一章 下

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「本当に後天的に魔力を失ったんですか?」  リアの手首に指を押し当てながら初老の医師は訝しそうに眉を上げた。 「彼は以前は魔法を使っていました。何かがあって魔力を発露できなくなったのは確かなんです」  腰掛けたリアの横で様子を見ていたハリスが医師に進言するが、まだ渋い顔は治らない。 「ふむ……しかし、何があったのかは自分でも覚えていない?」 「はい……眼を覚ましてからの記憶がないので……」  ジッとこちらに向けられた瞳が詰問するように見るものだから、つい言葉が弱々しくなってしまった。 「確かに、通常の魔力疾患とは様子が異なるようですが……如何せん後天的な患者のケースは見たことが無く……」  探る様に手首に回された指が少しずつ位置を変えて肌に触れる。これで何を調べているのだろう? 「魔力の気配を全く感じません。先天的に魔力疾患を患っていても気配や波は感じるのですが……まるで死体に触れている気分ですよ」  失礼な人だ。本人の目の前で死体みたいだなんて……。  ムッと下唇を突き出すが口には出さない。魔力のことに関してリアが聞いてもよく理解できないため、医師とのやり取りは全てハリスが行っている。  後でハリスから噛み砕いて説明された方がリアも現状をよく知ることが出来る。 「とりあえず、身体に異常は見られないんですか?」 「ええ。いくつか検査もしましたが魔力が感知できない以外は健康体ですよ」  結果だと言って数枚の紙の束をハリスに差し出す。サラサラと紙に眼を通したハリスは「確かに」と呟いて検査結果を鞄に仕舞ってしまった。  まあ、どうせリアが見てもよく理解できないけれど。 「とりあえず、何かあったらまた来てください。原因が分からないことには何とも言えないので……」  言外に、記憶のない自分を責められているように感じて更に心中で眉を寄せた。 「ありがとうございました。さあ、リア行こう」 「はい。ありがとうございました」  ハリスに続いてペコリと頭を下げながら病院を後にする。  結局何もわからずじまいか。いや健康体だと分かっただけでも良かったか。  ふう……と張りつめていた息を吐く。少しは緊張していたらしい。病院独特の清廉としていてどこか重苦しい空気は感じない。  体の中のものをすべて入れ替えるように深く息を吸いこむ。  ネバスの建物はレンガ造りの穏やかな色合いの家が多く立ち並んでいる。住宅街が多いせいなのか、一本一本の道は広くはなく、あっちへこっちへと道が色んなところに繋がっており、ここに到着してから病院までそう長い時間は歩いていないのにもう道順を覚えていない。 (迷子になりそう……)  初めてネバスの街並みを目にした感想がそれなのだから、趣のないことである。  はぐれたら大通りに出てジッとしていろと言われたが、見知らぬ土地で一人になるのは怖い。 ―――それに。  チラリと横目に道行く人を見る。それほど人通りが多いわけではないが、やはり人影はあるもので。それらがこちらを、正確にはリアの髪を見てはヒソヒソと話すものだから居心地が悪い。  今はハリスが横にいてくれるからいいが、これではぐれでもしたら一人でこの視線を受け止めねばならなくなる。  それは出来れば回避したい。 「気になる?」  身を屈めたハリスがポツリと呟く。歩みは止めないまま頷いてリアも声を潜めた。 「黒い髪って、そんなに珍しいんですか?」 「まあ、珍しいのは確かだが……時期がね……」  困ったようにハリスが肩を竦めた。時期とは何なのか。問いを重ねようとしたが、先に「後で」と告げられたせいで素直に口を噤むしかない。 「宿に行こう」とハリスの言葉に頷く。部屋に入ってしまえば人目を気にしなくてよくなるだろう。 (もう少しの辛抱だ……)  はあっと息を吐いてハリスの後に続く。隣に並ぼうと普段よりも大きく足を踏み出した瞬間、突然何かに腕を掴まれて強い力で引っ張られた。 「あぅ、え?」  間抜けな音と共に路地に引きずり込まれる。建物のせいで陽が遮断されて視界が薄暗く支配された。  一体何だと眼を白黒させながら自身の腕を見下ろす。  そこには男性が一人座り込んでリアの腕にしがみ付いていた。 「っ、」  年自体はソニーとそう変わらないぐらいだろう。しかし、髪はぼさついていて整えた形跡もない。よく見れば服も所々がほつれて汚れも目立つ。  ゾッと足元から背筋にかけて肌が粟立つ。見知らぬ男に掴まれている恐怖に反射的に手を振り払おうとしたが、その瞬間耳に届いた声に思わずそれを躊躇ってしまった。 「……みこさま、」  やっと探していたものを見つけて縋る様な声だった。 「みこさま、神子様、やっと降りて来てくださった……」  しばらく切っていないのか伸びた爪が肌に刺さる。