一章

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一章

 鼻を掠めた何かに、腹の奥が疼いて「キュウ」と可愛らしい音を立てた。ゆっくりと眼を開ければ、木張りの天井が映る。  重たい動作で瞬きを繰り返して視界を明瞭にしていく。 「ここ、どこ……」  喉から絞られた声は掠れていた。随分と長く眠っていたのか、渇いた喉は張り付き、無理に音を載せたせいで咳き込む。 「ゴホ、ッハぁ、ガハ」  咄嗟に喉を手で覆いながら体を起こす。舌の付け根でじんわりと血の味がした。 「ほら、飲みな」  視界に入り込んだ水の注がれたグラスを反射的に受けとって仰ぐ。ゴクゴクと音を立てながら流れていく冷水が心地よく、グラスが空になるまで夢中で飲み干した。  和らいだ痛みにホッと肩を落とす。そういえばこれはどこから現れたのか。 (あれ、今……)  さっき自分ではない誰かの声がしなかっただろうか? 「落ち着いたかい?」 「あっ、はい……」  顔を向ければ、横たわっているベッドの横に年配の女性が一人立っていた。白髪を後頭部で一つに丸め、皺が多い目元はジッとこちらを見ている。 (このおばあさん、誰だろう……)  はて、自分の知り合いにこんな人はいただろうか。記憶を探ろうと思案して「えっ」と声が零れた。 (あれ、どうして……)  目の前の女性に助けを求めて声を上げようとしたがそれよりも早く女性が、 「起きたならとりあえず食事にしよう。こっちだよ」 「え、あの、」  向けられた背中に手を伸ばそうとして、自身の腹が音を立てたので恥じるように肩を竦める。再び視線を戻した時には、もう女性は部屋から姿を消していた。 (ど、どうしよう……)  このまま見知らぬ家で食事を頂いてもいいものか。いや、知り合いと言う可能性もあるか。  悩む思考を後押しするかの如く、また腹から「キュウ」と音が鳴る。  とりあえず女性に話を聞かないと始まらないと理由を付け、ベッドから抜け出して廊下に顔を出す。向かいには二つ扉がある。右手の奥に見えるのはキッチンだろう。スンと鼻を鳴らせばいい匂いがした。  誰に言われたわけではないが足音を忍ばせて近寄る。部屋の中央に置かれた四人掛けのテーブルとその向こうには背を向ける女性の姿。曲がった腰を支えるように手を後ろに回したそれは、さっきの女性のものだ。 「遅いよ」 「あ、すみません」  つい、謝ってしまった。いや、この場合は自分が悪いのだろうか。入り口で立ち尽くしたままでいれば、テーブルに食器を並べ終わった女性が「早くしな」とせっつく。  もう一度「すみません」と口に出しながら少し迷いつつも女性の向かいに座った。  テーブルに置かれた料理達が空腹の視界には毒だ。現にまた腹が食事を求めて鳴いている。 「食べな。話はそれからだ」 「い、いただきます……」  こちらに眼もくれず女性は食事を始めてしまった。  とりあえず素直にご馳走になろうと手を合わせてから口に運ぶ。  口の中に広がる旨味に、気づけば夢中になって腹に詰め込んでいた。  食後に出された紅茶は、口に広がる仄かな苦みとは違って後味は爽やかだ。 (はあ……落ち着く……)  暖かなものが喉を通ると自然と肩から力が抜けた。 「あんたどこから来たんだい?守護石を持っていないから関所は通ってないだろうけど……知ってる通りリオリス国はほぼ鎖国状態だ。不法侵入なんてバレたらひどい目にあうよ」 「え?あ、あの」  紅茶片手に淡々と告げる女性に待ったをかける。  しゅごせき?リオリス?  知らない単語が耳の奥でグルグルと回る。 (え、なに?何を言われたんだ、いま……?)  不法侵入などといった物騒な言葉も聞こえたが、それよりも知らない言葉ばかりで状況が把握できない。いや、聞き覚えがあるかどうかすら、今の自分にはわからない。  律儀に女性は自分の言葉を待っている。しかし、どう伝えたらいいのだろうか。口ぶりを見れば、自分とこの女性に面識はないのだろう。そんな人に言って、どうする?