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始まりは十歳。小学校への通学路の途中、商店街から外れたところにぽつんと建つ小さな古書店だった。
昔ながらの、古書店らしい古書店だ。煤けた白地の看板、ガラス扉の内側はいつも薄暗く、外からちらっと見たくらいでは品揃えもわからない。表に出されたワゴンにはカバーのない本や日焼けした本がきっちりと詰められて、それだけで古い写真のように見えた。その佇まいの全てが、子供はお呼びでない、と無言で語っている。
なのにユカが足を止めたのは、そう、指し示されたからだ。
ガラス扉の向こう、店の奥から、燃えるように鮮やかなオレンジ色が目に飛び込んできた。
薄暗い店の中に、それだけが輝いて見えた。本当に何かが燃えているのかと思ったくらいだ。驚いて目をこらして初めて、オレンジ色の表紙の本だとわかった。正方形に近い大判の本だ。絵本だ、と思った。
ガラス扉に顔を寄せたら、ふっと消えた。振り向くと、強い光がピンポイントに目を刺した。目を細めてよく見ると、路上駐車のサイドミラーが、どこかから射し込んだ細い西日を跳ね返していた。
扉が、ぎしりと音を立てて、細く開いた。顔を覗かせた女の人は、ユカの母親くらいの年頃にも、祖母くらいの年頃にも見えた。大人には違いなかったが、十歳のユカと同じくらいの身長だった。同じ高さから鼻を突き合わせるようにして、ユカをじろじろと見た。
「なにか用?」
ユカは一歩だけ後ずさったが、踏みとどまった。絵本が、とだけ発した声が掠れた。女の人は首を傾けると、扉をいっぱいに押し開けてからくるりと踵を返し、店の奥へと進んだ。
戸口からまっすぐ伸びる細い通路を残して、天井まで届く書棚が左右を塞いでいた。長くはない通路の突き当たりに机があって、その壁も一面が書棚になっている。並んだ淡褐色の背表紙の中で一冊の絵本だけが、表紙を見せびらかすように立てかけて置かれていた。
女の人は机と書棚のあいだの隙間に滑り込むと、ちょっと背伸びしてその絵本を片手で取りあげた。厚い本ではなかった。
「これ?」
机越しに差し出してみせる。天井には蛍光灯が点いていたけれど、光は左右の書棚でほとんど遮られていた。青白く弱い光の下で見ると、その表紙はずいぶんと色褪せていた。
「……もっとオレンジに見えた」
つぶやくと、女の人はまた首を傾げた。
「元々はもっとはっきりした色だったんだろうけど、なにしろ古い本だから」
「いくらですか」
訊いてみたのは、お小遣いをもらったばかりだったからだ。
「八千円」
ユカは目をむいた。たまに買う漫画本は四百円くらいだ。弟が買ってもらう新しい絵本だって八百円くらいだと思う。表に出されているワゴンには、百円均一と張り紙がしてあるのに。
「なんかよくわかんないんだよね、これ。稀少な本かもしれないから」
投げ売りはできかねるんだわ残念だったね、と言われて、ユカはお辞儀をしてから店を出た。開けっ放しだった扉を丁寧に閉めてからガラス越しに目を凝らしてみたが、色褪せたオレンジ色は隣に並んだ背表紙の淡褐色に馴染んで、もう、特別なものには見えなかった。
それから数年忘れた。
*
次は中二。この上なく偶然だった。
日直だったので、インフルエンザで休んだ子の家にプリントを届けた。とくべつ仲の良い子ではない。担任に渡された簡単な地図を頼りに、ふだん通らない道を通った。小学校の通学路だった、あの道だ。
過去の記憶を夢に見ているような既視感の中、ふと違和感を覚えて目を向けた。古書店の店頭に、ワゴンが出ていなかった。
