152人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
4話:秘密レッスン
約束の土曜日、待ち合わせの駅前に行くと私服姿の箕輪さんがいた。ブラックジーンズにスッキリシャツ、それにジャケットという様子が似合う人だ。
「相沢さん、こんにちは」
「あの、こんにちは。今日はよろしくお願いします!」
がばっと頭を下げると、箕輪さんは軽く笑ってくれた。
「そんな改まらないでください。俺、土日は休みなんです。時間空いてますし」
「でも、お休みの日まで僕に付き合ってもらうのは申し訳なくて。あっ! 前回レッスン料とか聞いてなくて」
思えば色々と聞いていない事も多い事に帰宅してから気づいた。それらが一気に溢れてくる俺に、箕輪さんは笑ってちょんと唇に指先で触れた。
「まずはお昼、食べませんか?」
「え? あっ、はい」
とても自然で、穏やかな表情。それはジムの時とは少し違っている。また、心臓が煩くなりそうだ。
連れてきてくれたのはパンのお店だった。僕の勤め先とも近い場所にある。
「クリームパンではなくて、こっちのサンドイッチのほうがいいですよ」
そう言って勧めてくれたのはライ麦パンのサンドイッチだった。レタスと、塩気の効いたベーコンが挟まっている。
「あの、野菜苦手で」
「少しずつ慣しましょう。何事もチャレンジです! それに、小さな頃苦手だったものも大人になれば平気になってるかもしれません」
確かに、避けて通れない事もある。僕はそれを一つとベーグルを買った。
それらを持って訪れたのは公園だった。のんびりとしていて、子供が遊んでいたり犬が散歩していたりする。そこを、僕はのんびりと他の人と同じように散歩していた。
「涼しくなってきて、気持ちいいですよね」
「はい」
なんか、こういうのも忘れていた気がする。一人でこんな所に来てもぼっちだって思われる。そう思って引きこもっていた。
深く息を吸い込んだら、なんだか身体の中の悪いものが抜けていく気がした。
「あっ、あっちに良さそうなベンチがあります。あそこでお昼食べましょう」
「あっ、うん」
少し遠い。でもお昼という目的があるからあまり苦じゃない。のんびりと箕輪さんと話をしながら歩いていくと、思ったよりもあっという間だった。
広げたベーカリーの袋からパンと飲み物を取り出す。選んだのは炭酸飲料ではなくて、果実の香料のついた炭酸水だった。
正直飲んだ事がない。少し甘いと言っていた。思い切って一口! すると、シュワシュワっとした炭酸の中にほんのりとした甘みと美味しい匂いが感じられた。
「どうですか?」
「普段のジュースよりは甘くないけど、悪くないかも?」
「カロリーは雲泥の差ですし、糖分も控え目です。嫌じゃないなら、こっちの方がいいですよ」
そういう箕輪さんは香料無しの炭酸水。美味しいのだろうか……。
一緒に買ったパンも初めてだった。特にサンドイッチ。野菜が入ってるから避けてきたけれど……。
「あ……」
一口食べて、食べられる事に驚いた。昔は嫌だったのに。
思わずもう一口。ライ麦の噛み応えのあるパンと素朴だけれど味のある感じも、塩味のある柔らかいベーコンも美味しい。レタスって、そんなに強い味がないんだ。
「食べられますね」
「はい。子供の頃嫌で。でも平気みたいです」
「良かったです」
ニコッと笑った箕輪さんが僕の頭をよしよしと撫でてくれる。それがなんだか嬉しくて、僕の心臓はまた少しだけ音を立てた。
ベーグルはブルーベリージャムを少し練り込んであって、酸味と甘みがよかった。そしてびっくりするくらいお腹にたまった。普段はクリームパン2つでもなんだか満足しなかったのに。
「食物繊維が多かったり、食べ応えがあったりしますから。よく噛んで食べるとそれだけ満足できるんですよ」
「そうなんですね。確かに今、お腹いっぱいです」
