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ドドドド……
鼓膜よりも深く頭に直接響く大きなその音は目の前の水が生み出した音だ。
「お、大きい……」
肌に細かい水の粒子が張り付く。それを気にもせずリアは目の前のその光景に目を釘付けにされていた。
地響きのような音を鳴らす水の流れ、叩きつけられたそれらはあまりの量の多さにか霧のように白く視界を曇らせる。
真上を見ても空に消えてしまい、下を覗けば白い飛沫達に阻まれて見ることは叶わない。
幅は視界に入り切ることはなく、左右に首を振って漸く観測できる。まさかここまで大きいとは思ってもいなかった。
「リア、あんまり前に行くと危ない」
手首を引かれてそのまま素直に従う。いや、あまりの迫力に体から力が抜けてしまったという方が正しい。
「すごい……こんなに大きいなんて思ってませんでした……」
「そうか?リオリスでは有名だけど……君は記憶がないから仕方がないか」
ハリスに手を引かれて少しずつ遠ざかりながらもリアはまだその水流を見ていた。春に入り始め、暖かくなったはずなのにここの空気はひどく冷たく、そして湿っている。
「ぼけっ」と口を開けていたが、強い風が吹いて眼と口を閉じた。胸元で紐の解ける音がして、あっと思って眼を開けた時には肩に羽織っていたマントが宙に浮いた。
「待って!」
咄嗟に追いかけようと足を踏み出したが、ハリスと繋がれているのを忘れていた。驚いたハリスの声と共に自分の体は制止してヒラリと舞うマントを見ていることしか出来なかった。
そのうちゆっくりと下降して崖の下、滝壺に消えてしまう。
「あ……」
ソニーさんがくれたマント……。届かなかった手が寂しく宙を掻いて落ちる。
「落ちたら取れないよ。また新しいのをどこかで調達しよう」
「はい……」
「手を繫いでいて良かったよ。リア、君とっさに走ろうとしただろ……」
「はい……ごめんなさい」
確かに迂闊だった。飛んでいくマントしか目に入っていなかったから、あのまま走り出したら崖から真っ逆さまだ。
先ほど覗いた光景を思い出して足元から体温が引いていく。羽織を失って寒さに体を震わせれば、ハリスが引き寄せて自分のマントの中にリアを招き入れた。
「あんな近くで見てるから濡れてるじゃないか」
「ハリス……あの……」
「今日はもう宿に行って暖まろう」
寄り添う形で歩き始める。腕はまだリアの肩に回されたままだ。
(ハリスだって濡れてる……)
リアに付き合ってそう遠くはない所にいたのだから当然か。コテンと肩に頭を預ければ湿った首筋にハリスの赤い毛先が張り付いている。
(ひどいよな……こんな風に優しくするんだもん……)
仕事だって言ったくせに。適度な距離を保ってくれればいいのにリアに触れて来るのはいつだってハリスの方だ。
(危なっかしいからって言うのもあるのかもしれないけど……)
それでも、こうして触れ合うと嬉しく感じてしまうものは仕方ない。ハリスの方からだから……と開き直り、リアは体を預けて歩調を合わせながら進む。
ぽつりと何かがリアの鼻先に当たった。見るとハリスの顎から小さな滴が落ちた。
(風邪、引いちゃうかも……)
髪や服も湿っているし、肌の表面についた水しぶきが垂れて滴を大きくしながら肌から零れる。こうして見ると結構濡れてしまっているのがわかる。
ハリスの白い肌につく水滴を見つめながら何となく、手を上げてみた。指を一本だけ立てて丸い滴に向ける。
何をしようとしたわけじゃない。ただ、寒いだろうな、濡れてるなとぼんやり思っていただけだ。
指先に何か暖かなものが集まる気配がして、瞬きをした次の瞬間には宙を舞っていた細かい粒子たちが集まって小さな水の塊を作った。
「え……」
もちろん先ほどハリスの肌を飾っていたその水滴も集まっている。爪よりも一回りほど小さいその水塊は、動揺を表したリアの声と共にパシャリと崩れて消えてしまった。
(い、今の……もしかして……)
自身の指先を凝視しながら、もう片方の手でハリスの裾を引く。
どうしたと問う赤い瞳の前に手を突き出して興奮したまま口を開いた。
「ハリス、今……!」
「本当に魔法が使えたのか?」
「そうなんです!本当なんです!」
まだ疑いを持ったままのハリスは、コトリと水の入ったグラスを宿の机に置く。そのままリアの向かいに座り、掌を差し出して先を促す。
一度ゴクリと喉を鳴らしてからグラスの三分の一ほど入った水面を眺め、手をかざした。
先ほどのように何か温い物が体を伝って手先に集まる。意識を水に向け、集中させる。
―――ポタッ
水面が揺れて小さな水の球が一つ浮き上がった。形が安定せず輪郭を揺らしては小さな滴が落ちてしまうが確かに浮き上がっている。
「ハリスッ?」
「続けて」
リアの手首にハリスがその長い指を回す。皮膚の薄いそこを指の腹で撫でられると緊張からか肌が張り詰める。
言われた通りに続けては見たものの、どうしても触れる熱に意識を取られて駄目だった。パチャリと崩れてグラスの中をまた静かに水が揺れる。
(でも、出来た……)
自身が意図したように使えたという興奮がわく。髪は変わらず黒いままだが、神殿で一度魔力が発露できたから身体に変化が起こったのだろうか?