この寒いのに、ガラス扉が開け放たれている。行きすぎようとして、書棚がほとんど空になっているのに気づいた。突き当たりの壁際にぽつんと取り残されてこちらを向いているオレンジ色に、目が釘付けになった。
「なにか用?」
背後から声をかけられて飛びあがった。ユカより小さな女の人が立っていた。ユカは女の人を見下ろして、その指先につままれた一枚の紙に筆書きされた文字を見た。
「閉店なんですか」
「うん」
ユカは走って家に帰った。学習机の抽斗から、お年玉のポチ袋、この正月最後の一袋をつかみ出して制服のスカートのポケットに突っ込み、同じ道を駆け戻る。そのあいだに日は落ちた。知った道なのに初めて踏み込む夜の景色、ずっと薄暗かったはずの古書店が煌々と明るく見えて、よく似た別の世界に迷い込んだような気がした。
ガラス扉は閉まっていたが、力を込めて引くと音を立てて開いた。机の向こうで女の人が顔を上げた。
「あ、戻ってきた。戻ってくるのかと思って」
あのねえもう帰るつもりだったのよ、と女の人は言った。
ユカは荒い息の合間にようよう掠れた声を紡いだ。絵本が。
「絵本?」
女の人は背後の棚を振り返って、オレンジ色の絵本を下ろした。「これ?」
ユカは肩で息をしながらポケットを探り、ポチ袋を引っぱりだした。畳んで収められていたのは五千円だった。
ユカは手の中の五千円を見つめた。上がった息は徐々に落ち着いて、最後に、長い溜息が出た。
「……足りない」
女の人はユカの手もとを覗きこんだ。
「足りない?」
「八千円って」
「え?」
女の人は首を傾げて一瞬沈黙してから、指をぱちんと鳴らしユカの鼻先に突きつけた。
「あのランドセル」
おっきくなっちゃって、セーラ服なんかになっちゃって、と独りごちながら女の人は机の下から、かさかさいう薄っぺらい紙袋を取りだした。大判の絵本にあてがって、
「入るかな。入んないね、このままでいいね」
片手で絵本を差し出して、もう片手の掌を見せる。ユカは掌におそるおそる五千円札を載せてから、賞状みたいに両手で、オレンジ色の絵本を受け取った。
「閉店セールで半額ね」
五千円札が机の下に消え、代わって千円札が一枚、絵本の表紙のうえにぺろりと置かれる。ユカは慌てて絵本から片手を離し、お札をつかまえてスカートのポケットに捩じ込んだ。
「その本、親父の代からここにあったんだよ」
女の人は言った。
「客層違って売れないし、出所もわかんなくて捌けないし、誰かお客さんでもこういうのわかる人が現れればな、とか思ってずっとここに置いてたんだけど。あたしの知る限り、興味を示したのはあんただけ」
「あたしだけ」
「あんたを待ってたんだね」
ユカは色褪せた絵本を胸に抱きしめて帰った。
*
話はここで終わりはしない。
まずこの絵本。
ユカは数年越しにこれを手にした。ずっと心に焼きついていたのはオレンジ色で、色褪せた表紙をよく見ると、夕焼けの色だということがわかった。
山岳の風景だ。手前側に緩やかな斜面、その奥に霞む山並、空には複雑なかたちの雲が泳いで、稜線の向こうに沈みかかって歪んだ太陽が、すべてをオレンジ色の濃淡に染めている。
山並の中に小さくぽつりと、異国風の城のシルエットがある。たぶん遠く霞んで、細部は曖昧だ。たぶんというのはつまり、絵は色褪せて、全体が霞んでしまっている。
装飾的な活字でタイトルが横書きされている。ユカは英語だと思い込んでいた。小学生の目には、よくわからない横文字はすべからく英語と認識される。
英語ではないということに、表紙を開いてみて初めて気づいた。アルファベットで綴られているが、見知った単語がひとつもなく、手もとの英和辞典がまったく役に立たない。ユカは少しがっかりした。英語であれば、いまはすらすらとはいかずとも、高校、大学と否応なく学び進めるうち、いずれ読めるようになるだろうと思っていたのに。