そういえば、食事もけっこう急いで食べていたのかも。
食べ終わって満足で、ふと視線を上げると秋の空とまだ青い木々の葉が見える。風がさわさわと肌を撫でて……こんなに、世の中ゆっくりしていたんだと感じた。
「もう少し、休んでいきましょうか」
「いいんですか?」
「はい、勿論」
一杯に吸い込んだ空気が美味し。僕は、随分急いで日々を送っていたのかもしれない。
箕輪さんの家へ行くのも歩くことになった。駅から15分くらいの場所にあるそうだ。普段はその距離も辛いと思うのに、今はまったく辛くない。誰かと話しながらだからだと思う。
その道中、僕は小さな頃の話をしていた。
「相沢さんはお婆ちゃん子だったんですね」
穏やかな様子の箕輪さんに、僕は素直に頷いた。
僕の両親は仕事が忙しくて帰るのも遅かった。そんな時は近所に住んでいた父方の祖母が僕の面倒を見てくれた。お菓子を一緒に食べて笑って、宿題が終わったらテレビを見て笑っていた。
「甘い物が好きなのは、幸せな思い出もあるのかもしれませんね」
「そうかもしれません」
思えば大学時代にその祖母が亡くなってから、僕は益々内にこもるようになった気がする。それでもその当時は気の合う仲間とアニメやゲームの話をしていたけれど、今は直接会って会話とかはしないから。
「甘い物、ダメではないんですよ」
「え?」
「過剰はダメですが、適度なら。食後にカカオポリフェノールの高いチョコを食べると逆に健康にいいとか言いますし。それに、無理に我慢をした事でストレスを溜める方がダメです。だから、頑張った時に少しだけ食べるのはいいんです」
ニコッと笑われて、少しだけ気持ちが楽になった。そうか、少しなら食べてもいいのか。
「後で美味しいおからクッキーのお店、教えます。駅の近くにありますし、味も色々ありますから。試食もできますよ」
「本当ですか!」
箕輪さんといると、楽しみが増えていく。それは宝物が増えていくみたいで嬉しかった。
到着した建物は二階建てのビルみたいで、ちょっと年季がはいっていた。
その一階の全面は大きな窓がついていたけれど、今はブラインドが下ろされている。
外階段から二階へと上がれるみたいだけれど、今は一階を開けている。そうして招かれたのはフローリングに色々なマシンを置いた、小さなスポーツジムだった。
その真ん中には何かの名残なのか、ボクシングのリングがあった。
「ボクシングジム?」
「あぁ、昔です。俺の親父、昔ボクサーだったんですよ。それで引退後、ボクシングジムをしてたんですけどね。人も減って、スポーツジムに鞍替えしたんです。これはその名残ですよ」
そう言いながらリングに触れる箕輪さんは、ちょっと誇らしげだった。
「まぁ、そのジムも親父が死んで廃業しちゃって、今はこの通りですけれどね。でもそのうち、俺がここを再開できればと思ってるんです」
「素敵だと思います」
「有り難うございます。相沢さんにはその第一号になってもらいたいです。モニターみたいな? だからレッスン料はいりません。そのかわり、意見とか聞かせてください」
「え! そんなのダメですよ!」
確かに沢山は出せないけれど、一応は用意してきた。それにそんな夢があるなら余計に受け取ってもらわないと。
でも、箕輪さんは受け取る気がないみたいな顔をしている。ブラインドを開け、窓を開けた。
「俺、嬉しいんです。ここに親父が居たときみたいな光景が少しでも戻ってくるのが」
「あ……」
子供みたいな顔でそんな風に笑って言われたら、なんだか切なくなってくる。
僕はギュッと力を入れた。それなら僕は、ちゃんと成果を出さないといけないんだ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、僕は箕輪さんのジム会員第一号になった。
最初のコメントを投稿しよう!