side.H

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「ありがとうございました」  頭を下げて礼を言う。扉の音と共に上げた視界には、もう白衣の男の姿はない。  椅子をベッド脇に移動して静かに腰かける。ベッドで横たわる人影に腕を伸ばし、顔の上にかざした手に吐息が当たることに体から力が抜けた。 「リア……生きてる……」  今更、そんなことで安心するのか。素直な身体とは裏腹に心がそう皮肉気に囁く。  あの時に覚悟を決めたはずなのに、生きているリアを見てどうしてこうも自分は心を和らげるのか。  妬ましかったんじゃないのか。  孤児のくせに自分よりも才能のあるリアが。  羨ましかったんじゃないのか。  血の繋がりもないくせに、子供たちに慕われて家族を演じているリアが。  それは、どちらもハリスには無いものだったから。 「お母様、今日は家庭教師の先生に褒められました」  教師が席を立ち、姿が見えなくなった頃に早足で向かった母の部屋。侍女に淹れられた紅茶を楽しんでいた母は、ハリスの姿を見て「それで?」と首を傾げる。 「えっと……」 「褒められて、どうしたのです?」  心底不思議そうにハリスと同じ赤い瞳が瞬く。なぜ、ハリスがそれを自分に伝えに来たのか本当に理解していない顔だ。 「一度褒められたぐらいで調子に乗るものではありません。あなたはこの地を任されている伯爵の為に、またこの国のため、神の為に、もっと頑張らねばならないのだから」  ただでさえ容量が悪い、と紅を引いた唇が形作る。憂い顔で首を振り、興が冷めたとでも言うようにカップを置いた。  母の瞳には、ハリスは映っていない。いつだって自身の息子としてではなく、ソルバージュ家の跡取りとしてしか母には見て貰えなかった。  抱き締められたことも頭を撫でられたこともない。 「貴族たる者、どんな時も余裕を持ち笑顔でいなくては」 ―――はい、母様  柔らかな声で名前を呼ばれたことも、その瞳がハリスを映して微笑むこともない。 「あなたは将来、神の為にこの国に尽くすのですよ」 ―――はい、母様  いつからか、自分自身でさえ「ハリス」と言うものが誰なのか分からなかった。言われた通りに物腰の柔らかな口調で話し、言われた通りにいつも余裕のある笑みを浮かべた。  それが、ハリス・ソルバージュなのだと。  自分は才能がないからその他のことで頑張らなくてはならない。  言いつけは守らなくてはならない。褒めて貰えなくても仕方がない。そう思っていた。  それが貴族に生まれたハリスの役目である。熱心なガロメ教の信徒であった両親の子供としての使命なのだと。 ―――それなのに。  父の仕事を手伝い始め、十五の頃から教会を頻繁に訪れるようになった。  多くの子供たちが身を寄せ合い、ケラケラと騒がしい声を響かせる中で、ハリスはそれを見つけた。  幼い子供が多い中で、ハリスとそう変わらない頃合いのリアに自然と眼が止まった。  あの年頃ではどこかに奉公に出たりするものだろうと思ったが、教会の職員に混じって子供の面倒を見ているらしい。  物好きなものもいるのだな、と。初めはただそれだけで。  陽に透けて輝く銀糸の髪が、ひどく印象的だった。  リア、リアと子供たちは何かがあるとリアの元を訪れる。  転んでけがをした時。綺麗な花が咲いた時。上手く絵が書けた時。たまに構って欲しくて意味もなく名前を呼ぶ。  教会にいると数えきれないほどにリアを呼ぶ子供の声を聞いた。  そうしてリアはしゃがんで子供と目線を合わせ穏やかに微笑む。泣いていたら慰めるように。期待した眼差しには期待通りの言葉を添えて褒めて、礼を言って。そうして最後は子供の名前を呼んで頭を撫でるのだ。  ハリスが、いつの日か夢見ていたものを。孤児であるはずの子供たちが平然とした顔で享受していた。  その時に湧き上がった激情を何と称したらいいのかはわからない。羨望なのか、憎悪なのか。