調が悪いと嘘を吐いた(現に体調が悪いようなものだけれど)ところ、私のあまりの顔色の悪さに上司も部下も心配していた。山崎くんは「主任、今日まじでやばそうですよ」と心配し、片野さんは「昼間のカレーに中ったんですかね」と気の毒そうな顔をしていた。そうかも、と答えておいた。失恋のショックで、などという情けない事情は死んでも知られたくない。
地に足がついていない状態のまま、定時に会社を出て、電車に乗った。これからどうしよう、とため息をつく。吉田くんは何も悪くないけれど、今は彼の顔を見たくなかった。帰ったら缶ビール持って自分の部屋に引きこもろう。そして酒を飲みながらさめざめと泣こう。よし、そうしよう、と弱々しく頷く。
マンションに到着し、自宅のドアを開けたところで、
「……え?」
私は硬直した。
家の玄関。吉田くんのスニーカーの横に、一足のブーツが並んでいる。女物の靴だ。でも、私のじゃない。ファーやリボンがついたショートブーツ。こんな若々しいデザイン、アラサーの私に履けるわけがない。
……何この靴。誰の?
嫌な予感がした。
――これって、ドラマでよく見る展開じゃないか。
たしか、ドラ恋の1話にも同じようなシーンが出てきた。玄関に知らない女の靴。同棲している彼氏が浮気相手を部屋に連れ込んでいるという、恋愛ドラマではお馴染みのアイテム。
――まさか、そんな。
一抹の疑惑が頭を過る。
どうか思い過ごしであってくれと祈りながら、恐る恐るリビングのドアを開ける。その瞬間、最も見たくない光景が目に飛び込んできた。ローテーブルの前に並んで座る男女の姿。吉田くんと、昼に見かけたあの若い女だ。二人は仲良さげに雑誌を読んでいる。「これはどう?」「えー」と、紙面を指差しながら楽しそうに話している。
衝撃のあまり言葉を失う。まるで心臓を握り潰されたかのような息苦しさに襲われた。持ち手が滑り、通勤用のバッグが床に落ちる。その音にはっとして、吉田くんが雑誌から顔を上げた。
彼は私を見て、
「げっ」
と、目を丸めた。
「な、奈津子さん、今日は遅くなるんじゃ――」
いつもどっしり構えている吉田くんが珍しく焦っている。馬鹿でも悟ってしまう。これは完全にアウトだ。
「……そういうことだったんだ」
と、私は呟いた。思ったより低い声が出てしまった。
「これは、その、違うんです」
吉田くんが慌てて首を振る。すぐに立ち上がり、私に歩み寄ってきた。
その体を突き飛ばし、
「ねえ、私を馬鹿にしてるの?」
と、私は彼に冷たい視線を向けた。
ひどすぎる。こんなのあんまりだ。失恋したばかりの私に、さらに追い打ちをかけてくるなんて。そこまで私を惨めな女にしたいか。
なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。だけど、無理だった。今の私は完全にキレていた。
「ここ、私の部屋なのよ。私が必死に稼いだお金で買った部屋なの。そんな場所に、よく女連れ込めるね」
言葉を喋れば喋るほど、目頭が熱くなってくる。気を抜けば今にも泣き出してしまいそうだった。両手を強く握って必死に堪え、血走った目で吉田くんを睨み付ける。
「いいご身分じゃないの。人が働いている間に、人の部屋で女と遊んでるなんて」
そんなことする子だとは思わなかった。失望した。私が帰ってこなかったら、彼はこの部屋で他の女を抱いていたかもしれない。いや、そんなのとっくにやっていたのかも。私が知らなかっただけで。そう考えるだけで腸が煮えくり返りそうだった。悔しい、むかつく、許せない、悲しい、いろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、震えが止まらなかった。
「今すぐ出てって。彼女がいるなら、彼女の部屋に住まわせてもらいなさいよ」
私は吉田くんに背を向けた。
「待ってくださ――」
「荷物まとめて出てって! 早く!」
「奈津子さん、誤解です」
吉田くんが正面に回り込み、私の腕を掴んだ。振り払おうとしたけど、力が強くて敵わない。
「離してよ!」
「誤解です」
吉田くんは逆の手で、心配そうにこっちを見つめいる若い女を指差した。
「あれ、妹です」
「……え?」
さっと血の気が引いていく。
……妹? え?
