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20年前の2001年9月12日、午後、
私は富山から羽田に移動する飛行機に乗りました。
飛行機を降りた場所は、いつもの到着口につながる場所ではなく、空港の真ん中みたいな場所でした。
そこからバスに乗せられて、移動しました。
私のように学生らしき若者もいれば年配の人、小さな子を連れた家族連れと乗客層はバラバラでした。
9月だというのに混雑する空港内はなんだかバタバタして見えて、
あちこちで携帯で何かを話している大人たちがいて、何もわかっていない私でも「厳戒態勢なんだ」というのが伝わりました。
成田にいたらもっとバタバタしていたのかもしれません。
飛行機を降りるあたりから、私は少しイライラしてました。
何に怒っていたかと言われても、今の私が考えてもなんだかよくわからなくて、たぶん当時の私にもよくわかっていなかったんだと思います。
「これからどうなるんだろう」という誰も説明できない状態にイライラしていたような気がします。
まだ十代の私は「これから」を考えることを投げ出している若者でした。
NYのテロから一晩過ぎて、空港のテレビもそのニュースばかり。
貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像はもう脳内再生できるほど観た気がしていました。
もう変わらない事実を観せられて何を思えばいいのか? とこじつけて、ここでも考えることを投げ出してました。
「かわいそうに」と言った隣のおばあさんが言っていました。私に話しかけてたのか、独り言だったのかはわかりません。
早く移動して、早く寝たかったのになぁと思いつつ、
雑音ばかりの混雑した空港ロビーをうろつき、
京急線へと下るエスカレーターの向こうが混雑していることを知りました。
私はMDウォークマンを聴きながら
大きな重いカバンを右肩から下げてため息をつきました。
混雑する電車は嫌だからどうやって移動しようかな、
しばらくここにいてから移動しようかなとぼんやりしていました。
そんなとき
「早く帰ってきて」という内容のメールが届いて
空港の事情も知らない彼女のメールにまたイラっとしました。
でも、自分だってアメリカの事情は知らないんだよなと少しだけ考えて、
さっき「かわいそうに」と言ったおばあさんに、何を哀れんだのか聞いてみてもよかったなと思ったりしました。
混雑する急行は諦めて、各駅停車に揺られて移動することにしました。
MDウォークマンのバッテリーが少なくなり、家まで充電が持ちそうになくなりました。
携帯で音楽を聴くことができない時代でしたから、充電がなくなれば、音楽は聴けません。
電車の中で雑音を聴くことが嫌いな私には大きなストレスでした。
私のイライラ度は少し上昇しました。
各駅停車は私の目的地である横浜までは長い時間を要し、
それなのに何度か調整で電車が止まったりするので、早く着かないのかなぁと窓の向こうを見ていました。
9月でしたが、まだ夏といっても差し支えのない天気で、窓の向こうは暑そうでした。
いろんなことにうんざりしていると、いつのまにか私は寝てしまっていました。
昨日は実家で夜遅くまでニュースを観ていて、飛行機は1時間乗っただけでなぜか頭痛がしてしまうので、疲労してしまっていたのかもしれません。
ふと目が覚めると、降りる駅はもうあと少しでした。
携帯を見るとメールが二、三通届いていて、開いてはみたものの返事は書く気になりませんでした。
既読スルーがない時代でした。
駅に到着して、重いカバンを抱えて、電車を降りました。
午後の横浜は予想どおり暑くて、予想が当たったことに私はうんざりしました。あっというまに額に汗が滲みました。
今日はコンビニごはんでいいかなと改札口を抜けると、名前を呼ばれました。
声の方向を見ると彼女がいました。
「何をしているの?」と聞くと「待っていたんだよ」と彼女は言いました。少し怒っているようにも思えました。
迎えにきてなどと頼んでもいないし、何か約束もしていないのに待っていてくれたのです。
少し怒った顔の彼女を見ていたら、なぜか私は顔が緩んで笑ってしまいました。
こんなところにたしかなものがあるのだと私は嬉しくなりました。
「何かゴハンでも食べに行こうか」と私が提案すると彼女の顔はパーッと輝くようになり「待ってる意味あった」と上機嫌になりました。
ゲンキンなやつだなと思いながら、駅からの道を彼女と歩きました。
こんな日々が続くんだろうと大学生の私は未来を疑いもしませんでした。
あれから20年過ぎて、彼女と歩いた道は現在、改装中です。
あの日行ったと記憶している店はもうありません。
結局、彼女とは別れてしまい、今はどこで生きているのかもわかりません。
当たり前と思っていることは何も「確定」したものではないのです。
それでも私は「たしか」なものを探し続けていて、それが見つからないと落ち着かずイライラすることは変わりないまま、今も横浜で生きています。
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