二章

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 夜が明けても雨はまだ降り続いていた。どんよりと暑い雲が広がり、大きな雨粒が落ちて地面に小さな池を作る。そして後から続いた雨たちがポツポツと水面を揺らす。 「こんな雨のなか出かけるのか?」  マントを羽織って支度をするリアに、背後からハリスが苦い顔を出す。  雨が降っているせいか、ようやく暖かくなってきた気候は冬に戻ったように寒い。全てのボタンを留めて一度鏡で確認をする。  長い髪は後ろで編みこんでまとめているしフードを被れば見えないだろう。  結局マントの代金はハリスに受けとって貰えなかった。金額を聞けばリアの持っている代金では足りなかったのだが、気が済まないと財布ごと「せめてこれだけでも」と差し出した。 「リア、それを渡したらお金が無くなってしまうだろ?何も持たないのは危ないよ?」  と、当然のように言われて突き返されてしまった。  今までハリスに宿の代金など必要な物は全て出してもらっている。いつかキッチリ返したいものだが、果たしてリアにそれだけのお金を稼げるだろうか。 「ハリスは宿で待ってて。フードはちゃんと被るし、傘もさすから大丈夫だよ」 「そう言われても……一人では行かせられないよ」  心配性だなぁと笑いながら傘を受け取る。  同じ通りの本屋に行ってくるだけだから気にしなくてもいいのに。  リアとハリスは神子のお披露目が終わるまでノストグに滞在する予定だ。神子は王都から始まり、ネバス、ノストグ、ウノベルタと回っていくようでリアたちと同じ順路だ。そのため、次のウノベルタに向かうのはお披露目が終わってからの方が今までのように好奇な目で見られないだろうと。  そのため、あと一週間はこの宿に泊まるのだがあまり外出することも出来ないからということで暇つぶしに本の一冊でもと思ったのだ。  お披露目直前のこの期間は街の人も黒い髪には特に敏感になるから、と。  結局ハリスもリアの後に続いて宿を出た。  お揃いの傘をさして雨の中を進む。傘に当たって弾ける雨音が気持ちよく耳を打つ。 「ふふ……」 「どうした?」 「いや、こんなに天気が悪くてもハリスの赤い髪を見ていると何だか明るい気分になります」  キョトリと赤い瞳が瞬いて、傘で隠されてしまう。 「そんなこと言うのは君ぐらいだ」  水を象徴とした街ゆえか、ノストグに住む人々は青い系統の髪色の者が多い。自身の魔力と相性がいい自然の傍はやはり過ごしやすいのだと思う。  その中で、ハリスの赤い髪はよく目立つ。 「ハリスも何か買いますか?ってハリスは別に外に出られますもんね……必要ないか……」  リアに付き合って貰う理由もないし、部屋に引きこもる不便を被ることはない。 「あまり本は読まないけれど、この機会に何か読んでもいいかな……家に帰ればそんな暇はないから……」  それは、リアと共に部屋にいてくれるということか。 「ハリスは、どういう本が」  好きなんですか、と続けようとしたが言葉にはならなかった。リアたちの歩いていた通りに、小さな路地から急に人影が飛び出した。  リアよりも一回り程小さなそれは、ちょうど路地の前を通りかかったリアに衝突して二人揃ってよろめく。  リアのことはハリスが受け止めてくれたが、相手はそのまま濡れた地面に倒れた。傘が手から零れる。フード越しに雨がしみた。 「ありがとう、ハリス」 「いや、それよりも……」  赤い視線を追えば、傘も差さずにびしょ濡れになった人物が膝をついたままの姿勢で呻く。 「大丈夫ですか?」  ハリスから離れてすぐにしゃがんで声をかけるが、それに怯えた様に肩を揺らして縮こまってしまった。 「走って来たのはそっちだろう……」とハリスが言うから視線で黙るように頼む。  この雨のなか傘も差さずにずっと外を出歩いていたのだろうか。服はぐっしょりと濡れていて、フードを被ってはいるけれど、これではあまり意味がないだろう。 「怪我してない?」 「あ、いや……大丈夫……」  まだ幼さの残る少年の声がフードから零れる。子供がこんな雨のなか何をしていたのだろう。疑問に思いつつも、いつまでも地面に座ったままにもさせておけず手を差し出す。  頭上から降りかかっていた雨は、いつの間にかハリスが向けてくれていた傘に阻まれている。 「風邪引いちゃうよ?」  リアの手を、戸惑い気味にチラチラと見ながら少年が顔を上げた。  黒く大きな瞳と視線が交わった。