二章

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二章

「ん!美味しい……」  思わずと言ったようにリアの口から声が漏れた。隣のハリスはそれに満足そうに笑う。  手の中に収まるのは、先ほど訪れた果樹園で買ったものだ。掌サイズの軽いカップの中に小さな赤い果実―苺が五つほど入っていて上にはシロップがかかっている。  ハリスのおすすめで買って貰ったのだが、ハリスが美味しいと言うだけのことはある。苺のみずみずしさと酸味に甘いシロップが絡んで口の中が幸せだ。  ノストグに向かう途中、果樹園の傍を通ると言うのでソニーの土産の下見にと少し顔を出したのだが、その際に小さな出店でこの苺が売っていたのだ。物珍しさに視線を送ってしまったら目ざとくハリスに見つかり、そのまま買う買わないで二人でしつこく言い争った。  お金を出してもらうことが申し訳なく、首を振るリアに対し、財布を持って頑なに勧めて来るハリス。最後にはお店の人の視線が痛くなり、リアがハリスに頼む形で買って貰った。初めは申し訳なさが勝っていたのだが、一口味わえばそんなものを吹き飛ばしてしまうほどの美味しさだ。  ペロリと知らぬ間に苺は次々と姿を消し、最後の一つを備え付けてあった小さな串にさしてハリスに差し出す。 「ハリスも食べて下さい。すっごく美味しいですよ」 「ああ、いや俺はいいよ。リアが食べな」  身を引くハリスを追う形でリアが苺を突き出す。「どうぞ」と駄目押しのごとくもう一度言えば、ハリスは苦笑しつつも苺を口に含んだ。 「ん、美味しいね」 「いえ、それならよかったです……」  不自然にならないようにと思ったのだが、手を引く速さに避けていると思われたかもしれない。 (いや、ハリスは別に気にしないか……)  別に好きでリアと一緒にいるわけではないのだから。  指先に息がかかってこんなに熱くなるのもリアだけだ。  チラチラと右隣から視線を感じる。赤い瞳が気遣わしげに何度もリアを見ている。 (機嫌を取られているのかな……)  そもそもハリスがあそこまで引かずに苺を進めてきた時からおかしいと思ってはいたのだ。いつもならば、リアが一言平気だと告げればきっとハリスは「そう?」と言いながら先を急いだはずだ。  それなのに、ああも強引に財布を開いたのは、やはりあのことがあるからだろう。 (あんなこと聞かなければよかった)  今更悔いたところで遅いのはわかっているが、どうしても思わずにはいられない。  行儀悪く串を咥えて空を見上げる。ほんのりとした甘さの残り香を感じながら昨晩のことを思いだした。  緑の神殿に向かった翌日、ソニーに手紙を出すためにリアはハリスと共に宿の近くの書店に出向き、レターセットと文具を買った。そのままの足で宿に戻り、いそいそと手紙を書いて大通りの回収箱に入れた。  荷物や手紙などの文書はその回収箱から役所の者が集めて回り、宛先ごとに振り分けられるらしい。  手紙には滞在している宿の住所も記載しておいたため、そこで数日ソニーからの返事を待った。予想していた通り、ソニーからの返事はそう時間を置かずに宿に届き、さあ明日から出発だと意気込んだ夜のことだ。  その日のリアは、普段よりも気持ちがふわふわとしていたと思う。  これから他の街を巡り、色々なものを目にする。次の神殿に行けば、もしかしたら記憶を思い出すかもしれないという期待。また、この仮説が間違っていたらどうしようと言う不安。そして、ハリスが自らともに来ると言ってくれたことが何よりも嬉しかった。  だからだろうか。浮足立った気持ちのまま、つい口から出てしまったのは。  共に来ると、そう告げられたことでハリスとの見えない壁が無くなったように錯覚した。勝手に勘違いをして一気に距離が近づいた気になっていたのだ。 「ねぇハリス、以前の俺はどんな人でしたか?今とそう変わりはないですか?」  もうすぐ日付が変わろうという夜の時間。