いや、今はこの人しか頼れる人がいないのだから言うべきなのか。 「どうしたんだい」  今だって、こちらの様子を見て気にかけてくれている。不法侵入だと当たりを付けている人物に食事を恵んでくれる人だ。  きっと悪いようにはしない。そうであって欲しい。  希望的な観測も含めつつ、意を決してゴクリと息を呑む。  ハッと微かに空気を吸って重たい口をどうにか開いた。 「じ、実はここに来るまでの記憶がないんです」  女性の眉がピクリと上がった。それに心臓をビクつかせながらも「本当なんです」と切実な思いを込めて何とか声を続ける。 「自分の名前も、どこから来たのかも。ここがどこなのかも、何も……何もわからないんです……」  そう、起きた時からそれ以前の記憶が一切ないのだ。  何もわからない、何も知らない。いくら考えても何も出てこない。  自分の中が空っぽになったようだ。ここにいるはずなのに本当に存在しているのか疑ってしまうほど、自分の中に何の情報も持ち得ていない。  今までどうやって生きて来たのか。自分がどういう人間なのか……。  膝の上で握り拳を作る。俯けばハラリと黒い髪が落ちて真っ直ぐな線を引いた。この髪色も姿も正しく自分の物なのかわからない。なぜ、男であるはずの自分が女性のように丈の長いワンピースを身に纏っているのかも。何も、わからないのだ。  頭上でカタリと食器の音がした。女性がカップを置いたのだろう。次いで長く息を吐く音。沈黙が痛く、身を丸めて女性の枯れた声を待つ。 「アタシはソニー。アンタとはこれが初対面だから教えてあげられることはない」 「え、」 「恐らく、アンタは迷いの森を抜けてきたはずなんだ。本来守護石を持たなきゃ出て来られないそこからあんたは手ぶらで現れた」  ソニーと名乗った女性は考えるように口を閉ざしこちらを見た。薄い色素の瞳に呆然とした自分の姿が映っている。 「もしかしたら記憶が迷子になっちまったのかもね……もしくは妖精たちとそういう取引でもしたのか……」  森を歩いていた記憶はある。おぼろげだが高い木々がそびえる風景を覚えている。しかし、妖精と言うものに心当たりはない。自身の周りを飛ぶ小さな光の粒ならば覚えているけれど。 「本当なら警備隊に言って軍を通して身元を確認した方がいいんだろうけどねえ……他国の人間だった場合が困るしね……」 「まずいんですか?」 「この国―リオリスはいくつもの山に囲まれていて絶壁に面した孤立した空間にある。唯一他国と陸続きのこのネバスも迷いの森を抜けなきゃ国からは出られないし、その先には関所があって容易に出入りは出来ない。実質鎖国状態なんだよ」 「はあ……」  段々と低く絞る様に募るソニーの言葉に気圧されながら何とか相槌を返す。「つまり」とソニーが続ける。  ビクビクと怯えながら次の言葉を待つ。 「アンタは関所を通った証である守護石もないし、正式な訪問者であることも、この国の住人かどうかも証明できない」  本来、迷いの森とやらを抜けるには特別な加護を受けた魔石を持たなければならないらしい。そうしなければ森を出てくることが出来ないと言う。  そのため、森を通る者は入国出国問わず、事前に申請をして守護石を借り受けて森に入らなければならないのだ。  そして、出国者であれば必ずこの家の前を通るので気づかないはずがないとソニーは言った。ここ数日、人は通っていないため、高い確率で自分は入国してきた者ではないかとも。 (つまり、バレたらやばいんじゃ……)  少しずつ理解し始めた頭で冷や汗をかく。身体が冷えていくのが分かった。 「バレたらとりあえず牢屋かなんかで捕まって身元がはっきりしたら解放。他国の人間だった場合には最悪不法侵入で罪に問われるか、外に放り出されるね」 「そ、そんな……」  身元が判明するならいい。すぐにでも警備隊に連絡を取るべきだ。しかし、もし他国の者だったら?そうなったら自分の覚えていないことで罰を貰うことになるのか? ―――嫌だ……  不法侵入が事実だとしたらしっかり断罪されるべきなのだろうが、覚えていない状況で罪に問われるのは嫌だ。