予想外の言葉に固まっていると、
「い、妹の吉田楓です、はじめまして」
と、その女の子はオロオロしながら頭を下げた。
「…………えっ」
いやもう死にたい。死んで償いたい。
「……たいへん失礼いたしました」
フローリングの上に正座し、頭を床にすりつけると、吉田くんの妹さんは「やめてください!」と慌てていた。
「こちらこそ、すみませんでした! ご挨拶もせずお邪魔しちゃって!」
なんだよ、妹かよ。しかもすごくいい子じゃないか。どうしよう、気まずい。ものすごく気まずい。今すぐ消えてなくなりたい。恥かしくて死にそうだ。
「いや、いいの。私が悪いの。すみませんでした」
私を見たときの吉田くんの『げっ』という一言と、『やべっ、帰ってきた』みたいな表情で、完全に彼女のことを恋人だと思い込んでしまった。
「妹さんが遊びにいらっしゃるなら、前もって言ってくれればよかったのに……」
お茶菓子くらい用意したのに、と肩を落としていると、
「実は、その……」
と、吉田くんが歯切れ悪く切り出した。
「奈津子さんに内緒で、プレゼントを買おうと思ったんです。もうすぐ誕生日だから。いつも世話になってるし」
「え?」
たしかに、私はもうすぐ三十四歳の誕生日を迎える。でも、吉田くんに話した覚えはなかった。
「なんで知ってるの?」
「美容室からのハガキに書いてありました」
ああ、あれか、と思い出す。DMの誕生日のクーポン。あれを見ちゃってたのか。
「俺じゃわかんないから、妹に相談しようと思って、飯食べに行ったついでにここに来てもらったんです。こないだ奈津子さんの部屋を掃除してたら、この雑誌見つけたんで、どんなのが好きかなって二人で考えながら見てたところで」
彼らが読んでいたのは、浮かれきっていた私がこの前購入した三十代向けファッション誌の十二月号だった。
よりにもよってその雑誌かい、と私は心の中で頭を抱えた。表紙にどでかいゴシック体で書かれた『年下男子に好かれる着回しコーデ』の文字が羞恥心に拍車をかけてくる。死にたい。誰か今すぐ私を殺してくれ。
「せっかく驚かせようと思ってたのに、奈津子さんが帰ってきちゃったから、やべって思って」
……なんだ、そういうことだったのか。
吉田くんのあの『やべっ』っていう顔は、サプライズがバレたことに対する『やべっ』だったのか。女を連れ込んでるのがバレた『やべっ』じゃなかった。私のためにプレゼントを選んでくれていた二人に、何ということしてしまったんだ。申し訳なさすぎる。
「本当にごめん」
私は深々と頭を下げ、
「気持ちだけで十分だから。その分、妹さんに何か買ってあげなよ」
と、あれだけ醜態をさらしたくせに、今更いい大人ぶったことを言った。
楓ちゃんは隣の県に住んでいて、電車で一時間かけてここまで来たらしい。そろそろ帰るという彼女を、私が駅まで送ることにした。お詫びも兼ねて、彼女とちょっとだけ話をしたかった。
夜道を歩きながら、
「今日は本当にごめんね」
と、私は改めて謝罪した。こんなに人に謝ったのは、新人の頃に仕事でミスした日以来かもしれない。
「怖いオバサンだと思ったよね。ほんとごめん」
「いえ、そんなことないです」
楓ちゃんは勢いよく首を左右に振った。
「奈津子さんのこと、兄から聞いていました。美人でかっこいい女性だって」
「……そ、そう」
そんな風に言ってくれてたのか。照れる。お世辞でも嬉しい。ついにやけそうになったけど、唇を噛んでなんとか堪えた。今のお前にニヤニヤする資格はないぞ、奈津子。