灯りの絞られた部屋の中でベッドに寝転がりながらリアが陽気に声を上げた。  しかし、それに応えるハリスはリアとは対照的な様子で「ああ……そうだな……」なんて歯切れが悪い。そこで嫌な雲行きを悟っていたのに、好奇心が勝ってそのまま続きを促してしまった。  ハリスから出てきたのは「すまない」という気落ちした声。そして以前の自分とハリスのことを聞かされた。 「リアが教会にいたって話はしただろ?その、俺は子爵の家の者で仕えている伯爵の命で定期的に教会などの視察に出向いているんだ……それで、君と出会ったのもその視察で何だが……」  ハリスの顔が、言葉を重ねるごとに曇っていく。いや、リアの視界が閉ざされているのだろうか。  ハリスが貴族の出身だなんて気づいていたよ。今更言われたところで驚かないよ。  だから、早く続きを言って。そうしてこの胸をざわつかせている不安が杞憂だったと笑わせて。  願ったところでハリスの顔色は晴れないし、リアは自分の手足が冷えていくのを感じた。 「すまない、君はきっと友人などの名前のある関係を期待していると思うが、俺たちの間には何もないんだ。言葉を少し交わしたことがあるだけで、きっとリアには視察の一員にしか思われていなかったと思う……」  どうしてハリスが落ち込んでるのさ、なんて笑えればよかったけれど口元だけが不恰好に笑みを作るだけでリアは声を出せなかった。  リアが勝手に勘違いしていただけだ。ハリスから友人だなんて言われた覚えはない。  リアが勝手に期待して、勝手にショックを受けているだけだ。 ―――けれど、 「じゃあ、どうして俺のことを探していたの……」  これぐらいは聞いてもいいんじゃないかと思った。そして、この問いがリアにとっての最後の頼みだった。  しかし、それすらもハリスは無情に引き裂く。 「俺が君を探しに街を出たのは、教会から君の行方がわからないと警備隊に捜索の依頼が出て、それを知った伯爵が元々君の顔を知っていた俺に捜索を命じたからなんだ……」 「……どうして、一緒に来てくれるって、言ったんですか……」  ああ、声が震えてしまった。それでも構うものかと滲む視界のままハリスを見つめた。慰めるだけの嘘は止めて、本当のことを話して。 「君に何かあったら伯爵や教会の者に申し訳が立たない……君の記憶を取り戻すのも、その方が子供たちが喜ぶかと思ってね……」  リアを発見したこと自体はすでに家の者に手紙を出したらしい。だから無事なことは教会にも伝わると。  そういえばハリスも何か書いていたなとぼんやりと思い出す。 「そのだな、リア……」 「ハリス」  遮る様にハリスの名を呼んだ。これ以上ハリスの言葉を聞きたくなかった。考えるよりも早く、リアの口から言葉が零れ落ちる。 「これから先は俺一人で行けますから大丈夫です」 「っ、リア」 「無事を伝えてくれただけで十分です。この後に何があろうと自己責任ですから。だからハリスはそんな面倒なことはせずに自分の家に帰って下さい」 「リア、聞いてくれッ」  焦った顔でハリスが立ち上がった。 (どうしてあなたがそんな顔をしているの……)  こちらに近づいたその姿に、反射的にリアもベッドから立って距離を取る。 「やめて下さい!来ないで!」 「リア、お願いだから話を聞いてくれ」  掴まれた両腕を身を捩って振り切る。「迷惑かけたくないんです!」と叫んで逃げようとすれば、後ろから抱きすくめられて動きを封じられた。 「ハリス……離して……」 「リア、聞いて……確かに俺がリアを探していたのは伯爵からの命令があったからだ。そしてその延長で今もこうして君といる。でも、リアの言うように報告だけしてこのまま別れることだって出来ない訳じゃない」  耳にハリスの吐息交じりの声がかかる。それだけで抵抗する気力も無くなる自分が何だか惨めだった。どうしてあなたにはこんな風に身を預けてしまうんだろう。 