どうしたらいいのだろう。  今の自分には記憶がなく、どちらに転ぶかわからない。  身元を判断できるような物も持っていないため、一体どうしたらいいのかわからない。  先が真っ暗とはこのことか。空腹を満たされた先ほどまでの幸福感はどこかに吹き飛び、今は崖の上で立ち尽くしている気分だ。 「とりあえず、ここにいな」 「え?」  聞き間違いかとキョトリと眼をしばたたかせた。だってあまりにも自分にとって都合のいい言葉が発せられた気がしたのだ。 「だから、ここにいなって言ったんだよ」 「ここに?いてもいいんですか?」 「さっきからそう言ってるだろ?記憶もないのに放り出してそこら辺で死なれても困るからね」  ソニーは芝居がかった動作で首を振りながら息を長く吐いた。「やれやれ」とでも言いたげだ。 「ほ、本当にいいんですか?俺、何も覚えてないし……お金とかだって何も持っていなくて……」  自分で言っていてどうかとも思うが、あまりにも不審過ぎるだろう。例え世話になったとしても対価を支払うことも出来ないのに。 「いいって言ったんだから子供は甘えときな。あんまりしつこいと外に放り出すよ」  重たい腰を上げながら席から立ち、ソニーは鬱陶しそうに手を払う。話は終わりだとでも言いたいのか背中を向けて食器の片づけを始めてしまった。  慌てて自分の使った皿を持って後を追う。 「あ、あの皿洗いぐらいなら俺でも出来るので……」 「そうかい、まあタダで置く気はないからね。しっかり働くんだよ、クロ」 「クロ……?」  袖をまくりながら耳についた単語を繰り返す。キョトリと瞬く瞳を見上げながらソニーはニッと口の端を上げて笑った。 「アンタの名前さ。呼ぶのに困るだろう?」  ひょいと上げた片眉と共にそんな声が届く。「クロ……」ともう一度呟いた言葉には今度は反応せずにソニーは小さな歩幅でキッチンを出る。「終わったらさっきの部屋で今日は寝な」との言葉も忘れずに置いて。  廊下に消えた曲がった背中を見送り、水を勢いよく流す。肌に水がかかり、その冷たさに少しずつ冷静な思考が帰ってきた。  自分はいったい何者なのか。家族などはいないのか。 (もしいたら心配かけてるよなぁ……)  しかし、自分自身はそこまで悲観してはいなかった。もしかしたらよっぽど楽観的な性格なのかもしれない。 「くろ、くろ……クロかぁ……」  しみじみと体に馴染ませるように何度も口につく。髪の色だなんて安直だなと思いつつ、それが嫌ではなかった。  ※ 「ふあぁ……」  伸びをした腕をストンと落としてまだ眠気の残る頭で窓を見る。カーテン越しに日が差しているのが分かった。  シャッとカーテンを開ければ、草原の先に木々が生い茂る森林が見える。あれがソニーの言っていた迷いの森だろう。 (あそこから出来て来たってことだよね……)  じっと深い緑が静まる森を眺めてみるが駄目だ。全く何も思い出せない。  今は何時だろうかと考えて、部屋に時計がないことに気付いた。すっかり陽は昇っているし、ソニーはもう起きているかもしれない。  ベッドから足を出す。昨夜は気にならなかったが、裸足のため床につくと肌がスッと冷え込んだ。  服は昨日から来ている白いワンピースだが、丈が長いせいで歩きにくい。足にまとわりつくのでどうにかしたいところだが、生憎と着替えもなければこれをどうにか出来るような物も持ち合わせていない。 (なんで俺はこんな服で森を歩いてたんだろうなぁ……)  しかも荷物も持たずに、だ。森を抜けると言うのならもう少し動きやすい物を選ぶだろうに。 「クロ、起きたかい?」  気づけばソニーが部屋の入り口で何かを手に立っている。 「ソニーさん……おはようございます」 「ほら、これをやるから着替えな」  どうやらクロの着替えを持って来てくれたらしい。クロが受け取ろうとベッドから立ち上がるよりも早く、ソニーは指を一本振った。すると、腕の中の衣服がフワリと弧を描いてクロの膝に着地した。 「え、えっ?」 ―――今、浮いた?  ソニーが投げた訳ではないはずだ。 