成長途中の可愛らしい印象を携えた少年だ。程よく日に焼けた肌と、丸い瞳。そして―――。 「くろ、かみ……」  思わず、零れ落ちる。フードからはサラサラとした短い黒髪が覗いていた。  様子を窺っていたハリスも息を呑んだように瞠目している。  こちらに手を伸ばしかけていた少年は、リアの言葉にすぐに引っ込めて後ろに下がる。  怖がらせてしまった。散々自分の身で経験しているはずなのに、同じように不快な思いをさせた。  安心させるために穏やかな声を努めながらも早口で謝罪をする。警戒を緩めない少年に、リアもフードに手をかけた。  ハリスが制止するべくリアの名前を呼んだが、それよりも早くフードからリアの髪が露わになる。 「大丈夫だよ、俺も同じなんだ」 「あんた、あの時の……」  驚いて更に大きく開かれた瞳は、今にも零れ落ちそうだ。信じられない物を見るようにリアを見上げて少年は自身の体から力を抜く。 「君に危害を加えるつもりはないんだ。いつまでも座ってたら冷たいでしょう?おうちはどこ?ここから近いの?」 「あ、いや……」  リアの問いは、答えづらいものなのか少年は困ったようにおどおどと視線を揺らす。 (もしかして家出とか……?)  家族と喧嘩でもして飛び出して来たのかもしれない。そう考えたリアがまた口を開こうとした時、少年が現れた路地の奥で複数の気配と男たちの声が響く。 「こっちだ!早く探せ!」  バタバタと響く足音。結構な人数がいるようだ。しかも全員が忙しない動作で辺りを見回している。  一体何なんだと眼を白黒させていたが、目の前の少年が縋る様にリアの手を握ったことでそちらに意識が向く。 「あっ……どうしよ……」  寒さ以外の理由で、その子は震えていた。原因は明らかにあの集団だろう。  こんな子供が追われている?一体なぜ?  色々と疑問は湧くけれど、そんなことよりも早く少年の手を握り返して微笑んだ。 「大丈夫だよ。ついてきて」 「え……?」  放心していたのをいいことに手を引っ張って立ち上がらせる。そのまま歩き出そうとすれば、今まで傍観していたハリスが硬い声でリアを止めた。 「リア、首を突っ込むのは止めろ。明らかに訳ありだ」  そんなこと、この状況を見ればわかっている。 「ハリスは宿に戻っていて。俺はこの子が心配だから」  そこまで言って男たちの声が近づいて来たことに気付く。少年のフードを深く被り直させてやってもう一度手を繫いで走り出す。  せめて傘を持ってくれば良かったかもと思いつつ、今更ハリスの元にも戻れない。 「な、なあ!あの人いいのか?」 「大丈夫、ハリスはしっかりしてるし一人で宿に戻れるよ」 「そういう意味で言ったんじゃないけど……」  雨がひどいから外に出ている人は少ない。これでは目立ってしまう。適当に走り出してしまったがどこに行けばいいだろう。  手当たり次第に進んでみたものの、このまま闇雲に走っていいものかと迷う。ただでさえびしょ濡れなのだ。これ以上雨に濡れるのは身体によくない。 「ど、どうしよ……」 「あんた、道わかんないのかよ……」 「じ、実は数日前にこの街に来たばっかりで……」  あははと頭を掻きながら笑って見るが、現状の打破にはならない。今のところ男たちの姿は見えないが、雨の中そう長い時間は逃げられないだろう。どこかに入らなければ。 「お金って持ってる?」  手を繫いだまま道の端で聞くが少年はふるふると首を左右に揺らす。 (そうだよね。持ってないよね)  リアも少しなら手元にあるが二人で部屋を取るには少し心もとない。こんなことなら防犯にとハリスに半分持ってもらわない方がよかったなと後悔する。  家の軒先に入ってはいるが吹きかけるような今の天気にはあまり意味がない。どうしよう。ハリスもきっと怒っている。 (気づいた時には走り出してたんだもん……放っておけないし……)  あんなに雨に濡れて体を震わせて、可哀想でどうしても見ていられなかったのだ。  滲んだ声が頭の奥で木霊する。 ―――そんなに濡れてどこに行っていたの。  そうだ。濡れた体は寒くて、凍ってしまいそうで。 ―――家に入らないで、床が濡れるでしょう。  そう、肌を冷たい滴が伝う度に、心に小さくひびが入っていくような―――。 「リア!」  ハリス、と頭で認識する前に呼んでいた。バチャバチャと水音を立てながらハリスがこちらに近寄る。どうして、ここにいるの。 「宿の裏口から入れるように頼んだ。そんな恰好で長時間外を逃げ回るのは無理だ」  早口で告げられ、有無を言わさずに空いた方の手を掴まれた。  