それほど大きく感情を揺さぶられたのは初めてで、ハリスにも判断は出来なかった。  リアは、ハリスの欲しかったものを何でも持っていた。  類まれなる魔力の量も。そして、それを操る技量。  笑い合える家族。  教会に足を運ぶたびに、胸に何かが燻り、溜まっていく。  仇のような眼差しでリアの姿を追っていた。憎らしい、恨めしい。どうしてお前がそれを持っているのだと。  何度口に出そうになったかわからない。 ―――けれど。 「ソルバージュ様」  あの青い瞳に見つめられると、何も言えなかった。「こんにちは」とただの挨拶と一緒に向けられる笑みが、「もしよかったら」と子供と作った焼き菓子を、自身で育てた花を渡された時に触れた指先の熱が、ハリスの中の何かを溶かしていく。  それが、ひどく恐ろしかった。  だからリアが神子に選ばれたと知り、それを本人が了承したと聞いた時に安堵したのだ。もう振り回されることもないのだと。  それなのにリアは突如姿を消した。儀式の途中で光と共にその美しい姿をくらませた。  一体どこに行ったのか。  今更逃げ出したのかと憤るままに他の者たちと共に捜索を進める。  神の為に必ず見つけなくては。いっそ見つからずにいればいいのでは。  相反する思いを抱えて可能性があるならどこへだって足を運んだ。  リアの白銀が眼に入らない度にほっと息を吐く自分を誤魔化し、何食わぬ顔で捜索隊と次の話を切り出す。  望みが薄いからという理由で一人で向かったネバスのはぐれで、見慣れた白銀を曇らせたリアの姿を見た瞬間に、自分は確かに生きていることに喜びを感じていたのだ。  ベッドに投げ出された細い指を掬う。手首に触れれば、トクトクと微かなリアの鼓動が届く。  雨空の下で見た病的に白かった肌は照明のおかげもあるだろうが今は暖かみを感じさせる。  白いシーツに以前とは変わってしまった真っ黒な艶のある髪が広がる。しかし、白い瞼の下に隠された瞳が何も変わっていないことをハリスは知っている。 「リア……」  手を触れ合せたまま、上体を倒してリアに影を作る。  睫毛の一本一本が見える程に接近し、吐息が交じる。額同士を合わせて薄い皮膚の下から伝わる熱に、確かにリアが生きていることを感じた。 「リアのことは俺が守る」  ハリスよりも小さな体でそう言った少年の姿がチラつく。初めて会った時は雨に濡れて弱っていたくせに、いつもリアに引っ付いて回っていたくせに。  イツキはハリスよりもよっぽど強い男だった。 「俺だって、そう言えたら……」  本当は、ずっと前からリアに向けるこの感情の名前を知っている。知っているくせに目を逸らし続けてきた。  気づいてしまえば、もう戻れないから。 (貴族として、ソルバージュ家の子息として、神の為には生きられなくなる……)  二つの神殿への来訪は済ませた。次に向かう予定のウノベルタに神殿はなく、主要都市の中でも小さな領地だからそう日を跨がずに通ってしまうだろう。そして、最後の神殿はハリスとリアの故郷であるカルタニアにある。  そこを訪れ、リアに魔力が戻れば……。  自然と手に力が入ったせいか目の前のリアの眉が僅かに寄る。  慌てて距離を取って手を離した。  リアは小さく喉を鳴らしつつもまだ目覚める様子はない。  それに長く息を吐きだしながら米神を指で押さえる。 (俺はまだ、決断も出来ないのか……)  貴族として。ソルバージュ家として。耳の奥に残る言葉が呪縛のようにハリスの体に纏わりつく。 (イツキ、俺は君が羨ましいよ)  守るのだと背筋を伸ばして立てる姿が。好きだと笑顔で告げられるその姿が。ハリスには眩しくて仕方がない。自分はどうやったってそんな風には生きられないから。 「俺は……またリアを殺すかどうか迷っているのに……」  零れたハリスの声はすぐに雨音にかき消されるほど、小さく震えていた。

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