「着替えたら食事の準備を手伝ってくれ。洗面台は向かいの扉だよ」 「あ、はい。って、ソニーさん!これ女性物じゃないですか!」  混乱したまますぐに着替えようと服を広げてみれば、襟のある薄水色のワンピースが現れた。今着ている物よりは短いため、歩くのに邪魔と言うことはないだろうが何故スカート?。 「それはアタシの娘のだよ。てっきりそう言うのが好みなんだと思ってたけど……違うのかい」  確かに自分の趣向など覚えてはいないが、今の自分としてはこれを着るのは憚られる。訴えるように眼を向ければ、今度は白いシャツと細身の黒いパンツを寄越してくれた。 「これも娘のやつだが……あの子は女にしては背が高かったし、アンタも細っこいから大丈夫だろう」  いささか男としては不名誉なことを言われたが、事実なので反論のしようもない。 「ありがとうございます」  礼を言ってソニーが退出したのを見計らい、豪快に脱ぎ捨ててシャツとパンツを纏う。  しっかり肌が覆われていると安心感を覚える。先ほどまではどうにも足元が落ち着かなかったのだ。  ふと、部屋の鏡に映った自分が目に留まる。そこには確かにソニーの言う通り、ヒョロリと細い印象の男が立っていた。 (本当にこれが俺なのかな……なんだか見慣れないな……)  長い黒髪と相対する白い肌。そして瞬く青い瞳は青年と言うよりは少女のように丸い。  娘さんの服がピッタリだと言うのは何だか複雑な気持ちだが、今回はそれに助けられているのだし気にしないことにしよう。鏡を見たところで違和感はない。それも何だか悲しいものだけれど。  脱いだ服はどうしようかと悩むが、あとでソニーに確認しよう。とりあえずは畳んで机の上に置いておく。いつの間にか用意されていた靴も履いて言われた通り洗面台に向かって顔を洗った。  クロがキッチンに行けば昨日と同じように、ソニーはこちらに背を向けていた。 「ソニーさん」 「ん、来たね。スッキリしたかい?」 「はい……あ、あの……今日からお世話になります!」  ガバリと頭を下ろして声を上げる。バッと髪も舞ってクロの視界には漆黒の線がカーテンのように引かれた。 「別にここに置いとく分は働いて貰うんだから気にしなくていい。それに、あまり長期間は無理だからね……さっさと記憶でも何でも思い出しな」 「はい!」  果たして気力で亡くした記憶が戻るのかはわからないが、もしかしたらひょいっと思い出すかもしれない。あまり悲観し過ぎずにいよう。  無くしたものを嘆いていてもしょうがないのだから。  自分でも少し驚くほどにクロは割り切った考えが出来た。やはり推定「楽観的」というのは間違っていないのかもしれない。 「ほら、いつまでも突っ立ってないで手伝っておくれ」 「はい、何をすればいいですか?」  隣に立って問えば、ソニーはスッと灰色の瞳を流して籠に入った卵を見る。 「とりあえず卵でも焼いとくれ。あと適当にサラダの準備も……アタシはスープを作るから」  そう言ってソニーは片手は腰に回したまま、もう一方の手で指を立ててクルリと円を描いた。すると、まな板の上に置かれた野菜たちが浮き上がり、同じように浮いた包丁に切り込みをいれられた。  部屋で見た驚きがぶり返す。瞳は宙の野菜を見たまま「それ」と指をさす。 「どうして野菜が浮いているんですか……」  理解が追い付かない頭のまま、動揺を表した声をソニーに向ける。ソニーは何故そんなことを聞くのかと不思議にそうに首を傾げたが、クロを見た後に納得したように声を上げた。 「アンタ魔法のことまで忘れちまったのかい?」 「まほう……?」 「そうだよ。生きている者には大なり小なり魔力が宿る。魔力を放出すれば、今みたいに物を浮かせたり操ったりと色々なことが出来る。それらを総じて魔法というのさ」  ソニーは切り分けた野菜をまな板に落ち着かせると、また指を振る。そうすると今度は空中でいきなり水が湧き出て球状にまとまった。 「こうやって水を出したり、炎を灯したり、攻撃魔法と言って自然の力を借りて自衛手段となるようなものもある」  ソニーの皺の多い掌の上で、水の塊が揺れている。  