「ハリス!見てましたか?水が、水が浮いてっ!」
感激をそのままハリスに向ける。リアの喜びようにハリスは赤い双眸を丸くしてしばたたかせると、ふっと表情を崩すように笑った。
「……ハリス?」
「ふっ、いや、見てたよ……はは、うん見てた見てた」
「な、なんで笑ってるんですか……?」
顔を逸らしているけれど、肩は震えているし声だって笑いが滲んでる。そこまで可笑しいことをした覚えはないのに。
「しょうがないじゃないですか!魔法が使えて嬉しかったんですよ!」
「ちが、馬鹿にしてるわけじゃないんだ……ふっリアが、あのリアが水を持ち上げて喜んでる……はは……」
絶対に馬鹿にされているのに不快な気持ちにはならなかった。ハリスがあまりに清々しく笑うからだろうか。拳を作っていた両手を机の上に戻して釈然としないまま口を曲げた。
当の本人は今度こそ笑っているのを隠しもせずに机に突っ伏してしまった。立てた肘に頭を寄りかからせて八の字に落とした眉のままハリスがこちらを見る。
笑ってるんだか泣いてるんだかよくわからない表情だ。
「そうだな……嬉しいよな……初めて使ったんだもんな、君は……」
しみじみとハリスが呟いた。細まった瞳は柔らかく笑っていて、でも苦しそうに眉は皺を作っている。
なんだかふいに泣きそうになってリアは口を引き結んだ。
ハリスの笑いも納まり、穏やかな表情でグラスを見つめている。小さな机を挟んですぐ近くにお互いがいる状況で、二人とも視線も交わらせずに静かな時間が過ぎる。
こうしてハリスが姿勢悪く肘をついている姿なんて初めてみたかもしれない。
「本当に馬鹿にしたわけじゃないんだ……」
陽が傾いて窓から強い西日が差す。赤みを増したその光は、ハリスの髪に当たり暖かさを宿す。普段は強くリアの目を引く赤髪が、今はどこかぼやけた印象を見せた。
「自分のことを思い出してた……初めて、俺が魔法を使った時のこと……」
相変わらず余所を向いたまま、ハリスがその低い落ち着いた声をポツポツと落とす。
「子爵とはいえ貴族だから幼いころから家庭教師に色々な勉強を教えて貰ったんだ……両親が一番期待していたのは魔法の勉強だったけど生憎とそこまで才能は無くてね……今の君みたいに水を使って魔力の操作を覚えるのが一般的なんだが、それすら時間がかかって最初の内は毎日様子を見に来ていた父も母も日を開けるようになっていた……」
きっとその頃を思い出しながら語っているんだろう。ジッと揺れることもない水面に落としたままの瞳が、ここではないどこかを見ている。
「初めてできた時、嬉しくて目の前の教師を置いたまま部屋を飛び出した。母を探して報告して、言われたのは随分時間がかかったわねという落胆の声だけだった」
そのあと、母も父も一度も勉強をみにきたことはなかった、と言ってハリスは口を閉じる。
(初めて、ハリスのそんな話聞いた……)
部屋を飛び出す幼いハリスを想像して口が笑みを作る。そして、きっと一人で落ち込んだ幼い頃のハリスを想像して眉尻が落ちた。机の上に置かれていたリアよりも少し骨張った手に自然と触れていた。
「すごいね」
指先を摘んで、指の間を擦り合わせながら手を重ねた。
「頑張ったんだね」
ハリスは何にも言わない。ただ触れている手を真っ直ぐ見下ろしている。
「才能がなかったっていうけど、ハリスはその後も勉強してたんでしょ?俺と野宿した時は普通に魔法使ってたし」
「火とは相性がいいから……」
「俺の腫れた目を冷やしてくれた」
小さく漏らされた反論にリアが返せばまた静かになった。
こんなことして、またハリスに嫌われたらどうしよう。そう思わなかったわけじゃないけれど、でもリアがそうしたいと思ってしまったから。
「ありがとう。あの時ハリスのおかげで暖かかったよ。夜の森でも怖くなかったよ。重かった目が楽になったよ」
ハリスの指の一本一本を褒めるように撫でていく。
喜ぶリアを見て、一番にその頃のことを思い出すぐらい、あなたにとっては大事なことだったんだよね。それぐらい嬉しくて、悲しかった記憶なんだよね。
だったらせめて、リアのことも一緒に覚えていてほしかった。
リアにこれを言われるのはハリスにとっては嫌なことだろうけど、でも悲しい記憶よりはいいと思うから。
こんなむかつくこと言われたなって覚えておいてよ。
「ありがとう、ハリス」
小さい頃のあなたに言いたいよ。頑張って勉強したあなたのおかげで俺は助けられてるよって。
お母さんの代わりだなんて言わないけれど、頑張った幼いあなたが少しでも報われますように。
一人でも、ここにあなたに助けられた人がいたって覚えていてよ。
いつの間にか陽が沈んで薄暗くなる。明りの点いていない部屋ではお互いの顔も見えづらくなって、でも手だけはまだ繋がっていた。
「昔、前の君にも言われたことがある」
暗い部屋で、ハリスの声だけが耳を打つ。
「子供たちと料理をしようとしていたんだ。でもコンロの火が付かないみたいで……何となく火種を出してやって……それで君にありがとうと言われた」
グッと絡まった指の力が強くなる。
「後から君は魔法の扱いが上手いことを知って、怒りが湧いた。馬鹿にされていると思って……でも、違うんだよな……」
―――ああ、今のあなたの顔が見たいって言ったら怒るかな。
「君は、自分が魔法を使えようが使えなかろうが……あの時、俺にありがとうって言うんだろうな……」
そんな声で言わないでよ。
悔しいじゃないか。悲しいじゃないか。
どうして俺は記憶がないんだろう。
そうしたら、胸に湧き上がるこの気持ちが何なのか、きっとわかったはずなのに。
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