楓ちゃんは、「会ってみて、その通りだなって思いました」と破顔した。あまりに可愛くてきゅんとしてしまった。……さすがは吉田くんの妹。年増キラーは遺伝か。
「楓ちゃん、今いくつ?」
「二十二です」
「働いてるの?」
「いえ。まだ学生で」
大学生だったのか。吉田くんが働いているから、てっきり彼女もそうなのかと思っていた。
少し意外に思っていると、楓ちゃんは申し訳なさそうに視線を下げた。
「私が大学に通えているのは、兄のおかげなんです。……実は、子どもの頃に、両親が交通事故で」
「うん、知ってる。お兄さんから聞いた。大変だったね」
「私は全然。でも、兄はすごく大変だったろうなと思います。ずっと兄が私を養ってくれました。もともと裕福な家庭じゃなかったから、両親が死んでからもあまりお金がなくて。兄は私を進学させるために、自分は高校に行くのを諦めて、それからはずっと働いてばかりで」
「……そうだったんだ」
妹と二人きりの家族だとは聞いていた。でも、そこまで苦労していたなんて知らなかった。彼が中卒なのも、バイトを掛け持ちして倒れるまで働いていたのも、結婚式用の礼服を買うのを我慢していたのも、すべてはたったひとりの家族を守るためだったとは。
いいお兄ちゃんだな、と思った。吉田遥、いい男だ。惚れ直した。
「もうすぐ私も就職して、社会人になります。自分でお金を稼げるようになるから、もう兄に働かせなくて済む。養ってもらわなくてよくなる。だから、これから兄には、好きなように生きてほしいんです。自分の好きなものを買って、自分の好きになことをして。自分のためにお金を使ってほしい、って思ってます」
妹も妹で、お兄ちゃん想いのいい子だ。この兄妹は、お互いを強く思い合っているんだろう。私は彼らの関係に感動し、尊敬し、そしてちょっとだけ妬いてしまった。そもそもの土俵が違うことは重々わかっているけれど、二人の間には自分の入り込めない強い絆がある。と同時に、こんな風に素敵な兄妹がいたらなあ、と一人っ子の私にとっては羨ましくもあった。
「奈津子さん」
楓ちゃんが足を止めた。私に向き直り、頭を下げる。
「本当に、ありがとうございます」
「え、いや、私は何も」
いきなり改まって礼を言われて、私は慌てた。感謝されるようなことは何もしていない。むしろ咎められるべきことは山ほどある。
「お兄ちゃんが言ってました。奈津子さんはタダで部屋を貸してくれている、そのおかげでシフトも減らせて、助かってるって。すごく感謝していました。だから、私からも奈津子さんにお礼が言いたかったんです」
「そんな……」
お礼を言うのは私のほうだ。吉田くんはいつも、私によくしてくれた。私のほうこそ助けられてばかりだというのに。
「お兄ちゃん、日頃のお礼にプレゼントを贈りたい、って言い出して」楓ちゃんがくすくすと笑った。「何にするか、今日一日中ずっと悩んでたんですよ」
「えっ、そうなの?」
吉田くんが私のために、そんなことを。微笑ましい光景を想像し、口元が緩む。
「兄が家族以外の人にお金を使うの、初めてなんです。だから、気持ちだけなんて言わずに、プレゼントも受け取ってやってください」
という楓ちゃんの言葉に、私はちょっと泣きそうになってしまった。
「……うん、わかった」
誕生日は来週。吉田くんが何をくれるのか、楽しみだ。どんなプレゼントでも、しょうもないものをもらっても、心の底から大喜びしようと思った。
別れ際、「お兄ちゃんのこと、これからもよろしくお願いします」と楓ちゃんは私に言った。
よろしくしたいよ、私だって。これからもずっと。彼がそう望むのならば。