どこから水が湧いたのか。どうして宙で留まっているのか。  驚きすぎてポカンと口が開いていた。しかし、どこか既視感を感じるのは以前にこうして使っていたからなのだろうか。ソニーを見るに、魔法と言うのは随分と生活と密接にかかわっているようだ。 (俺にも出来る……?)  自身の掌を見下ろしていれば、先手を打つように「無理だよ」と隣から制止をかけられる。  「え」と間抜けな声と共に交わった灰色の瞳は、横に滑って背中に流れるクロの髪を追った。 「アンタ、髪が黒いから魔力疾患だ。魔法は使えないよ」 「えっ……」  また知らない単語が出てきた。ワクワクとした気持ちが萎んでいく。クロの困惑をわかっているのか、ソニーは「食事の時にね」と告げてそれ以上の言葉は述べなかった。  残念な気持ちのまま息を吐いて、とりあえず卵に手を伸ばす。  出来る気がしたんだけれどなぁ……。  出来上がったサラダ、スープにベーコンエッグ。最後にトースターからパンを取り出して並べる。  向かい合ってテーブルに腰掛けて各々好きに食事を進めた。 「魔力疾患って何なんですか?」  ちぎったパンを指先で摘みながら話を振れば、ソニーはゆっくりとスープを仰いでから口を開く。 「生物には魔力が宿るって言ったろ?生きているんだからアンタにも魔力はあるよ。ただ、それをうまく表に出すことが出来ないんだ」 「わかるんですか……?」 「髪を見ればね」  予想外の答えに、思わず自分の髪を見下ろす。 (どうして髪で……?)  頭に過った疑問はすぐにソニーによって解消された。 「魔力を使う時、少なからず自然から力を借りて魔法という現象を起こす。その自然との相性も個人によって違う。特に有名なのは火、水、そして草木などの緑だね。魔力には色があってそれは相性のいい自然が象徴する色だと言われてる。そして、それは容姿にも表れる」 「それが……髪の毛……?」  言葉を区切ったソニーにそう呟くと、上下に頭を振られた。 「そう。そして、黒と言うのは本来であれば死んで魔力を失った者か生まれた時から疾患を持った人間にしか現れない色だ。一部例外はあるけどね」  なるほど。そう言うことならソニーが即答したのも頷ける。生きていて髪が黒いと言うことはきっとクロは「魔力疾患」というものなのだろう。 (生まれつきなら仕方がないよな……使って見たかったけど……)  パンを口に放りこんでからスープも含む。  チラリと視線を上げて向かいのソニーを見る。ソニーの白髪は魔力によるものなのか、それとも老化のせいなのだろうか。 「言っとくが私のは生まれつきこの色だよ」  釘を刺されてギクリと体を強張らせる。そんなに顔に出ていたか、と気まずい思いを誤魔化すべくスープをもう一口飲みこんだ。 「年を取って色素が薄くなることはあるが、真っ白になるってのはあんまりないね。まあ白髪は生えるが」 「そ、そうなんですね……はは……」  向けられた言葉自体は刺々しさも感じたが、ソニーは別段気分を害したわけでもなさそうだ。顔色も替えずに食事を続けては「アンタ、サラダを作る才能あるよ」と称賛する。 (いや、もしかしたら怒っているのかもしれない……)  サラダを作る才能とはなんだろう。クロは葉をちぎって盛り付けただけだ。褒めたと見せかけて皮肉っているのかもしれない。  ベーコンエッグも口に運んで「卵も焼くのが上手いね」と付け加える。  益々わからなくなった。  しかし、正直に怒ってますか?なんて聞くわけにもいかず、ピクピクと口角を痙攣させながらぎこちない笑みで礼を述べるしかなかった。  泡立つ桶の中から白い布を取り出して井戸の水で濯ぐ。ポタポタと滴を落とすそれをグッと力を入れて絞り、水気を切ったところで竿に引っかけた。  こうも丈が長いと洗濯すら面倒だ。  もう着ることもないと思うのだが、気持ちとして自分の服を一枚も持っていないのはなんだか心もとない。  風に飛ばされないように洗濯ばさみで止めてふぅと一休み。真っ白なワンピースとソニーに頼まれた洗濯物がソヨソヨと風で揺すられる。  