152人が本棚に入れています
本棚に追加
/11ページ
1話:ダイエットスタート!
薬局というのは激務だと思う。デジタル化は進んでいるけれど、結局最終確認は人の目でもある。それは間違いがあってはならない、患者さんの健康に直結する仕事だから。
神経を使う。更には投薬説明の時にも気を遣う。相手は病気の方で、色々と不安や苛々を持っている事もある。細やかに対応して、説明をしていかないと気を悪くさせてしまうかもしれない。
更には終わった後のカルテ。今は電子カルテだけれどこれだって人の手で入力はするのだ。
「はぁ、今日もお菓子が美味しいな~」
休憩時間、僕はロッカーから取り出したお菓子にジュースで至福の時を過ごしていた。同じタイミングで後輩の秋本ちゃんも入っていて、僕を見て眉根を寄せる。
「相沢先輩、甘い物に甘い物って合います?」
「え? 美味しいよ?」
スレンダーな彼女は溜息をつく。そして、手元のお菓子を一つひょいと摘まみ上げた。
「あっ、僕のクッキー!」
「先輩、最近リスかハムスターに見えますよ?」
「え?」
「体重! 増えたんじゃありませんか?」
「うっ」
思わずクッキーの粉が変な方へと入っていった。
僕は現在32歳。見た目は童顔、眼鏡、ちんまり。そして昔から甘い物が好きでぽっちゃりした体型だ。いや、見苦しいわけじゃない! 服を着れば分からないけれど……確かに最近ズボンの上に腹が乗ってはいる。
秋本ちゃんが盛大な溜息をついた。
「どうするんです? 健康診断明日ですよね? 体重増えてたら薬局長、今度こそ強制ダイエットさせるって言ってましたよ」
「うぅ」
それもまた僕の悩みだ。
この薬局の薬局長はとても明るく気さくな女性で仕事も出来るのだが、健康管理にはそこそこ煩い。今までにも僕は色々言われていた。でも今まではギリギリ、メタボ圏外だったけれど……今回はまずいかも。
「あーぁ、知りませんからね」
手元のお菓子が、ちょっと美味しくなくなってしまった。
そしてこれは現実のものとなってしまう。
健康診断から数週間後、秋本ちゃんとお昼に入っていた僕の元に鬼の形相の薬局長が現れた。
「あ~い~ざ~わ~ぁ!」
「ひぃぃぃぃぃ!」
適度に明るい髪色を綺麗に清潔にまとめ上げ、白いケーシーの上に長い白衣を着た薬局長の頭に角が見える。僕は思わず立ち上がった。
「あんた……あれだけ甘い物控えなさいって言ったじゃない!」
そう言いながらバンッと机の上に置かれたもの。それは健康診断の結果だった。
「ありゃりゃ……これはダメだわ」
血糖値がまず糖尿予備軍。動脈硬化も実年齢よりやや進んでいる。何より体重が増えていて、メタボ黄色信号だった。
「出せ」
「え?」
「今すぐロッカーの中とカバンの中のお菓子全部出しなさい!」
「はいぃぃぃ!」
僕は泣く泣くロッカーを開けて、中のお菓子を全部机の上に広げる羽目になった。
結果……
「うわ……よくもまぁ」
「頭痛いわ」
「え……へへへ」
クッキー二箱、飴が一袋、グミが五袋と、カバンからはチョコも出てきた。可愛い100均の仕分け袋に入れている。
それにジュースも未開封が数本。予備だ。後はインスタントココアも……。
「むしろ、今までよく引っかからなかったわ」
「ですよね!」
「ですよね! じゃないわよ相沢!」
鬼の剣幕の薬局長が僕ににじり寄る。そして、グッと顔を近づけた。
「ダイエットだ。いい、ダイエットしなさい」
「いや、でも……ぐひぃ!」
運動苦手と言おうとした僕のお腹を、薬局長は思い切り握る。ムニッとした腹の脂肪が摘ままれてなお余る。
「あんた、このままだとどうなると思う? コレステロールも高いし、尿素もよね? 薬飲む? 痛風になる? 痛いとか辛いとかあんた知ってるわよね?」
「知ってます!」
「糖尿の辛さも分かるわよね?」
「分かりますよぉぉ!」
だって、そういう方に薬を出して説明するのが僕のお仕事ですから!
「まぁまぁ、薬局長も落ち着いて。先輩意志が弱いし自分に甘いですから、一人じゃ痩せられませんよ?」
「うっ! それはあるわね。じゃあ私が」
「薬局長、三ヶ月後に彼氏さんと結婚じゃないですか。今の時期に頻繁に時間外で男に会うって、誤解されません?」
秋本ちゃんがそんな事を言う。でも確かにそれは誤解が生じる気がする。
でも、二人分の視線が僕に集まって……。
「大丈夫よ、ペットみたいなものだし」
「まぁ、かもしれませんが。危険冒すのはどうでしょう?」
「じゃあ、秋本ちゃんが監修する?」
「嫌ですよ、私も彼氏いますもん」
……僕、ペットなんだ。
じゃあ、どうしようと言うのだろう? 正直僕も自分だけで痩せられるとは思えない。言ってはなんだが意志は弱い。苦しい事や辛い事は苦手だ。
そんな僕に、秋本ちゃんがニヤリと笑ってロッカーを開け、1枚のチラシを僕に渡した。
それは、ジムの入会案内だった。
「私の同級生がここでトレーナーやってるんです。今キャンペーン中らしいし、そいつめっちゃいい奴なんで信用できますよ」
そう言いながら、秋本ちゃんは一人の若い男の人の顔写真を指さす。
その顔に、僕はドキリとした。スポーツマンらしくスッキリと短い髪に、爽やかな笑顔。目元はキリッとしているのに優しげで、どこか甘い感じもする。
一目で好みだった。
そう、僕の性対象はいつも男性だった。自分がこんなだから女性にモテないし、というのは多少あるけれど、それにしてもだ。勿論相手が居たことはないし、これを誰かに話した事もない。変に見られるのが怖かったし、諦めるのは得意だから。
「先輩、行ってみません? 行くなら私そいつにライン送っときますよ」
「え?」
「だから、ジムです! 行くならライン送ってお願いしますけど、どうですか?」
もしかして、この人がトレーナーについてくれるかもしれない。
思ったら途端に心臓がドキドキと音を立てた。そして僕はその場で、今夜ジムに行く事を約束した。
最初のコメントを投稿しよう!