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責任のバトン
彼女の名前は、白岡陽毬ちゃん。台風の5日後、ため池から遺体で引き上げられた。2年前、隣県の幼稚園に勤務していた時のことだ。
「延長保育の対象児で……他の子達と、プレイルームで遊んでいた筈なんです」
夏風邪で、年少担当の先生がお休みだった。私は、急遽サポートに入ることになった。普段からギリギリの人数で勤務していたから、人手不足で――いや、これは言い訳だ。
「強い雨が降っていました。子ども達は、みんな園指定の黄色い雨合羽を着ていて、わーっと雪崩れ込むみたいに、送迎バスに乗りました」
雨足に気をとられていた。いつもはきちんと誰が乗ったのか、顔を確認する。この日は、人数しかチェックしなかった。早く出発しなければ、県道に出る一本道が冠水しそうだと、ドライバーに急かされたせいもある。……これも、言い訳。
「乗る筈の男の子が、トイレにいたんです。代わりに、お友達と一緒に陽毬ちゃんが乗っていて……いつもの降車場でバスを降りたけれど、誰も気がつかなかった……」
雨風が強まる。道路の冠水が気にかかる。ドライバーのおじさんは、春先に採用したばかりで、子ども達ひとりひとりの顔を、まだ覚えきっていなかった。しかも、この日は大雨。合羽の帽子を被ったままの子どもに、傘を差した保護者。降車場に、陽毬ちゃんのお母様の姿がないことに気付かなかったとしても、強く責められない。
「用水路に……暗くて足を滑らせたんだろうと、警察の人は言っていました」
用水路が行き着く先は、水深3mの貯水池。台風で増えた水が引いた頃、警察の読み通りに、小さな亡骸が見つかった。
「色んな理由が重なって……私だけの責任じゃないって、職場は言ってくれました。でも、耐えられなくて……」
誰かが気付けば。確認を徹底していれば。あの無垢な笑顔は、来年小学生になれたのだ。
「地元を離れて、他の仕事も経験しました。でも、この仕事を……諦め切れなくて……」
背中を向けるのは、簡単だ。けれど、逃げてはいけないと――あの悲劇を忘れずに仕事を全うすることが償いなのだと訴える声が、私の中にある。なにより、私はこの仕事が好きなのだ。
「元々、うちのお寺は、近隣の子ども達の遊び場だったのよ」
園長先生は瞳を伏せて、湯呑みを傾けた。
「ところが、遊びに来ていた子どもの1人が、帰宅途中で事故にあって――亡くなってしまったの」
噛みしめるように唇を引き結んでから、私を見詰めた。
「だから、私は幼稚園を開いたの。家庭から預かってお迎えが来るまで、子どもの命に対する責任のバトンを繋ぐためにね」
「事故で亡くなった子は、僕の友達だったんですよ」
首にタオルを巻いた住職さんがやって来て、ちゃぶ台の対面で胡坐をかいた。
「毎朝、彼のために読経を上げています。あなたも、宜しければ……如何ですか」
「……はい、ありがとうございます」
彼は、園長先生に似た目尻を柔らかく下げた。
この日を境に、私は出勤時間を2時間繰り上げ、朝のお勤めに加わった。やがて、食事の用意を手伝うようになり……園長先生が古希を迎えた年の春、喜楽寺の坊守に迎え入れられた。
【了】
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