昼食後の日の高い午後。白い生地は太陽の光で更に眩しさを増している。 (いい天気だなぁ……)  こんなに呑気に日光浴なんてしている場合か。クロはなるべく早く記憶を思い出さなくてはいけないのに。  クロとしてはソニーとの会話で多少の不便はあれど、困ってはいないのだ。 (こんなに未練もなく忘れてしまえるものだったのかな……)  家族はいたのか。大事な人は、恋人は?考えても答えは出ない。  はあっと吐いた息をそのまま呑みこんだ。  使った水を片づけて裏口から入ってソニーを呼ぶ。 「ソニーさん、洗濯終わりました!」 「ありがと、冷たかっただろ」 「いいえ、大丈夫ですよ」  確かにまだ春と呼ぶには早いが、凍える程の寒さもない。陽光の暖かさに包まれながらではむしろちょうどいいぐらいだ。  それにどうやらクロは水仕事に慣れているようだ。記憶がなくても体が覚えているのか苦労はない。 「いくつか娘の服を出しといたから、部屋に持っていきな」  読み物をしていたソニーは、眼鏡を外してソファを顎で示す。いくつかシンプルなシャツやパンツが置かれていてありがたく借りることにした。 「今更ですが、娘さんの物を借りてしまってもいいんでしょうか?知らない男が着るなんて嫌がるんじゃ……」  この家にソニー以外が住んでいる気配はない。きっと娘というのはすでに家を出て余所で生活をしているのだろう。しかし、実家に残した自身の服を見知らぬ男が着ていい顔をする女性はいないはず。  クロの懸念を、ソニーは固さの残る顔つきで一笑した。 「あの子は随分昔に亡くなっているから気にしなくていいよ。アタシが未練がましく服を残しているだけさ」  どこか自嘲めいた薄ら笑い。過去を懐かしむと言うよりも、己の罪と相対したような罰の悪さを含んだ顔。 (当たり前か……)  自身の娘が亡くなったなどすぐに割り切れるわけもない。そして今もその服を残していることが、ソニーは自分でも言うように未練がましく恥のように感じているのか。 (なんて返せばいいのかな……)  こういう時、もし記憶があったなら適切な言葉を投げかけられただろうか。  途端に体を包む服が重く感じられた。ソニーは、これを身に纏うクロを見て何を思ったのだろう。  本来、着られる予定のなかったそれらをどんな思いで表に出したのだろうか。 「ソニーさん……」 「すまないね、死人のもんなんて着せて……来週には行商人が来るからその時に新しいのを買うよ」 「いえ、そんな……俺は気にしませんが……」  只でさえ世話になっている身だ。こちらから言えることなど何もないし、それを抜きにしてもクロが気分を悪くしたということはない。 (むしろ、そんな大事なものを着てしまって申し訳ないぐらい……)  しかし、娘の大事な服を突然現れた男に着せることにソニーは抵抗はないのだろうか。  今は洗濯をしたばかりでびしょ濡れだが、一応衣服はあるのだから、乾いたらそちらを着ればいい。  あの服は動きづらくはあるが、ソニーの大事な思い出を踏みつけてまで服が欲しいわけではない。 「着られないのも服が可哀想だ。クロが嫌じゃなければ着てやってくれ」 「はい……ソニーさんが良いのなら、お借りします」  腕に抱えて部屋に戻るべく一度頭を下げる。 「それを置いたら夕飯に使う大根を畑から持って来てくれるかい?」 「わかりました」 「白くて長いのだからね」 「それぐらいわかりますよ!」  先ほどまでの愁然さは鳴りを潜め、出会ってからの変わらない口調でからかう。調子を合わせてクロも「もう」と拗ねた態度を取って部屋に向かう。  ソニーがそうして欲しいならクロは何も言わない。言えることなどない。  腕に触れる柔らかな生地を抱きしめる。  これを着ていた娘さんはどんな人物だったのかと想像するが、きっとソニーと同じ素敵な人だったのだろう。  お借りします、とソニーではない本来の持ち主に胸中でもう一度唱えた。
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