「最終的に着いていくと選択したのは俺自身だよ……」 「嘘つき……」 「嘘じゃないよ」 ―――そうやって否定するけれど、ハリスは嘘つきだ。本当は俺のことなんて嫌いなくせに期待させるようなことばかり言って振り回す。  君の方が魔法に長けていると言って、冷たい目で羨んでいたね。どうして変わらないのかって、変わって欲しい程にリアのことが嫌いだった? 「……選んだのは俺なんだ……」  コツリと後頭部にハリスの額が当たる。赤いふわふわした髪がリアの首筋を撫でてこそばゆい。なぜハリスがそんな辛そうな声を出すのかわからない。 「ひどい……」  最後にそうやって慰めるぐらいなら、全て嘘を吐いてくれた方がよかった。先ほどまでは嘘は止めてと思っていたくせに、現金なものだと自分を笑いたくなる。  けれど、そうすればリアはまだ勘違いしたままでいられたのだ。そのくせ、どうしてハリスは期待させるようなことを言い残すのか。 「リア、君は自分を知る人間が俺しかいないからだよ……」  ひどいのはリアの方だとハリスは最後に小さな声で言った。  どこがだと感情のままに声を上げる前に「ひくっ」と喉の痙攣が始まった。ポロポロ零れる涙を拭いながらしゃくりあげるように喉を鳴らす。  どうして俺はこんなに胸が痛いんだろ。事実を知ってショックだった?ハリスの言うようにただ依存していただけなの? (本当は否定したい、なのに出来ない……)  今の状況でハリスの言葉に首を振ったところで、きっとハリスは信じてくれない。だってリアは自分のことを知る人間をハリス以外に知らないから。  ハリス以外の誰かに会って、それでもハリスが大事だと告げたら、信じてくれるのか?  それさえ言えないまま、背中にハリスの体温を感じながら、自身でも儘ならない感情を抑えられず静かに涙を流すことしか出来なかった。 ―――目が腫れぼったい……  カーテンの隙間から差す陽が眼に当たると、ジンと沁みるように鈍い痛みがある。よろよろと顔を上げて顔に落ちる髪を払った。  ハリスは既にベッドから出て着替えをしている。リアも重たい瞼を懸命に上げながらゆったりとした動きで服を脱いだ。  寝巻きを畳んで鞄にしまいこみ、髪を適当に梳いて後ろに流す。顔を冷やしてこようと振り返れば、すぐ近くにハリスがいて思わず後ろに退く。  踵をベッドの足元にぶつけて声のない悲鳴が上がった。ハリスはリアの挙動に驚きながら「すまない」と手を伸ばしたが、結局それが触れることはなかった。 「眼が、腫れてしまったね……痛いだろう……」  リアの目元に掌を向けた。重かった瞼にスッとひんやりとした冷気が触れて楽になる。 「……ありがとうございます……」  鏡は見ていないけれど、結構熱っぽさを感じていたものだから、きっと見ていてあまりにも痛々しかったんだろう。 「次の行き先なんだが、隣のノストグには水の神殿があるから……そこはどうかな……」  次……そっか、一緒に行くんだもんね……  ハリスの言葉にぼんやりとした頭のまま頷く。ハリスは昨日のことがあっても平気なんだ……と思ったけれど、チラリと覗いて見れば、赤い瞳も気まずそうに揺れていたから何も思わない訳じゃなさそうだ。 (そもそも俺があんなに取り乱したのがいけないんだし……)  ハリスからしたら、勝手に期待されて裏切られたと怒られて散々ではないか。あんなに取り乱したりして恥ずかしい……。  冷静になれば、ハリスは笑顔で嘘を吐こうと思えば出来たはずなのにその選択をしなかったのだ。それだけで、いいじゃないか。  ちゃんと、リアに話そうと思ってくれたのだ。 (むしろ早めに現実と向き合えてよかった……)  勘違いしたまま旅なんて始めたら、リアのする行動でハリスを不快にすることがあったかもしれない。親しくない相手に馴れ馴れしく接せられるのは苦痛だ。そうなる前に気付けて良かった。  昨日のことは失態だったけれど、これから適度な距離が保てればいい。そうすればハリスだって安心してくれる。 ―――お前は、  誰かの声がする。指をさされて見下ろされて、誰かがリアを罵る声が。 (わかってるよ、わかってる。俺なんかが他人に好かれるわけがないよね)  そう心で返す。まるで慣れたことのように自然とそう思えた。なんでだっけ。あれは誰だっけ。  考えてもわからない。わからないことは放っておいた方がいい。考えても仕方がないから。  それよりも今はハリスことを考えなきゃ。今回のことはリアがいけなかったんだから。 「ハリス、昨日はごめんなさい。俺があんなこと言える立場じゃないのに……」  ベッドに腰を下ろして頭を下げた。長い髪も一緒に落ちてリアの視界が幾分か暗くなる。それに何だか安心した。 「リア、きみは……」 「……ハリス……?」 「いや……」  口籠ってそのまま静かになってしまった。どうしようかな、と悩んで結局続きを待たずに洗面所に向かう。  変なハリス。でも、そんなハリスの表情を、自分を気にしてくれているなんて感じるリアの方がよっぽどおかしい。  サラサラと肌を撫でていた風が何だかしっとりとした気がした。スンと鼻を鳴らすと雨のような匂いがする。  空は真っ青な色を広げていて太陽は眩しい程にこちらを照らしている。 (どこからしてるんだろ……)  内心で首を傾げていれば、少し前を行っていたハリスが振り返って「ほら」と言った。 「もうすぐノストグに着くよ」  まっすぐ前方を示したハリスの腕の先には、たしかに家々が立ち並んでいる。ネバスと外観的な違いはあまりない。  最後に果樹園を出てからそう時間は経っていない。ネバスから一本道だとは聞いていたけれど本当に真っ直ぐ歩いて来ただけだ。 「ノストグには大きな滝があってそこから街中に水路を引いているんだ。あの辺りに流れている川もすべてはノストグの大滝に繋がっているよ」  なるほど。だから水の匂いがしたのか。  大小問わず急に川を見かけるようになったとは思ったがそう言うことだったのか。ネバスでは緑ばかりを見ていたから新鮮な気持ちだ。 (だから水の神殿か……)  その土地の特色で、神殿に適した場所に建てているようだ。 「疲れたか?街を見てもいいかと思ったがまず宿に行こうか?」 「う~ん……」  そんなに距離も歩いていないし疲れた訳ではないが、リアのための観光に付き合せていいものか。 (そんなに気を遣ってくれなくてもいいのなぁ……)  果樹園でもそうだったが、このままの調子で街へ行けばリアの見た者を片っ端から買って揃えそうで怖い。そこまでして貰う理由もないのに、なぜハリスはそこまでリアの機嫌を取ろうとするのだろう。 (こんな風に接するぐらいなら笑顔でさらっと適当に言っておけばよかったのに……)  それにリアは本当に気にしていないのだ。むしろ、ハリスに気を遣わせないようにといつも通り振る舞っている。 (ちゃんと切り変えられてる……大丈夫……)  昨夜の胸の痛みだってもうない。いつものリアだ。  以前から思っていたが、ここまですっぱりと感情を切り変えられるのも自分では驚きだ。昨夜、朧げに頭に浮かんだ何かが関係しているのだろうか。  誰かがリアに声をかけていた気がする。誰なのかも、何を言われているのかもわからない。ただ、自分がこうやって感情を引きずらずにいられるのは多分それのおかげなのだ。  でも、と少しの望みが顔を出す。  どうせこれ以上嫌われようもないし、ちょっとぐらいならいいかな……。 「じゃあ、少し見て回りたいです……あまり人のいない所で……お店とかじゃなくて景色と言うか……」 「そうだな。ずっとフードを被っているんじゃ辛いだろうし」  お店を見ればハリスに財布を出されそうで怖かったのだが、どうやら違う意味で捉えてくれたらしい。 (まあ、視線も気になっちゃうしその方が助かるけど……)  考え込むハリスを横目にリアはもう一度深く息を吸った。  少し冷たくて水気を感じる空気が、スッと身体に入り込んだ。
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