15人が本棚に入れています
本棚に追加
お泊まり
延長保育の終了時間、18時が近づいてくると、胸ポケットの携帯が立て続けに鳴った。急いで向かっているけれど、少し遅れるという、保護者からの連絡だ。
「はぁ……やっと全員のお迎えが終わりましたね」
「ええ、ご苦労様。笹倉先生、今から帰宅するつもり?」
冠水したアンダーパスを避けて遠回りしたために、こんな時間になってしまった――夢萌ちゃんのパパは、何度も頭を下げて帰っていった。玄関でお見送りして、溜め息混じりに見上げれば、壁の時計は9時を回ろうとしている。
「え、あ、はい……」
そのつもりでいたけれど……玄関のガラスのドア越しに見える光景に、一瞬たじろいでしまう。暗闇を切り裂いて現れる大粒の雨が、バチバチとガラスを叩きつけている。もちろん、雷鳴も続いている。
「これから益々酷くなるのに、こんな中を帰せません。お夕飯食べて、うちに泊まって行きなさいね」
微笑みの中に、有無を言わさぬ優しい圧力がある。とはいえ、上司のお宅にお泊まりするなんて展開は考えてもいなくて。
「でも私、着替えもなにも」
「Tシャツとジャージは、ロッカーにあるでしょ?」
社交辞令半分で否定してみたものの、園長先生は見透かしたようにフフフと笑みを深めただけだ。そうだった。子ども達の粗相に巻き込まれた時のために、常にロッカーの中には着替え一式が眠っている。
「それに……この様子だと、明日は休園になるわね」
確かに、最接近は明日の早朝だと予想されている。園児と保護者さんの身の安全を考えれば、休園は至極妥当な判断だ。
「ありがとうございます。お世話になります」
退路を断たれて、頭を下げた。正直言うと、この暴風雨の中、愛車のハンドルを握り、無事にアパートまで帰りおおせる自信はなかった。
「フフフ。それじゃ、戸締まり確認してから、いらっしゃい。事務仕事は、明日にするのよ?」
「分かりました」
敵わない。降参だ。膨よかな笑顔で帰宅する彼女の背中に一礼すると、玄関の施錠をもう一度確認してから、職員室に戻った。懐中電灯を手に、私物を小脇に抱えて廊下を急ぐ。
「先生、うちの子を――」
職員室に施錠して、玄関脇を足早に通り過ぎた時、私を呼び止める声が聞こえた。若くて細い女性の声だ。
「えっ?」
延長保育の子どもは、全てお迎えの保護者さんと帰宅した。第一、ドアには鍵も掛けたのだし。きっと空耳。または、どこか隙間から吹き込んだ強い風の余韻だろう。
最初のコメントを投稿しよう!