それに眉根を寄せながらも、リアの胸には(可哀想に)という憐みしかなかった。  こんなに必死に誰かに縋って可哀想に。リアはあなたが求めている人物ではないのに。  しわしわの手にリアはソッと自分の物を重ねる。 「おぉ」と感嘆の声と共に男の力が緩んだ。そのままリアの腕から手を離させ、子供に聞かせるように膝を折って話す。 「ごめんなさい、俺はあなたの言う神子様ではないんです」  静かに、けれどきっぱりと否定の意を込めて告げ、スルリと手を離して立ち上がる。そのまま去ろうと背中を向けたが、男は尚も食い下がってリアの腕を捕らえた。 「嘘じゃ、神子様じゃ、儂らを救いに来てくださったんでしょうに、何を言っているんです」 「だから、俺は神子様ではないんです」  間違いだといくら訴えようが男は聞く耳を持たない。更に強くなった力でリアの腕が悲鳴を上げる。男の爪が擦れて鋭い痛みが出た。 「うっ」  痛みに思わず声が漏れたのと男が情けない悲鳴を上げて後ろに倒れ込んだのはほぼ同時だった。  誰かに肩を引き寄せられる。強張った体は、視界で赤い髪が揺れるとすぐに力を抜く。 「ハリ、ス……?」  喜色の声と共に読んだ名はその表情を捉えると萎んでいく。  ジッと男を見下ろす赤い色が、暗闇のせいか普段よりもトーンを落としている。回された腕は優しくリアに触れているのに、その表情が、瞳が何の感情も宿していなくて息を呑んだ。 「……ハリス……?」  戸惑いながらも掠れた声で呼べば、スッとこちらに流れた赤はいつもの色が戻ったように見えた。 「急に消えるから驚いたよ……無事ではないようだけれど」  下に向けられた眼は、きっと腕に出来た傷を見ているのだろう。大したことはないと笑いたかったが口が上手く持ち上がらない。  ちゃんとこちらを見る瞳は笑みを浮かべているのに、声がひどく冷たかった。 「あっ」  震えた口でリアが言い訳をする前に、ハリスに抱かれたまま路地を出た。途中から怪我をしている方とは反対の腕を掴まれて引かれる形で後を追う。  静かなのが余計に怖かった。 「あの、ハリス」  声をかけてもハリスはこちらを振り向かない。 「ごめんなさい、迷惑をかけて……急にいなくなったりして、」  尚も止まらない歩みに、後は何を謝罪すればいいだろうかと胸中で指を折る。そうしてリアがもたついている間に、足を止めたハリスは何かを言った。 「……て、……んだ」 「ハリス?ごめんなさい、よく聞こえなくて」 「どうしてあんな者すぐに振り払ってこない!」  リアの言葉を、ハリスの低い声が覆ってしまった。ピリピリと肌がひりつく程の大きな声に思わず身がすくむ。 「明らかにあいつは普通じゃなかった、なのに膝を突き合わせて丁寧に言葉を述べて、馬鹿じゃないのか!」  低い怒声が大きく鼓膜を揺らして頭がくらくらした。ハリスの姿に何かが重なる。しかし、それは瞬きの内に消えてしまった。  反射的に距離を取ろうした身体。しかし、腕を掴まれているせいでそれ以上離れることは出来ない。  離れようとするリアを咎めるようにつり上がった瞳がリアを鋭く見つめる。  ハリスは持ち手を変え、一歩距離を詰めて募った。 「どうして君は!そうもお人好しなんだ!……どうして……何も、変わらないっ……!」  感情に任せたまま声を荒げていたハリスだが、段々と勢いを無くしていく。  怒りで、リアを叱責しているのだと思っていた。けれど、最後の声は。どうしてと問う声は、子供が理解できない物に癇癪を起しているようで胸に「きゅう」と痛みが走る。  畏縮していたリアの体はいつの間にか強張りを解いている。  勢いを無くした声と同じように、手の力も弱まってスルリとリアの肌を撫でて落ちる。それでも、最後に指先だけを引っ掻けるようにリアの指を摘む姿は、なぜかとても小さく見えた。  どうして何も変わらないだなんて……。 (まるで変わっていて欲しかったみたい……)  項垂れるように顔を落として赤い髪に隠れた表情はわからない。すっかり口を噤んでしまったハリスの頭に、思わず手を伸ばして柔らかな髪を梳いた。 「ハリス、ごめんなさい」  それは、先ほどの自身の失態に関してかそれとも変われなかったことに関してかはリアにも判別がつかない。  ただ、目の前で肩を落とすこの人を慰めたいと思ってしまった。だから、勝手に言葉が出ていた。 (サラサラして、ふわふわしてる……)  指通りのいい髪はリアの指から逃げてしまう。優しく、優しく。心中で何度もハリスの名前を呟いてリアは静かにハリスの頭を撫でる。 (どうしてだろう、ずっとこうしてあげたかった気がする……)  それが、無くした記憶故なのかはリアにもわからないことだった。
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