図書館の辞書コーナーで総当たりすることも、その気になればできたのだろう。が、ユカはそれほどには、この絵本の文章に関心を持たなかった。
ユカが魅了されたのは絵だ。
色褪せた表紙を最初に開いたときには、息を呑んだ。長く誰にも興味を持たれなかった絵本はぱりぱりと音を立てて開き、目もくらむような極彩色の世界をユカの前に晒した。
どのページも画面いっぱいに、色鮮やかな世界が描きだされていた。隅のほうに、絵を邪魔しない細い文字で文章が添えられている。活字は細かく、絵本とはいえあまり幼い子供に向けられたものではないらしい。
絵を見ているだけで、物語はなんとなく飲み込めた。西洋のおとぎ話のような情景だ。
雄大な自然。その一角に間借りするような小さな集落に、素朴な風貌の人々が穏やかに暮らしている。羊が草を食むのどかな丘、咲き乱れる花々に、背に羽を持つ妖精が群がり舞う。一転して暗雲が立ち込める。雷と虹で複雑に染めあげられた雲を割って、ドラゴンが姿を現す、空の星が湖へと降り注ぎ、あふれた水が地上で渦を巻き、波になって打ち寄せる海辺の断崖のような山並の、奥深くに――あの孤城。
物語はここで終わっている。最後のページはただ白い背景の中央に小さく遠く、閉ざされた扉。ささやかな短詩のような数行が添えられている。
物語はバッドエンドなのだろうか? 地上に災厄が訪れた……しかし孤城は最後まで屹立している。この扉は、あの城の扉?
絵本の作者は最後のページで、何を語っているのだろうか。うっすらと興味を覚えつつもユカは、その文章を読み解く試みより、自分で想像することを楽しんだ。絵を眺めては想像し、想像をもとに想像を広げ、眺める絵の中に想像の具現を探し……すべてのページを瞼の裏に映して、目には見えない細部までを拡大して見ることが自在になると、実際に絵本を開いて眺めることは間遠になった。
絵に描かれた情景の外側の世界がユカの心の中にはっきりと形をとって、ユカが暮らすこの世界と並行して存在するもうひとつの世界として、自然に営みを続けるようになったのだ。
オレンジ色の絵本は閉じられたまま、窓際の本立てのいちばん端で、初めて手にしたその日より更に白っぽく、色褪せていった。
*
それからもユカの嗜好は一貫していた。惹かれるのは、なにはさておき古い西洋の情景。
高校に入る頃には、ケルト神話に魅入られた。大学では英文学を学ぶ傍ら、同好の士の集まるサークルで、ゲール語の勉強を始めた。
ある日、開いたテキストに見覚えのあるアルファベットの並びを見つけて、卒然と絵本のことを思いだした。その夜には数年ぶりに絵本を開いた。本立てから引き抜くと、細かな埃で指が滑った。
本文には見知った単語が散見された。この本はゲール語で書かれていたのだ。
読めるかもしれない。
期待と怖じ気が相克した。子供のころから知りたかったもの。それはしかし、知ったら落胆するものかもしれない。膨らませていた想像とはかけ離れたものかもしれない。
サークルには、ユカよりゲール語に堪能な先輩もいる。この本を持って行って見せたら、たちどころに読み解いてもらえるのかもしれない。読み解かれてしまうのかもしれない。ユカは自腹で辞書を買った。小学校から使っている狭い学習机の上、古い絵本の横で真新しい辞書を開いて、一ページめから少しずつ少しずつ読み進めた。
装飾的な書体で記されたタイトルは、短い文章だった。
直訳するとこうだ――“私はあなたを待っている”。
くらりとめまいがした。足もとが揺らぐような非現実感……この本を手にしたとき告げられた言葉が耳に蘇る。この本は、あんたを待ってたんだね。