ハリスに手を引かれたリアが少年を連れる形で宿に向かう。すでに三人とも頭から足元までびっしょり濡れている。 (わざわざ宿に行ってから探しに来てくれたの?傘も持たずに?)  どうしてここまでするの。俺のことが嫌いでしょう?  勝手なことをしてって怒りながら一人で宿に帰っていればよかったのに。  繋がれた手はお互いに濡れていて、それでも離れないようにハリスが強く握ってくれている。 (いたい、痛いよハリス)  貴方に優しくされるたびに、胸が痛くて仕方がないよ。  仕事だっていうなら近寄り過ぎないで。優しくし過ぎないでよ。  雨粒が眼に入って微かな痛みと共に流れていった。 「ほら、今のうちに」 「俺たちが泊まってる宿だから大丈夫だよ」  不安そうに眉を下げている少年の背中を支えながら中に促す。おずおずと足を進めるその子をハリスと挟んで他の客の目に入らないように部屋に滑り込む。 「リア、服を脱げ。このままじゃ風邪をひく」 「はい……大丈夫?寒いよね?すぐお風呂に行こう」  マントを脱げばハリスがまとめて洗濯に持って行ってくれる。それに甘えてリアは少年を引きつれて浴室に向かった。 「先に入っていいからよく暖まってね?服はこっちで預かるけど……俺の服でいいかな……」  少年はリアよりも拳一個分ほど背が低い。それにほっそりとしているからもしかしたらリアのじゃ大きいかもしれない。 「少し大きいかもしれないけど俺のを着てね。ここの籠に入れておくから」  少年はポタポタと毛先から滴を垂れさせながらコクリと頷く。何だか状況をうまく把握出来ていなさそうだけど大丈夫だろうか。  心配ではあるが、さすがにさっき会ったばかりの男と一緒に風呂には入りたくないよね、とリアは脱衣所を出た。  少しの間、耳をすませていたがシャワーの音が聞こえて来たのでとりあえずは安心する。 「リア」  声と共に頭に何かが落ちる。柔らかな手触りのそれはバスタオルだ。 「せめて拭いておけ。本当に風邪をひくぞ」 「あ、うん……ありがとう」  濡れた髪を絞ってシャツのボタンを開いて肌を拭う。ジッと見られている。  ソロリと視線を送れば、ハリスはすでに拭き終わったのか上半身は裸のまま首にタオルをかけていた。濡れて顔に張り付いた髪の隙間から切れ長の瞳がリアを見ている。こちらを刺すような視線の痛みに耐えかねて向き直って声を絞る。 「ごめんなさい……」 「どの部分に謝っているんだ」  頭上から落ちる声は普段よりも低く、怒りが滲んでいる。 (答えを間違えたら、火に油を注ぐことになる……)  雨に打たれたからか、それともハリスに問い詰められているこの状況にか、顔から血の気が引いていく。 ―――リア、どうしてわからないの。  間違えたらどうしよう。そうしたら、ハリスはリアを見捨てるだろうか。今度こそ一人で先を行ってしまうだろうか。 「あ、あの……勝手なことをしてハリスに迷惑を……かけたから?」  ピクリとハリスの片眉が跳ねた。その瞬間リアの心臓も音を立てて締め付けられる。  やってしまった。間違えた。どうしよう、どうしよう。  怒られる。また怒られる。ごめんなさい、ごめんなさいお母さん。 「リア」  鼓膜を揺らした低い音が、リアを現実に戻す。息を止めたままソロリと瞳を向ければハリスは罰が悪そうに落ち着きがない。 「その、そこまで怒ってないよ。君がお人好しなのはもう知ってるんだ、今更怒らないよ」  どうしてそんな顔をされるのかわからなかった。  どうしてハリスは笑ってるの? 「ほら、髪がまだ濡れてる。貸して」  タオルを取られてクルリと体を回される。されるがままになっているとタオルでリアの髪を拭きながらハリスが続ける。 「その、本当に怒ってないんだ……だから、そんな顔をしなくていい」  リアは今、どんな顔をしているんだろう。頬に触れてみたところでわからない。  ただ、自分が心底ほっとしていることが分かった。  なぜあんなに怖かったんだろう。期待なんてしていないのに。  ハリスの気分次第でこの旅はすぐに終わってしまうものだとわかっているのに。こうして触れられていることに、ひどく安心していた。  まだ外では雨音が強く、時折風が吹いてガタガタと窓を揺らす。 (ああ、早く服を出してあげなくちゃ……)  そう思いながらも、ハリスの手から離れがたくて、なかなか動くことが出来なかった。
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