だけど、今の幸せな生活が永遠に続くとは思えない。いずれ吉田くんには好きな女ができるだろうし、彼女ができたらこの部屋を出ていくだろう。
「おかえりなさい」
帰宅した私を、吉田くんが玄関で出迎えた。
「ありがとうございました。楓、送ってくれて」
「ううん。素直でいい子だね、楓ちゃん」
「そうっすか」
「顔は似てないけど、性格はちょっと似てる気がする。すごく可愛いし、自慢の妹だろうなぁ」
あんないい子の前で、私はおとなげなくブチ切れしてしまった。最悪だ。思い出すだけで自己嫌悪に陥ってしまう。
「今日はごめんね。勝手に勘違いして怒鳴っちゃって」
リビングに移動し、改めて謝ると、
「奈津子さん、ひとつ訊いていいですか」
と、隣に立っている吉田くんが、いつもに増して真剣な顔で言った。
「うん、なに?」
「なんであんなに怒ったんですか」
「えっ」
……なんで、って。
訊かれて、ようやく気付く。よく考えてみれば、そもそも私が怒る理由はない。
「それは、その」
「部屋に女の人を上げちゃいけないってルール、なかったですよね?」
「……そうだね」
ルームシェアをするにあたって、そんな取り決めをした覚えはない。だから、私には彼を怒る資格なんてない。
「ただの居候が部屋に女連れ込んだからって、あんなに怒ることないですよね」
吉田くんの言う通りだ。私は彼の恋人でも何でもない、ただのルームメイト。それなのに、私は嫉妬してしまった。妬いて、キレて、怒鳴ってしまった。吉田くんに女がいるとわかって、しかも自分のマンションに連れ込まれたと思って、悔しくて、悲しくて、つい取り乱してしまった。別に浮気されたわけでもないくせに、ひとりで勝手に裏切られたような気分になっていた。
なに彼女面してんだ。馬鹿か私は。恥ずかしい。
「ってことは、奈津子さんにとって、俺はただの居候じゃないってことですよね」
吉田くんが核心をついてくる。
きっと、彼はもう気付いているのだろう。私の気持ちに。
吉田くんは恋愛沙汰に疎いタイプじゃない。例のストーカーのせいで、むしろ他人からの好意に対して過敏だ。北山美羽の気持ちにも気付いていた。そんな子が、一緒に住んでいる私の思いに気付かないはずがないじゃないか。
「……ごめん」
もう隠せない。これ以上は言い逃れできない。
「勘違いしないから安心してって言ったのに、ごめんね」
正直に言うしかなかった。
引かれようとも、嫌われようとも。
「……私、吉田くんのこと、好きなの」
とうとう言ってしまった。絶対に言わないって決めていたのに。
ごめん、と繰り返す唇が震えた。彼にどんな顔をされるのか、どんな言葉が返ってくるのか、考えるだけで怖くなる。吉田くんの顔がまともに見れない。私は怯えながら返事を待った。
沈黙が、きつい。息苦しい。
しばらくして、吉田くんが視線を下げ、私のスカートをじっと見つめた。
「その服、雑誌に載ってた」
「えっ」
「年下男子に好かれる着回しコーデ」
「……あ」
言われて思い出す。そうだった。このタイトスカート、例の雑誌に掲載されていた商品だ。いいなと思って調べて、通販で購入した。
「これは、その」
どう返すべきか悩んでいるうちに、「でも」と吉田くんが私の耳元で囁く。
「俺は、どんな格好も好きですよ。奈津子さんなら」
はっとして顔を上げると、吉田くんと目が合った。彼は小さく笑い、私の頬に手を添えた。少し屈んで頭を傾け、顔を近付けてくる。
え、と呟いた私の唇に、彼はそっとキスをした。
最初のコメントを投稿しよう!