ユカは単語をひとつひとつ追って辞書を繰った。文法の知識はまだ不確かなので、単語を拾って概要をつかんだ。辞書に載っていない単語や、綴りの一部が違う単語も多い。この本が書かれたのは、この真新しい辞書よりは古い時代なのだろうし、地域が違うのかもしれない。国が違う可能性もある。ゲール語とその他のケルト語の見分けは、ユカにはまだつかない。
物語は、絵から想像していた内容とそう乖離していないようだった。人間が、人ではないものたちと共存する世界。人でないものは大きく自然の一部として、人間を脅かしてもいる。仲間を裏切り、脅かす側につく人間もいる。狙って引き起こされる災厄が、人々に多くの犠牲を出している。
山の奥の孤城に秘密がある。
秘密、という単語で本文は終わっていた。
最後のページの詩を構成する単語は、ひとつも辞書に載っていなかった。
ユカは当てずっぽうの発音で、ぽつりぽつりと、口に出して読みあげてみた。
最後の行まで読みあげたとき、耳をつんざく大音響とともに、オレンジ色の強い光がユカを包んだ。
*
それは異世界への扉を開く呪文だったのだ。
ユカは気を失って行き倒れているところを、村人に拾われた。ユカの母親くらいの年頃にも祖母くらいの年頃にも見える、極端に小柄な女の人だった。年頃のまるでわからない干からびたような父親と、ふたりで暮らしていた。
ユカは呆然として、されるがままに世話になった。言葉は通じた。
帰りたいと思ったところで、手段がなかった。父娘の小さな家の無為な居候として一年を過ごした。
父娘は村人を相手に、小さな店を営んでいた。ユカはほとんどの時間を店先でただ座って、立ち働く父娘を眺めながら過ごした。
この世界は美しかった。絵本に描かれたままの極彩色が世界を包んでいた。萌える緑から、吹き零れるように開いたあらゆる色の花々、樹々からは赤や黄の葉が降り注ぎ、降り積もったその上を輝くような真白な雪が厚く覆った。抜けるような青い空にはしばしばくっきりとした虹がかかった。夕焼けはいつも燃えるようだった。
夕陽は遠い山並の向こうに沈んだ。日々少しずつ位置を変える日の入りに、ユカは毎夕毎夕、飽きずに見入った。しばし心奪われ、我に返ると頭上には満天の星。
そんなユカの様子を見ると、父娘は嫌な顔をした。
忌まわしいものだという。
「あの山の向こうの空から、星が降って村を潰す」
言われたとき、ユカはぽかんとした。それは絵本に描かれた災厄ではないか。
「いつ」
「五年前。隣の村が消えた」
ユカが絵本を手に入れたのが五年前だ。今も瞼の裏に映しだせる、色鮮やかな雷雲と渦巻く洪水の情景。
いや、あの絵本はもっともっと、古いものだったはず。
女の人は戸口に立ち呆けるユカの前に小さな体を割り込ませ、手を伸ばして板扉を閉めた。
「次はこの村かもしれない。わからない。魔王の心はあたしたちには知れない」
「魔王」
「あの山に魔王がいる」
ユカは瞬いた。瞼の裏で、いましがた見つめた遠い山並と、絵本の表紙に描かれた稜線が、ぴたりと重なった。
「……お城が」
「あれ、どこかで聞いた?」
女の人は首を傾げた。
「実際のところ、あの山に何があるのかは誰も知らない。行って帰って来た者はいない。いつか旅人が」
いつかどこかからやって来る旅人が、あの山の奥深くにあるという城の秘密を暴き、この世に平和をもたらしてくれるという、古くからの言い伝えがあるのだという。
私たちは、待っている。
ずっと待っているんだ。
ユカは黙って聞き、考え、迷って、そしてやがて、その手で――。
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