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近づく台風
台風11号は、明日の明け方頃、最接近するらしい。「非常に強い」勢力のまま、上陸後の速度が遅い厄介な台風だ。それでも今朝は、突風が時折吹き抜ける程度だったので、勤務先のロータス幼稚園は休園にはならなかった。運動の時間を園庭から室内に変えたけれど、通常保育は問題なく終えた。幼稚園発の送迎バスは16時。延長保育は18時まで引き受けている。どうしてもお迎えが遅れる場合は、応相談。事情によっては、渡り廊下で繋がっている園長先生の自宅で、多少は預かってくれる。当園は、隣接する喜楽寺の現住職のお母様が経営しているのだ。
「それじゃあ、お先に失礼するけど、頑張ってね」
赤いレインコートのジッパーを首の根元まで引き上げながら、先輩の中嶋先生はホワイトボードを振り返る。本日の延長保育は4名――ほし組の小田ひまりちゃんと高林愛生ちゃん、つき組の戸川滉輝くんと間宮夢萌ちゃん。
「はい、ありがとうございます」
心配そうな眼差しに、ニッコリと微笑みを返す。あと2時間。延長保育の当直は、この園では3回目だ。私は先月、産前産後休業に入った先生の穴埋めとして期間限定雇用された。失業期間が2年あるとはいえ、以前の職場だった隣県の幼稚園には8年勤めており、延長保育の経験もある。
緊急連絡用の携帯電話を首から下げて、エプロン下のシャツの胸ポケットに入れる。職員室の灯りを消すと、中嶋先生と廊下に出た。バラバラと雨粒が窓を叩きつける。勢いが、また少し強くなったみたい。
「なにかあれば、遠慮しないで園長先生に相談してね」
「大丈夫ですよ、中嶋先生。お疲れ様でした。お気を付けて」
玄関で彼女と分かれ、延長保育用のプレイルームに向かう。
「園長先生、代わります」
「ええ、お願い。うちでお夕飯の支度をしてますから、なにかあれば連絡してくださいね」
「はい、分かりました」
「よっこいしょ」と呟くと、園長先生は丸みを帯びた身体を揺すって立ち上がる。あと数年で古希を迎えると仰っていたが、未だに園長と主婦の二足のわらじを履いている。それというのも、現住職の息子さんは40代半ばにして独身であり、お嫁さん候補は当分期待出来ないらしいのだ。
「あかりセンセェ、絵本読んでぇー」
「はいはい。どれがいいかしら?」
桃色、黄色、水色、若草色。子ども達は、それぞれフカフカのクッションの上にちょこんとお座りして、瞳をキラキラさせている。
「ブロックマンがいい!」
滉輝くんが、綺麗にシュタッと真っ直ぐ手を上げた。夏休みを過ぎてから、彼は急に快活になった。来春は小学生。同じ頃、妹が生まれるそうだ。
「ブロックマンのどれがいい?」
ブロックマンは、男女問わず子ども達に人気のキャラクターだ。ブロックの身体を組み合わせて変身し、悪い敵をやっつけたり、色んな冒険の旅をする。これまでに8冊、絵本シリーズが出ていて、アニメ化もされている。
「ジャングルのヤツ!」
またもや、滉輝くんは自己主張した。女の子達は各々、気に入ったクマやウサギのぬいぐるみを腕に抱えたままで、他にリクエストの声はない。
「みんなも、それでいい?」
「うん」とか「はぁい」の返事が上がる。本棚からご所望の絵本を抜き出して、子ども達の前に腰を下ろす。甘えっ子のひまりちゃんが私の近くまで這ってきて、エプロンの裾をギュッと握った。年少さんだし、いつもよりママのお迎えが遅いから、寂しいのだろう。私は、小さなこぶしを撫でてから、絵本を開いた。
読み始めてすぐに、窓枠が立てる音が大きくなって、風が一層強くなったことを告げた。
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